かわいいね〜、いい子だね〜

2015年1月11日「主の洗礼」
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ55・1-11)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ5・1-9)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・7-11)

【晴佐久神父様 説教】

 今、私たち、自分の耳で聞きました。神さまの声を聞きました。
 「あなたはわたしの愛する子」(マルコ1:11)
 こういうひと言を聞くために私たちは集まってるんですし、こういうひと言を人々に聞かせたいと願って、「教会」っていうのをやってるわけです。今日のこういう箇所(※1)っていうのは、教会の本質に属する箇所ですし、ちょうど、この「主の洗礼」の日にお集まりの皆さんは、はっきりとこのひと言を聞けた者として、喜んでくださいね。「もうこのひと言があったら安心。 あと何もいらない」、そんな思いで、この声を心に刻んで、何があろうとも思い出してください。
 「あなたはわたしの愛する子」
 ・・・皆さんに言ってるんですよ。「愛してるよ〜!」っていう、まことの親の声が、天から聞こえてきます。

 入門講座は、そのことを告げるためにあると言っていいわけですけど、昨日も、「入門講座 新年会」(※2)というのをやって、そのことを皆さんにお話ししました、「あなたはわたしの愛する子」って、ともかく、それだけでも聞いてくれと。初めて来た方の中には、その後もう来られないっていう方も時々いらっしゃるので、一度だけでも、ともかく聞いてほしい、これだけは言っておきたい、みたいな感じですね。「あなたはわたしの愛する子だから、もうだいじょうぶだよ」っていう、神の思いを聞いてくれと。
 昨日は、入門講座に初めて来られた方、5人おられました。その方たちに、この神の声を聞いてもらえたわけで、「ああ、この教会が、ここにあってよかった」っていうのは、そういうときです。新年会をやるのも、そういう初めての方が来やすいイベントとしてやるわけですから。
 結構豪華なごちそう、並べるんですよ。手作りのサラダとか、お寿司とか、フルーツとか、ケーキに至るまで。そう、手作りグラタンも出てきた。これ、日本一の入門講座だと思いますよ。(笑) ・・・いやいや、皆さん、笑うとこじゃないですよ。ホントに日本一だと思いますね。昨日の入門講座だって、スタッフ含めて70名くらい、いましたよね。そんな入門講座やってるとこ、ありますかね。神父一人の、この規模の教会(※3)だったら、褒められていいんじゃないですか? 実際、昨日も神の愛の福音をみんなホントに真剣に聴いてましたし、新年会も、やる価値あると思います。
 ちなみにすいません、この入門講座の新年会の食事の経費は教会から出ておりますので、まあ、皆さんが出してるということになりますが。ありがとうございます。これ、「宣教費」で出してると思うんですけど、それもすごいでしょ?
 教会は、「どうぞいらしてください。一緒にご飯食べたいです。一緒にみ言葉(・ ・ ・)を食べたいです」って言ってるような集まりですから、こういう集いは、教会のあるべき姿だと思うし、まさにそこで、みんながニコニコしながら一緒にご飯食べて、「いいお話聴けてよかったです」「これからこの教会に通います」って、話し合ってる姿は、ちょっと神の国だと思いますよ。

 昨日初めて来たっていう方の中の一人は、有名な週刊誌の編集をやってる方でしたけど、去年の春の、東京新聞の私の記事(※4)を、非常に感銘を受けて読んでくださって、「あなたは必ず救われる」って冒頭に書いてあるのに感動し、ここに行って話を聴きたい!って、機会を待っていたそうです。
 ただ、週刊誌の編集部で、そんな話をしてみたり、キリスト教に興味があるとか、聖書に関しての話なんかを持ち出してみると、すごくみんなから変に思われるんですって。今の日本、普通にはそうかもしれないですね。「えっ? 宗教〜?」みたいな感じで、「やめといた方がいいよ」って雰囲気になる。 それがまたすごく寂しいというか残念だと。実際、週刊誌の編集の現場なんていったらもう、ホントに俗にまみれてるんだそうですが、その中にも、尊いものを求め、本当のことを知ろうとしている人もいるわけです。でも、なかなか、そういうチャンスもない。そんな中、年明けのこの新年会、初めての方どうぞってあるし、行ってみようって。・・・イベントって、大事ですよ。
 彼はそうして多摩教会に来て、「今日はホントに、こういう話を聴きたかったっていう話が聴けた」と言って大変喜んで、「これから通います」と言ってくださいました。ぜひ皆さん、この編集者、大切にかわいがって、そのうちにぜひ洗礼を受けていただいて、その後ぜひ広報委員に引き抜いたらいいんじゃないですかね。
 でも、ああいう喜んでいる人たちの顔を見ると、この、「あなたは、わたしの愛する子」っていう神さまの言葉を、もっともっと、一般の人、聞きたがってるんだろうな、何か工夫して、もう少し聞かせてあげたいな、と思いますよ。これ、すべての神の子に語りかけている言葉ですから。

 入門講座では、この「主の洗礼」について、分かりにくいという人もいたので、こんなふうにお話ししました。分かりにくいというのは、「イエスさまのほうが洗礼を授ける側だろうに、どうして洗者ヨハネから洗礼を受けるのか?」という、その理由が分かりにくいということです。確かに洗者ヨハネ自身も、「え? どうしてあなたが洗礼受けるんですか? わたしこそ、あなたから洗礼を受ける側なのに」みたいなこと言ったりもするわけです。(※5)
 それはですね、イエスは、この「悔い改めの洗礼」(※6)といわれる洗者ヨハネの洗礼、言うなれば罪びとの群れの中に入ってきて、罪びとたちみんなと一緒になって洗礼を受けることで、人類と一つになったってことなんです。要するに、私たちの中に(・ ・)入ってきた。イエスは私たちの中に入ってきて、いわば「この世の洗礼」みたいな洗礼を受けて、人類と一致した上で、いよいよ活動開始。・・・マルコは、そこから話を始めます。
 イエスはこの洗礼で、ホントに、われわれと一つになったんです。・・・ここが大事。あらゆる罪びとと、あらゆる悲しみと、あらゆる痛みと一致する。そうすることによって、つまり、神から遣わされた方が私たちと一致することによって、私たちが救われる。そのことが、「聖霊による洗礼」って言われてるんです。
 だって、イエスは、洗礼を受ける必要はないんですよ、本来ね。聖霊に満たされてるんだから。洗礼を受ける必要があるのは、われわれ、人類です。でも、このイエスという、究極の、聖霊に満ちた方が洗礼を受け、私たちの内に宿ったおかげで、私たちも聖霊に満たされ、聖霊による洗礼を受けたことになる。これが福音なんですよ。事実、イエスさまは、もう来られました。そして、私たちと一つになりました。それで、私たちはもう、聖霊による洗礼を受けているのです。
 待降節から、この話、ずっとしてきましたね。「聖霊による洗礼」っていう言葉が、待降節から今日に至るまで、何度も出てくるからです(※7)。 これは、「水による洗礼」の話じゃないですよ。水がかかったの、かからないの話じゃない。受けた人がいる、まだ受けてない人もいるの話じゃない。「聖霊による洗礼」なんだから、イエスから溢れて、すべての人に授けられているんです。すべての神の子は、イエスによって、「聖霊による洗礼」に満たされているんです。あとは、それに気づかずにいる人、たとえば、出版社で苦しんで働いているとか、救いを求めて右往左往している人たちに、「あなたはもう、聖霊による洗礼を受けてるんだ。救いのうちにあるんだ」っていうことを伝えてあげる入門講座みたいなのが、とっても意味があるってことでしょう。

 木曜日に、近くの教会の牧師先生が、「ぜひお話伺いたい」って、やって来られました。あの交差点のコンビニのところに、教会があるじゃないですか。デッカイ看板が出てる所。「日曜日は教会にいらしてください」みたいな、おっきな看板、かかってますよ。あそこの、まだ若い牧師先生です。私はいつも、ちょうど信号待ちで止まるとこなんで、パッと見ると、デカい看板が目に入って、あれにすごく嫉妬してたんですよ。(笑) いや、ホント。これ、いいな〜って。
 看板の大きさって、やる気を表してますから。(笑) そりゃそうでしょう。「うちは本気だよ」「ホントにこの福音を知ってほしんだよ」っていう気持ちがなけりゃ、でかい看板出しませんよ。そんな思いが、あの看板からひしひしと伝わってくるから、嫉妬してたんです。それもあったからこそ、多摩教会の看板も、大きくてピカピカ光るやつを付けたわけですけどね(※8)。 まあ、直接のきっかけは、向かいのトヨタさんが、この教会のこと知らなかったっていう事件があって、それで怒り狂ってあの看板を出して、(笑) もう、「これでどうだ!」と、「これで分からんはずないだろう!」と。おかげで、向かいのトヨタさんはもう認識したらしく、あそこで聞いて教会にくる人、現れ始めましたから、してやったりですけれど。
 この牧師先生、その教会から来たんですけど、「福音宣教の本質などについて話し合いたい」って言うんですね。お隣の多摩教会で受洗者が多いことなど、よく知ってのことです。実は、彼、一年半前までアメリカで牧師をやってて、そこで勉強して神学の博士号まで取ってるんです。だけど、アメリカで、「福音の村」の説教をずっと読んでいて、晴佐久神父の『福音宣言』(※9)っていう本も読み込んでいて、「自分も、もう一度日本で福音宣教しよう!」って決心して帰ってきた。その晴佐久神父のいる教会が隣の教会だっていうことで、「アメリカから帰ってきてから1年半、さあ、いつ行こうか、いつ行こうかと思いながら、遠慮してたけど、今日はついに来ました」と。
 訪ねて来てくれたこと、正直うれしかったです。そして、彼の本気さに、感動もしました。仲間だというか、共感したというか・・・思わず思いましたけどね。これは絶対追い抜かれるわけにはいかないぞ!って。(笑)
 「教会のあの看板、大きくっていいですね」って褒めたら、すごく喜んでましたよ。「うちの教会でみんなにそう言ったら、すごく喜びますよ」って。だから、「実は、私たちは、おたくの看板を意識して、大きな看板出すことにしたんです」って言ったら、「うちの教会では、今の多摩教会の看板がすごくいいって話してて、うちもああいう、光る大きな看板出そう!って、(笑)言ってるんですよ」って言うもんだから、「どうぞ出してください、でも、そうしたら、こっちはもっとおっきいの出しますよ」と申し上げましたけど、いい競争じゃないですか?(笑)
 そういう、本気さっていうのに、心動きます。やっぱり私、本気な人に胸打たれるタイプなんで、燃えるものを感じますよね。ただ、その福音宣教の本質の話となると、その時もお話したんですけど、それこそ年末年始にお話ししてきた「聖霊による洗礼」の話、ここがポイントになるんですね。すべての神の子が、イエス・キリストにおいて、すでに聖霊による洗礼を受けているというような信仰です。そこにおいて、「あなたはいま、キリストからあふれ来る聖霊によって、救われている」「あなたのご主人も、洗礼を受けていないけれど、救われている」「あなたの亡くなったおじいちゃんも、仏教徒だったけれど、救われている」、そう言えるし、それは神の望みであり、神におできにならないことはない。
 結局は、「あなたは救われている」「必ず救われる」と、はっきり言わないと、真の福音宣教にならないんじゃないか。そこはホントに、上手な言い方でごまかすんじゃなくて、すべての人を救う神の愛のメッセージをちゃんと出さないと。「必ず救われる」っていう本気のメッセージを宣言するからこそ、みんなが信頼するし、「それなら信じる」と言い、「それなら救われる」と喜んで集まってくるわけですから。そこがちゃんとしてないと、結局は看板を大きくしてもむなしいんじゃないか。だって、看板見て来たはいいけれど、死んだ夫は救われてないのか・・・、私も救われないかも・・・、そんな後悔や不安を植えつけられるんじゃね、何のための看板か。
 そんな話をしてたら、その牧師先生が、「でも、もしもすべての人が救われるなら、なんで宣教するのか。多くの牧師はそう言うと思いますよ」って言うので、「いや、だから、『キリストにおいてみんな救われる』っていうことを宣教するんです」と、そう言ったら、「なるほど〜。なんて整理された考えだろう!」って感心してました。
 ・・・「整理された」って言い方が、興味深かった。たぶん、多くの人は整理されてないんだと思う。つまり、すべての神の子が「天においては神の望みによって」救われる、いや、もう救われている、そのことに気づくことが、「地においてこの世で味わう」救いだってこと。「天において救われてることに目覚めることが、地における救い」なんです。「救い」をどっちの意味で使ってるか、整理しなくっちゃ。
 おそらく、多くの現場では「信じなければ、あなたは永遠に救われない」って宣教してるんですね。脅しの宣教です。それに対して、「あなたはすでに永遠の救いに与かっている、それを信じよう」って宣教すること、それこそが福音宣教でしょう。「良い知らせ」なんだから。その福音を知ってこそ、うれしくなるし、安心するし、それを知ることこそ、神の愛を知ることでしょう。
 もしも宣教の内容が、「これを信じなかったら、あなたは地獄行き」じゃあ、ただの原理主義でしかないでしょうねえ。普遍主義を極めるなら、当然、「あなたはもう救われている」という神の愛の宣教をすることになるし、苦しんでいる人、恐れている人は、それで安心して、救いの喜びが、そこに溢れてくる。・・・キリストのやってたことです。そこを整理しましょうっていう話。
 木曜日、その話で盛り上がって、牧師先生が、「神父さま、半年に一度、お話を伺いに来ていいですか?」って言うから、「いやいや、毎週でもどうぞ。友だちになりましょう。今度は、私がそっちに行きますよ」っていう話をして、「こういう分かち合いの会みたいなこと、やりたいねえ」っていう話にすらなりました。ワクワクしますね。「あなたは、私の愛する子」っていう天の父の言葉が、神の子たちのうちにどんどん広がっていく。そういうことに奉仕する仲間たちが、連絡とり合って、増えてますよ。

 なんかこう、聖書の言葉が、原理主義的に読まれるっていうのは、すごく悲しいことです。だからこそ、今日の朗読箇所のような所が必要です。第1朗読(※10)で言えばですね、
 「渇きを覚えているものは皆、水のところに来るがよい。何も持たずに来るがよい」(cf.イザ55:1)
 ・・・すごく普遍主義ですよね。
 「銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(イザ55:1)
 ・・・「誰でもいい。おいで」って言ってるわけでしょ。
 「なぜ、糧にならぬもののために金払うのか。魂の飢えを満たさないようなもののために労苦するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる」(cf.イザヤ55:2)
 「良いものを食べることができる」って、まさに、入門講座じゃないですか。み言葉はもちろん、ごちそう食べてますから。ここは、「わたしに聞き従えば」に加えて、「多摩教会の入門講座に聞き従えば、よいものを食べることができる」って言いたい。(笑)
 「あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(イザ55:3)
 私ははっきりと、そう、すべての人に、言いたいんです。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい」って。「あなたは救われている」と宣言したいから。

 福音書でいうならば、(※1と同じ)「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に(かな)う者」(マルコ1:11)、このひと言ですよね。「わたしの心に適う者」ってこれ、言ってる意味、分かりますか? これ、天の父がわが子に、すなわち親が子どもに言ってる言葉ですから、「ああ、ホントにいい子だね」って言ってるんですよ。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ってね、翻訳のせいか、なんか硬い言葉ですけど、神さまの思いとすれば、もっと砕いて言うなら、「ああ、かわいいね〜、いい子だね〜^^」って、そう言ってるわけですね。親って、そう言うでしょ。「あなたはわたしの愛する子」は「かわいいね〜」、「わたしの心に適う者」は「いい子だね〜」。
 こういうひと言を、やっぱり、すべての人に聞かせたい。だって、その人が聞く前から、もう神は言ってるんだから。神はそれを聞かせたいからこそ私たちにキリストを与え、そのキリストにおいて、すべての人に言ってるんだから。でも、みんな聞いてない。「いい子だね〜」って言ってもらってることを知らない。だから、みんな、とんでもないことになるわけですよ。「私はいい子じゃない」って思い込んで、とんでもないことしてるわけですよ。「わたしの心に適うもの」って言ってるのに、「私は適ってない者だ」って、みんな思ってるから。
 「私は欠けた者だ。足りない者だ」「もっとがんばらなきゃ、幸せになれない」「まだまだ自分は罪深く、こんなんじゃダメだ」・・・そんなふうに、「欠けてる」って思うから、みんな、苦しいし、不安だし、しまいに、そういう苦しさや不安を晴らすために、欠けたところを責め始めたりするんですよね。クレームつけるっていうのは、自分の不完全さにいっつも苦しんでるから、不完全なもの見ると、ものすごく責める。あれ、自分を責めてるんです。そういう心理でしょ。
 原理主義っていうのは、自分が不完全であると思い込み、不完全であることに耐えられないから、不完全から逃れる原理を信じ込むってことでしょう。そんな原理、(まぼろし)、まやかしなんですけどね。だから、怖い心理なんですよ、「自分が欠けている」っていうことを恐れるっていう心理は。これ、すべての罪の始まりですね。
 失楽園の物語なんかは、幸せに暮らしてたアダムたちのところに悪魔がやってきて、「お前はまだ欠けてるよ」って言い出したわけでしょ(※11)。「おまえはまだ足りないよ。もっと幸せになれるよ」って。・・・これが罪じゃないですか。これが悪じゃないですか。
 「お前を愛してるよ〜!」っていう、この声が、私たちを満たしてるんです。本来なにひとつ欠けてない。イエスがそう教えてくれたんです。「いい子だね。適ってるよ」って、もうちゃんと言ってもらってるんです。ちっとも不完全じゃない。完全なるイエスが宿ってるんです。あなたのうちに。・・・これを聞かずして、あと、何を聞くかっていうひと言ですね。ドデカい看板出して、集めるべきですよ。これを聞かせるために。

 パリで銃撃戦、怖いテロがありました(※12)。あれこそまさに原理主義ですけれど、犯人は10年くらい前まで、普通の青年だったっていうじゃないですか。でも、おそらくは自分の足りなさとか、欠けているところに苦しんで、足りなくさせている世の中をうらんで、不完全さに耐えられなくなって、「完全なるもの」に身を投じようとした。・・・でもそれ、完全じゃない。完全であるかのような幻にすぎない。完全になるために「殉教者になりたい」って言ったわけですけど、なるほど、原理主義の殉教者は、人を殺す殉教者です。殺さないと完全になれない。普遍主義の殉教者は、殺される殉教者です。殺されて復活したキリストと共にあって完全だから、殺されても構わないのです。
 今の時代に必要なのは、福音です。「あなたは愛されてるよ」と、「もう既に適っている存在なんだよ」と、そう知ったとき、人は決して、他者を攻撃したりしません。だってみんな、神の愛に満たされてるんだから。

 昨日の入門講座に初めて来た5人の中に、13歳の中学生がいました。去年のクリスマスに、お父さんに連れられて初めてミサに来て、昨日は入門講座に連れて来られたんですけど、彼が、講座で、皆さんの前で立派にあいさつしたので、ちょっと感動しちゃったんですよね、みんな。
 「最初は、お父さんにミサに連れられて来て、実は、しぶしぶ来たんですけど、でもミサで神父さまのお話を聴いて、宗教っていうのは堅苦しいものじゃなく、単純で優しいものなんだと分かりました。そして、今日も来て、こんな自分も神さまの心に適っているものだと知って、うれしくなりました」
 ・・・そう言いましたよ。感動して、彼のことば、その場で覚えちゃったんです。
「単純で優しいものなんだと分かりました」って、13歳にそう言ってもらえる教えって、これ、本物じゃないですか? 「こんな自分も神さまの心に適っている者だと知って、うれしくなりました」と。
 彼、絶対、原理主義にいきませんよ。・・・いくはずがない。だって、本当の喜びを知ったら、絶対にそれを手放したくないはずですから。それを知らない者が、(にせ)ものに飛びついてしまうのです。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
 ・・・そんな神のことばを教えてあげたい人、たくさん思い浮かぶはずですよ。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「今日のこういう箇所」
本日(2015年1月11日〈主の洗礼〉)の福音朗読箇所。
 マルコによる福音書 1章7〜11節。
  〈小見出し:「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」-「イエス、洗礼を受ける」より抜粋〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
・・・< 文中へ戻る

※2:「入門講座 新年会」
 2015年1月10日(土)、入門講座で新年会(交流会)を開催しました。午前10時半から、晴佐久神父の話で始まり、その後はパーティー。おかげさまで、予想を上回るたくさんの方々がお集まりくださいました。
(参考)
・ 「入門講座 新年会(交流会)開催」(「カトリック多摩教会」HPより:ご案内ページ)
・ 「楽しかった入門新年会」(「入門係らくがき帳」〈入門講座ブログ〉2015/01/11の記事より)
・・・< 文中へ戻る

※3:「この規模の教会」
カトリック多摩教会の信徒総数1,129名(2014年12月31日現在)
・・・< 文中へ戻る

※4:「去年の春の、東京新聞の私の記事」
 昨年(2014年)3月、2回にわたって、晴佐久神父の寄稿文が、東京新聞および中日新聞に掲載されました。
 それに伴い、「福音の村」では、東京新聞を発行する中日新聞社から転載の許可をいただきましたので、以下にご紹介いたします。
 まだお読みでない方は、ぜひご一読ください。
************************************

◎ 記 事 ( PDFファイルでご覧になれない方は、JPEGファイルでご覧ください )
※「宗教の普遍性」(上)- 「すべての人は救われる:分け隔てなく愛す」
 〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
   (中日新聞・東京新聞 2014年3月15日付)

※「宗教の普遍性」(下)- 「すべての人を救う宗教:共感、共生する道へ」
  〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
   (中日新聞・東京新聞 2014年3月22日付)
************************************
・・・< 文中へ戻る

※5:「洗者ヨハネも、・・・言ったりもするわけです」
(参考箇所)
・ マタイによる福音書 3章14〜15節 〈小見出し:「イエス、洗礼を受ける」より〉
 「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』 しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」
・・・< 文中へ戻る

※6:「『悔い改めの洗礼』といわれる洗者ヨハネの洗礼」
(参考箇所)
 ・ 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。(マルコ1:4)
 ・ そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 (ルカ3:3)
 ・ ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。(使徒13:24)
 ・ そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」(使徒19:4)
・・・< 文中へ戻る

※7:「『聖霊による洗礼』っていう言葉が、待降節から今日に至るまで、何度も出てくるからです」
 特に、以下の説教をご参照ください。
 ・「すべての人が『聖霊による洗礼』を受けている」(2014/12/7説教)
 ・ 「神さまからの栄誉は『とっておき』」(2014/12/14説教)
*******
 (☆待降節・・・降誕祭<クリスマス>に向かい、この世にいらしたキリストの降誕を思い起こし、また、終末のキリスト再臨への待望に心を向ける季節)
・・・< 文中へ戻る

※8:カトリック多摩教会の看板
多摩教会看板:遠くからでもはっきり見えます 多摩教会看板:LEDライトになっていて、夜になると点灯します
☆ 「カトリック多摩教会」の大看板を付けたいきさつは、以下をお読みください。
 ・ 「オアシス広場」(『多摩カトリックニューズ』〈カトリック多摩教会月報〉2010年5月号主任司祭巻頭言)
・・・< 文中へ戻る

※9:「晴佐久神父の『福音宣言』」
 2010年1月初版発行の単行本。月刊『福音宣教』に掲載されていた晴佐久昌英神父のエッセイ、「福音宣言」(2007年1月号、4〜12月号、2008年7〜12月号)がまとめられている。
☆ 出版社:オリエンス宗教研究所
☆ 著者: 晴佐久昌英
☆ 内容紹介:
 わたしが神の愛を宣言すると、それが救いの現実となる。その喜びを共有するために。 
神が「わたし」に語った愛を「あなた」に宣言すると、福音が現実のものとなる、それが「福音宣言」。この感動と喜びをすべてのキリスト者が共有することで、福音をこの世界に、そして目の前にいる人に届けようと読者を招く。
☆ 参考・ご購入
 ・ 『福音宣言』(女子パウロ会オンラインショップ)
 ・ 『福音宣言』(Amazon) など
・・・< 文中へ戻る

※10:「第1朗読」
本日(2015年1月11日〈主の洗礼〉)の第1朗読箇所は、
 イザヤの預言 55章1〜11節。
  〈小見出し:「御言葉の力」より抜粋〉
・・・< 文中へ戻る

※11:「失楽園なんかは、・・・言い出したわけでしょ」
(参考箇所)
 創世記3章。〈小見出し:「蛇の誘惑」〉
・・・< 文中へ戻る

※12:「パリで銃撃戦、怖いテロがありました」
◎フランス紙襲撃テロ事件
 2015年1月7日にフランス・パリにある風刺週刊誌を発行している「シャルリー・エブド」本社に、武装集団が押し入り、12人が殺害されたという事件
(参考)
 ・ 「フランス紙襲撃テロ事件」(ウィキペディア) ほか
・・・< 文中へ戻る

2015年1月11日 (日) 録音/2015年1月17日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英