ああ、かたじけない

【カトリック浅草教会】

2017年9月24日 年間第25主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ55・6-9)
・ 第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ1・20c-24、27a)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ20・1-16)

【晴佐久神父様 説教】

 ニャー助祭の福音朗読が懐かしい。・・・さみしいですねえ。昨日、叙階式だったんですよ(※1)。ニャー神父さまになりました。私は片腕もがれたような気持ちです。・・・あの人、ここの助任になってくれるといいのにね。(笑)
 叙階式、元気出ますね、やっぱり。誰かが、「イエズス会始まって以来だ」とか言ってましたけど、大勢の信徒が集まって、イグナチオ教会の大聖堂、入りきれないほどでしたし、神父たちも100人近く集まって、素晴らしい叙階式でした。岡田大司教さまが司式なさって、3人の司祭が叙階されました。日本人の大西助祭と、ベトナム人のディン助祭とニャー助祭と、3人並んで神父に叙階されました。
 叙階式のあいさつで、最初に大西助祭が日本語であいさつして、次にディン助祭がベトナム語であいさつして、最後にニャー助祭が、「もう日本語とベトナム語であいさつしたので、私は英語でやります」って、(笑) 英語でごあいさつして。・・・っていうのは、ベトナム語しか分からない人が結構来てましたし、英語しか分からない人もいらしてたということもあってなんですけど、カッコよかったですよ。ニャーさん、誠実で、賢くて、ユーモアもあって。いい神父さまになられると確信いたします。

 岡田大司教さまがお説教でね、「今、3人は、生涯最高の喜びの日を迎えてるでしょうけど、お祝いはひとときで、その先に本番が待ってますよ」みたいな説教をなさってました(※2)。ちょうど十字架、復活の先取りとしての、ご変容のところを福音書で読んだので、やがて十字架が来るけれども、それは復活に向かってるんだっていう福音を用いて、3人に語り掛けてました。
 十字架っていうなら、私が司祭としてこういう話をするのは、なんだか甘えてるように聞こえるかもしれないけど、確かに司祭って、結構大変なんですよ。ホントに、いろんなことを神父に言う人がいますけれども、私は心の中でいつも思う。・・・「じゃあ、やってみろっ!」と。(笑) まあ、でもそんなことを言ったら身もふたもないので、口には出しませんけど、やっぱりね、大変は大変。だけど、それを承知で司祭を目指す若者たちが確かにいて、新司祭に叙階されるのを見ると、やっぱり元気出るんですよね。すごく、励まされる気持ちになりました。
 ベトナム人の若い子たちも大勢来てました。日本では最近、教会に若い人が少なくなっていますけど、ベトナムの教会では若い子たちが大勢いますし、日本にも大勢来てくれています。今日のミサにも何人も来てますけど、ベトナムの若い皆さん、日本を励ましてください。よろしくお願いしますよ。どんどん、大勢連れてきてください。日本人と一緒に、家族同然にやっていきましょう。もう、「何人(なにじん)」なんてことの関係ない普遍主義の時代を始めなければ。「なんとかファースト」とか、排除の話ばかりが盛んですけど、われらが教会は、「み~んな家族」でやっていきましょうよ。
 司祭として、私はいつも心掛けようと願ってるんですけど、・・・もちろん、そんなにうまくはいかないですよ、でも、心掛けようと願い続けているのは、目の前にいる人に対して、「これが自分の家族だったらどうするか」って思うこと。・・・そこですよね、教会はやっぱり。そこを目標にしませんか。
 「もしも家族だったら当然助けるけれども、あなたは別に家族じゃないから、助ける必要はない」って、そんなこといっぱいありますでしょ。でも、教会はやっぱり、「天の父のもとでみんな家族」っていう信仰が基本ですから、誰に対してでも、「この人が家族だったらどうするか」を合言葉にして行動するというチャレンジをしてるんですね。
 「倒れているこの人がうちの息子だったら、困っているこの人が自分の兄弟だったら、苦しんでるこの人が私の親だったら、どうするだろう・・・」みたいに感じる、そういうチャレンジをしているのが教会ですから、ニャー神父さんはじめ、教会全体が、だれをも家族同然に受け止める教会を目指してほしいなと、心からそう願います。

 イエスさまの今日のたとえ話(※3)、私、いつもこれ読んでてね、思うことがある。「これが家族だったら」です。
 一日中働いた人が、「なんだ、おんなじ額しかもらえないのか」って言うのは、分かる気はする。分かる気はするけれども、たとえばですよ、もし仮に、この5時から来た人が、自分の、体の弱い弟だったらどう思うか。・・・想像してみてください。
 弟は、仕事になんか、ほとんど就いたことがない。体が弱いから、お前はダメだって、いっつもハネられて雇ってもらえない弟。その弟が優しい主人に雇ってもらって、ほんの1時間だけ働くことができたわけです。お兄さんにしてみたら、「おお、あいつが雇ってもらえた! よかったなあ」って当然思うわけですよ。で、いよいよ賃金を支払ってもらうときになって、弟が、なんと1デナリもらった。・・・お兄さん、何て言うと思います? 駆け寄って、「よかったなあ、お前!」って言うんじゃないですか? 「すごいじゃないか、こんなにもらって。よかったなあ、ご主人に感謝しろよ」って。で、自分の番になって同じ額だったら、「・・・あれ? もうちょっとくれてもいいかな・・・」とか、ちらっとは思うかもしれないけど、(笑) でも、そこはね、弟がこれだけもらったんだから文句なしで、家に帰って二人でお祝いする、みたいなね。・・・ねっ、家族だったら、それ、普通のことじゃないですか?
 ところが、この「朝から組」の彼はね、この「5時から組」の人のことを、「この連中」って言ってるんですよね、「この連中と同じ扱いにするとは」(マタイ20:12) って(※4)。つまり、関係ない人なんです。「こいつらは、ダメな連中だ。こんなのと一緒にされたくない」って、そういう思いが(はな)からあるんですよ。だから、それが賃金に表れた段階で、不満爆発っていうことですよね~。
 ・・・でも、もし、それが家族だったら?
 この主人にしてみたら、・・・これ、神さまのことをたとえてるわけだから、もうはっきりしてるわけですけど、わが子同然に思ってるんですよね、すべての労働者を。いうなれば、「この一番弱い末っ子にも、お兄さんたちとおんなじようにご飯を食べさせたいんだ」っていう親の気持ちがそこにあるんです。それ、普通のこと、当たり前のことでしょ。「この子はちゃんとお手伝いもできないようなダメな子だから、晩ご飯は半分でいいだろう」って、そんな冷たい親がいたら、もはやそれは親じゃない。むしろ、一番弱い、一番いじめられてる、一番運が悪い、そんな子をこそ、「この子が一番かわいい」と思い、「この子にだけは、つらい思い、悲しい思いをさせたくない」と、特別に手を掛ける。体が弱いなら、他の子よりも栄養が付くような、ちょっといいものを付けてあげるとか、それくらいするでしょ? 親心って、そういうことですよね。
 イエスさまは、そのような神さまの愛を伝えたいんです。この「最後の者」 (マタイ20:14) 、つまり、体が弱く、運が悪く、みんなから受け入れられず、ちゃんと仕事ができない日々を送っている、そんな最後に来た者たちにも、「同じようにしてやりたいんだ」 (cf.マタイ20:14) っていう、この、神さまの愛にこそ、感謝、信頼を持つべき。
 ・・・聖書のたとえ話に出てくる人は、すべて自分だと思って読んでくださいね。「朝から組」のような思いも自分の中にあるし、同時に、「5時から組」みたいな弱い部分も、自分の中にあるんじゃないですか。
 だから、「朝から組」の人みたいに、「この連中」なんて言わずに、「後から来た人のことも、家族同然に喜ぼう」と思い、また、「5時から組」みたいに恵まれない部分をいろいろ抱えている、コンプレックスいっぱいのこの私、でもそこに、「同じようにしてやりたい」って言って恵みを与え続けている神への思い、感謝。そういう思いを両方ね、持っているべきだと思いますよ。
この最後に来た人、1デナリもらったとき、どんな気持ちだったか。・・・想像つきますでしょ? 「・・・ああ、ありがたい・・・」っていう、そう、「かたじけない」、これですよね。
 「ホントにもう、なんとお礼を申し上げたらいいか。こんな私にそこまでしてくださるなんて。・・・ああ、かたじけない」
 「かたじけない」って、美しい日本語ですよね。実は千年くらいさかのぼる言葉なんですよ(※5)。時代劇にも出てきますでしょ、「かたじけのうござる」とか。私、美しい言葉だと思う。・・・「かたじけない」。最大級の謙遜と感謝をもって、ご恩に報いたいと思う気持ち。神さまに対して、やっぱり、そういう思いを持つべきじゃないですか。

 叙階式のとき、ニャー助祭の顔、よく見えたんですけど、・・・涙もろいね、彼は。もう、泣いて泣いて、ずっと泣いてましたよ。でも、そういうもんなんですよ。私も30年前の自分の叙階式を思い出しました。・・・涙、涙でした。
 叙階式には、涙ポイントが三つあってね、一つは、最初の連願(※6)のとき。連願のお祈りのとき、受階者は、床に突っ伏すんですね(※7)、聖金曜日の司祭の姿みたいに。うつぶせにひれ伏していると、ず~っと聖人の名前が歌われますでしょ。そうすると、「ああ、あの聖人、この聖人、みんなかけがえのない素晴らしい方々だ・・・」って、もうある意味、その方々の祈りや犠牲の上に、今のこの私があるっていうことを、非常にリアルに連続して感じられるんですよ。遠い昔のおとぎ話じゃない。だいたい、殉教者の名前が並びますからね。「ああ、この人も命を捧げた。この人も犠牲になった・・・」、そんな尊い聖人たちの名前が次々と頭上を流れていく、その下でね、「及びもつかないこんな私が叙階するなんて」・・・っていう思いになって、やっぱりポロポロと涙がこぼれるんですよ。床が涙でぬれるんです。
 次の涙ポイントは、司教から按手されて、つまり頭に手をかざしてもらって、それに続いて列席の司祭団が行列して按手するときです。司教按手で、司祭叙階が成立するわけですから、ある意味、とってもホッとするわけですね。ニャーさんなんかイエズス会ですから、最低でも11、2年かかるんですよ、叙階までに(※8)。ニャーさんは13年だったかな、確か。そのくらいかかってると思いますよ。その長い日々、ホントに真剣に叙階の日を待ち続け、いろんな苦難を乗り越えてきて、ようやく司教按手を受けて、ホッとしている。そんな中で、お世話になった司祭たちが次々と頭に手を置いてくれるわけですよ。ああ、みんなに育てられ、みんなに受け入れられ、みんなに祝福されている・・・。ここでまた、ハラハラ、ハラハラと涙こぼれる。ニャーさんも、ひざまずいたまま、ぐずぐずでしたよ。鼻をすすりながら、みんなの按手を受けてました。
 で、最後の涙ポイントが、聖体拝領です。目の前に、次々と、知ってる顔が現れるじゃないですか。「ああ、この人にもお世話になった。この人ともいろいろあった。この人のおかげで今日がある・・・」。そういう、万感の思いが駆け巡って、またハラハラ、ハラハラと涙こぼす。
 この、叙階式の三つの涙ポイント、私も三つともボロボロでしたけれど、その涙って何だろうなあ・・・って思うに、まあ、感動とか、ホッとしたとかもありますけど、その本質は、さっきの言葉で言うなら、まさしく、「かたじけない」なんですよ。
 一つ目の連願なんかは、まさに大勢の犠牲、奉仕、努力、祈り、それが二千年の間続いてきて、それに支えられて、この私も今、司祭として叙階される。あるいは、皆さんだったら、キリスト者として洗礼を受ける。受洗前だって、連願ありましたでしょう? それはもうホントに、「かたじけない」「こんないい加減な私なのに、こんな立派な方々が、今、天上で祈ってくれている。この方々の犠牲が、今、こうして私において実っている。ああ、かたじけない・・・」っていう思いです。
 二つ目の按手も、司教が手を置いてくれる、司祭が手を置いてくれる、それはまことにかたじけないことなんです。私は、白柳枢機卿の按手でしたけど、・・・思えば、ずいぶん迷惑掛けたんですよ。あまり詳しくは言えませんけれども、あれこれ失敗しても、忍耐の人でしたから、受け止めてくれるんですよ、あの枢機卿は。「あんまり失敗しないでくれ」って言われたこともある。(笑) そのとき、「ぼくは失敗で成長するタイプなんです」って言ったら、 「取り返しがつかない失敗はやめてね」って言われた。(笑) そういう人に手を置かれると、「ああ、かたじけない・・・」って思うわけですよ。それに続いて、大勢の先輩神父さんたちもまた、次々と、こんなぼくを信頼して、手を置いてくれるわけですよね。もうそれは、「ああ、かたじけない、かたじけない」以外の、なにものでもない。
 そして最後に、聖体拝領で、自分のために祈ってくれた人、応援してくれた人、迷惑かけた人、もう、ありとあらゆる人が次々と目の前に現れるわけですよ。中には、まさかこの人が来てくれるとは思わなかったっていうくらい遠方の人も現れる。「ああ、あんな遠くから、わざわざぼくのために来てくれたんだ~!」とか思っているうちに、また、ポロポロ、ポロポロ。で、泣きながら、「グスッ・・・キリストの体、ヒック・・・・・キリストの体・・・」みたいになってくるんですよね~。(笑)
 これ、三つとも、「かたじけない」なんですよ。こんな私なのに、ここまでしてくれるなんて、かたじけない。ならば、その大もとの、「そんなおまえに、そこまでしてやりたいんだ」っていうお方の、どこまでも愛に満ちた思いを、私たちは本当に、「かたじけない」と感じるべきじゃないですか?
 第1朗読(※9)の最後のところで、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる」 (イザヤ55:8) と。
 「天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いはあなたたちの思いを、高~く超えている」 (cf.イザヤ55:9)
 おそらくは、ぼくらが想像する神の思いなんていうのは、もう、ほんのゼロコンマ1パーセントにも満たない。実はこの私たちに、どれほどちゃんと「してやりたいのだ」 (マタイ20:14) ということを、ちゃんとしてくださっているか。
 生きていくに必要な恵みを、ありえないほどちゃんと与えてくださっている神さまに、「ああ、かたじけない」っていう思いで、今日のミサを捧げましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「昨日、叙階式だったんですよ」
 2017年9月23日、東京の麹町教会(聖イグナチオ教会)において、司祭叙階式が行われ、3人のイエズス会士が司祭に叙階された。司式は、岡田武夫大司教。
 司祭に叙階されたのは、アロイジオ 大西崇生(おおにし・たかお)助祭、洗礼者ヨハネ・ファン・デュック・ディン助祭、ヨセフ・グエン・タン・ニャー助祭の3人。
 叙階式には、親族やイエズス会関係者、また、受階者二人がベトナム人ということもあり、同国の信徒、友人をはじめ、たくさんの人が参列し、ともに叙階を祝った。また、ミサにおいては、典礼聖歌や聖書朗読にもベトナム語が取り入れられた。
 ニャー新司祭は、3月4日に助祭に叙階後、司祭叙階までの半年間、浅草、上野の両教会に奉仕しておられた。
(参考)
・ 当日の記念写真は>こちら などをご覧ください。(「司祭叙階式」イエズス会日本管区HPより)
・ 「ヨセフ・グエン・タン・ニャー助祭」(「天の鼓動の最初の一打ち」/「福音の村」2017/3/12説教/参照※1 「助祭」についても若干の説明あり)
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※2:「・・・みたいな説教をなさってました」
(参考)
・ 「イエズス会司祭叙階式説教」(「岡田大司教メッセージ・説教」カトリック東京大司教区)
・ 聖書の朗読個所は、以下のとおり。(全文は>こちら で読むことができます)
  ☆第1朗読:コリントの信徒への手紙二 5章14~20節
   〈小見出し:「和解させる任務」5章1~21節から抜粋〉
  ☆福音朗読:マルコによる福音書 9章2~10節
   〈小見出し:「イエスの姿が変わる」9章2~13節から抜粋〉
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※3:「イエスさまの今日のたとえ話」
この日、2017年9月24日(年間第25主日)の福音朗読箇所。
 マタイによる福音書20章1~16節
 〈小見出し:「ぶどう園の労働者」のたとえ〉
===(
聖書参考箇所&あらすじ)===
【イエスが天の国をたとえた「たとえ話」】
 ある家の主人が、夜明けに出かけて行き、一日一デナリオンの約束で、ぶどう園で働く労働者を雇った。その後、9時にも、12時にも、3時にも、5時にも、何もしないで広場で立っている人を見つけては、ふさわしい賃金を払う約束をして、同じぶどう園に送った。
 夕方、賃金を払う段になって、最後に来た人から順に一デナリオンずつ支払ったが、最初に雇われて働いていた人は、最後に雇われた人と同額だったので、主人に不平を言った。
 しかし、主人は、答えた。
 
「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 (マタイ20:13-14/赤字引用者)
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※4:「この『朝から組』の彼はね、・・・『この連中と同じ扱いにするとは』(マタイ20:12)って」
===(聖書参考箇所)===
最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。 (マタイ20:10-12/赤字引用者)
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※5:「『かたじけない』って、美しい日本語ですよね。実は千年くらいさかのぼる言葉なんですよ」
 「かたじけない」は、文語「かたじけなし」の口語で、意味は、「もったいない」「ありがたい」「恐れ多い」など。
 この言葉は、平安時代(794~1185年)の初期の『竹取物語』や、中期の『宇津保物語』の中にも見られるので、千年以上前から使われているということになる。
 本来、相手の地位、身分、能力などと自分を比べたときに、引けを取り、恐れ多いという意味から、感謝の念を表した言葉といわれている。
(参照)
・ 「かたじけない」(語源由来辞典)
・ 「『かたじけない』の意味と使い方・言われたときの返し方」(Mayonez)
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※6:「連願」
◎連願 (連祷) 〔ラ〕litania 〔英〕litany
 先唱者が一連の祈願を一つずつ唱えるごとに、全員が同一の反復句で応える形式の祈願。
「連祷」とも呼ばれていたが、第二バチカン公会議後、日本のカトリック教会では「連願」を訳語に採用した。
 こうした祈願形式の伝統はユダヤ教にまで遡るが、キリスト教礼拝での使用は、4世紀のアンティオキアからと考えられ、以後小アジアへ広まり、ローマには5世紀の終わりに伝えられた。
 17世紀以後、カトリック教会では、「諸聖人の連願」と「聖マリアの連願」の二つが代表的で、いずれも、「あわれみの賛歌」(キリエ・エレイソン)に始まり、「平和の賛歌」(アニュス・デイ)で結ばれている。
 その間に、「諸聖人の連願」では、先唱者が聖母、天使、使徒をはじめとする聖人に呼び掛けるごとに、全員が、「われらのために祈り給え」と応え、「聖母の連願」では、先唱者が「キリストの御母(おんはは)」「愛すべき御母」「キリスト信者の助け」など、さまざまな表現で聖母マリアに呼び掛け、やはり全員が、「われらのために祈り給え」と応える。
 現在は主に、叙階式、祭壇祝別、復活徹夜祭などに唱えている。
(参照)
・ 「連願」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「諸聖人の連祷」(個人ブログ:「カトリック教会の祈りとしらべ」)
・ 「聖マリアの連祷」(個人ブログ:「カトリック教会の祈りとしらべ」)
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※7:「連願のお祈りのとき、受階者は、床に突っ伏すんですね」
 YouTube(動画共有サービス)で、受階者の約束と連願の様子を見ることができます。
 受階者は祭壇の前に突っ伏し、会衆が連願を唱えています。
 ご興味のある方は、>こちら をご覧ください。(連願は、3:00くらいから始まります)
 動画は「カトリック鹿児島司教区」 (2016/9/24) によるものです。
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※8:「イエズス会ですから、最低でも11、2年かかるんですよ、叙階までに」
 司祭は、「教区司祭」と「修道会/宣教会司祭」の二つのタイプに大別できる。
 司祭は必ず、「教区」か「修道会/宣教会」に属し、その教区の司教、あるいは修道会や宣教会の責任者のもとで働くことになる。
 「修道会/宣教会」のイエズス会においては、イエズス会への入会が認められると、人によって若干の長短はあるが、修練期(2年)→哲学期(2~3年)→中間期(1~2年)→神学期(4年)→司祭叙階の順を追うことになる。また、司祭叙階後も、第三修練から最終誓願へと養成されていく。
 教区司祭を志す者は、神学生として認められると、「日本カトリック神学院」で、最低でも6年の養成を受け、さらに、各教区において、神学生養成担当者(教区によって呼び名はさまざま)の指導を受けながら、司祭叙階のまでの日を過ごすことになる。
(参考)
・ 「イエズス会の養成」(イエズス会)
・ 「Q&A」(日本カトリック神学院)
・ 「司祭になるためには」(カトリック横浜司教区)
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※9:「第1朗読」
この日、2017年9月24日(年間第25主日)の第1朗読箇所。
イザヤの預言(イザヤ書)55章6~9節
〈小見出し:「御言葉の力」〉
===(聖書参考箇所)===
 
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
 天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。 (イザヤ55:8-9)

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2017年9月24日(日) 録音/2017年10月26日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英