楽園の平等

【カトリック浅草教会】

2017年12月24日 待降節第4主日
・ 第1朗読: サムエル記(サムエル下7・1-5、8b-12、14a、16または7・1-5、8b-11、16)
・ 第2朗読: 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ16・25-27)
・ 福音朗読: ルカによる福音(ルカ1・26-38)

【晴佐久神父様 説教】

 時々、この待降節第4主日が主の降誕のイブと重なることがあって、そうすると、皆さん、午前中も来て、夜も来る、と。「ポイント2倍デー」ですけど、(笑) まあ、今日一日、恵み多いと思いますよ。こうして午前中に主を迎える準備をして、ワクワクしながら午後を過ごして、夜は降誕祭。一日中、主の救いの恵みに(あずか)っている日。「今日は、いいこといっぱいありますよ!」と申し上げたいですし、何かうれしいことがあったときに、「ああ、これがその、今日の恵みか」って受け止められるように、この一日、目覚めて主を迎える日にいたしましょう。

 待降節第4主日のミサは、とっても大切。なにしろ、「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)っていう(※1)、およそ人類が口にした言葉の中で、最も美しいひと言がテーマですから。決して、「自分の思ったとおり、成りますように」じゃなく、「神さまのお言葉どおり、成りますように」っていう、そのひと言に、救い主が宿るんです。
 この神秘は、聖母に限らず、皆さんの今日一日にもいえることです。自分が考えていること、こうあったらいいと願っていることとは違っていても、「これは神さまのお考えだ。神さまからのお言葉なんだ」と信じて受け入れるならば、そこに主が宿る。逆に言えば、「いいえ、これはイヤです」って言ったら、主は宿らないってことですよね。今日一日、どんなことが「お言葉どおり」なのかなって思い巡らしながら過ごして、これがそうかって気づいたときに、「お言葉どおりになりますように」って言えたら、今晩、ホントに主が宿ってくださるんじゃないですか?

 聖母が、「あなたは子どもを宿します」って言われたときにどう思ったかって、これ、想像つきますよね。そこはさすがに聖母だから、何ひとつ動じずに「はい、どうぞ、どうぞ」って、そ~んなわけないでしょう。当然、びっくりもしたでしょうし、何らかの不安も感じたでしょう。何よりもそれは、いいなずけの、愛するヨセフから捨てられるってことでしょ。現に、ヨセフは離縁しようとしたわけですから(cf.マタイ1:19)。それは、自分が思い描いていた人生とは全然違うし、ごく普通の一人の少女としては、到底受け入れられないような告知です。
 しかし、天使から、「恵まれた方」と祝福され、「神から恵みを頂いた」と宣言されて、聖母は、頭では何一つ理解もできないままに、神さまへの全面的な信頼をもって、内なる恐れを越えてひと言、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。このひと言で、世界が変わった。大きく変わった。私たちも同じです。自分の思うとおりにしたいという欲望を超え、自分の思うようにいかないという現実を受け入れ、恐れを越えて主を迎え入れたとき、世界を大きく変えることができる。

 この「恐れ」っていうのは、私たち、毎日のように経験することです。
 昨日、TBSで「ジョブチューン」っていう番組(※2)があって、昨日は神父さんが出演してたと思いますけど、ご覧になりましたか? 神父さんとかお坊さんとかが出てきて、いろんな疑問に答えるっていう企画です。実はTBSから、二月(ふたつき)くらい前でしたかねえ、私のところに依頼が来たんですよ。「ジョブチューン」って言う番組に出てくれませんか、と。でも、私、どうしても気が進まなくて、「お言葉どおりになりますように」って言えなかったんです。(笑) やっぱり、恐れがあるんですね、今にして思えば。「自分なんかが期待に応えられるだろうか」とか、「変なこと口走って誤解されないだろうか」とか。やっぱり大勢の人が見るわけですし、まあ、バラエティ番組ですから、たとえば、自分がホントに信じて大切に思っている「福音」を語ったつもりが、・・・お笑いに利用されたりとか、面白おかしく編集されたりとか、そんなのヤだなあって。そういうの、いくらでもある話ですしね。カットなしで好きなだけ福音しゃべれるんだったら、喜んでお引き受けしますけど。まあ、何より、全国放送に顔(さら)してね、今日あたりスーパーに買い物に行ったら、「ほら、あの神父よ!」とか、(笑) 「まあ、神父さんがバナナ買ってるわ」とか・・・。(笑)
 まあ、要するに恐れですよ。そんなもの吹き飛ばしてね、「お言葉どおりに」って、どこでも自然体で堂々と福音語ってれば良さそうなものを、なんだかこう、やっぱり自分の思うようにいかないんじゃないかとか、自分中心の思いになっちゃう。出れば、救われた人もいたかもしれないのにね。昨日の番組、私は見られなかったんですけど、でも、ちゃんとどなたか神父さんが出てたって、さっき、聞きましたよ。「お言葉どおりに」って言えた神父ですね。

 皆さんの人生に、日々、いろんな試練やチャレンジがあるでしょう。こういうことはあってほしくない、これだけはヤだな、そんな現実の中で、しかし、恐れずに「はい」と受け入れると、歴史が変わるんです。主を迎えて、多くの人が救われたりもする。
 お手元の、『聖書と典礼』の表紙の絵、ご覧ください。フラ・アンジェリコの「受胎告知」ですね(※3)。聖母が「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)って言っているわけですが、その左上の所に、不思議な絵が描かれてますでしょ。これ、言うまでもなく、失楽園ですね。失楽園っていうのは、ご存じのとおり、アダムとイブが、食べちゃいけないっていう木の実を食べて、楽園を追い出されたっていう神話ですけど、その楽園の門のところに、見張りの天使がいますでしょう? 創世記では3章ですか? 主が、アダムとイブを楽園から追い出して、園の東に天使ケルビムを置いたっていう(cf.創3:24)、その天使です。人類が楽園に戻れなくなったことを現している絵です。
 それにしても、なんで木の実を食べちゃったかっていうと、悪魔が、「神のようなものになれるぞ」ってね、そそのかしたわけでしょ(cf.創3:5)(※4)。この「神のようなものになる」っていうことは、「何でも自分の思うようにする」っていうことじゃないですか。・・・「自分の」思うようにする。だけど、「自分の思い」って言ったって、たかが一人のちっちゃな人間の、ちっちゃな脳みそですからねえ。しかも、いろんな恐れを抱えて怯えてたり、いろんな欲望を抱えてつまらないことを求めたりしてる、そんな貧しい脳みそが、「思うようにしたい」だの「神のようになりたい」だの言う、それがもう、「罪」の根源なんです。
 みんなの幸せをつくっておられる「神さまのお言葉どおりに」って言ってれば、神の国はすぐに現れるのに、人間が、自分のちっちゃい脳みそで「私の思ったとおりに」って言う、それが罪の始まり。アダムとイブは、楽園で、「お言葉どおりに」してればよかったのに、「自分の思ったとおりに」って思っちゃった。それが、失楽園です。その罪は、今も人類のうちにどんどんと膨らんでいって、今、現実に、こういう世の中になってるわけでしょ。でも、神さまは、そういう人間を、なんとかね、もう一度楽園に招き入れようっていうことで、イエスさまを送ってくださったわけですね。
 だから、この絵が語っているのは、左端で、アダムとイブが追い出されて、天使が門番になっているんだけど、右側では、その天使が私たちのうちにやって来て、「もう、救ってあげますよ」って言ってるんです。「すべてを私の思うようにしたい」という思いで苦しんでる人類を、もう一度楽園に戻してあげようっていうことで、天使が来て言うわけですよ、「すべての人を救う、救い主を送りますよ」と。
 だから、聖母は、「お言葉どおり、この身に成りますように」(cf.ルカ1:38)って言うんです。「神のようになりたい」と言うのではなく、「わたしは主のはしためです。わたしは主人ではありません。はしためですから、主人であるあなたのお言葉どおりになりますように」って言うんです。そのひと言で、人類の救いが実現したんですね。失楽園の、終わりの始まりです。「始まり」っていうのは、今、まだ、イエスによるその楽園復帰が完成したわけじゃないですから。でも、明らかに、もう私たちは、この聖母のひと言以降、神さまから救い主を与えられて、救われているんです。新約時代の、救いの歴史です。
 私たちも、やっぱり言わなきゃいけない、「お言葉どおりになりますように」と。たとえば、嫌いな人が現れて、この人いなければいいのにって思っちゃったときでも、「この人も、神さまからの恵みであり、同じ神の子として一緒に生きていくことが大切なんだ。それが私の、そしてみんなの幸せを生み出すんだ」って信じて、その人を受け入れたとき、私たちも聖母マリアとなって主を宿したことになる。そういうふうにして、この世界が、みんなが幸せである神の国に変えられていくっていうプロセスなんですよ。・・・救いの歴史。
 パウロがさっき言ってましたね、「秘められた計画」(ローマ16:25)って(※5)
 「この福音は、世々にわたって隠されていた、『秘められた計画』を啓示するものです」(ibid./カッコ引用者)
 イエス・キリストが来られて、神の愛を証しして、そして、神から離れていたすべての人、ユダヤ人だけではない、異邦人も含め、本当に、「すべての人」をもう一度楽園に招き入れるという、「その計画は今や現された」(ローマ16:26)。これが、クリスマスの喜びっていうことですね。「すべての人」です。失楽園の苦しみは、結局のところ、不平等の苦しみです。つまり、楽園復帰のために、イエス・キリストは、すべての人の救い、すなわち「楽園の平等」を取り戻してくださったのです。

 この、アダムとイブを追い出したときに、神さまが不思議なことを言ってるんですよ。「わたしはお前をこの楽園から追い出して、あなたがそこから取られた土を耕す者とする」(cf.創3:17-19、23)(※6)。「あなたがそこから取られた土」っていうのは、アダムは土からつくられたわけですから、この大自然から生まれてきた命、進化した人類、まあ、そういうこともイメージさせる言葉ですけれども、その、母なる大地を耕させることにする。
 これ、どういうことかっていうとね、楽園では無尽蔵に実る木の実を食べて、自由に大自然の恵みを味わって、みんな平等で幸せだったのに、そこから離れて大自然を支配すると、不平等が生まれ、みんなが苦しむようになるってことです。「土を耕す」っていうのは、「自分の思うとおりにしようとして、苦労して働き、それによって結局はみんなが苦しみを味わう」っていうことのメタファー(隠喩)なんですよ。
 たとえば、現に、森を焼き払って畑にするとか、土壌を自分たちの思うように変えちゃうとか、それは他の生き物にとって不幸なだけじゃなく、結果的に人類を苦しめる原因になってるんですね。しかも、耕し始めると、土地を所有することになり、自分の土地を囲って相続し始め、貯えに差がついて貧富の差が拡大し、今や農薬を撒き散らして自然を汚し、他人の土地を奪うために戦争し、土地を失ったものは地獄を味わうっていう話になっちゃった。
 「土を耕す者」となった人類が、自然に手を加えて、どんどん自分の思うとおりにして、どうなっちゃったかっていうと、その失楽園の結果を、ぼくらは今や、よ~く見て知っているはずですね。もちろん今、これだけの人口がいる中で、農業をやめるっていうわけにはいきませんけど、それでもね、私たちは、本来的に、「自分の思うとおりにしてはいけないんだ」っていう失楽園の本質を、忘れちゃいけないんです。この小さい脳みそで、つかの間、自分の利益になることを求めるんじゃなくて、子々孫々に至るまでのことを、ちゃんと(おもんぱか)って、今の自分の「こうしたい」という思いをコントロールすることをこそ求めるべき。「土を耕させることにする」って、つまりは農業革命のことでしょうけど、それ以降、結局、貧富の差が拡大して、こういう世の中になっちゃったわけですから。
 クリスマスにね、そのことに心を向けて、今日くらいは、「平等」っていうやつをやりましょうよ、ほんの少しでもね。

 私、数えたら、今年、もうすでにクリスマス会を、12回やってるんですね。それだけいろんな集まりをお世話してるっていうことです。で、その集まりはいずれも、私の言葉でいう「福音家族」という集まりですけど、月に一度は「一緒ごはん」を食べている仲です。イエスさまがしていたように、ともかく一緒にごはんを食べることで、「平等である家族」を実現しようっていう集まりですね。
 そのほかにも、昨日は、マザー・テレサの会、「神の愛の宣教者会」のクリスマス・ミサと、クリスマス会に参加しました。昨日は、ホームレスの方に、純粋贈与(見返りを求めない贈与)をする日で、ほんの少しでも「平等」を目指して、ささやかなプレゼントをする日でした。帽子と、靴下と、手袋と、カイロ。で、お弁当に、カップラーメンに、お菓子に、くだもの。それをパックにして、550パック詰めたものを配った。素晴らしいことですよね。それはまさに、「楽園を取り戻そう」っていうチャレンジなんですよ。・・・楽園を取り戻す。「平等」っていうことです。
 そのあと、昨日の夜は、今度、上野で「うぐいす食堂」のクリスマス会をやりました。こちらは、「福音家族」として、「毎月一回、一緒にごはんを食べましょう」って、ホームレスの方を招いての食事会です。毎月、この「うぐいす食堂」の翌日が浅草のミサなので、どうしてもしゃべりたくなって、皆さんは毎月メニューを聞くはめになりますけど、昨日は、メインがビーフストロガノフ。おいしかったです。
 その席で、「でも、山谷って、いいところですよね~」っていう話が出ました。もちろん、生活が厳しい人たちの集まるところですから、問題は多いんだけれど、いいところもあるんですよ。なんかこう、人間的というか、あったかいというか、お互いに助け合うというか、思うようにいかない現実の中で、それでも、お互いに受け入れ合って、小さな神の国を分かち合うところ。やっぱり、ちょっとこう、・・・何でしょう、失楽園のシンボルみたいなピカピカの大都会と違って、楽園の香りがする。
 私の親しくなってきた方で、昨日来るって言ってたのに来られなかった方は、友人の三回忌の集いがあるからって言ってました。とても小さな集いだってことですけど、ホームレス仲間として共に生きてきて、まだ若くして亡くなった仲間の三回忌に、仲間たちが集まって、偲んで、祈って、缶ビールでその夜を過ごすっていう・・・そういう家族的な熱いつながりは、失楽園から楽園に戻るためのとても大切な何かを、私たちに示していると思うんですよ。
 で、「山谷もいいとこですよね」って話になったときに、私の向かいにいたホームレスの方が、ニコニコうなずきながら、ひと言、こう言ったんですよ。
 「そう、そう。あそこは、上下関係がない」
 私、それは、啓示の言葉に聞こえました。
 「上下関係がない」
 ・・・なるほど、楽園は「平等」ですから、「純粋に贈り合うこと」ですから、どちらかが支配して、どちらかが支配される側じゃない。どちらかが命令して、どちらかが従う側じゃない。どちらかが権力を持っていて、どちらかが虐げられるわけじゃない。たとえ貧しくても、み~んな平等。上下関係がない。
 一瞬、楽園の香りが立ち上ったような気がいたしました。

 今日一日、自分が、何かこう、「みんなよりもいい思いをしている」っていうようなことがありましたら、みんなと分かち合ってみましょう。平等こそが、一番楽しくて、あったかくて、楽園の安らぎがあるっていう思いを持って、小さな工夫をしてみましょう。私も、がんばります。そうして、爽やかに、「お言葉どおりになりますように」と神さまに申し上げ、面倒なこと、痛いことも受け入れて、この夜、主を迎えることといたします。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「なにしろ、『お言葉どおり、この身に成りますように』 (ルカ1:38) っていう」
この日、2017年12月24日(待降節第4主日)の福音朗読箇所(以下)から。
 ルカによる福音(ルカによる福音書)1章26~38節
  〈小見出し:「イエスの誕生が予告される」〉
===(あらすじと参考個所)===
 天使ガブリエルが、ナザレというガリラヤの町のおとめのもとに、神から遣わされた。彼女は、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけ」で、マリアといった。天使は彼女に、「あなたは身ごもって男の子を生む」と、そしてその子は「いと高き方の子」と呼ばれると告げた。とまどう彼女に、天使は、「神にできないことは何一つない」と伝えると、
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。そこで、天使は去って行った。 (ルカ1:26~38/赤字引用者)
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※2:「『ジョブチューン』っていう番組」
 毎週土曜日の夜に放送されるTBSのバラエティ番組。
 さまざまな職業のプロフェッショナルが、自らの「職業の秘密をぶっちゃける」という独特のスタイルの新型職業情報バラエティ。 (「ジョブチューン」HPより)
 2017年12月23日(土)には、「コレを見ればすぐに分かる!! お寺・神社・教会への国民のギモンすべて解決!!3時間スペシャル」と題し、お坊さん、神主さん、牧師さん、神父さんが呼ばれて、さまざまな疑問に答えた。キリスト教からは、プロテスタントの学者でもある森本あんり牧師先生、カトリックからは、御受難会士でもある来住英俊(きし・ひでとし)神父さまが出演。
(参考)
・ 「2017年12月23日『お寺・神社・教会への国民のギモンすべて解決!3時間スペシャル!』
・・・「ジョブチューン アノ職業のヒミツ ぶっちゃけます!」(番組HP「過去の放送内容」より)
・ 森本 あんり(男性/1956年-)牧師:「ウィキペディア」「ご自身サイト
・ 来住 英俊(きし・ひでとし/1951年-)神父:「ウィキペディア」「祈りの学校
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※3:「お手元の、『聖書と典礼』の表紙の絵、ご覧ください。フラ・アンジェリコの『受胎告知』ですね」
 この日に会衆に配られた『聖書と典礼』の表紙は、初期ルネサンス期のイタリア人画家、フラ・アンジェリコ (1390年/1395年頃~1455年) 作のテンペラ画、『受胎告知』 (1431-35年/プラド美術館) が飾った。
(画像はパブリックドメイン〈著作権保護期間終了〉20171224
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※4:「悪魔が、『神のようなものになれるぞ』ってね、そそのかしたわけでしょ (cf.創3:5)
===(聖書参考個所)===
 
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 (創世記3:4~5/赤字引用者)
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※5:「パウロがさっき言ってましたね、『秘められた計画』 (ローマ16:25) って」
この日、2017年12月24日(待降節第4主日)の第2朗読個所(以下)から。
 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマの信徒への手紙)16章25~27節
  〈小見出し:「神への賛美」〉
===(聖書参考個所)===
 
神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。 (ローマ16:25~26/赤字引用者)
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※6:「この、アダムとイブを追い出したときに、神さまが不思議なことを言ってるんですよ。『わたしはお前をこの楽園から追い出して、あなたがそこから取られた土を耕す者とする』(cf.創3:17-19、23)
===(聖書参考個所①)===
 
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に。 お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:17~19)
===(聖書参考個所②)===
 
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 (創世記3:23/赤字引用者)
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2017年12月24日(日) 録音/2018年1月16日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英