はい、ここにおります

【カトリック浅草教会】

2018年3月25日 受難の主日(枝の主日)
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ50・4-7)
・ 第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
・ 福音朗読:マルコによる主イエス・キリストの受難(マルコ15・1-39)

【晴佐久神父様 説教】

 聖週間(※1)、始まりました。
 よいお天気で、今日はちょうど教会の庭の桜も満開で、先ほどの枝の行列の時(※2)、信じる者たちがみんな満開の桜の下に一つになって集まって。・・・美しいひとときでありました。気持ちよかったし、それをまた、道行く人たちが不思議そうに見ているのも、私はうれしかったです。いい宣伝の機会ですし。なかなか、庭からの行列って難しいですからね、久しぶりでした、枝の日の行列。
 外でマイクを握るっていうのも、なかなかうれしいもので、道行く人が聞いてるんですよね。皆さんは私の方を見てたから分かんないでしょうけど、皆さんの後ろで、何人か足を止めて、「何やってんだろう・・・」って感じで(のぞ)いてましたよ。だから、私、そういう性分でもありますから、ついつい、その人向けに分かりやすくお話ししました。(笑) ね、先ほど庭で話してましたでしょう。あれは、実は、道行く人向けでもあったんです。「2018年の聖週間が始まりました! 復活祭に向けて、闇から光へ、死からいのちへ、絶望から希望へと向かう一週間です。神は、すべての人を愛しています。私たちは、主の復活によって、その愛に目覚めた仲間たちです。・・・かっこ(道で聞いてるあなたも仲間になりませんか?)かっこ閉じる」って、(笑)なるわけですよ。
 皆さんは信じないかもしれないけど、私ホントに、人前で話すことは好きではないんです。(笑) ・・・ホントなんです。(笑) だけど、福音を語ると、目の前で人が救われちゃうんですよ。だから語らざるを得ない。いつか、秋葉原の駅前でマイク握るべきなのかも。「ホントにあなたは救われているんです!」と、「イエスが救い主なんです!」と、「信じてください!」と、まごころ込めて、暗い顔して歩いている大勢の人たちに。・・・まあ、それがキリスト教ですから。隠しておくもんじゃない。やっぱり、みんなを救う宗教ですから。そのために自分の時間を使い、労力を使って、みんなのため、みんなの救いのために何か捧げる、・・・って、これ、キリスト教の本質中の本質です。

 さっきの朗読で、祭司長たちや律法学者たちがイエスを侮辱して、「他人は救ったのに、自分は救えない」(マルコ15:31)って言ってるじゃないですか(※3)。これ、よくぞ言ったもんです。「普通は、まず自分を救うだろ」と。それが当たり前の世界を生きてるんですね、祭司長や律法学者たちは。「まずは、自分を救うもんだ。他人を救っている場合じゃないだろ。そんなの当たり前じゃないか」と、そう思ってる。でも、その「当たり前」は、神のみ前では当たり前じゃない。み~んな神の子であり、家族なんであり、まず、「まず」、自分よりも他人を救う。それが当たり前の世界になったら、突然、この世は天国になるんじゃないですか。なんか、やっぱり、そういう世界を夢見るし、イエスさまが、まさにそれをお始めになったんだな~って、心新たにして、人を救うチャレンジをする。
 すべては、あのイエスさまから始まったんです。神はすべての人を愛しておられるし、必ず救ってくださる。あとは、それを知らずに苦しんでいる人たちに、「神の愛を分かってくれ!」って、イエスさまはまず、自らの命さえも神の愛の(あか)しとして差し出す。で、さらには、・・・弟子たちに、「お前たちも、この救いの(わざ)を受け継いでくれ!」と、その使命を託したし、弟子たちは「はい!」と答えて、復活の主と共に、世界中に出発していったわけですよね。まさに聖週間は、そこから福音が広がっていく、キリスト教の原点なんです。あのイエスの愛があったから、死があったから、復活があったから、私たちも今日ここにいるわけですけど、いくらイエスの愛と死と復活があったって、それを誰も受け継がなかったら、それで終わりじゃないですか。それを証しする大勢の弟子たちがあとに続いたからこそ二千年間やってきたし、私たちもここに集まってるんです。
 聖週間は、私たちも「はい!」と答えて出て行こう、苦しんでる人を救おう、みんなに福音を伝えようっていう勇気を新たにする一週間です。もし、今日ここにいる全員が、今後それを一度もやらずに一生を終わったら、この教会は消えちゃうんですよ。誰かが弟子を引き継がないと。まあ、秋葉原でマイクとまでは言いませんけど、せめて身近な人にひと言、伝えてあげたい。

 先週、「リフォユース500」(※4)っていう大きな青年大会があって、私、そこにメッセンジャーとして呼ばれて行きました。「リフォユース500」っていうのは、宗教改革500周年を記念したイベントです。プロテスタントの青年大会を開こうってことでね、渋谷の青山学院の大きなホールに、千人以上若者たちが集まってました。あれだけ青年たちが集まると、やっぱり、高揚感があるというか、なんか私もうれしくなって、夢中になってしゃべりました。
 特筆すべきは、福音派の教会と日本基督教団との合同主催だったってことです。こんなこと、今までなかった。プロテスタントは、大きく分けて福音派と教団派とに分かれてますけど、それが「一緒にやった」っていうのがすごいんですよ。特に若手の牧師たちが、お互いに、「この時代に、もはや分かれている場合じゃないね」ということで、特に若い人たちにそういう姿を見せようってことでね。まあ、大変な準備だったみたいですけど。そこに、カトリックの神父も呼んだわけです。
 だから、私、あの集いはうれしかった。「これ、もう教会みたいですね」ってお話したんですよ。「みんな、選ばれてるんです!」と、「今日ここに来ているっていうだけでも、もう神さまから選ばれてるんだし、キリスト者として、信者であろうがなかろうが、もうみんな、ここに集まっただけで、洗礼受けているようなもんだ」と、「キリスト者として、この福音を、『あなたは救われている』『愛されている』『その苦しみは喜びに変わるんだ』というこの福音の基本中の基本を、ちゃんとみんなに伝えようよ」と、そんな思いでお話ししました。で、こうも言いました。
 「みんなそれぞれ、何派だとか、どこそこ教会だとかに所属しているわけでしょうけれど、現に、今日ここに一緒に集まっているぼくたち、もはや一つの教会じゃないですか。なんならこのまま、この教会を始めちゃいましょうか?」って。みんな笑ってましたけど。もちろん、みんなそれぞれの教会があって、それはそれで尊いし大事にすべきでしょうけど、あれだけの若者たちがキリストを信じて集まって、そして、福音の歌をみんなでね、「主を信じよう」「主を賛美しよう」「私を遣わしてください」って声を合わせて歌ってるのって、すごくうれしかったし、これからの教会の一つの可能性を見た思いでした。

 私、そこで、ついつい、今の自分のつらい思いをお話したんですよ。その大会のあった3月21日は、私にとっては大切な日で、本当は山口に行かなきゃならなかったんです。でも、まあ、このリフォユースの依頼の方が先にあったので、行けないでいる、そのつらい思いを、正直に皆さんにお話ししました。というのは、ちょうどそのリフォユースをやっている同じ時間に、山口で広島教区の司祭叙階式があったんです(※5)。そこで叙階した神父、実は、私の息子なんですよ。・・・おお、爆弾発言!(笑) 息子がいたのか! ・・・いるんですよ~。もちろん、生物学的にはつながってませんけどね。育ての親といえばいいのかな。ともかく「息子」というしかない、大切な家族です。
 彼に最初に会ったのは、もう10年以上前ですが、高円寺教会のミサの後、聖堂を出た階段を下りていくと、階段の端っこにしゃがんでいる、ひとりの二十歳(はたち)そこそこの青年がいた。捨てられた子犬みたいな顔でね、こっちを見上げるんですよ。・・・忘れないですね。あの存在感というか、なんかもう、ほっとけない感じ。思わず、「どこから来たの?」みたいに声掛けました。
 その彼は、私の『星言葉』(※6)っていう本を読んで、とても感銘を受けたそうで、島根からわざわざ会いにやって来たんです。そうして、教会の近くにアパートを借りて、教会の仲間たちと交わり、毎週、私の説教を聴き続け、やがて、「神学校に入りたい」と言い出した。東京に出てきたときは、神父になりたいなんて、本人も思ってませんし、こっちもまさかと思ってました。でも、福音に触れて、みるみる変わった。彼はホントによく福音を聴いていました。本気で聴いてる人って、話している方も分かります。・・・彼は真剣に聴いたし、学んだし、自分の言葉にして語ってもおりました。神学校に入るって言い出した時、私は推薦司祭になりました。
 その彼は、どこか私に似てるところがあるんですよ、言うこと、やること。当然、悪いところもよく似てる。(笑) 神学校での彼の評価は、あまりよろしくなかったんですね。・・・私もそうでした。ただ、私の場合は、運よくというか、「白柳枢機卿」っていう、この世にこれ以上優しい人はいないっていう当時の枢機卿様のおかげで、「叙階します」と。・・・で、「やった~!\(^◇^)/」みたいなね。(笑)
 で、彼は、助祭にはなったんだけれども、司祭にはなれなかったんです。それで、地元の広島教区に移って、そこで助祭として働き始めました。
 こっちもやっぱり親目線ですから、息子がちゃんと神父になってくれたら、きっとなってくれると、もうそう信じて祈り続けてましたし、ず~っと励まし続けてきました。でも、何年たってもなれなかったんです。その彼がこのたび、ついに、司祭叙階することになったわけですよ。
 だから、その彼の叙階式に出るっていうのは、自分の娘の結婚式に出るくらいの気持ちなんですね、・・・お分かりになりますでしょ、だって私、血縁上の子どもはいないんだから。一度くらい、そんなわが子の晴れ姿、見たいじゃないですか。ホントに行きたかったんですよ、叙階式に。
 ところが、叙階式の当日の3月21日に、このリフォユースを引き受けざるを得なくなった。もちろん、素晴らしい集まりですしね、仕方がないことです。でも、ともかく、とっても残念だったんです。
 ですから、リフォユース当日、その話をしたんですよ、メッセージの中で。特に、この前、その彼が上野教会に現れて、ミサの後、みんなの前であいさつしてくれたときのことをお話ししました。
 先日、彼が上野教会に突然現れたんですね。何しに来たんだろうって思ってたら、いよいよ自分も神父になるにあたり、お師匠のミサを見学に来た、と。(笑) まあ、今までも繰り返し私のミサには出ていたわけですけど、いよいよ自分が捧げるにあたって、改めて、パパのミサをきちんと見学しようと。そういうところ、彼らしいです。・・・真剣ですよ。それを聞いて、うれしくはありました。
 そのときに、ミサの後であいさつしたんですけど、そのしゃべり口も、なんだか私に似てるんですよ。(笑) 彼、助祭時代が長かったわけですけど、助祭も説教しますから、説教は何度もしているんですが、よく言われてるんですね、「晴佐久神父がしゃべってるのかと思った」って。
 まあ、信仰の遺伝子ってのがあるのかもしれないですけど、ともかく、彼がそのあいさつで言ったことに、私、感動しました。
 「自分はもう神父になれないかもって、何度もあきらめかけました。でもそのたびに、晴佐久神父から言われた言葉を思い出して、それを支えに今日までやってきた。それは、『あなたを神父にするのは神であって、神が望んでおられるのなら、誰もじゃまができない。神が望めば必ず叙階できる。だから、神がこの私を望んでいると、ただそれだけを信じなさい』という言葉です。私は、それを支えに、それを信じ続けて来て、このたび、神の望みによって叙階することになりました」と。
 彼、これから、いい働きをしますよ。確かに、私に似て、弱いところをたくさん抱えているんだけど、でも、この数年、助祭として素晴らしい働きをしてるんです。「あの助祭に救われた」「あの助祭のおかげで洗礼を受けた」「あの助祭に会えたおかげで・・・」なんていう話が、私の耳にも、次々入ってくるんですよ。あるときなんか、彼の説教が終わったとき、拍手が起こったなんていう話まで耳に入ってくる。私、説教の後で拍手なんかしてもらったことないですよ。(笑) そういううわさを聞いて、「ああ、いい仕事してるな。神さま、ホントにあいつを使ってるんだな」「神の望みを信じ続けろよ。だいじょうぶだ!」って、ずっとそういう思いで祈ってた。
 まあ、そんなわけで、彼の叙階式には出られなかったけど、リフォユースが終わってからすぐに羽田から飛行機に乗って、その夜には顔を出せました。山口のザビエル教会で叙階式があったんですけど、叙階式のお祝いが終わるころに駆け付けた。本人がね、「あっ! はれれちゃ~ん!」とかって、(笑) うれしそうに駆け寄ってくれたんで、私、彼の前にひざまずいて、「新司祭の祝福をお願いします」って。・・・新司祭の祝福、特別な恵みがありますからね。彼、恥ずかしそうにね、私の頭に手を置いて、祝福してくれました。
 翌日は、彼の初ミサに(あずか)って、一緒に祭壇を囲むことができて、いやもう、感無量でしたよ。彼も感動してるでしょうけど、そこはやっぱり、親目線の方が感無量ですよ。あいさつしてくれって言うんで、初ミサの最後に、あいさつしました。
 「私、息子が神父になるまでは、死ぬに死ねないって思ってた。でも、もうこれで安心して、『私は安らかに去らせていただきます』(cf.ルカ2:29)と、(笑) そういう気持ちです」って。そして、彼の初ミサでの説教についてもお話ししました。
 彼は、その初ミサの説教で、イザヤの召命のシーン(※7)を引用してたんですね。イザヤが召命を受けたときに、神さまが「誰を遣わすべきか」(イザヤ6:8)って言ったら、イザヤがこう答えるところです。
 「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6:8)
 神がある人を選び、その人が「わたしがここにおります」って答える。これが、神にしてみれば、世界を救う一番いい方法なんですね。神が救うっていうのは、それはそうなんだけど、神は直接この世界に手を出すのではなく、この「わたし」を選び、この「わたし」を通して働く。ですから、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」っていうのが、本当に重要になるわけです。「あなたがお望みなら、わたしは働けます」「あなたが働けば、みんな救われます」「こんなわたしだけれど、失敗も多く、問題多く、何年たっても神父になれないけれど、でも、わたしがここにおります」と彼は言い続けたし、神はそれを用いてくださるんです。それで、叙階式の記念の自分で作ったカードに、「わたしがここにおります」って書いてあるんですよ。
 「わたしが、ここにおります」
 そんな思いを、彼が初ミサの説教で話してたとき、私、はたと思い出した。彼と最初に会ったとき、階段の下でしゃがんでいて、こっちを見上げたとき、その目が何を言ってたのか。そうだ、あれは、「わたしがここにおります」って言ってたんだ、と。
 そのことを、ごあいさつの中でお話ししました。

 皆さんのことでもあるんですよ。「わたしがここにおります」って、それをホントに神さまに捧げたとき、「そんなあなたを、わたしが使う」と、神さまが用いてくださる。それ以外に、別に何もいらないんです。神がお望みなら、誰もじゃまできない。誰も反対できない。私もそれだけを頼りに、こんなんですけど、今までやってきた。まあ、「もうこれで、安らかに去れる」とは思いましたけど、正直言えば、あの息子がこれからどんな素晴らしい働きをするかを、もう少し見ていきたいなと、心からそう願わずにはいられない。

 聖週間、これは、神が私たちを復活の世界に向かって呼び出すときです。
 特に洗礼を準備している方を、私も呼び出しますよ。洗礼式で、お名前を呼んだら、「はい」と言って前に出て来てください。
 叙階式のときも、そうやって呼ばれて出て来るんですね。初ミサの説教で、彼はこうも言ってました。「洗礼式や叙階式の典礼で呼び出しするとき、日本では、ただ『はい』って答えるけれど、世界中どこでも、実は、このイザヤの言葉で返事をしている」と。
 つまり、たとえば「司祭に叙階される人は前に出てください。晴佐久昌英、東京教区」とかって呼ぶと、日本では、「はい!」ってひとこと答えるだけですけど、本来は、「わたしがここにおります」って答えるんですよ。
 「わたしが・ここに・おります」
 今年の洗礼式、それでやりましょうか。(笑) 日本語では、「わたし」っていう主語を省いた方が美しいですから、「はい、ここにおります」がいいんじゃないかな。
 「はい、ここにおります」
 神さまは、呼びかけています。すべての人に。
 今日も、ご自分の働きを実現するために、あなたの名を呼んでいます。
 皆さんも、今日、ここで、答えてください、「はい、ここにおります」と。
 そのひと言によって、神の国が始まるんです。       (拍手)


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「聖週間」 (既出)
 受難の主日(枝の主日)から始まる復活の主日(復活祭/イースター)直前の1週間。「受難週」「聖週」とも呼ばれる。
 〔 2018年の受難の主日は、3月25日(日)* 復活の主日は、4月1日(日)〕
 受難と死を通して復活の栄光を受けたキリストの過越(すぎこし)を記念する典礼が行われる。    (文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
 特に木曜日の晩から始まる三日間は「
聖なる過越の三日間」と呼ばれ、教会暦で最も重要な三日間になっている。
聖週間中の特徴的な典礼
 
受難の主日(枝の主日): 枝の行列(イエスのエルサレム入場の記念)と、受難の朗読
 ++聖なる過越の三日間++
 
聖木曜日(主の晩さんの夕べのミサ): 最後の晩さんの記念(聖体の制定、洗足式)
 
聖金曜日(主の受難): 主の受難の典礼(受難の朗読、十字架の礼拝)
 
復活徹夜祭(復活の聖なる徹夜祭)聖土曜日の晩(教会暦上はすでに翌日の復活の主日)
  ①光の祭儀(あかりをともして主の帰りを待つ)
  ②ことば祭儀(天地創造からキリストの復活に至る救いの歴史の聖書朗読)
  ③洗礼式
  ④感謝の祭儀(主が死と復活を通して準備された食卓に招かれる)
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「過越の聖なる三日間と復活とは?」(カトリック中央協議会)
・ 「2018年 四旬節教皇メッセージ(2018.2.14)」(カトリック中央協議会) 他
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※2:「先ほどの枝の行列の時」
 この日は、「受難の主日」や「枝の主日」と呼ばれる日にあたり、通常のミサの開祭部分で、主イエスのエルサレム入城を記念した。
 これは、過越祭にあたり、子ろばに乗ってエルサレムに入るイエスを、群衆がナツメヤシ(「シュロ」の翻訳あり)の枝を手に、賛美しながら迎えた (ヨハネ12:12〜15) ことに因んで行われる。
 現在は、会衆全員がシュロやソテツの枝を持って、ミサが行われる聖堂まで、少し離れた場所から行列したり、聖堂の入り口から、司祭と奉仕者たちが代表で入堂したりする。
(参考)
・ 「枝の行列と祝福」(『聖書と典礼』2018.3.25オリエンス宗教研究所、受難の主日 (枝の主日) B年)
・ 「四旬節:受難の主日(枝の主日)」(四旬節-典礼の特徴、カトリック中央協議会)
・ 「B年 四旬節 受難の主日」(ラウダーテ)
・ 「枝の主日」(「コラム」:聖パウロ修道会)
・ 「枝の主日」(ウィキペディア)
・ 「受難の主日」(「岩波キリスト教辞典」岩波書店、2008)
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※3:「さっきの朗読で、祭司長たちや律法学者たちがイエスを侮辱して、『他人は救ったのに、自分は救えない』(マルコ15:31)って言ってるじゃないですか」
この日、2018年3月25日(受難の主日/枝の主日)の福音朗読箇所より。
 マルコによる主イエス・キリストの受難(マルコによる福音書)15章1~39節
  〈小見出し:「ピラトから尋問される」「死刑の判決を受ける」「兵士から侮辱される」「十字架につけられる」「イエスの死」〉
===(聖書参考個所)===
 
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。 (マルコ15:31-32/赤字引用者)
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※4:「リフォユース500」
 2018年3月21日、宗教改革500年を記念して開催された、超教派の若者たちの大会。千人以上が集まった。前夜祭は東京山手教会、ユースカンファレンスは青山学院大学の礼拝堂で行われた。礼拝堂には入りきれず、立ち見のほか、学食の大型スクリーンで、共に礼拝を捧げる盛況ぶりだった。
 アーティストなどのゲストや、メッセンジャーとして、日本基督教団の小林克哉牧師、日本福音ルーテル教会の関野和寛牧師、キリスト者学生会 KGK総主事の大嶋重徳牧師、カトリック教会の晴佐久神父が招かれた。
(参考)
・ 「リフォユース500」(オフィシャルサイト)
・ 「リフォユース500 ユースカンファレンス-青年大会」(フェイスブック) ほか
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※5:「山口で広島教区の司祭叙階式があったんです」
 2018年3月21日、 カトリック山口教会(山口サビエル記念聖堂)で、アレキシオ白浜満司教の主司式による、司祭・助祭叙階ミサが行われた。
 司祭受階者は、ヘルマン・ヨセフ大西勇史助祭。助祭受階者は、ヨセフ久保裕己神学生。
(参考)
・ 「2018年03月21日 司祭・助祭叙階式ミサ」(カトリック広島教区 平和の使徒推進本部)
・ 「2018年03月21日司祭・助祭叙階ミサ(音声処理版)」(YouTube) など
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※6:『星言葉』
hoshikotoba
著 者: 晴佐久昌英神父
単行本: 109ページ
出版社: 女子パウロ会 (1997/01)
発売日: 1997/01
価 格: ¥1,080
商品説明: 愛する、謝る、待つ、病む、死ぬ…この星に生まれたあなたへ、きょうを変える50の動詞。(「BOOK」データベースより)
※ 購入をご希望の方は、お近くのキリスト教書店や、AmazonShop Pauline(女子パウロ会)などをご利用ください。
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※7:「イザヤの召命のシーン」
◎「召命」 (しょうめい)〔ラ〕vocatio 〔英〕vocation (詳細は>既出)
 神から召されて特別の使命を与えられること。
 ここでは、カトリック教会で、狭義においての召命を意味し、神に呼ばれて司祭、助祭、修道者など教会の聖職者、修道士、修道女など修道者としての使命を与えられることを意味している。
(参考)
・ 「召命」(ウィキペディア) 
・ 「召命-種々の道」(カトリック召命チーム)
・ 「世界召命祈願の日」(キリスト教マメ知識: ラウダーテ) (文中に戻る)
・ イザヤの召命のシーン: 預言者イザヤの召命は、イザヤ書6章1~13節に記されている。
===(聖書参考個所)===
 
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。
 主は言われた。「
行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな」と。 (イザヤ6:8-9/赤字引用者)
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2018年3月25日(日) 録音/2018年5月17日掲載
(C)2018 晴佐久昌英