神さまが授ける

【カトリック上野教会】

2018年4月1日 復活の主日
・ 第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録10・34a、37-43)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント5・6b-8)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・1-9)

【晴佐久神父様 説教】

 さてさて、いよいよ洗礼式。復活祭の今日、8名の方が洗礼を受けます。昨日は浅草教会の復活徹夜祭で6名の方が洗礼を受けました。上野の方がちょっと多かった。去年は浅草9名、上野4名で、浅草の方が多かった。さて、来年はどうでしょうか。
 切磋琢磨(せっさたくま)っていうか、まあ、数字はどうでもいいんですが、両教会とも、求道者を、教会を挙げていっそうお迎えし、おもてなしをして、みんなを洗礼に導き、家族として迎え入れて、来年もまたお祝いをしましょう。これはもう、教会で一番大切な、重要な出来事です。皆さんのお家でもね、その家庭における一番の出来事っていったら、やっぱり赤ちゃんの誕生でしょう? もちろん他にも、合格とかね、就職とか、いろいろあるでしょうけど、やっぱりその家で一番大きな出来事は、新たに子どもが生まれることじゃないですか? 生れる前と後では、もうぜんぜん違う。
 われらがカトリック上野教会、今日は八つ子とでもいいましょうか、一挙に八人の赤ちゃんたちを迎えて、大いに喜んでいます。まあ、受洗者も喜んではいるんでしょうけど、赤ちゃんのことを考えれば、迎えた家族の方が喜んでるでしょ。赤ちゃんは、まだよく分からずに、ただ泣いてるだけ。でも、それでいいんじゃないですか? まだよく分からないがままに、「おぎゃあ」と。
 このあと、洗礼式の始めに、洗礼志願者の皆さんのお名前を呼んだ時に、「はいっ!」って答えて、前に出て来ていただきますけど、赤ちゃんで言えば、それがまあ、「おぎゃあ」みたいなもんですね。実は、まだその誕生について、本人はよく分かっていない。それでいいんです。しかし、洗礼を受けて、5年、10年、中には50年、中には80年、そういう方は、もう分かっているはず。洗礼の恵みがどれほど大きいか、そして、新たに赤ちゃんが生まれてくれることが、どれほどうれしいことなのかを。赤ちゃんが生まれてこなかったら、どんな家族も、最後の一人が亡くなったら、消えちゃうんですよ。・・・当たり前の話ですね。でも、赤ちゃんが生まれ続けてくれれば、そこに、また新しい恵みの世界が広がっていく。
 世の中には、受洗者ゼロっていう教会がいっぱいありますけど、それは本当にさみしい復活祭です。

 普通は復活徹夜祭に洗礼式をするんですけど、去年は上野が復活徹夜祭の洗礼式で、浅草が復活祭の洗礼式でしたから、今年は逆。来年、また、こちらで復活徹夜祭での洗礼式をやりましょう。一年ごとに交代です。
 復活徹夜祭、昨日は上野は別の神父さんが代わりに来られました。その神父さんに洗礼式をしていただいてもよかったんですが、私はたっての願いで、「自分でやりたい」と。(笑) まあ、それは単なるわがままというか・・・。だけどね、分かってください。一司祭にとって、洗礼式で洗礼を授けるのは、本当に大きな喜びなんです。手塩にかけたって言うのは、ちょっとまあ、大げさかもしれませんけど、いろいろお世話した方たちに聖なるお水をかけるって、これは大~きな誇り、喜び、「よくぞ司祭になりにけり」みたいなものなんですよ。また、洗礼を受ける方たちにも、「よくぞキリスト者になりにけり」っていう日なんです、この日。だから、その瞬間はやっぱりお世話したいなという思いで、復活祭、この主日の洗礼式っていうことになる。
 上野では珍しいんじゃないですか? 復活祭の洗礼式。これがでも、なかなか、それなりにいいもんなんですよ。っていうのは、復活徹夜祭って、案外、参加者が少ないんですね。まあ、一部の信者さんでやってるわけでしょ。でも、復活祭は、その教会の方がみんな揃って、全員集合でもないですけど、「家族みんな揃いました!」っていう日ですから、その中で、「おぎゃあ」。ちょうど、ご主人がね、妻の出産に立ち会うっていうの、あるじゃないですか。そんな感じで、今日、皆さん、家族として、立ち会うんです。まだ、ちゃんと生まれてくるかどうか分からず、ドキドキしているみたいに、祈りを込めて立ち会います。洗礼のお水、それこそ産湯(うぶゆ)みたいなもんですけど、じゃばじゃばっと、こう、お水をかけて、そして、神の子として新たに生まれる。・・・どれほどの恵みか。

 ただ、これだけは申し上げておきたい。この恵みはですね、私が授けるんでも、あなたが受けるんでもない。「神が」授けるんです。これは、すごいことです。
 まあ、本人が決心したり、私がお世話したりはしますよ。入門係も丁寧にね、ホントにおもてなしをしました。それで言うなら、まあ、難産っていうか、いろいろ迷った人もいましたよね。・・・そこに座っているあなたも、ずいぶん、いろいろ言ってましたよね、そういえば。(笑) 次々と、いろいろ質問もしてたじゃないですか。私はそれに丁寧に答えながらも、実は、心の中では、「信仰は理屈じゃないよ」って思ってたんですよ。いくら質問して、いくら答えたところで、疑問がなくなることはないし、頭でどれだけ理解できても、それが信仰を生むわけではありませんから。
 まあ、皆さんにいろいろと教えましたし、質問にも丁寧に答えてきたつもりですけど、信仰の一番の本質は、そういうことじゃないんですよ。理解して、決心して、努力して、受け入れて、・・・そういう人間的な力によるものではない。勉強して、覚えて、合格してみたいな試験なんかとも、ぜんぜん違う。だって、「誕生」ってそうじゃないですか。赤ちゃんが、何の勉強しましたか? 赤ちゃんが、どれだけ努力しましたか? あれは、生まれちゃうもんなんですよ。神がなさっている。
 赤ちゃんが勝手に生まれてくるんじゃない。お母さんが生むんです。お母さんが陣痛で苦しんで、最後はエイヤー!と、(笑) 産むわけでしょう。まあ、産むときがどうなのか、私、知りませんけど、だって、立ち会ったことないですから。当たり前ですが。赤ちゃんって、お母さんが生むんです。神さまが生んでるんですよ。神さまがお望みになって、子どもを宿し、神さまがお望みになって、しかるべきときに産むんです。神さまがなさっておられることに、間違いはない。今、これから受洗する8人の方の、この洗礼式は、その意味では、神のみ(わざ)の目に見えるしるしであって、われわれは、そこに励まされる。
 私たち人間、自分の決心とか努力とか、もうそんなの、大したことじゃないですよ、皆さん。頑張るのも悪いことじゃないし、まあ、それなりに頑張りましょう。でも、頑張れないときもあるじゃないですか。自分の力ではどうしようもないっていう闇をご存じでしょ? そんなときに、あと、何を頑張るんですか?
 神さまが、人を救うんです。その神さまは、間違えることがない。見捨てることがない。必ず、・・・必ず、ご自分の思ったとおりに、ちゃんとなさる。
 洗礼式っていうのは、だから、本当に、その神さまのみ業が、今、ここで実現しているっていうことであり、私たちは、その証人なんです。・・・「復活」って、実はそういうことなんですよ。
 今読んだ、聖書の言葉の最後、読みましたでしょ(※1)。「二人はまだ理解していなかったのである」(ヨハネ20:9)ってあるじゃないですか。私、この個所、好きなんですよね。弟子たちも、この女性たちも、何にも分かってないんです。まったく分かってない。私たちはね、もう復活祭が何十回目だったりして、聖書でも、「イエスは復活された。それはこういういきさつだ」なんて読んでますから、「へえ、なんでペトロは気づかないんだろう」とかって思ってるかもしれませんけど、本人たちにしてみたら、「復活」なんていうことを一度も聞いたこともないし、まるで分かっちゃいないんですよ。よもや、死んだイエスにまた会うなんていうことは、0.01パーセントも思ってないんです。
 女性たちが墓に行きました。蓋が取りのけられていました。慌てて帰ってきて、「遺体がないんです!」って言うでしょ(cf.ヨハネ20:2)。心のどこかでね、「もしかして、復活なさったのかしら」なんて、まったく思ってないですよ。そんな希望、ゼロです、ゼロ。
 あるいは、ペトロと、これ、走ってたのは、たぶんヨハネだって言われてますけど、二人がね、墓に走って行った(cf.ヨハネ20:3-4)。「何が起こったんだ?? ・・・もしかして、主は復活なさったか!?」だなんて、いやもう、かけらも思ってない。「まだ理解していなかったのである」(ヨハネ20:9)って、ちゃんと、本人たちの証言として、聖書に残ってるわけですよ。・・・ゼロなんです。皆さんが闇を味わった、あの時のことと同じなんです。その闇の底では、その後、こんな救いの日が来るなんて思ってなかったでしょ。でも、神は、一方的に、圧倒的に、復活を実現させます。これは、私たちの努力じゃない。止めようもないことです。

 先週、お花見しましたけど、天下の上野公園、すごかったですよ。ちょうど満開の下で、みんなでワイワイ。楽しいですね。ホントに幸いな行事です。日本人は桜、大好き。宴会、大好き。桜の下での宴会は、もう大大大好き! そのお花見、私も、学生たちと楽しくやりましたけど、あの桜の満開の様子って、あれ、なんであんなにうれしいのか、なんでこんなに美しいのか、なんでこんなに喜ばしいのかっていったら、もう、圧倒的に、神の(わざ)だからなんですね。もちろん、普通の人は、それが神の業だとかまでは思ってませんけれど、実は、そういうことなんですよ。だって、満開の桜なんて、誰かがつくったもんじゃないですから。誰かが、さあ、それじゃあ咲かせましょうって言って、咲かせることができるもんでもない。
 でも、面白いですね、桜って。なんで一斉に咲くんですかね。なんで一斉に咲くんですか? 開花日っていったら、まあ、申し合わせたように咲きますよね。お互いに、暗号かなんかで、「いいかい? 今年は4月1日だよ」とか連絡しあって、(笑) で、みんなで、「さあ今日だ! せ~のっ!」とか、なんか、そうとしか思えないくらい、(笑) 通じ合ってますよね。・・・不思議に思いませんか? でも、ぜんぜん不思議じゃないんです。なぜ不思議じゃないかというと、あれは、自分で咲いてるからじゃないからです。大自然が、咲かせてるんです。
 各々の木がですよ、なんかこう、「俺は栄養たっぷりだから、早く咲くぞ」とか、「ちょっと寒いから、寒がりの私はもう少し後で」とか、そんな個人個人、一本一本の思いを持ってたら、そろうわけがない。あれは、いのち全体が、「せ~の!」で、やってるんです。神の業ってことですよね。
 洗礼式で、8本の木がこれから満開になりますけど、それは、自分でね、「さあ、咲くぞ!」って言ったわけじゃないんですよ。神さまが復活させたんです。・・・そう、「復活させた」ということは、死んでたんです。ありえないことが起こってるんです。桜だって、あれ、地球のことをまったく知らない異星人がやって来て、冬に桜の木を見たら、「何だろう、このモサモサした、細い棒の塊は・・・」って思うでしょうね。春になったら、そこに満開のピンクの花を付けるなんて、想像もしないでしょう、エイリアンならね。でも、われわれは知ってます。人間には思いもよらない、神の業の素晴らしさを。
 ・・・おんなじことですよ。まだ、私たちは、洗礼を受けた後のことを、ぜんぜん分かってないんです。この先、どんなに素晴らしいことが起こるかっていうことを。洗礼を受ける人たちも、まだ分かってないんです。これから、どんなに美しく、どんなに尊い神の業が、皆さんの、その人生に咲き誇るかっていうことを。・・・皆さんは、まだ分かってない。「どうぞ、お楽しみに」です。別に、何かを頑張る必要もないんです。選ばれて、水かけられて、あとは神さまのみ業が、この私に起こるということを楽しみに待ち、それが起こるたびに喜び、感謝し、いっそうの恵みを祈れば、それでいいんです。どのように役立てるか、あなたが決めることじゃない。神さまが、もうお定めになってることなんですよ。
 すでに、洗礼を受けたキリスト者の皆さんも、そうなんですよ。これから、何かすごいことが待ってるんじゃないですか? ・・・何でしょうね。分からない。分からないけど、それを信じて、協力することはできる。逆に言えば、その人が「はい」と言って前に出なかったら、神さまの業に協力することができない。まあ、出なくても、結局は、神さまはお使いになるんですけどね。
 この8人の中には、もしかすると、人間的な思いで、さまざまなことを恐れて、この後、「はい」って言わない人がいるかもしれない。言わなくても、私、そちらの席まで行って、お水をかけちゃいます。(笑) だって、洗礼は、神がなさっておられることですし、お水をかけるのはそのしるし(・ ・ ・)としてですから、そういうことになるんです。

 パンの話も出てきましたでしょ、第2朗読(※2)。あれ、パン種入れると、勝手に膨らむんですよね。パン種が入って来なかったら、絶対に膨らまないんですよ。それは、神さまがなさっておられること。で、入って来ちゃったら、もう勝手にどんどん膨れちゃう。・・・神の国の恵み。
 皆さん一人ひとり、この教会に初めて来たときのことを思い出してくださいよ。洗礼を受けるなんて、思ってもみなかったでしょ。・・・ほとんど、そうですね。中には、最初っから、受けたいな~って思って来た方もおられますけれども、絶対に確信してたわけではありませんし、まあ、ほとんどの方は、そんなつもりはぜんぜんなかった。
 最初にこの聖堂に入って来たとき、ボロボロ泣いてたっていう人もいますよね。みんな苦難の道を歩むなか、それぞれの思いでこの聖堂にやって来ましたけれども、それはぜんぶ神さまのみ(わざ)であって、ご覧ください、今ここでも、着々と、「復活」という恵みが行われております。
 ・・・死からいのちへ。闇から光へ。

 今日、2018年4月1日。8人の皆さんが、この世に「おぎゃあ」と生まれてきたときから、神の世界に「おぎゃあ」と生まれていくときまでの間の、人生で最も聖なる日です。
 この日、水をかけられて、皆さんは、新たに生まれます。神さまが、これから特別な働きをなさるという、恵みの日です。
 さあ、家族みんなで立ち会って、この、素晴らしい神の子たちの新たな誕生を、共に見守ることといたしましょう。

 今から、8名のお名前を一人ひとりお呼びいたしますので、「神さまが呼んでおられる」と、そんな思いで、「はい」と答えて、前に進んでください。「神さまが授ける」と信じて、洗礼を受けてください。
 洗礼を受ける方と、代親(だいしん)(※3)の方は、聖なる祭壇の前に進んでください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「今読んだ、聖書の言葉の最後、読みましたでしょ」
この日、2018年4月1日(復活の主日)の福音朗読箇所より。
 ヨハネによる福音(ヨハネによる福音書)20章1~9節
 〈小見出し:「復活する」から抜粋〉
===(あらすじ)===
 イエスが十字架上で亡くなってから三日後の早朝、マグダラのマリアは墓に行った。横穴の墓の入り口は、大きな石でふさいであったはずなのに、それがない。驚き慌てて、弟子たちに告げると、弟子のペトロとヨハネは走って行って、遺体がないのを確認した。
===(聖書参考個所)===
 
イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである (ヨハネ20: 9/赤字引用者)
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※2:「パンの話も出てきましたでしょ、第2朗読」
この日、2018年4月1日(復活の主日)の第2朗読箇所より。
 使徒パウロのコリントの教会への手紙(コリントの信徒への手紙)一5章6b~8節
 〈小見出し:「不道徳な人々との交際」から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
〔皆さん、〕わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 (一コリ5:6/赤字引用者)
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※3:「代親」 (既出)
◎「代親」  〔ラテン語〕 patrinus, matrinus 〔英語〕 godfather, godmother
 「代父母(だいふぼ)」〔代親(だいしん)ともいう〕。-「代父(だいふ)」は、代親のうちの男性。「代母(だいぼ)」は女性。また、被後見人(受洗者)は代子(だいし)という。  (文中へ戻る
 キリスト教の伝統的教派において、受洗者の洗礼式に立ち会い、神に対する契約の証人となる者。教会共同体を代表して受洗者の世話にあたる。また、受洗者の生活や信仰について、教会に証言する証人でもあり、信仰生活にとっての案内役でもある。
===(もうちょっと詳しく)===
 男性の場合は代父、女性の場合は代母、通常、受洗者一人に対し、一人の代父、または代母がつく。受洗者が男性の場合は代父が、女性の場合は代母がつくのが一般的。
 求道者を教会に紹介した者が代父母になることが望ましいが、他の適任者が求道者によって選ばれる場合もある。
 洗礼志願式では、志願者の意志を証言し、洗礼式の際には立ち会う。堅信式の代父母も本来同一人が務めることが望ましい。
 代父母制度は、入信制度の成立と共に古く、受洗者一人ひとりと教会共同体を結びつける貴重な役割を担っている。
(参考)
・ 「代父母」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「代父母」(ウィキペディア)
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2018年4月1日(日) 録音/2018年5月31日掲載
(C)2018 晴佐久昌英