愛をもって、悪に立ち向かう

2012年4月1日受難の主日(枝の主日)
・ 入場の福音:マルコによる福音(マルコ11・1-10)
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ50・4-7)
・ 第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
・ 受難の朗読:マルコによる主イエス・キリストの受難(マルコ15・1-39)

【晴佐久神父様 説教】

 今の受難の朗読、三人で朗読劇風に読まれましたけれど、聞いていて皆さんどういうふうにお思いになりましたか。私は、ただただ悪に向かい合って、悪を飲み込んで行くイエスの姿を見ました。ただただ、黙って真っすぐに悪と向かい合っているイエス・・・。
 私たち、しょっちゅう悪に飲み込まれますけれども、このイエスのお姿を見ていると、まったく悪に飲み込まれておりません。イエスは沈黙のうちに悪と向かい合い、悪を全部わが身に引き受けて、その悪を飲み込んじゃっている。悪が悪を生む世界は、このイエスにおいて、もはや打ち止めになったんです。
 実際には、イエス以降も悪があるかに見えますけど、イエス後の悪は、もはや消えていくしかない悪にすぎない。現実には、イエス以降も悪が猛威をふるっているように見えるかもしれないけれど、イエスの十字架以降、もう、悪は負けてるんですよ。負け犬の遠吠えというか、悪はウォンウォンと叫び狂って、私たちを支配しようとしてますけれども、もう、悪は負けてるんです。ですから、「すでに負けてる悪に負けちゃう」って、これ、あまりにもお粗末じゃないですか。悪に負けてはなりません。われわれは、イエスと共に、すでに悪に勝ったんです。今も勝ってるんです。これからも勝ち続けることができるんです。諦めてはいけません。絶望は、私たちキリスト教徒にとって無縁です。私たちは決して絶望しない。絶望しそうになることはあっても、イエスがその絶望を身に引き受け、全部のみ込んで、それこそまさに聖週間の恵みですけれども、悪から善へ、死から命へ、闇から光へという勝利へのプロセスにしてしまう。
 聖週間が始まりました。聖週間って、プロセスなんです。最後は復活の栄光で終わるプロセスです。日々いろんな悪が襲ってくるけれども、それを私たちはぜんぶ、「神さまの愛」という最強の武器によってのみ込み、善に変えることができる。その希望こそが、人生という聖週間を支えるんです。

 この、悪と真っすぐに向かい合って、悪をのみ込んでいくイエスの姿を見ると、イエスに続く殉教者たちとか、素晴らしい聖人たちを思い浮かべますけれども、どうしても私は、昨日観た映画を思い起こします。『KAROL(カロル)』という映画をDVDで観たんですけど、3時間泣きっぱなしでした。ず〜っと涙腺緩んじゃってグズグズやってたら、しまいに鼻血がブ〜ッと出て(笑)。いや、ホントに泣かされました。もちろん悲しみじゃない。感動の涙です。「愛が悪に打ち勝つ」っていうことが、これほどに美しいことか、大切なことか、これほどに私たちにとっての希望となるか。それに感動いたしました。
 この『KAROL』は、前ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の伝記映画です。劇映画ですけども、大変よくできています。先日、ヨハネ・パウロ2世教皇の後を慕う巡礼旅行に行ってきましたけれど、ローマで、「ヨハネ・パウロ2世を慕って巡礼してる」って言うと、現地の司祭たちから口々に、『KAROL』は観たか、『KAROL』は観たかと言われて、まだ見てなかったので、そんなにいい映画かと、帰ってきてからようやく観たわけです。
 ヨハネ・パウロ2世の若いころから教皇になるまでの映画なんですけど、ひと言でいえば、その半生は悪と真っすぐに向かい合って、愛をもって悪に打ち勝つという半生。もうまさにキリストの代理者とはこのことか、という半生を映画にしたものです。ともかく、どんな悪とも向かい合うんですよ。どんな悪にも復讐せず、忍耐強くただただ真っすぐにそれを受け止めて乗り越えようとする。苦しみながら、時には絶望的になりながらも、決してあきらめずに、なんとか愛によってその悪を克服しようとすべての精力を注ぎ、それに人生をかけていく。そのような姿、これはまさにキリスト教の本質です。

 ヨハネ・パウロ2世は20世紀を駆け抜けた方でありますが、思い起こせば、20世紀というのは、大変な悪の時代でもあった。「史上最悪の世紀」とは、歴史家の言うところです。なにしろ、人類史上最も人が殺された世紀ですからねえ。その前半は、第一次世界大戦と第二次世界大戦。後半は共産主義、独裁政権の弾圧。ちなみに、前半の世界大戦でも多くの死者を出しましたけど、後半の独裁による弾圧、粛清の死者の方がそれより多いって統計がある。20世紀、どれだけ殺されたのかってことです。いずれにしても、ナチスによるユダヤ人虐殺であれ、スターリンによる粛清であれ、独裁という悪が暴走しているという構図は似てるかもしれない。
 で、ヨハネ・パウロ2世はポーランドでしょ。いうまでもなくポーランドっていうのは大戦でナチスに蹂躙(じゅうりん)されました。・・・まあ昔から周辺の国に支配されてきたわけですけど、ナチスの時に特にひどい目に遭った。カロル・ヴォイティワは、・・・ヨハネ・パウロ2世の本名はカロル・ヴォイティワなんですけど、このカロルも、ナチスに大変苦しめられた青年時代を過ごしております。親しい友人が次々と殺されていく。尊敬して慕っていた司祭も殺される。仲良しの子が目の前で機銃掃射で殺される。・・・まあ、ある程度の脚色はあるのかもしれませんけど、そのような地獄を生きて、やがてポーランドが解放されたかと思いきや、今度はソ連軍がやって来て、共産党の支配が始まり、またそこで弾圧されて苦しめられる。ですから、この教皇は、20世紀を代表する悪の双璧、世界大戦と独裁弾圧の両方と真正面から向かい合ったわけですよ。
 彼はその闇を、悪が勝利しているかのような恐ろしい現実を、ずっと見続け、向かい合って、愛をもって打ち勝ってきた。若いころ、キリストの愛こそが戦争という悪に打ち勝つ道だと召命を感じて司祭となり、戦争が終わって司教となってからは、独裁政権の弾圧という悪の中でひたすらに弱者の味方をする。ほどなく大司教になるわけですけど、大司教といえば、その国の精神的指導者ですから、共産党本部の、特にカロルを危険視するひとりの幹部が「あいつを大司教にするな」と、何とか阻止しようとするんですね。民衆から大変尊敬されて人気のあるカロル・ヴォイティワが大司教になるっていうことは、権力者にとって最も脅威であるっていうこと、鋭い人はやっぱり分かるわけですよ。だから「あいつだけは絶対大司教にするな」って主張するんだけれども、本部のお偉いさんたちはその脅威を見抜けずに、「まあ、あいつも穏健だし、いいんじゃないの」・・・みたいになことで大司教になることを許しちゃうんですけど、そのとき、猛反対してた幹部が「後で思い知るぞ」みたいな捨てぜりふを言うんですよね。それ見ながら、「そうだよね〜」って思いましたよ。だって、まさにこの後この大司教は教皇になり、母国ポーランドのワレサ議長を支援してポーランドを民主化しちゃったし、そこから政権ドミノ倒しでヨーロッパがぜ〜んぶ民主化されちゃって、結局ソ連も崩壊してあの辺の共産主義が全部消えちゃったわけですから。当事者はまさに、「後で思い知った」。
 結局、あの独裁という悪の本体が、それはナチスでも独裁政権でもそうですけど、悪というものは人々を恐れさせて、人々を無力にして支配するわけですよね。だから、権力者たちにとっては、民衆の内に最もあってならないのは、自由への「希望」なんですよ。恐れを超えていく「信仰」なんですよ。お互いに助け合い、一人ひとりの命を守ろうとする「愛」なんですよ。それがやっぱり、支配者には一番怖い。そしてカロルは、そのすべてを持っていて、それだけを武器に忍耐強く悪と向かい合って、まっすぐに対話をし、やがてその悪はこの「愛」にのみ込まれていってしまう。

 ナチスの侵略の時には、血気盛んな若者たちが、「復讐だ〜!」とか「決起だ!」とか「武器を取って戦おう!」とかって盛り上がるわけですね。実際に、テロのようなこともする。しかし、カロルは仲間たちを必死になだめて抑えるんです。「殺すな、愛をもって戦おう」と。でも、そんなこと言ってたら、やられるだけじゃないですか。だけど、やられるだけって言うんだったら、まさにイエスがそうだった。やられるだけだった。愛だけで戦って、そしてやられて、十字架の上で殺されてしまった・・・かに見えて、そのイエスから真の救いが始まって、私たちキリストの教会は、今この世界を神の愛で覆おうとして、あらゆる悪と戦ってるんじゃないですか。
 カロルだって、実際には恐ろしい現実の中で、絶望しかけるんです。親しい友人は殺されるし、目の前で仲良しの少年が死んでいく。少年の亡きがらを抱えながら、慟哭して滂沱(ぼうだ)の涙を流すカロルの姿は、まったく無力で、悪に負けてしまったって感じなんだけども、しかし彼はそこで絶望しない。そこで復讐しない。「この悪に、忍耐して愛をもって立ち向かうことこそが、人間の意味だ」、彼は、そう言い続ける。どれほどの悪であっても、悪をもって返さず忍耐と愛をもって返す。・・・それが人間の意味なんだ、だからそうしていない時、悪のいいなりになっているとき、人間は人間じゃないんだ、と。
 カロルに大きな影響を与えた神父がいるんですね。その神父の教会をナチスの将校が接収に来た時、神父が同意しないので、将校がこぶしを握りしめて(にら)みつけるシーンがあるんだけど、そこで神父が言うんですよ。「あなたは苛立って、怒って、そうしてこぶしを握りしめている。けれど、そのこぶしの中は(から)だ。何もない。やがてあなたは、それを知ることになる」。・・・そういうシーンがある。
 これ、まさに悪の本質です。中身が何にもない。空虚なるものを守ろうとして、こぶし握りしめて人を殴ったり、握りつぶして支配したり、こぶしを見せて恐れさせたりしようとしても、その中には何もない。・・・空っぽ。けれども、殴られている側が、それを真っすぐに受け止めて、愛をもって返すと、そこに「人間」が存在する。神がそのために生んだ、「人間の意味」がそこに現れる。そうして、私たちはみんなキリストのようになったときに、神の国が完成していくんです。
 私たちは、悪をのみ込むためにキリスト者やってるんですよ。身近にいっぱい、悪がありますでしょ。第二次世界大戦より悲惨な夫婦げんかとか。(笑)共産党独裁よりも悲惨なわが子の支配だとか、パワハラだとか。もう、身近にいくらでも悪がある。その悪にただ苛立ち、ただ呪い、戦うんじゃなく、あるいは、ただ絶望し、ただ背をそむけ、諦めるんじゃなく、堂々と真っすぐに、あのカロルがそうだったように向かい合う。愛をもって、悪に立ち向かう。それ、キリスト者の仕事ですよ。
 カロルはそのことを、後に特に若い人たちにちゃんと伝えて、語っていました。自身が始めたワールドユースデーなんかで、よく言ってましたよ。「あなたたちはまだ、絶対的なことに憧れてないんじゃないか」「あなたたちは人生の意味を本気で求めていないんじゃないか」「心を開いて、キリストを恐れずに受け入れてほしい」、そういうことをよく言ってたのを思い出しますけど、なるほど、このような半生があったらからこそ、そう言ってたんだなっていうことを、この映画でつくづくと思い知りました。こう、単なる理想論を語っているんじゃなくて、彼のリアリティーの中で語ってるんです。
 恐ろしい悪と向かい合っていくなかで、どのような悪も不完全であり、やがて敗北するけれど、神こそは完全であって、絶対に勝利する、彼はその神の力に憧れたんですよ。悪に向かって暴力で立ち向かったって、また次の悪がやってくる。そういう悪の連鎖を打ち止めにするにはどうしたらいいか。・・・キリストしかいない。それを、彼は見出した。必死に探し求めて、見出して、信じて、その通りに生きた。だから若い人たちに、そのことをずっと語り続けた。まあ、ちょっと意地悪な言い方ですけど、もう今の世代はなかなか変わらないので、ともかく次の世代はホントにちゃんと育てていこおうと、彼らはキリストの教会の希望なんだと、やっぱり彼は思ってたと思う。

 まあ、この映画なんか、特に若い人たちに見せたいなぁと思うし、これまだ英語バージョンしかないので、皆さんでなんとか働きかけてですね、日本語バージョン作ってもらったらいいと思いますよ。感動しますよ。カロルが忍耐強く悪に向かい合っていくと、それが勝っていっちゃうっていうところに、ものすごく希望を感じさせられるんです。たとえば、共産党の本部が、カロルを盗聴したりするんですよ。ゆるしの秘跡とかね。だけど、そのカロルのゆるしの秘跡での、罪を犯して苦しんでいる人へのアドバイスとか励ましとかがあまりにも素晴らしいので、盗聴している人が回心してしまうっていうシーンすらある。
 そういえばカロルが神父になる時ですけど、なんか恋人みたいな人もいてね、その彼女が、カロルが神学校入っちゃうっていうのを知ってショック受けるんですね。で、「そんなこと何にも言ってくれなかった」とか、まあ、カロルをなじるわけですよ。でもカロルが、自分はもうこの道しかないみたいなこと言ったら、彼女が怒って言うんです。「あなたはこんなに人望があって、素晴らしい才能があるのに、一生おばあちゃんのゆるしの秘跡を聴いて暮らすつもり?」(笑)私は心の中で「おばあちゃんのゆるしの秘跡聴いて、何が悪い」(笑)って思いましたけれど、カロルは現に、その後いっぱいゆるしの秘跡を聴くんですね。
 先日ローマに行った時も、カロルが若い司祭時代にローマへ司牧の奉仕に来ていた時に、ひたすらゆるしの秘跡を聴いていたという教会をお訪ねしたんですよ。その聖堂に、ちょうどそこでよくゆるしの秘跡を聞いていたってとこに、銅像が立ってるんです、ブロンズ像が。カロルがじ〜っと耳を澄ませて罪の告白を聴いているご像です。そこをお訪ねしてお祈りして、そこでミサを捧げてまいりましたけど、彼のゆるしの秘跡は、大変人気があったそうです。
 カロルはそうしてあらゆる絶望を、あらゆる悪を聴くわけです。ずっとずっと、ひたすら聴いて聴いて、だけど彼はどんな悪を聴いても(ひる)まない。どれほどの恐ろしい罪と向かい合っても、神の愛のうちにそれをゆるす。そうして福音を語り、神の愛の完全さを語り、ひたすら語りまくる。それが罪びとを救い、さらには盗聴しているスパイまで救っちゃうことになる。
 スパイがね、上司に報告するんです。「彼は別に何も悪いことしてない。ただただひたすら神の愛を語りまくっている。ただ愛を語ってるだけです」っていうんですけど、これはもう、イエス・キリストの姿でしょう。ただただ神の愛を、福音を語りまくり、そして悪を前にしたときに、「敵を愛せ。右の頬をたたかれたら左の頬を出せ」、そう言って自ら十字架の上ですべてを捧げた。これでもう悪は打ち止めなんです。そのスパイがついには回心して、カロルに自らの正体と盗聴していたことを打ち明けると、カロルは彼を抱きしめ、涙をこぼして言うんですね、「今日はなんて素晴らしい日だろう!」。

 皆さん、今の時代にいろんな悪に向かい合って、これほどの悪にどう向かい合ったらいいのかと、恐れたり迷ったりしているようですし、そんな閉塞感の中で「これが正義だ〜、俺たちについて来〜い、維新だ〜」みたいな声もチラチラ聞こえますけど、「こっちに答えがあるぞ〜、幸せになれるぞ〜」みたいに言われて、みんながそっちへワ〜ッと雪崩を打っていくなんていうのを見ると、キナ臭いですねえ。・・・独裁の臭い? もしかすると、戦争の臭いすら・・・チラッと漂ってくるじゃないですか。
 私たちは、そのような乱暴でこの世的な解決にすがってはなりません。忍耐強く、ただただ忍耐強く悪と向かい合って、超越的な愛をもって応えていく。一人ひとりがそれをやっていく以外に答えはないのです。「さあ、こっちだ〜!」なんて言うのに、ダ〜ッと雪崩を打って付いていって、その後どうなるか、嫌というほど体験してきたはず。

 福者ヨハネ・パウロ2世教皇が、もうすぐ聖人になりますけど、私やっぱり、20世紀を救った聖人はカロル・ヴォイティワとマザー・テレサだった、最悪の20世紀を希望の21世紀へと橋渡しした聖人だったと思う。このヨハネ・パウロ2世のわざを引き継ごうではないですか。それが神の望みです。人間の生きる意味です。
 「本当に、この人は神の子だった」と、イエス・キリストのことをそう異邦人が言いましたけれども、カロルもまたそう言われるべきでしょうし、私たちもまた、そう言われるべきなんですよ。キリストと共に十字架を背負うならばそれが可能です。
 愛をもって、ひたすら忍耐強く、この聖週間を過ごしましょう。復活の喜びは、もう、すぐそこなんだから・・・。

2012年4月1日 (日)録音/4月5日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英