無事に叙階できて、よかったね〜

2012年3月25日四旬節第5主日
・第一朗読: エレミヤの預言(エレミヤ31・31-34)
・第二朗読: ヘブライ人への手紙(ヘブライ5・7-9)
・福音朗読: ヨハネによる福音書(ヨハネ12・26)

【晴佐久神父様 説教】

 先週、叙階式に行ってまいりました。大切なわが子と言っていい神学生が、無事に叙階されました。来年はおそらく司祭に叙階されて、そこからはもう、親子というよりは仲間としてですね、一緒に働くことになるでしょう。
 ホントに嬉しかったし、正直言って安心いたしました。なんかこう、わが子の受験とか就職とか結婚とかを見守る親の気持ちっていうのが、彼の神学校入学とか、いろんな試練を越えていく姿とか、そしてようやく無事叙階したという姿を見て、つくづく分かりました。これで私も、子どもを持った親の思いを、ほんの少しですけど分かち合えたような気がして、それもまた嬉しいです。
 ホンットに、ホッとしたんですよ。信じてはいても、やっぱりいろいろ心配していたもんですから。司教様が彼の頭の上に手を置いて叙階の秘跡が成立した時、「これでもうだいじょうぶ」っていうか、「後はもう、神様がどうとでもなさってくださる」っていうか、秘跡の恵みがついに実現して、ひとりの人が司祭として叙階され、神様のものとなる姿を目の当たりにして、ホントに安心いたしました。
 司教様がユニークな説教なさったんですよ。彼を前にしてね、「大西神学生、いろいろあったけれど、無事、叙階できて良かったね・・・というような話をするのではありません」(笑)って話し始めたんです。それに続けて、なかなか厳しい内容の言葉を連ねて。まあそれは、説教として当然です。叙階する者を前にして司教が、この叙階にどういう意味があるか、これからどのような働きをしなければならないかを話す。・・・「浮かれるなよ、引き締まっていけよ」みたいな感じの説教をする。それはまあ、もっともなことです。
 特に印象的だったのは、「あなたはこれから『カトリック教会』という看板を背負っていくんだから、それを24時間365日意識して、しっかりと背負って生きていってほしい」というようなことを、おっしゃったんですね。そして、「助祭であるという自覚をもって、祈りを大切にし、キリストの食卓に奉仕し、貧しい人、病んでいる人のために働いて、真剣に誠実に、頑張ってほしい」というような説教をなさったわけです。
 で、それはまったくそのとおりで、すべて同意しますけど、私、頼まれて、叙階式の最後にあいさつをしたんですね。その時、ついつい、正直な気持ちを申し上げたんです。
「司教様は先ほど、ああいうお説教をなさって、ホントにそのとおりだと思うし、まったく正しいんですけれども、私の今の正直な気持ちを申し上げると、・・・大西勇史くん、いろいろあったけど、無事、叙階できて、よかったねぇ」。(笑)・・・そう申し上げました。それが、正直な一番の気持ちでしたから。ああ、ホントに良かった、っていう。

 でも、じゃあ、なにがそんなに良かったのかっていうと、それは結局、「叙階は秘跡だから」ということにつきます。秘跡っていうものは、これホント、乱暴な言い方になっちゃいますけども、もう、受ければいいんですよ。もちろん準備も必要ですし、受けた後は何してもいいってわけじゃないですよ。秘跡にふさわしく生きなければならないんですけど、だけど秘跡とは、本質的には、たとえどんな人であれ神様がその人を選んで、ご自分の愛を表すために授ける恵みの現実ですから、たとえばひとたび叙階の秘跡を受けたなら、神様ご自身がその人に、ご自身の栄光とか、すべての人を救う慈しみとかを現すんですよね。その人が働いてるんじゃない。秘跡っていうのは神の愛の印(しるし)なんです。
 だからこそ、秘跡を受けたものは良い印となれるよう、誠実に生きていかなきゃならないし、秘跡の名を汚さぬように真面目に努力すべきです。・・・それは、そうなんです。しかし、あえていえばそれらはあくまでも人間の誠実であり、人間の努力です。それに対して、「秘跡」の本質は、その人がどうであれこうであれ、圧倒的に全面的に、その人のすべての弱さとかとらわれとか、そういうものをはるかに超えて、気が付けば神様の愛を表し
てしまうようなものなんですね。
 私自身、そのような秘跡への信仰で、今なお司祭として生きていけますし、特に今、洗礼を準備している方に、そのことは申し上げたい。洗礼志願者となった皆さん、今日も目の前に大勢並んでおられますけれども、皆さんには、信じていただきたいのです。もうすぐ受ける洗礼の秘跡は、あなたたちのどんな弱さもとらわれも、あるいは「私にはちゃんとした信仰がない」なんて思っている、そんな迷いも超えて、ただもう、神のお考えによって成立しているものなんです。「秘跡」というものが、いったんある人のうちに実現すると、もはやその人は神様の愛の目に見える印となるんだ。だから、こんな私の弱さを通してでも、どんな情けない出来事を通してでも、ちゃんと神様は、秘跡の恵みによって、その人のうちに素晴らしい神の働きを実現させてくださる。・・・そのことを信じていただきたい。

 もう、神様が皆さんを捕らえちゃったんです。捕らえて、ご利用になるんですよ。それに協力してほしいし、いろいろ頑張ってもいただきたいのは当然ですけれども、まずはその前に、洗礼の秘跡を受けて「あ〜、よかった〜」と思ってください。私も皆さんに洗礼の秘跡を授ける時、「いろいろあったけど、洗礼の秘跡を受けられて、ホントに良かったねぇ・・・」って思いますから。後は、神様が働きます。その人のどんな条件を使ってでも、時には周りから責められるようなことになってしまったとしても、神様がすべての悪を善に変え、「秘跡の力というものはここまですごいか」というような恵みを、実現させてくださる。
 洗礼を受けるっていうことは、皆さんが、神様から望まれて生まれ、恵まれて今日まで生きてきて、そしていよいよもうすぐ、神様の愛の目に見える印とされていくっていうことなんです。ホント「おめでとうございます」です。いや、まずは神様に「おめでとう」って言わなければ。・・・神様、こうして、洗礼をわが身に引き受けてくれる人がいてよかったですねえ。これでもう後は、あなたが、この人を通して、あなたご自身の「一人残らず誰をも救う」という愛を、ちゃんと表してくださる。
 私、ひとりの洗礼受けた人によって救われる人が、いっぱいいると思う。さらにさらに、叙階の秘跡を受けるなんていうのは、まさに、その叙階の秘跡を受けた人、その人のうちに現れる特別な神様の働きによって、「私も救われているんだ」と、そう気づく人が大勢現れるに違いない。それを思うと、ともかく「いろいろあったけど、秘跡が実現して、ホントによかったねぇ」と、ただうれしい。
 私自身も、神学校ではあまり褒められた神学生じゃなかったですし、神学校の院長から、「君を司祭には推薦できない」なんて言われたこともある。そんな私に、司教様が叙階の秘跡を授けてくださり、ちゃんと頭に手を置いてくださった時、「あ〜よかった、もうこれで、こんな駄目な私だけれども、こんなにいいかげんな自分だけれども、秘跡の働きがきっとこの私を通して、さまざまな素晴らしいことを行ってくれるに違いない。後は神様、あなたの働きを信じます」という思いになったこと、よく覚えてます。
 大西神学生も今、叙階の秘跡受けてから一週間、何か、「これはもう神様のみ業だ、ここに神様がちゃんと働いておられる」っていう圧倒的な実感をもって、きっと、すごい安心というか希望というか、そういう思いをもっているに違いありません。
 洗礼の秘跡は、叙階の秘跡より格上です。神様がその人の存在そのものを、もう決定的に「秘跡」なるものにしちゃうんですから。洗礼志願者の皆さん、あなたがたは神に選ばれ、聖別されて、歩く秘跡になっちゃうんです。

 先週、神はすべての人を必ず救うっていう話をしましたけれど、秘跡はまさにそのことの目に見える印でもあるんですね。「神は、すべての人を必ず救う」。・・・それはもう、当たり前のことです。すべての人を救えないような半端な神を「神」と呼んでもしょうがない。私たちの頭ではたとえ理解できなくても、論理的には、あるいは合理的には説明つかなかったとしても、神におできにならないことは何ひとつない。イエスの復活において、その救いがすべての人のうちに実現していることを、秘跡は示しているんです。その人の内に秘められていた救いが、秘跡によって顕現するんです。
 まあ、この場合の「救う」っていう言葉は、第一義的には、私たちがやがてこの世の準備期間を終えたとき、神様が必ずご自分のみもとに呼び寄せてくださるという、そういう意味です。第一義的にはね。素朴な言い方なら、「天国に入る」ってこと。
 で、二義的には、その一義的な救いを信じることで、今ここでも救われるってことです。「神はすべての人を必ず救う」という信仰、すなわち、いつの日かイエス様がすべての人を神様のみもとに連れて行ってくれて、皆ともに祝福され、永遠の喜びを得ることができるんだということを、今この世にいるうちに知って信じて感謝して、安心し、喜びをもってそのことをみんなにも伝えるべく働けるっていうのが、この世における救いです。
 イエス様が、なぜこの世に来られたか。そして、どのように私たちを神様のみもとに連れていってくださるか。それを私たちは、もう知っています。イエス様は、すべての人の罪と苦しみを背負って、十字架上でご自分をお捧げになり、それを神様が受け入れて、復活の主としてすべての人にお示しになり、すべての人が救われた。そのようなイエス様のみ業は、もう現実として起こりました。
 第2朗読でヘブライ人への手紙が読まれましたけれども、イエス様が死から救う力のある方に祈りを捧げ、そして多くの苦しみによって従順を学び、完全な者となった、だから、御自分に従順であるすべての人々の永遠の救いの源となった。・・・そうありました。
 イエス様は、神様の恵みのうちに完全な者となって、
すべての人の救いの源となった。一義的な救いということでは、私たちやがてみんな天国に、ちゃんと神様の恵みによって入るんだけれども、そのことを「この世にあるうちに」ですよ、イエス様は先取りしてお始めになったし、それを私たちが知って、現に信じることができているっていうのは、これは大きな恵みです。今日ここに集まってる私たちは、選ばれてそのことを知ること、信じることができて、イエス様と共に天に上げられる恵みの日を希望して生きていくことができる、そういう仲間たちですから、ホントに心から感謝してほしい。
 洗礼の秘跡というのは、その、やがて天上に生まれていくという恵みの、この世における先取りなんです。目に見える印なんです。ホントにみんな救われるんだっていうことを、洗礼を受ける人が、自ら表してるんです。洗礼を受けた、歩く秘跡となったその人を見て、私も救われるんだって、みんなが知り、信じ、イエス様と出会ってくれれば、これに勝ることはない。それをもって言うならば、洗礼の秘跡を受けた人こそが「教会」という看板を背負って生きているって言えるんじゃないでしょうか。「すべての人は救われる」「あなたも必ず救われる」・・・という看板。
 ホントにこの、「誰でも救われるんだ」っていう、そのことを知って、信じて救われた人は、大勢います。私自身がそうですし、これからもそのことを宣言し続けたい。信じたから救われるんじゃないんですね。すでに救われていると
聞いて、信じることができるんです。そう信じて、現実にも救われる。私たちの信仰は、神からの恵みのうちにあります。まあ言うなれば、信じさせてもらってるんですね。イエス様が、圧倒的に一方的に、ご自分の死をもって神の愛を与えてくださったおかげで、私たちは救いを知ることができた。

 皆さんはどうですか。「すべての人が救われる」って、信じられますか。私に言わせればですね、もしもすべての人が救われないんであれば、あなたは救われません。私も救われません。そう思った方がいいと思いますよ。
 よく、こういう質問する人がいるんですよ。「それじゃあ、あんな人でも救われるんですか、こんな奴でも天国行けるんですか」って、なんだか他人ごとのように。これって変だと思いませんか。それ質問してる人って「そういう私は当然救われるんだけれども」っていう大前提がカッコに入ってるんでしょうかね。ヒトラーも救われるんですか、とか、麻原彰晃も救われるんですか、とか言ってるその人は、「私はあそこまで悪人じゃないから、優しい神様が赦してくれて、救われるんだけども、いくらなんでもあんな奴までは救わないでしょう?」って思ってるんですかね。
 でも、おかしいでしょう。み〜んな神に愛されている神の子で、みんな弱さを抱えているんだから、線の引きようがないはず。ヒトラーが救われないなら、だれも救われませんよ。みなさんだって、「あいつなんか、いないほうがいいのに」って、心の片隅でチラッと思ったら、それはもう「ポアしろ」って言ってるようなもんじゃないですか。・・・懐かしい言葉ですね、「ポア」。麻原さんって方が、そういう教えを述べていましたでしょ。「あいつは悪だから消しても構わん」ですよ。そんなの、みんな一緒じゃないですか。心にそんなこと思っている、そんなこと、あんなこと思っている、そんな罪のうちにある、
すべての人を、イエス様は救うんです。
 「えーっ、聖書のどこにそんなこと書いてあるの」って言うかもしれないけど、ちゃんとさっき私、読みましたよ。ヨハネによる福音。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。すべての人、ですよ。
 先週の箇所には「
イエスを信じる者は、一人も滅びることなく永遠の命を得る」と、条件節がありました。でも、イエスって、もう救いそのものですから、「救いを信じる者は」って言っても、広い意味ではイエスを信じていることに当たると思いますよ。そして、聖霊の働きによって、だれもが救いを望んでいる。
 「イエス・キリスト」って、「イエス=救い」っていう意味ですよね。ですから、「イエスを信じる者は」っていう条件節は、「救いを信じる者は」でもある。神の絶対の救いを信じるならば、そんな風に条件節のハードルをどんどん、どんどん低くして、これもイエスを信じていることになるんだ、これでもイエスを信じてることになるんだと、言ったらいい。そして、最終的には神だけがご存じの方法で、「神はイエスによってすべての人を救うんだ」と、そう信じましょう。むしろ、それを知って信じたからこそ、そのイエスを信じられる。・・・そう考えた方がいいんじゃないですか?
 今日読んだところには、条件節ないですもんねぇ。「わたしは地上から上げられるとき、
すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」、ですよ。

 昨日の夕方、目の御不自由な方が来られていろんな質問をなさいましたけど、その中に、「今通ってる教会では、キリスト教以外の人は救われないって教えてるんだけれど、どうしても引っかかるんです。本当にそうなんですか?」っていう質問があって、私はもう、即答申し上げました。「いいえ、そんなことはありません。必ず救われます。でも、ある意味でならば、キリスト教以外は救われないって言えなくもありません」と。
 どういうことかというと、ひとことで「キリスト教以外」って言ったって、人間の基準なんて実にあいまいで、何も言えっこないですね。神はすべての人を救うんであって、人間の基準など超越しているわけですから、「何々以外はすべてダメ」なんて言えるはずはないんです。ただ、逆の言い方をすればですね、救われた人はみんなもう、キリスト教の中だとも言えるんじゃないですか。もしも「キリスト教以外は救われない」っていう命題が正しいんであればですよ、「救われた人がいたら、それはキリスト教だ」っていうことになるんじゃないですか。理屈からいってそうなりますよね。だって、キリスト教以外は救われないんだから。であれば、もしホントに神様がすべての人を救うなら、すべての人は「キリスト教」だってことになるんじゃないですか。
 まあ、私たちキリスト者は、あのナザレのイエスを信じるってことの素晴らしさを、全世界に告げ知らせておりますけれども、世の初めからおられて、やがてこの世界を完成させてくださるキリストが、どのような方法で、どのようなかたちで人々のうちに宿って、すべての人をご自分のもとに引き寄せようとしておられるか。それはイエスならぬ身、分かりません。でも信じることはできます。「教会の外に救いなし」というんであれば、「救いがあるところは教会だ」と言うべきでしょう。私は、なんとかして、一人残らず神様の愛の中に入れてあげたいという、イエスの思いを共有したいんです。皆さんも、どうか滅びを恐れた時、あるいはいよいよ神様のところに生まれていく今際(いまわ)の時、この一節を思い出してください。
 「わたしは天に、地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。
 
すべての人ですよ。この私も入ってるし、あなたも入っている。うれしいじゃないですか。

 大西神学生、大西助祭となりました。やがて司祭になるでしょう。いろんな試練が待ってることでしょう。でももう、叙階の秘跡を受けました。もう神様が働き始めたんです。「すべての人を救う」神様の愛の、目に見える印になったんです。
 試練っていえば、式の最初っから大変だったんですよ。彼、叙階式が始まるまで小聖堂でお祈りしてて、式が始まる時に式長が彼を呼びに行くっていう手はずだったんですよ。先頭が十字架と侍者、そして大西神学生、その後ろに司祭たち、司教様っていう行列を作って入堂するっていう手はずだったんだけれど、なんと、式長が大西神学生を呼びに行くの忘れたんです。(笑)で、鐘が鳴って、入祭の歌が始まって、行列が動き始める。・・・彼は小聖堂で、じっと祈りながら、「どうも遅いな・・・」(笑)。そのうち入祭の歌が始まっちゃって、「えーっ!? 始まっちゃった!」・・・「まさか、叙階は駄目っていうことじゃ・・・」。(笑)しょうがないから出て行ったら、行列が動き始めるとこで、慌てて加わりました。司教様が後で言ってました。「逃げたかと思った」。(笑)
 この世ではそうそう思うようにはいかないよっていう啓示かもしれませんが、しかし、だからこそ、ちゃんと司教様が手を置いてくださった時には、「これでもうだいじょうぶ」って言う安心がありました。
 「秘跡」っていうのは、神様がなさってることだから、われわれは、その秘跡を見て信じるわけでしょ。「もうだいじょうぶ。何があろうと、ひっくり返ろうと、忘れられようと、失敗しようと、後はこの秘跡を信じていけば、だいじょうぶ」と。
 この大西・・・、やがて司祭になるとすれば、大西神父の捧げるミサは、もうまさに秘跡だし、大西神父の授ける洗礼はまさに秘跡だし、そこにすべての人を救う神様の目に見える印が、ちゃんと実現していくんだと。
 私、新助祭になった彼に、真新しい助祭の祭服を着せる「着付け司祭」っていうのをやって、まあ晴れがましいというか、目にまぶしいというか、馬子にも衣装というか(笑)、ホントになんか、え〜、うれしかった・・・です。親心が溢れてきて。
 彼の最後のあいさつでね、自分の母親に「お母さん、生んでくれてありがとう」とか言ってて、お母さん、ぽろっと涙こぼしてましたけど、私にも「晴佐久神父さんに会わなかったら、今日の私はありません」みたいなことを言ってくれて・・・。感無量で、泣けました。だって、それもまた「生んでくれてありがとう」じゃないですか。助祭、司祭として生んでくれてありがとう、と。もちろん、本質的に生んだ方は神様ですけれども、その意味では、私も神様の親心をちょっとだけ共有できたってわけです。
 彼は、これからきっと、たくさん宣言していくでしょう。
 「神はすべての人を必ず救う。・・・
必ず救う」。

2012年3月25日 (日)録音/3月29日掲載
Copyright(C) 2012 晴佐久昌英