信じ合う教会家族

2015年12月27日聖家族
・第1朗読:サムエル記(サムエル1・20-22、24-28)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・1-2、21-24)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・41-52)

【晴佐久神父様 説教】

 2015年最後のミサになりました。この一年を振り返ろうではありませんか。
 1年52週ですか? 「あけましておめでとう」と言ってから、こうして、この聖堂に52回通って、ミサを捧げてまいりました。・・・もしかして、これ、皆勤賞っていう人、いるんですかね、52回。(会衆に向かって)・・・ここに、52回皆勤賞だっていう人、います? ・・・あっ、いた! すごいねえ。何か、賞状でも出したいところですね。(笑) なかなか難しいですものね、一年の間にはいろんなことがあって。うれしいとき、落ち込むとき、体調の悪いときもありますよ。それでも、こうして聖堂に集まって、感謝の祭儀を捧げる。これはやっぱり、この一年、神さまに見守られて、私たちは生きてきたっていうことなんですよ。やっぱり、神の愛のみ(わざ)の、特別なしるしなんですね、このミサが。

 今、共に、私たちはこうして、「教会家族」として、このミサに与っておりますけれども、ミサから帰ってそれぞれの家にいるときも、やっぱり、「教会家族」なんですよ。神さまを親として、神の子たちは、ホントに一つである。働いているときも、学校にいるときも、いいときも、悪いときも、ホントにつらかったあの眠れぬ夜も、教会家族として神さまに守られて、神さまに導かれて、神さまの愛の中を、私たちは生きて、この52週を過ごしてきたんです。
 そうして週に一度ここに集まるっていうのは、その神さまの愛を特別に感じるためですし、他の六日と23時間の間も、やっぱり神さまの恵みのうちにあるんだっていうことを忘れないようにするためです。このミサで、ギューッと濃縮された、聖なる霊を頂いて、神さまと一つになる。
 今年最後の主日に、そういう思いで、この一年間を振り返って、「ああ、やっぱり神さまに守られていたんだな」と感謝し、そして「来たる新しい年もまた、神さまの導きのうちにあるんだな」という信頼を(・ ・ ・)、新たにいたします。これを信じたときに、私たちは素晴らしいことがいっぱいできる。どんな試練も乗り越えていくことができる。
 全能の神、愛の神が、一年365日、私たちのうちに働いているという、この「信頼」。「だから私たちは一つの家族でいられるんだ」という安心、「隣に座っている人を信じてもいいんだ」という教会家族の喜びが、私たちのミサに満ち溢れていてほしい。今日はとりわけ、「聖家族」の主日ですからね(※1)、私たち教会家族の一致を、特別に願いたいと思います。

 今日、ちょっと人が少なめなのは、実をいうと、かなりのメンバーが今、稲城のiプラザホールに行っちゃってるんですよ。朝8時半集合で、スタッフとか、役者とか、お手伝いの人たち、子どもたちも青年も、みんな集まって、本日午後4時半開演のミュージカル「みんなの家」の準備をしております(※2)。・・・今年の初めごろから、「今年はクリスマスの聖劇を、近くのホールで本格的にやろう」って言い出して、それがついに今日の夕方実現するわけですけれども。
 昨日、舞台の大道具の「建て込み(※3)」っていうのをやったんですね。昨夜、見に行きましたけれども、ホールのステージに、この多摩教会の聖堂の祭壇が、そっくり再現されていましたよ。
 脚本、演出、晴佐久神父なんですけど、これが非常に横暴な演出家でですね、(笑) 「多摩教会をそっくり、iプラザホールのステージに再現してほしい」とか無茶なことを言い出して、それをまあ、限られた予算と時間の中、みんな実によく工夫して、準備して、ホントに聖堂が再現されてました。・・・びっくりいたしました。
 まあ、うちの教会には、何やらせても上手にやる工務店ですとか、どんなに無理難題を押し付けても、ちゃんとやってのける、エキスパートの信者さんたちが、結構いるんですよね。
 ホールのステージに、ここの祭壇を再現するっていうのは、いうまでもなく、多摩教会の聖堂の中が舞台だからですね。・・・そういう脚本なんです。2幕10場あるんですけど、2幕10場ともぜんぶ、聖堂の中のお話なんですよ。まあ、普通は、お芝居っていうと、どこそこの家とか、どこそこのお店とかって、場面が変わると場所が変わるもんなんですけど、そんな転換、われわれ素人にはできませんし、いっそ、10場ぜんぶ聖堂の中の話にしようって思ったわけです。
 ただ、10場とも聖堂の中って、なかなか脚本を書くのは難しかったです。・・・聖堂の中って、あまりこう、何もなさそうじゃないですか、ドラマが。それを10場、聖堂の中でね、2時間近くのミュージカルをつくるなんていうのは、大変スタイリッシュで、ちょっとこう、チャレンジングな演出、脚本なわけですけれども、まあ、そういうことをやらせたら、天下に晴佐久神父をおいて他にない(笑)・・・という脚本と演出になっております。
 そんなわけで、10場とも聖堂の中でさまざまなドラマが起こっていくわけですけれども、じゃあ、なんで聖堂を舞台にしたかというと、実は、このお芝居のテーマが「教会家族」だからです。
 教会は「家族」です。神さまが結んだ、無条件の家族です。そのすべては神さまのみ手(・ ・)のうちにあり、神さまのみ心(・ ・)によってすべての出来事が進んでいき、最後は神さまの愛によって素晴らしい実りがもたらされる。そんな、教会家族の本質を物語る脚本を書くにあたって、それを最も感じさせる場所って、実は、「聖堂」が最高の場所なんですよね。
 聖堂は、教会家族が一つになる場所。教会家族が出会い、共に祈り、ひとつの食卓を囲んで一致する聖なる場所です。キリスト者が脚本を書き、キリスト者が演出をし、キリスト者が役者をやり、キリスト者が大道具を作り、キリスト者がスタッフをやって、キリスト者が詰めかけて観るお芝居のステージの上が聖堂ならば、観ている誰もが、(あれ? じゃあ、この客席も聖堂じゃないの!?)(ってことは、私たちみんな、本当に家族なんじゃないの!?)って気づいていくという、それが、なんか、本当の意味で「聖劇」なんじゃない? と。
 ・・・聖なる劇。クリスマスに上演されるべき、神さまの愛を物語る劇。神さまの恵みが満ち満ちて、そこに集まった人が、「ここに神さまの救いが実現しているんだな」と体験できる劇、それを目指したっていうことでもあります。
 え~、観たくなってきました? (笑) DVDを作りますので、まあ、今日来られない方は、ぜひ、それをご覧いただきたいんですけれども(※4)

 その意味でも、この「みんなの家」っていう聖劇、これは、私、今の多摩教会でなければ絶対につくれない劇だっていうことを、今回つくづくと感じました。要するに、今の多摩教会、ホントに「教会家族」になってるんですよ。素晴らしいことだと思う。
 プログラムの「ごあいさつ」にも書きましたけれど、今回のミュージカル、作曲したのもここの信者ですし、演奏するのもここの信者ですし、歌うのもここの信者ですし、で、事務局も、ここの信者がみんなやってるわけですね。・・・これ、大変なんですよ。一つのミュージカル公演をプロデュースしていくっていうのは大変なんですけども、まあ、信者たちが、みんなで緻密に計画を立て、メーリングリストで連絡を取り合いながら、長い時間をかけ、手間暇かけ、会議を重ね、準備を重ねて、今日に至ったわけです。これは、そんじょそこらの、プロでミュージカルやってる人たちでも、ここまでは無理っていうような、家族としてのモチベーションと愛があって実現してるんです。
 こういうのって、やっぱり教会家族じゃなきゃ無理なんじゃないの? 現実に「教会家族」といえるようなチームじゃないと無理なんじゃないの? って、やっぱり、観てて思いました。
 多摩教会には、その底力があるんですねえ。私、こういう仲間たちが、こうして一つの目的に向かって頑張って力を合わせている姿っていうのが、なんか教会の本質だな~と思って、まさに、ここに神さまの愛とか、神さまのみ業が、目に見えるかたちで示されてるなって、今回は、ホントにそう感じてます。
 教会っていうのは、「神の愛の目に見えるしるし」ですね。教会を見れば、神さまってどういうお方か、イエスさまの教えってどういう教えかが分かる。今回の聖劇のプログラムの「ごあいさつ」に書いたんですけど、こういうことができるのは、やっぱり奇跡だし、それを実現するには、教会が信じ合うひとつの家族になっていないと無理だという意味で、「こんな奇跡を実現できることこそが、多摩教会がまさに教会家族であることのなによりのしるしだ」と。
 だから、「今日、このお芝居を観る方は、神さまの愛を目撃することになるでしょう」「神さまがこの家族のうちにホントに働いているっていうことが、この舞台を観れば分かるでしょう」と、そういう思いを込めて、「今日、みなさまに、神の愛の目撃者となり、証し人になっていただければ幸いです」と、書きました。
 ・・・私は、そういうことを、したかった。

 主役も当教会の青年です。二幕の主役ね。
 二幕の主役、まあ、ネタバレになりますけれども、うつを患ってるんですね。・・・脚本の中でですよ。でも、主役本人も、実際にうつを患ってるんです。その試練、それを支える仲間たち、信じ合って試練を乗り越えていく教会家族。それは、物語の中の空想の話じゃなくって、まさに、この7年間、私がこの多摩教会で経験してきたことを、全部そこに反映させて書きました。ですから、ステージを見ていて、「ああ、これは神さまがなさっておられることだ」っていうのが、分かるんです。たとえば、主役が歌っているとき、本人の心を語る歌詞の内容、その真実な歌声、それをリアルと重ね合わせて聴きながら、客席で心を一つにしている仲間たち。もうそういうところに、如実に表れる。・・・「これは、神さまのなさっておられることだ」ということが。
 お芝居っていうのは、そういうものを観て、ああ、ふだんのドラマ、つまり実際にわれわれがリアルに体験しているすべての出来事も、とても尊い、意味あることなんだということを信じるため、信じる力を養うためにある。

 私は、「多摩教会」という恵みの場で7年間奉仕してまいりましたけれども、正直言って、「多摩教会」って、今までいろいろと経験してきた教会の中で、最高の教会ですよ。・・・今までの教会の方、これ聴かないでほしいなと思いますけど。(笑) ・・・最高ですよ。
 何が「最高」かっていうと、教会家族にホントになってるな~って思うからでもありますけど、その秘密は、やっぱり、「信じ合うこと」っていうのにある。
 「家族」の定義って、覚えといてください、「信じているか、いないか」なんです。
 一緒に暮らしてたって、信じていなかったら家族じゃないですよ。血がつながってたって、信じ合っていなかったら、そんなもの家族じゃない。でも、バラバラでも、一期一会でも、信じ合っていれば、それは家族です。お互いを信じ、お互いを結んでくださった方を信じる、その信じる力が、キリストの家族を成立させるし、「教会家族」だなんていう奇跡を実現させるんです。
 その「信じ合う力」っていうのがね、この教会には満ちていますよ。神さまが特別に愛しているんだと思いますよ。特別に、ご自分の愛の、目に見えるしるしになさろうとしてるんだと思いますよ。「信じる」っていうことは、これ、「根拠なし」ですから。
 この家族に呼び集められているということだけで(・ ・ ・)、もう、「信じよう、隣の人を」、あるいは、「気の合わない人」を。面倒な出来事があっても、まあ、いろいろ小競り合いはあったとしても、そんなこと当たり前であって、「信じ合っているから、何があっても平気だ」っていうその底力は、やっぱり、この教会、素晴らしい。もっともっと、神の国を目指して、ホントの「信じ合う教会家族」を目指していってもらいたい。

 ルカの福音書、さっき読みましたけど(※5)、まあ、「聖家族」とはいうものの、聖母マリア、息子に叱られちゃいましたね(※6)。これ、息子が叱ってるのはね、言ってることは簡単なんです。
 「ねえ、お母さん、もっとぼくを信じてよ」
 そう言ってるんですよね。・・・まあ、そうはいっても、12歳の息子が、はぐれちゃって、どこにもいないとなったら、それ、捜し回るのは当然ですし、三日間も捜して、どれほど心配したかということを思えば、会ったときに、「なんでこんなことをしてくれたの。こんなに、お父さんもお母さんも心配したんですよ」(cf.ルカ2:48)って、言っちゃうのは、これはもう、聖母を責めることはできません。誰でもそうでしょう。
 ただやっぱり、イエスさまが特別なのは、それほどに非常識なことをしておきながら、「それでも、わたしが父の家にいるということを信じてよ」って言ってるんです。
 ・・・「父の家」っていうのは、神殿のことだけじゃないですよ。
 「わたしが、父に愛されて、父に守られて、父に生かされて、父に導かれて生きているんだっていうことを、お母さん、信じてください。一緒にいようがいまいが、生き別れになろうが、お母さん、何も心配せず、天の父にすべてを委ねてください。わたしは生涯、父の家におりますから。父に愛されて、父にすべてを委ねて、父のみ心のために、生きておりますから。お母さん、どうぞご心配なさらずに」
 ・・・そう言ってるんですよ。
 そのときは、まだ12の子どもにね、そう言われても、なかなか理解できずに、でも、聖母は心に納めておられました(cf.ルカ2:50~51)。そしてその後、折りに触れ、そのことを思い起こしながら、「ああ、本当にそうだ」「ホントにそうだ」って、理解していったでしょうし、最後は、十字架のもとに立ったんです(cf.ヨハネ19:25)。・・・「これも父のみ心だ」と信じて。
 およそ受け入れがたい、最もつらい試練に遭ったときに、「しかし(・ ・ ・)、天の父が、この私を愛している、この子を愛している、この世界を愛している。だから、信じよう」と。

 この「多摩教会」という恵みの場で、私たちはお互いに信じ合います。
 都合が良くても悪くても、気が合おうが合うまいが、「神さまが働いておられるんだから、必ずうまくいく」と、そう信じて、あらゆる、ここに神さまが呼び集めて来られる方を受け入れて、教会家族を広げてまいります。
 23日の「祈りと歌の夕べ(※7)」には、教会に初めて訪れたという方が二十数名おられました。大成功ですよ。その人たちに、私は福音を語りまくりましたし、あの中からまた、この教会家族に入りたいという人が現れるでしょう。間違いなく現れます。
 25日には、「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会(※8)」をやりました。今までで一番、人が集まった。大勢の、心の病でつらい思いをしている人がやって来て、涙を流して、「ああ、本当に、これが教会だ」という体験をした。あの中からまた、この教会に通い始める人が、必ずおられます。
 そして今日、27日の夕方、奇跡の舞台が、神さまのみ心によって、実現いたします。そのとき、あのホールは、もう「聖堂」でしょうね。友達に連れてこられて、そのお芝居を観た中から、「この教会の家族になりたい」と、そう思う人が、必ず出てきます。
 ・・・迎え入れましょう。
 まだ、手元にチケット、1枚ありますよ。(笑) 「どうしても!」っていう方、ぜひ観に行ってください。まさに、私たちのね、「多摩教会」っていう恵みの場が、神さまのみ心に(かな)った場であるっていうことを、誇りに思ってほしいです。あの聖堂、後で、写真でもいいから見てくださいね(※9)。・・・ホントに「聖堂」なんですよ。なんか、来年の復活祭なんか、あのセットで、あそこでやった方が、400人入っていいんじゃないかと思うくらい。(笑)
 神さまが特別に呼び集められた人たちの上に、大いなる祝福があるように、どうぞ、この聖堂で、本家の方で、お祈りしていただきたいと思います。
 神さま、お願いします。今日、無事に幕が開きますように。
 そうすれば、必ず、あなたの子どもが救われます。
 ・・・お願いいたします。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「「聖家族」の主日ですからね」
 カトリック教会は、特に幼少のイエスと、その両親の聖母マリアと聖ヨセフを「聖家族」と呼び、キリスト者の家庭の理想的な姿として記念している。
 この信心は、17世紀以降に起こり、特にカナダで非常に盛んになった。1893年に教皇レオ13世が任意の祝日として定め、1921年に教皇ベネディクト15世が一般ローマ暦に加えた。
 聖家族への信心は世界各地に広まり、聖家族の名称を冠する信心会や修道会もつくられた。
 カトリックの教会暦では、クリスマスと関連付けて、主の降誕(クリスマス)の八日中の日曜日に祝うことになっているが、「主の降誕」の祭日が日曜日の場合は、12月30日に祝われる。
 (参考) 2008年『岩波キリスト教辞典』 岩波書店
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 2015年12月27日(日)の、「聖家族」の祝日の集会祈願(※)は、以下のとおり。

「恵み豊かな父よ、あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。
わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」

(※集会祈願:ミサの導入部における「開祭の儀」のまとめのようなもので、この祈願によって、祭儀の性格が表現される)
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 なお、この日の『聖書と典礼』の裏表紙にも、「聖家族の祝日について」が掲載されているので、お持ちの方は、ご参照ください。
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※2:「ミュージカル『みんなの家』」
2015年12月27日(日)開催 ( 画像はそれぞれクリックで拡大 ) 
      (チラシ表)             (チラシ裏)
 
 今や名物ともなった多摩教会の「聖劇」。
 昨年はミュージカル仕立てにし、大好評。そこで、今年はひとりでも多くの方と「福音の喜び」を共にしたいと、外部ホールへ進出。400席のホールは前売り完売状態で、たくさんの方々に喜んでいただくことができた。その様子は、またお説教で話される予定(たぶん)。                      
(参考)
・ 「12/27(日)聖劇「みんなの家」☆チケット完売御礼」(カトリック多摩教会HP:ご案内ページ)
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※3:「建て込み」
舞台上で大道具を組み立てること。
(参考)
・ 「舞台用語辞典」(あさひサンライズホール)
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☆「建て込み」の様子@ i プラザ
 (下の画像は3枚です。画像に矢印が表示されますので、スライドさせてご覧ください)

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※4:「DVDを作りますので、まあ、今日来られない方は、ぜひ、それを観ていただきたいんですけれども」
 詳細は未定です。(2016/1/7現在)
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※5:「ルカの福音書、さっき読みましたけど」
2015年12月27日の福音朗読箇所
 ルカによる福音書2章41~52節
  〈小見出し:「神殿での少年イエス」〉
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※6:「聖母マリア、息子に叱られちゃいましたね」
 本日の福音朗読箇所(ルカ2:41~52)には、聖家族が、過越祭に、慣習に従ってエルサレムへ上ったときのことが書かれている。このとき、イエスは12歳。祭りが終わって帰路についたが、少年イエスはエルサレムに残ったままだった。両親はそれに気づかず、一日が過ぎた。気づいて捜し回り、三日後にようやく、神殿の境内で学者たちと共にいるイエスを発見。(以下、聖書の箇所:赤字強調引用者)
 
両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。(ルカ2:48~50)
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※7:「祈りと歌の夕べ」既出・以下再掲
2015年12月23日(祝・水)開催。
 キャンドルサービス、晴佐久神父のお話で始まり、共に祈り、そして、今年設立された「カトリック多摩教会混声合唱団」が、合唱の名曲をお届けした。その後、パーティーも開き、多くの方々と、恵みのときをご一緒することができた。
(参考)
・ 「祈りと歌の夕べ」(カトリック多摩教会HP:ご案内ページ)
・ 「オアシスが一瞬でも感じられる合唱」(このイベントの責任者のエッセイです。ぜひお読みください)
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※8:「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」(ここクリ)
2015年12月25日(金)開催。
 「クリスマスなんて縁がない」「「元気な人の中になんか、入っていけない」「私なんか、そんなのに出たらジャマになるだけ」・・・そんな思いに苦しんでおられる方々のためのクリスマス会。せめて、このひとときだけでも重荷をおろし、ホッとできる福音の喜びを味わっていただけるようにと始まり、今年で4回目を迎えた。
(参考)
・「12/25(金)『心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会』」(カトリック多摩教会HP)
☆2014年、第3回「ここクリ」の様子
 「『思いを寄せる』教会」(’14/12/28説教/説教最後の段落>この辺~)
☆2013年、第2回「ここクリ」の様子
 「もう癒やされなくても平気」(’14/1/1説教/説教中盤から終わりにかけて>この辺~)
☆2012年、初回「ここクリ」の様子
 「心を病んでいる人のためのクリスマス会」(’12/12/30説教/説教下から2段落目~)
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※9:「あの聖堂、後で、写真でもいいから見てくださいね」
(参考画像/リハーサルと、開演直前です)
 
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2015年12月27日 (日) 録音/2016年1月7日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英