人情あついイエスさま

【カトリック上野教会】

2016年4月10日復活節第3主日
・ 第1朗読:使徒たちの宣教:(使徒言行録5・27b-32、40b〜41)
・ 第2朗読:ヨハネの黙示(黙示録5・11-14)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ21・1-19または21・1-14)

【晴佐久神父様 説教】

 皆さん、おはようございます! 初めまして。よろしくお願いいたします。
 「晴佐久神父って、どんな人だろう・・・?」って思ってたでしょうが、「こんなん」です。(笑)
 「以後、よろしくお見知りおきを」ということです。

 先ほども、初めてお会いしたある方が、「思ってたのと全然違う!」って、(笑)おっしゃってましたが。・・・何を思ってたんだろう。(笑) 気にならないでもないですが、現実は「これ」です。いいも悪いもない。「晴佐久」というのはこういう(・ ・ ・ ・)人間で、神に望まれて生まれてきて、神の恵みのうちに生きてきて、そして、神さまの計らいによってここに来て、その神さまのために感謝と賛美を捧げております。
 ・・・いいも悪いもない。好きも嫌いもない。神さまのなさっておられる現実があるばかり。
 皆さんもまた、おんなじです。神さまに望まれて生まれてきて、神さまに生かされて今日まで生きてきました。もちろん、いいことも(いや)なことも、つらいこともあった。でも、今日、確かにここに座っていて、そして、神さまのみ心によって、今から、キリストの体をいただくのです。・・・この現実は素晴らしい。何にも替えられない。「これさえあれば、もうあとは何もいらない」といっていいくらいの恵みです。
 皆さんと、これから一体、どれくらい、こうしてミサを捧げてくことになるんでしょうね。1年、2年、3年、もしかすると、5年、10年、15年?・・・最初の日にはまったく分かりませんけど、(笑) 「神さまのみ(わざ)を、これから一緒にやっていきましょう!」っていう、そういう思いを込めて、この教会での最初のミサを、まごころこめてお捧げしたいと思っております。

 でもなんか、あんまり緊張しないですむのは、上野の方々、すごくフレンドリーですよね。そう思いますよ。赴任した教会に来て、最初のミサをするっていうと、もっと硬くなって緊張してって、思うんですけど、ここは、・・・なんだか、いいですね♡ (笑) のどかというか、・・・何でしょうかね。このあたりの、下町のあったかい人柄もあるんでしょうかね。
 つい数日前、ちょうどご婦人方の集いがあってね、挨拶したらお茶出してくれたんですけど、そのとき、私、いつも老眼鏡使ってるんで、皆さんに「私、老眼なんですよ〜」って言ったら、ある方がすかさず、「顔は童顔! 目は老眼!」(笑)
 いや〜、なんかこう、ホッとするというか、歓迎されてるというか、なんだか、もう何年も一緒にいるような気がしてきましたよ。・・・いいですねえ、こうして神さまが結んでくださった、この恵みのときを共にしている、ホントにうれしい気持ち。
 地域性っていうのがあるんでしょうね、このフレンドリーな感じっていうのは。でもね、そもそも、あったかい教会っていうのは、キリスト教の基本中の基本なんですよ。・・・堅苦しくない。決まり事じゃない。ただの「組織」とか、「その組織の伝統」とか、そういうことじゃない。「今」「ここに」、私たちが共にあって、信頼し合って、神さまに祝福されているという、この恵みを、私たちは分かち合います。

 今、福音書でお読みしましたけど(※1)、イエスさま、お優しいでしょう? ご自分が生きておられることを弟子たちに信じさせるために、三度も現れてくださった(cf.ヨハネ21:14) (※2)
 ・・・優しいんです。
 この辺は、下町人情があるんでしょうけれど、イエスさまも、人情があるんですよ。・・・、「人情」だなんて、なんだか聖書にふさわしくない言葉に聞こえるかもしれないけれど、聖書をよくよく読めば、それはホントに、「人情」の世界なんです。理屈じゃない。(おきて)じゃない。・・・人の心がある。思いやりがあり、情けがある。信頼関係がある。「正しいこと」よりもまず、「通じ合うこと」こそが何よりだっていうのが、キリスト教の基本中の基本。
 ・・・イエスさまがそうだった。どんな掟も超えて、「救ってあげようよ」「受け入れてあげようよ」「代わりに背負ってあげようよ」、そういう熱い思いを生き抜いた。・・・イエスさま、人情家なんですよ。
 そんな人情、それはそもそもは「神さまの情」なわけですけど、そこからキリスト教が始まったんだし、私たちはその情けにこそ、救いや希望を感じる。・・・最後は人情でしょう、やっぱり。いろいろあっても。「あいつも悪いやつだけど、やっぱり助けてあげようよ」とかね。
 イエスさまは、みんながどれほど苦しんでるか、弟子たちがどれほどつらい思いをしているか、人類がどれほど救いを求めているかをよく知ってるから、「何とかしてあげよう」という情けで語り、行動し、最後は十字架を背負って命も捧げた上で、さらには何度でも弟子たちに現れて、希望を示し、導き、育て、お世話をし続ける。

 3回目に現れたときなんか、イエスさまが食事を用意してくださってるんですよ。「炭火をおこしてた」(cf.ヨハネ21:9)と。
 私、この、炭火をおこした所っていうのを、イスラエル巡礼で見ましたよ(※3)。岸辺の坂になってる所に、平らな石の所があってね、「ここがイエスさまが炭火を起こした場所です」ってガイドさんがこう、指すんですよ。何人かは、「え〜? ホントに〜?(;¬o¬)」みたいな反応でしたけど、よくよく周りを見てみると、港はそこしかないし、ほかには平らなとこないし、確かに炭火をおこすとしたらここだろうなっていう場所だったんで、ちょっとなんか、感動しました。
 私、夏は青年たちとキャンプでよくバーベキューやるんですけど、炭火をおこすのって大変なんですよ。時間もかかる。手間もかかる。その炭火で、じゃあ「魚を焼きます」っていったって、それなりの準備も必要で、・・・これ、一人でやるの大変ですよ。なにしろ、まずは火をおこすわけでしょ。先ほど、「炭火がおこしてあった」(ヨハネ21:9)ってたった一言で読みましたけど、バーベキュー好きの私としては、これ、イエスさま、大変だったろうな〜と思います。(まき)を集めて、場所をつくって、火をおこす。薪が乾いてないと、火もなかなかおこらない。その火だって、ずっと燃やし続けてないと、弟子たちがいつ戻ってくるか分かんないじゃないですか。イエスさま、丁寧に準備して、疲れている弟子たちのために、精いっぱいやったんだと思いますよ。
 復活のイエスなんだから、こう、手を伸ばして、魔法みたいに「ハイヨ!」って火をおこした(笑)って、そう考えるのは、ちょっと違うような気がする。やっぱり丁寧に準備してくれたんですよ。魚を焼くっていうんだから、金網かなんかで焼いたんですかね。ともかく、さまざまな工夫が必要でしょう?・・・おなかが空いている弟子たちのために用意してくれた。彼らはもう二度、イエスさまには会ったんだけれども、これからどうなるのか、まだまだ不安でいた弟子たち。そんな弟子たちに、「何か食べる物があるか」って聞いて、そして、「ありませ〜ん!」って答えたら、「だいじょうぶだ。網を打て。必ず取れる」、そう励ましてくださって、そして網を下ろしたら、ホントにいっぱいとれて。(cf.ヨハネ21:5〜6)
 ・・・その瞬間、「主だ!」ってひとりの弟子が気づいた。美しい瞬間です。(ヨハネ21:7)
 私たち、本当はいつも、イエスさまに面倒見てもらってるんですけれど、励まされてるんですけど、なかなか、ホントに今ここでイエスさまが私に語り掛けてるんだ、ホントに私の世話してるんだって気づかないでいる。
 でも、たとえば、今日こうして新しい神父が来ました、福音を語ってます、これからパンを頂きますっていうときには、皆さんは、「主だ!」って気がつくべきなんですよ。「ここに主がおられる」「このミサこそ、主イエスそのものだ」「主が、私の世話をしてくださっている」っていうことに気づくべきです。
 「主だ!」・・・「そうだった。『ミサ』イコール『イエスさま』じゃないか。ここに(・ ・ ・)救いがあるんだ。ここはもう、天国なんだ。私たち、救われたんだ!」と。
 洗礼を受け、繰り返しご聖体をいただいている私たち。今日も、「主だ!」と気づくべきですし、さらには、そんな私たちのために、イエスさまは、手間暇かけて、炭火をおこして、魚を焼いて、パンまで用意して(ヨハネ20:9)、「さあ、朝の食事をしなさい」(ヨハネ20:12)と、招いてくださる。
 皆さんが、これから頂くご聖体、それは、イエスさまのまごころからの接待、歓待、・・・神さまの人情。
 「わたしは、あなたたちがどれほど寂しいか、よく分かってる。どれほど大変か、よく分かってる。どれほど足りないか、苦しいか、よ〜く分かってる。だから、今、わたしが食べさせてあげよう」
 主はそういって食べさせてくれる。
 ・・・私たちは、「主だ!」と気づいて、あとは主の恵みを食べるだけ。何も私たちは、求められてない。ただただ、頂くばかり。・・・いいんじゃないですかね、それで。この世を生きていれば、寂しい思いはしますけれども、痛い思いもしますけれども、イエスさま、ちゃんと用意してくださってますから。

 多摩教会も「寂しい思い」をしたんですよ。・・・「寂しい思い」、してくれてると思いますよ、分かりませんけれどね。「あ〜、いなくなってよかった〜♪」って言われてないといいですけど。(笑)
 昨日、夜に電話がきてね、多摩教会の小学生から。この前のミュージカル、聖劇(※4)にも出てた小学生ですけど、電話してきてね、でも、最初のうちは、何の用か、よく分かんないんですよ。・・・「はれれ、どうしてる?」とかって聞くのね。私、「はれれ」って呼ばれてるんです。・・・ニックネームですけど。
 「はれれ、どう? 新しい教会、どんな感じ?」・・・みたいなこと、聞くんですよ。
 だから、「うん。なんとかやってるよ。いい教会だよ」とかって答えてたら、急にこう聞くんです。
 「ねえ、はれれ、・・・さみしくないの?」
 ・・・私、グッときてねえ、
 「いや、そりゃあ、寂しいよ」って答えたら、
 「ぼく・・・、ぼくね・・・」って声を詰まらせて、あとは号泣ですよ。
 お母さんが、「あらあら・・・」って電話代わってね。
 「さっきかけても出なかったんで、どうしても電話するって言うの」とかって。
 ・・・グッときちゃいましたよ。
 私、7年間多摩教会でしたから、彼なんか、物心ついたときから、自分の教会の神父は私しか知らないわけですよ。その神父が替わっちゃって、なんか不安だったのか、寂しくなっちゃったのか、・・・号泣です。しゃべれない。
 私、彼に、ひとこと言いました。
 「だ〜いじょうぶ。これは、いいことなんだよ。早く大きくおなり。それがよ〜く分かるから」
 ・・・そうです。私たちは、寂しい思いをしながら大きくなってきて、そして今はキリスト者となって、イエスさまが共におられる。
 「失ったはずなのに、実は、失ってない」
 「分かれたはずなのに、実は、より深く交わっている」
 「終わったはずなのに、実は、まだ始まってすらいなかった」
 われわれは、大きくなって、そういうことを知りました。そして、信仰生活を生きております。安心して、信頼して、このミサで、神の国を待ち望みます。
 人情あついイエスさま、ぜ〜んぶ準備してくださってますよ。
 ・・・なんという安心!
 何も心配せず、一番困ったときこそ、私たちは、イエスさまの声を聴くべきです。・・・ミサで。み言葉で、福音で。
 そして、私たちは気づきます。
 「主だ!」
 「ここに主がおられる!」


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「今、福音書でお読みしましたけど」
2016年4月10日(復活節第3主日)の福音朗読箇所
 ヨハネによる福音書 21章1〜19節または21章1〜14節
  〈小見出し:「イエス、七人の弟子に現れる」「イエスとペトロ」〉
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※2:「三度も現れてくださった」
(参照箇所)
【三度目】 
(ヨハネ21:14)
 「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」
 
一度目と二度目については、この前の章の20章との関わりで諸説あるにせよ、聖書を読めば、以下のように考えるのがふつう。
【一度目】 
(ヨハネ20:19)
 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」
【二度目】 
(ヨハネ20:26-27)
 (一度目のとき、弟子のトマスは不在で、皆が「主を見た」と言っても信じない。そのトマスがいる所に主が現れた)
 
「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。 それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい』」
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※3:「炭火をおこした所っていうのを、イスラエル巡礼で見ましたよ」
 ガリラヤ湖北西のタブハという村に、「聖ペトロの首位権の教会(ペトロの召命教会)」がある。ここは、イエスがペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と、信徒を牧するつとめを委ねた場所に立つとされるが、その内部には、「メンザ・クリスティ」=「キリストの食卓」といわれる岩がある。今日の福音(ヨハネによる福音書21章)の、イエスが3回目に現れ、弟子たちと食事を共にしたのは、ここであるとされている。
 
①「聖ペトロの首位権の教会」内部の聖堂。手前の石版に「MENSA CHRISTI」(キリストの食卓)とある。
②「MENSA CHRISTI」(キリストの食卓)/横から見ると傾斜しているように見えますが、上から見ると平らだそう。
③ガリラヤ湖(=ティベリアス湖)の湖畔にある「聖ペトロの首位権の教会」:1
④ガリラヤ湖(=ティベリアス湖)の湖畔にある「聖ペトロの首位権の教会」:2
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 なお、この話に基づいて建てられた教会は二つある。
 ひとつは、上記でご紹介した、「聖ペトロの首位権の教会」
  (下の地図では、湖畔の場所に見える「Mensa Domini Church」)。
 もうひとつは、ナザレにある「メンザクリスティ教会」(「Mensa Christi Church」) 
(「拡大地図を表示」をクリックすると、GoogleMapが開きます)
(参考)
・ 「ペトロの首位権教会(召命教会)〜聖書の大地を行く(15)」(個人ブログ「模糊の旅人」)
・ 「イスラエルの旅 No.3-2」(個人ブログ「地球の旅」)
・ 「Tabgha(タブハ)」(個人ブログ「たけさんのイスラエル紀行」)
・ 「聖ペトロ首位権の教会」(デジタル大辞林)
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※4:「この前のミュージカル、聖劇」
 昨年(2015年12月27日)、カトリック多摩教会で開催した、聖劇ミュージカル『みんなの家』のこと。 教会ではなく、稲城市立i(アイ)プラザ ホールで行った。晴佐久神父の脚本、演出。小さな子どもから大人までの出演者、音楽制作、演奏、大道具小道具、事務スタッフ、すべて多摩教会の「教会家族」。
 DVDも予約販売したが、予想以上の大好評で増刷。現在も販売中。(「熊本地震」後、売上全額募金)
  (→ DVD販売中☆聖劇ミュージカル「みんなの家」 / → ご感想〈過去掲載分〉
(参考)
・ 「12/27(日)聖劇ミュージカル「みんなの家」☆チケット完売御礼」(カトリック多摩教会HP:ご案内ページ)
・ 「信じ合う教会家族」(2015/12/27説教)
   (参照)※2:「ミュージカル『みんなの家』
・ 「一瞬の勇気で、一生の家族」(2016/1/1説教)
   (参照)※1:「先週の聖劇
・ 「教会のご公現」(2016/1/3説教)
    説教中盤。上から8段落目(この辺〜)
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2016年4月10日 (日) 録音/2016年4月20日掲載
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