神さまの後始末

2013年10月13日 年間第28主日
・第1朗読:列王記(列王記5・14-17)
・第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ2・8-13)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ17・11-19)

【晴佐久神父様 説教】

 最近、週ごとに、少しずつミサの参加者が増えているような気がするんですけれども、気のせいでしょうか。
 いい季節になったということもあるでしょうし、今の世の中が、本当に福音を、救いを求めているということでもありましょう。われらが多摩教会、いっそう大勢の人を迎えて、「ここに救いがある」という天国の入り口になりましょう。
 いいじゃないですか、天国の入り口。この世知辛い世の中というか、あまりにもつらいことが多すぎる現実の中で、神さまが、「ここに救いがある」「ここに喜びがある」「ここに癒やしがある、安らぎがある」と用意してくださっている集まりが確かにある。これを私は、やはり「教会」と呼びたいと思う。この教会をもっと宣伝して、「どうぞ皆さん、いらしてください」と、「天国の入り口はここですよ~」と、みんなで工夫して呼び集めましょう。

 さっきの答唱詩編(※1)を聞いていて、ふと、クリスマスを思いました。「遠く地の果てまで、すべてのものが神の救いを見た」という答唱詩編、よく、待降節に歌うんですよね。クリスマスの準備の季節に。
 「遠く地の果てまで」「すべての人が」神の救いを見たと。それはつまり、「もはやイエスさまがお生まれになったんだから、すべての、どんな遠くの人でも、その救いに(あずか)ることができるんだ」という福音ですけど、でも、いくらそれが事実でも、ちゃんと知らせてあげないとね。
 それをみんなに知らせて、今年のクリスマス、もう入りきれないどころか、押すな押すなのクリスマスにしましょうよ。それくらいして、当然だと思いますよ。福音よりも価値あるものなんて、この世の中にないんだから。私たちはその使命を、もっともっと自覚していいと思いますし、神さまはちゃんと呼び集めてるんだから、私たちはそれに協力しなければ。

 かにえさん(※2)の顔が見えますけど、やっぱり先日の、あの電話のせいでしょうね。
かにえさん、私のクリスマス絵本『あぶうばぶう』(※3)の絵を描いてくれた大事な友人ですけれども、久しぶりに来ておられます。あの『あぶうばぶう』で救われた人、この教会にいっぱいいるんですよ。ありがとうございます。
 「あの電話」というのは、つい数日前、お通夜の間に、私の携帯にかにえさんから電話が入ってて、「何だろう?」って思ってかけ直して、「何ですか?」って言ったら、かにえさんも「何でしょうか」って言ってるから、「えっ? そちらの番号で電話がきてますよ」って言ったら、「ああ! すいません、息子がいじって押しちゃったんでしょう」って。(笑)
 小さな息子さんがね、いたずらでいじるみたいですね。それで、「ああ、そうでしたか。まあ、でも、元気そうな声が聞けて何よりです」なんて言って切ったんですけど。これは「ミサに来い!」という神さまからの電話かと思ったんですか?(笑) そんなわけで久しぶりにお会いできましたし、この天国の入り口の集いに加われたんだから、良かったじゃないですか。息子さんのいたずらだってですよ、神はご利用になるんです。「なんとしても集まれ!」ってね。ここにいる一人ひとりにね。
 今日も大勢集まりましたけど、なんでここに座っているか考えてみてください。ほ~んの偶然のはずですよ。あのとき、もう5秒違っていたら、もうここにはいないっていうような。でもそれは、ぜ〜んぶ、神さまがなさっておられること。
 あの絵本だってね、だれに描いてもらおうかって、ホントにホントに困って困って困り果てたときに、ふと思いついて電話をして、それでできた絵本ですし、多摩教会には、そのおかげでぜんそくが治っちゃったひとりの女の子がいて、そのおじいちゃん、おばあちゃんが今日来てますよ。あとでかにえさんと、お引き合わせしますね。
 すべては神さまがなさっておられること。ぜんぶちゃんとつないで、最後は天の国。この世の不思議な偶然に見えるすべてのつながりの向こうに、神さまがつくっておられる神さまご自慢の天の国の栄光がちゃんと用意してあって、世界はそこに向かって着々なんですよ。

 こんな美しい、よく晴れた秋の一日の日曜日に、これほど素晴らしい仲間が集まって、共に感謝と賛美を捧げている。これはもう、何ていうんでしょう、神さまの勝利のね、ひとつのしるしなんです。
 たまに、ここの教会によそから来た方が、よくいいますよ。「多摩教会は歌声が元気ですねえ」ってね。さっきも栄光の賛歌(※4)を聞きながら、だんだんだんだん、みんな盛り上がってね。
 いいですね。大きな歌声で、この現実を賛美して、感謝して、「ここに救いがある!」と高らかに歌い上げれば、その歌声を聞いて、また、仲間が集まって来るでしょう。

 イエスさまが、先ほどですね、福音書で、本当に美しいひと言を、最後に言ってくださいました。
 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(ルカ17:19)
 これは、本当に尊いひと言なわけですけれども、私はこの「救い」をですね、単に癒やされたっていうことだけじゃなくて、今日、たとえば私たちが神の愛を信じてここに集まって、共に感謝と賛美を捧げている、この賛美と感謝自体が、その「救い」そのものであり、天上の救いのしるしであり、入り口であると思う。
 どういうことかというと、普通には、ちょっと勘違いして聞いてるんですよね。これを、病気を治してもらって良かったねっていう話に読んでしまいますから。つまり、「『イエスさま~、助けてくださ~い!』って一生懸命声を上げたら、お優しいイエスさまが清くしてくださいました、よかったね」っていう話だと思っちゃうってことです。ですから、「あなたの信仰があなたを救った」っていう言葉も、「あなたがわたしを信じて、癒やされると信じたから、あなたは癒やされたんだよ」って読みがちなんですよね。・・・これ、違うんですよ。
 「あなたが一生懸命信じて祈ったから、あなたの病気が治りました」って、そんなんだったら誰だって一生懸命祈ればいいし、「信じて一生懸命願えば救われる」っていう教えは、まあいわゆる、御利益宗教ってことですよね。もちろん、それ自体は悪くはない。つらい現実の中で、一生懸命、御利益を祈ってもいいんだけれども、でも、キリスト教は、その御利益の向こうを見つめてます。
 では、向こうには何があるのか。

 癒やされた10人の中で、ひとりだけ、イエスのもとに戻って来ました。どうして戻って来たか。
 「大声で賛美しながら戻って来た」ってあります。賛美のため、感謝のためです。だから彼は道々、大声で叫びながら戻って来たんです。「私は癒やされた!」「私は救い主に救われた!」「神さまは本当におられる!」「神さまは本当に私を愛してくださっている!」「今まで本当につらかったけど、今、神の愛に巡り合えた。私はもう、何も恐れない。神よ、あなたを賛美します! 賛美します!!」って、大声で、道々叫びながら帰って来たんじゃないですか? そして、イエスの足もとにひれ伏して、地面に頭をすりつけて感謝したんですよ。それを見てイエスは、「そのように神の愛を信じ、そのように救い主イエス・キリストを受け入れたあなたの内に、今、本当の救いが実現している。その賛美と感謝こそが救いなんだ」と、そう言ってるんです。
 ただ癒やされたことが救いなんだったら、他の9人だって救われてるわけですけれども、その救いは、「病気が治りましたっていう救い」ですから、やがてはまた、別の病気になるやもしれず、病気は治っても、他のいろんなつらいことがあるやもしれず。そういう救いは、結局は相対的でしょ? でもこの帰って来た外国人、サマリア人は、大声で賛美して、ひれ伏して感謝する。この姿のうちに、もはや何を得ようと得まいと、何を失おうと失うまいと、そんなことをはるかに超えた、「神との交わり」という絶対的な救いが実現している。・・・それこそが、今、この聖堂で起こっていることじゃないですか。
 ここにいる皆さんも、つらい思いを、今、抱えていますでしょ。にもかかわらず、こうして賛美と感謝を捧げている。・・・同じなんです。

 今日、一周忌ということでご遺族が来られてますけれども、私も何度もお訪ねしては、出張ミサをいたしました。ご夫婦そろっての仲むつまじいホームでのお暮らしに、私たち、感動しておりましたけれども、ちょうど1年前、ご主人が亡くなって、奥さま、本当に寂しい思いをなさいました。今日は一周忌ということで、車椅子で奥さま、来られてますけれども、この一年、どれほどつらい思いをなさったか、それは事実です。しかし、しかしそのつらい思いは、何も変わらなくとも、その思いを持ちながらも、今ここに、天国の入り口があるのも事実なんです。
 私たち、「遠く地の果てまで、すべてのものが神の救いを見た」ってさっき、大声で歌いました。大声で賛美、そして深く頭を下げて、ひれ伏して感謝。このミサは、まさに私たちの信仰そのものです。この信仰のうちに、もう救いがあるというのがキリスト教でしょ。つらいものを抱えたままでも、私たちは救われているんですよ。
 そのつらいことが解決するのを、一応望みますし、祈りますよ。もちろん、解決したらうれしいでしょう。しかし、解決しないかもしれない。そのどっちにしても、私たちは、「つらいことによって真に神さまに出会えた」「つらいことに関わってくださる主イエスに救われている」っていう、究極の恵みの方にきちんと焦点を当てて、大声で賛美、ひれ伏して感謝。すると、イエスさまは声を掛けてくださる。・・・「あなたの信仰があなたを救った」
 日曜日のたびにそれを繰り返して、体験してるんですよ。いろいろな面倒なことはありますけれども、でも、ここに救いがあると、そう信じているならば、この日曜日は、もうホントに天国そのものじゃないですか。手前の御利益を求めるのも大事ですけれど、その向こうに、天国がチラリと見えるかどうか。

 先週、トマス小崎の話をしましたけれど(※5)、14歳の殉教者は、もうすぐ殺されるという前に、お母さんに手紙を書きました。「天国のまったき幸福を失いませんように」と。
 この、「手前の御利益」で願うなら、「神さま、この死刑から救ってください」じゃないですか、普通ならね。そもそも、トマス小崎、逃げようと思ったら逃げられたんですよ。でも雄々しく信仰を守って、もうほとんど自らといっていいようなもんですが、長崎の死刑の地に向かった。そのときに彼は、この手前の御利益のことは、もうどうでもよくなってるんです。その向こうの、天国の御利益、永遠の輝き、「まったき幸福」、それをのみ、彼は見つめている。
 われわれも、目先の御利益の向こうを見つめましょう。そもそも、考えてみたら、もうすでに頂いているたくさんの御利益があるはずですよ。忘れちゃならない、たくさんの御利益。まずはそのことを、大声で賛美、ひれ伏して感謝。さらには、その向こうをも見つめて、大声で賛美、ひれ伏して感謝。そこに救いがあるってことです。

 先週、ご葬儀がありました。ゴルフのお好きな方でした。女性で、ご年配で、ゴルフがお好きって、珍しいですよね。
 彼女も、何度も何度も病気を乗り越えたんですね。病気になるたびに、「もう一度ゴルフがしたい」ってね、そういう思いで熱心に闘病なさってね、そして、まさに御利益ですよね、神からの恵みをいただいて癒やされて、もう一度ゴルフができた。うれしかったでしょうねえ。今日、そのゴルフ仲間も来てますね。楽しかったでしょうね、いい思い出なんでしょう? 彼女は、何度も病気を乗り越えて、いい友達と一緒に美しいゴルフ場でゴルフをしておられました。ホントに幸せだったと思う。
 だけどやがて、治らない病気にもなるわけですよね。「治りました、ゴルフができました、また病気になりました、でもまた治ってゴルフができました」、そのたびに、大声で神様を賛美して感謝して、「ああ、またゴルフができました。ありがとうございます」って言う、それは悪いことじゃないですけども、でもやがて、治らない日が来る。つい数日前、この聖堂でのご葬儀でした。では、その「治らない」に、賛美と感謝はできないか。
 私、葬儀ミサの説教で、ふとゴルフのこと思い出してお話しをしました。
 私が一番最初に赴任した教会の主任司祭、カナダ人の主任司祭が、ゴルフ好きでね、いつも、「晴佐久神父さん、ゴルフしましょう」って誘うんですよ。「ゴルフは健康にもいいですよ。一緒にゴルフやりましょう」って。だけどその頃は、石川遼も松山君もいないし、ゴルフっていうと、白い太いベルトしたおやじのスポーツ(笑)みたいなイメージしかなくて、私はちょっと敬遠してたんですよね。今はね、若い人たちが、カッコよくゴルフやってますけど。
 「え~、私はいいですよ~;」って断っても、「行きましょう、行きましょう! ゴルフ場はきれいですよ。ほんとにあそこは、天国みたいです」って、よく言ってたんですよ。まあ確かに、美しい森があり、芝生が広がっていて、美しい池もあって、きれいなんでしょう。私は行ったことがないものですから、その証言だけが頭の中に残っていて、ゴルフ場っていうのは、もう、ホントに天国みたいにきれいな所なんだろうなあっていうイメージがあるんです。
 「ゴルフ場は天国みたい」ってね、もう亡くなった主任司祭ですけど、いつも言ってた。で、彼女はまさにその「天国」に行ったんですよ。「みたいな」とこじゃなく、本物の天国に。とはいっても、ゴルフ場、人間が造ったものですから、どんなにきれいでも、そしてどんなにそこでもう一度プレーできたらうれしいかっていうのもわかるけれども、それは究極の美しさでも、喜びでもない。ホンモノはその向こうにある。そして、彼女はもう二度とゴルフができないっていう話じゃないんです。天国そのものに行ったんだから。
 トマス小崎のいう「まったき幸福」って一体どのようなものなのか、それは誰も想像つかない。でも、きっと彼女は、いうなれば「天国のゴルフ場」で、「これこそが最高の喜びだ」っていうゴルフを味わってるんじゃないですか? あの主任司祭と一緒に回ってるんじゃないですか。
 葬儀ミサでは、私、思いつきで、「天国のゴルフ場だから、きっと、次々とホールインワン」とかって言っちゃいましたけど、後でよく考えてみたら、打ってぜんぶホールインワンだと、あんまり面白くない。(笑)そこはそれ、天国なりの、ドキドキ、ワクワクもいっぱいあって、きっとそれを味わっておられるに違いない。
 ご葬儀の彼女も、一周忌のご主人も、そのような「まったき幸福」を知っている。われわれは、まだ、その入り口ですが、大声で賛美、ひれ伏して感謝するように、神さまに集められました。

 パウロは、この世でどんな苦しみがあっても、それを耐え忍びますって、さっき言ってました。(※6) パウロ、捕まってるんですよね。でも、「神さまは、すべての人を救ってくださる。すべての人を栄光の世界に受け入れてくださる。主イエスが、それをもたらしてくれた。この福音のために、私は苦しみを受けて鎖につながれている。しかし、私を鎖につないでも、神の言葉はつながれていない」と、そう言ってるんですよ。カッコイイですよね~。
 「私は鎖につながれているけれど、神の言葉はつなぐことができない」
 だから、「神はあなたを愛している」っていう、その福音は、すべての人のところにちゃんと届くし、「わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます」と。こういう、天の国に憧れてやまない聖人たちの、その奉仕によって、忍耐によって、私たちのところにも、この恵みの世界がちゃんと届いている。

 群馬と京都、先週もいろいろ回ってきましたけど、群馬はプロテスタントの集まりで、群馬の多くの教会の方が集まってました。そこで素晴らしい説教を聴いたんですよ。
 私の講演の前に礼拝があってね、牧師先生が説教してくださった。牧師の説教って、なかなか聴く機会がないですから、どんなんだろうって、楽しみにして聴いてたんですけど、タイトルが「これらのことの(のち)」っていうタイトルだった。
 で、「これらのことの後」っていうのは、その日読まれた聖書、創世記の冒頭のひと言なんですね。「これらのことの後、アブラハムは神を信じて、自分の息子を神さまに捧げようとした。しかし、神さまが、そこからも救い出してくれた」っていう話のところです。で、「これらのことの後」っていうタイトルのお説教なのは、たぶんプロテスタントでは、朗読箇所の冒頭のひと言をタイトルにする習慣があるんだろうなと思ったんですよ。そしたら、違ってですね、この牧師先生は、「これらのことの後」っていう一節について、一生懸命話してくださった。
 私、おもしろいなと思って聴いてたんですけれど、その話は、「確かにいろんなことがいっぱいあるけれども、これらのことの後(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)、つまり、何があってもその後、神さまは必ず救ってくださる。これは神さまが、何があっても後始末してくださるということだ。今なお何かあり、これからもあるかもしれないが、神さまは必ず後始末してくださる。だから神さまに全面的に信頼していいんだ」というようなお話でした。私は、この「後始末」っていう単語に感銘を受けました。これ、一生忘れないでしょうね。・・・「神さまの後始末」、い~い言葉じゃないですか。
 「ぼくらはなんか、つまらないことしたり、失敗したり、あるいはなんか、勇気を持ってやろうとしても怯んだりしてるけれど、信じて神を受け入れるなら、何があろうと後始末は神がしてくださる。だから恐れるな」と、そういう説教だったんですよ。
 私、もう、うれしくなっちゃってね、そのすぐ後の講演でお話ししました。
 「私も、今日は一生懸命、恐れずに何でもここでお話いたします。どんな話になるかわかりませんけれども、聖霊が語らせるままに、信じていること、思いついたことをもう、早口でぜんぶしゃべります。何をしゃべっても、後始末はぜんぶ神さまがしてくださる」(笑)。そう言ってお話をした。・・・3時間、2回に分けて、しゃべりっぱなし。(笑) ほ~んとに楽しかった。
 集まった皆さんもね、とっても感動してくれて、「ああ、ここに天国あるなあ」っていう喜びがありました。今日も、カトリック、プロテスタント、いろ~んな教会に、この日曜日、いっぱい人が集まっていることでしょう。そうしてみんな、賛美と感謝を捧げて、イエスさまに出会えた喜び、神さまの愛を受けている感動を共にしているっていう、この現実に、私は励まされます。
 今日、ここに集まっているっていうことは、もう天国を味わってるっていうことです。だから、今、抱えているあらゆる苦しみ、悩み、恐れは、もはや、信じて集うこのミサにおいては、何の意味もありません。


【 参照 】

※1:「さっきの答唱詩編」
・ 詩編98・1、2+3a、4+5
(答唱詩編 : ミサ中、ことばの典礼の中にある聖書朗読ひとつで、詩編による黙想。第一朗読の旧約聖書の箇所にふさわしい聖歌が歌われる。歌は、答唱句と詩編本文に分かれ、答唱句は、第一朗読に対する答えであると共に、詩編本文の答えでもある。詩編本文は、先唱者のみが歌う(朗唱)する場合もある。詩編本文は、聴いて祈ることも推奨されている。)
本日の答唱句は、「遠く地の果てまで すべてのものが 神の救いを見た」。
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※2:「かにえさん」
・ かにえ こうじ : 東京生まれ。東京都立医療技術短期大学診療放射線学科卒業。漫画家さくらももこのアシスタントを経てフリーのイラストレーターに。第82回〜85回二科展デザイン部入選。『あぶう ばぶう』(晴佐久昌英著)のイラストを担当。
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※3:『あぶうばぶう』

(クリックすると大きく表示されます)

・ 晴佐久昌英(著)、かにえこうじ(イラスト)
出版社:ドンボスコ社 / 発売日:2010年10月 / 絵本 / 定価:1,050円
内容:福音、全開。イエスさまが ほら 何かお話ししたそうですよ。もう安心。
晴佐久神父があなたに贈る福音全開クリスマス。 生まれたばかりでお話しできないイエスさまのところにやって来たのは、病気のめめちゃんが心配な羊飼いと、帰り道がわからなくて困ってしまった博士たち。心を開いてお祈りすると……。さあ、つぎに来るのはだれかな。
「ドンボスコ社」商品詳細ページより<2013年10月18日現在、品切れ。再販未定>)
Amazon co.jpでは、2冊在庫あり<上記日付現在> )
楽天ブックスでは、2冊在庫あり<上記日付現在> )
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※4:「栄光の賛歌」
・ グロリア(Gloria)<ラテン語>
ルカ2:14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」を冒頭の句として、神への賛美とキリストへの賛美を歌う賛歌。現在、待降節、四旬節以外の主日や祭日、祝日に、ミサの開催のとき歌われる。
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※5:「先週、トマス小崎の話をしましたけれど」
・ 2013年10月6日(年間第27主日)説教「なすべきことをしたまでです」参照
「トマス小崎」については、同説教、【参照】の※4をご覧ください。
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※6:「パウロは、(中略)さっき言ってました。」
・ 本日の第二朗読の箇所、「使徒パウロのテモテへの手紙」(二テモテ2章8節〜13節)参照
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2013年10月13日 (日) 録音/2013年10月18日掲載

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