本国に帰る、聖なる準備期間

2015年9月13日年間第24主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ50・5-9a)
・第2朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ2・14-18)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ8・27-35)

【晴佐久神父様 説教】

 昨日の明け方の地震はだいじょうぶでしたか?(※1)
 結構怖かったようですね。「ようですね」というのは、私、いなかったんですよ。・・・空の上にいたんです。ローマから帰って来る途中で、羽田に飛行機が着きそうになったら、飛行機、降りないんです。ぐるぐるぐるぐる空の上を回ってて。下では地震があるっていう。
 私は、ひとつのことを心配いたしました。3.11(※2)のときに、棚から落ちて割れたワイングラスのこと。あのときはいくつも落ちて、ガチャガチャに壊れて掃除が大変だったので、ああ、また落ちてるんじゃないか・・・って。もっとも、さすがに学習したので、その後、食器棚のグラスの所に、「プチプチ」っていう、緩衝材を詰めてあったんです。だから、多分だいじょうぶじゃないかと思って、帰って見たら、だいじょうぶだった。・・・ああよかったと思って振り向いたら、出かける前に洗って、乾かすためにシンクの所に置いてあったワイングラスが二つ落っこって、割れてました。粉々に。
 教訓。・・・「思うようには、いかない」(笑)

 なんかねえ、小ざかしいというか、人間ってね、いろいろ頭使って、「こうしたらもっと便利だな」「こうしたら安全だな」「こうしたら幸せになれるな」って、あれこれ工夫するけど、結局は、われわれ人間の考えは浅はかで、貧しくて、大したこと考えてないんですよね。で、結局うまくいかない。だから、もう最初っから、「そういうもんだ」と、「人間は不完全である」と、「自分の考えでうまく生きていこうなんて傲慢だ」と、もっと謙遜になって、たとえどんな問題が起ころうとも、これも神のみ(むね)のうちにあると信じて、受け入れる。・・・これが信仰っていうことでしょうね。
 昨日の入門講座で、今日の福音書の箇所(※3)とか、あるいは、ペトロが復活のイエスから言われた言葉、「あなたは自分の行きたくないところに連れて行かれる」、つまり、「あなたの思うような死に方はできないよ」っていうようなことを言われるとこがありますね(※4)。それを引き合いに出して、
 「自分はそんなつらい十字架を背負えるだろうか。最後のときの、そんな思わぬ試練や苦難に耐えられるだろうか」って心配してた方がいるんですね。弱い自分に、そのような信仰があるかどうかが不安だって言うんです。ですから、私、答えました。
 「誰だって、どうせ思うようにいかないんだから、思うようにいかなくてもいいって最初っから思ってた方がいいですよ。最後は畳の上で、家族に手を握られて安心して大往生。・・・ってわけにはいかんでしょう。自分の願ったように、自分の思うように、自分にとって都合のいいようになんていうのは、神のみ旨を前にしては傲慢なんだって悟るべき。むしろ、自分の都合のいいようにならないときにこそ、神さまのみ旨が行われてるんだという信仰があれば、どんな苦難のさなかでも、希望が生まれますよ」
 「思うようにいきますように」って祈りと、「思うようにいかなくても、神よ、あなたのみ旨が行われますように」っていうのと、どっちが格上の祈りか。
 そもそもですよ、今日のこの、福音書の「十字架を背負ってついておいで」(cf.マルコ8:34)とか、「思うような所には連れていかれないよ」(cf.ヨハネ21:18)っていうような言葉は、現に、すでに苦難の中にいる人たちを励ますために書かれてるんですよ。だから今、安全な暮らしで、自由を保障されて、命を守られて生きてる、そういう時代に読むと、逆に「自分にできるだろうか」っていう恐れで読んじゃうんですね。
 でも、まさに殉教の恐れに直面し、苦難のさなかにあるとき、それこそ、自分が思うようにいかないギリギリの現場で読めば、「ああ、今背負っているこの十字架も神のみ旨のうちにあるんだ」「この思うようにいかない所に連れて来られたけれども、これこそが、神の国の入り口なんだ」と、希望の福音として読める。
 まさに、苦難のさなかにある人こそが読むべきものなんです、聖書っていうのは。なんたって、そういう人たちが書いたものだし、そういう人たちに向けて書かれたものだから。
 ですから皆さん、どうぞご安心ください。いよいよ試練のとき、苦難のときを迎えたとしても、それは、「私が勝手に、試練とか苦難とか思っているだけだ」と気づきましょう。で、聖書を開きます。すると、「むしろ、それが恵みなんだ」「むしろ、そこが天の入り口だ」って書いてあるんです。

 ローマで殉教者の地を回ってまいりましたけれども、どれほど多くの殉教者たちが、思うようにいかない現実の中で、信仰と希望に支えられてすべてを神に委ねてきたことか。
 昨日の朝、帰ってきて、すぐに入門講座がありました。いよいよ入門講座が始まりました。秋の講座。第2学期ですね(※5)。 昨日の入門講座でも、皆さんにお話ししましたよ。
 「いろんな所からこうやって集まってきて、いろんな思いでここに来ているんでしょうけれども、この集いは、素晴らしい神のわざの始まりなんです。今、あなたは、神さまの世界に招かれています。どのような苦難を背負っていても、神さまは、あなたを『必ず』救ってくださる。愛である神だから。殉教者たちはそれを証ししてくれている。
 それだけを信じ、それだけを学び、体験するために、神さまが皆さんを、ここに集めてくださった。ここに集まっていること自体が、神の愛の目に見えるしるしです」と。
 私、いつも入門講座でそう言うんですけれども、そういうふうに呼びかけて、新しい季節が始まりました。・・・秋ですね。
 皆さんも、またちょっと新しい気持ちになって、「今、ここが、単なる試練、苦しみのさなかではなく、天国の入り口なんだ」という喜びを、新たにいたしましょう。

 入門講座の後、昨日の午後には、納骨式を二つやりました。
 一つは府中墓地、一つは五日市(いつかいち)霊園。
 カトリックの霊園をはしごしたわけですけれども、一つ目の納骨の方は、いわゆる「総告解(そうこっかい)」をして亡くなった方です。いつか説教でもお話ししましたでしょ。病院で、病者の塗油を受けるときに、「ゆるしの秘跡を受けたい」って言った方ですね(※6)
 「総告解」って、聞いたことあります? 昔、ゆるしの秘跡は「告解」っていいましたけど、ただの日常の告解じゃなく、「総告解」っていうのがあるんです。「総」っていうのは、「すべて」ですね。「総動員」とかっていう、「総」です。自分のすべてを見つめ、今までのすべての罪を告白し、これからのすべてを神に委ねるというときの、ゆるしの秘跡総集編みたいなやつです。
 日常の告解、ゆるしの秘跡は、もちろん大切な意味はあるんですけれども、いよいよ人生の極みにおいて、すべての自分の思いを神さまにお捧げして、すべて赦され、受け止めてもらう。そういう、・・・なんていうんでしょう、「けじめのとき」っていうんでしょうかね、人生の節目にきっちり神に自分を明け渡すための、「総告解」っていう習慣があるんですよ。
 ちなみに私、神父になる直前、叙階式の前日に「総告解」っていうの、いたしました。自分の中に秘められていたとらわれ、弱さ、罪、それをもう、つぶさにきっちりと見つめて、ごまかしなく、100パーセント神さまに自分を委ねるために、まあ、洗いざらい、・・・総ざらいですね、棚卸しみたいなもんです。すべてを、神さまの前にさらして、
 これを、あなたは愛してくださる。
 これを、あなたは受け入れてくださる。
 そして、この私を、あなたは救ってくださる。
 ・・・そういう信仰を、新たにするんです。
 人生最後のときに、総告解、いいですね。もうホントに、しゃべれなくなるようなときに、神父を呼ぶっていうよりも、ちょっと前に、「総告解したいです」ってね。溜まり溜まった、積もり積もったものの、総棚ざらえ。すっきりとけじめをつけて、そうして、神さまにすべてを委ねる。それができれば、もう、試練とか苦難とかっていうのは、まあ、大したもんじゃないですね。
 昨日の、その総告解をした方の納骨式、30人くらい、ご家族ご親族、集まってましたけれども、私、パウロの言葉を読みました。「わが本国は天にあり」っていう箇所ですね(cf.フィリピ3:20)(※7)。・・・美しい言葉でしょ。私の本国、本籍は、天にある。そこが本来、私のいるべき所。聖書の他の言い方では、「地上では仮住まい」(cf.ヘブライ11:13他)(※8)と。本来いるべき所ではない所ですね、「仮住まい」。・・・もちろん、それは悪いもんじゃないですよ、「仮住まい」、必要でもあります。しかし、そこはいつまでもいる所じゃない。
 この総告解した方は、その仮住まいでのさまざまな出来事、自分の抱えてきた問題、苦しみ、・・・ぜんぶを総告解、すべて神さまの前にさらして、赦しの宣言を受け、そして、泣かれました。ポロポロと泣かれました。そして、「ホントに安心した」と、そうおっしゃった。
 その内容はね、もちろん、言うことはできませんけれども、非常に清らかな告白であったこと、ゆるしの秘跡であったことは、報告していいと思います。「ああ、この方、こういう思いを抱えて、誠実に、そんな自分を背負いながら、精一杯生きてこられたんだなあ」と、「そして今、神さまは、そのすべてを、ご自分の喜び、誉れとして受け入れてくださるんだなあ」と、私は感動いたしました。
 ポロポロと泣かれましたけど、そうして総告解が終わったら、病室から廊下に出ていた家族は、また部屋に入ってくるわけですね。告解は、司祭と、本人だけですから。家族は入ってきて、その、あまりにも晴れやかな顔を見て、驚いた様子でしたけれども、本人も「安心した」、「安心した」ってね、家族に繰り返しおっしゃっていた姿が印象的だった。そうして、家族に囲まれて、まさに晴れやかに、病者の塗油の秘跡をお受けになりました。
 仮住まいでの、あれやこれや。私たちはそれをとても大切にしますし、それにこだわりますし、それは当然のことではありますけれど、やっぱりどこかで、「これは『仮』だ」っていうことだけはね、忘れないようにしたい。
 たとえば、健康の不安がある。それはもう、それこそ、胸つぶれるほどの不安だったりする。でも、「健康」なんていっても、これ、「仮の」体のことなんですね。本当の体は、天で始まる。
 あるいは経済の不安がある。年金のこと、今後ちゃんと食ってけるだろうか、・・・確かに不安。でもそれは、この世の「仮の」お金の話なんですね。お棺の中には、一銭も入れません。天には富がある。永遠なる宝があるからです。
 思えば、私たちの人間関係の悩み、仕事の問題、あらゆる恐れ、痛み、かつてのつらい出来事、忘れられずにずっと背負ってきた思い、それぜんぶ、仮住まいの世界での話なんですよ。
 ・・・「仮だから意味がない」って言ってるんじゃないですよ。仮住まいあればこそ、本国にも帰れるわけだから、仮住まいは大事なんだけれども、あくまでそれは「仮」で終わるものなんです。
 これがですよ、ここがもうすでに本国だったら、本国なのにこんなに苦しいのか、この苦しみはいつまで続くのかとか、健康のことでもね、経済不安でもね、これが本番なら、心配になってもしょうがないでしょうけど、実はどんな試練もここでは「いっとき」なんですね、「仮」なんだから。
 永遠なる天、・・・本国を思う。
 旅をすれば、いろいろな発見があり、いいこともあるけれども、やっぱり、本国に戻るとき、飛行機の上で、「ああ、やっと帰れるんだ」っていう安心感は格別です。われわれはやがて、天の本国に帰るとき、去っていく地を惜しむのか、帰るべき本国に憧れるのか。どっちが大切かっていったら、それは本国でしょう?
 だから最後のときを心配することないんです。私たちは、それが始まりだっていう信仰を持っているんですから。
 帰るべきそのとき、まあ、多少はちょっと、「チクチク」くらいは痛いかもしれないけれど、どんなんだか知りませんが、いつまでもじゃないです。恐れることはない。

 第1朗読(※9)で、イザヤが、「神が救ってくださるんだ。何を恐れようか」って繰り返しておりました。「主なる神が助けてくださるから、平気なんだ」(cf.イザヤ50:7)と言う。7節と、9節、「見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう」(イザヤ50:9)
 いや、罪は確かに目の前にあるんですよ。でも、
 「主なる神が助けてくださるから、私はだいじょうぶなんだ。愛の神、全能の神、永遠をつかさどる神が、この私を助けてくださる。ああ、安心だ。信頼しよう」
 ・・・これを「信仰」という。
 イエスさまが教えてくださった、その信仰、私たちは、主イエスに、「あなたこそ救い主です」と、ペトロと共に信仰告白いたしますが(cf.マルコ8:29)、それは、イエスは救い主だという教えを信じるってことじゃなく、この「私」に対する、そのような、神さまの「愛」を信じるっていうことですよ。
 「主イエスを信じます」って、何を信じるんですか?
ある宗教の教義を信じるとか、あるいは理解した神学を信じるとか、そういうことじゃないでしょ。そんなのは、さっきペトロが叱られたように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)ってことでしょう。そういうことじゃない。
 ・・・神の愛を信じるんです。
 最後の最後、どのようなときが訪れるんであっても、それは、神さまのみ手のうちにある。恵みのうちにある。だから私は、何も恐れない。

 二つ目の納骨式は、五日市霊園でしたけれど、四姉妹が揃っておられました。
 多摩教会の墓地、ベンチができてね、いいですよ(※10)。あのベンチ、もうご覧になりました? 生きてるうちに先に見といた方がいいですよ。あそこで納骨式するのが、最近、楽しみでしょうがない。早く、皆さんの納骨式、(笑)したいです。
 昨日の納骨式は、年配のご姉妹だったので、ベンチに座ってやりました。最初と最後だけ立ちましたけど、あとは座ってね。・・・とてもいいかんじでしたよ。のどかで、ゆったりして。ベンチ作ったの、やっぱりよかった。
 四姉妹っていっても、次女が亡くなったんですね。だから、参列したのは長女と三女と四女の三人。で、次女はお骨でそこにいると。「四姉妹揃った」っていうのは、そういう意味ですけど。
 次女の写真を飾ってね、・・・私、会ったことはないんですけれども、四女がね、よくこの教会に来ておられます。で、写真も含め、四人並ぶとですね、もう、そっっっくり!なんですよ。(笑) 遺伝子って、ホントにあるなと、つくづく思う。でも、同じような遺伝子でも、早く召される人もいる。
 私、お話しいたしました。
 なぜ、神さまは、四姉妹をこの世界にお生みになり、なぜ、次女を一番早くお召しになったのか。そのわけは、神さまがご存じです。しかも、そのわけは、「愛である神」の「わけ」だから、とても素晴らしい「わけ」に決まってる。天国に行けば、そのわけが分かるけれども、今は分からない。
 四姉妹、すごく仲がいいんですよ。だから、次女が亡くなって、残された三人はいろんな思いを持たれたことでしょうけれども、すべては神さまの愛のみわざのうちにある。
 三人に、「さあ、次は誰かな?」っていう話までしちゃいました。・・・これって縁起でもない話ですか? 順当にいけば長女なのか、それとも三女なのか、四女なのか。神さまだけがご存じの愛の理由によって、やはり、定められている順番っていうのもあるんでしょうか。でも、その順番は知っても意味がない。まったく意味がない。
 知るべきは、それが、「神さまの愛によるものだ」という真実です。
 これだけは、知らなきゃならない。ちょうど墓碑の左側がいっぱいになったので、右側のトップに次女の名前が刻まれてましたけど、そのうちに長女の名前も刻まれ、四女の名前も刻まれ、・・・ってことになるんでしょうか。それはもう、神聖なる神さまの愛のみ心のうちにあること。
 私は、そこでは黙示録を読みました。「もはや死はない」っていう所です(※11)。「もはや死はない。嘆きも労苦も涙もない。最初のものは過ぎ去ったからである。すると、玉座から語りかける声がした。『見よ、わたしは万物を新しくする』」っていうとこですね。(cf.黙示録21:3〜5)
 「仮住まい」は過ぎ去ったんです。そして、まったく新しい、・・・まったく新しい世界が、神さまの救いの世界が、その人に訪れた。祝うべきですよ。

 ローマで、今回、カタコンベをお参りしてまいりました。
 私、洗礼名が「ペトロ」ですから、年に一度はペトロの墓参り。・・・ってことで、サンピエトロでは、教皇さまにも謁見しました。ただ、今回は、母の洗礼名がセシリア(※12)なので、トラステヴェレ地区にある聖セシリアの教会(※13)と、それからサン・カッリストというアッピア街道のとこにあるカタコンベ(※14)、聖セシリアが発見されたとこですね。そこを巡礼してまいりました。
 カタコンベは、初代教会のころから、ローマの郊外にキリスト教徒たちがアリの巣のように穴を掘って、たくさんの殉教者たちも含め、葬った所ですね。地下4層にもなっていて、総延長20キロですって。10万人以上葬られているとか。そのカタコンベだけでね。9人の教皇も葬られておりました。・・・殉教者の聖地です。
 この10万人、まさに1世紀、2世紀、3世紀、そんな頃ですよ。もう4世紀、5世紀になると、だんだん(すた)れて、ってのはもう、ローマもキリスト教国になりましたから。でも、この10万人、みんな苦難の中、試練の中、希望を持って、信仰を持って、永遠なる天に憧れながら、その生涯を捧げた先輩たちです。小聖堂もあってね、胸に迫るものがありました。真っ暗な地下で、希望の明かりをともして、そこでどんな思いでミサをしたんでしょう。
 ガイドさんに付いて回ったんですけど、途中、ふと耳を澄ますとミサの声がするんですよ。あれ、幻聴かなと思ったら、ホントにミサしてたんです。歌声も響いてきてね、「あれ、参加できませんか?」って言ったら、サレジオ会の神父がガイドしてたんですけど、「いや、あれはプライベート・ミサだから」と言われて、参加できませんでした。だから、「次回来たときは、絶対ここでミサしよう!」ってね、心に誓いました。だって、「福音のために命を失った」人たちがミサしたところですから。
 二千年前の歌声が聞こえるようでしたよ。試練の中、苦難の中、主キリストに「あなたは、メシアです」という信仰告白をして、永遠の命の希望のうちに眠りについた、いや、正確に言えば「この世」という眠りから、真実なる世界に目覚めていった先輩たちのことを思って、胸を熱くいたしました。

 私たち、仮住まいは、まだまだ、なかなか大変です。
 現に今日も、水害の被災地では、家に戻れない人たちも大勢いる(※15)。しかし、それでいうなら、私たちは、まさに、この世界という難民キャンプを、必死に生きているようなものです。しかしそれは、「本国」に帰る、聖なる準備期間なんです。
 だから、この「今」が、大事。
 殉教者ペトロと共に、信仰を告白いたしましょう。
 「主よ、あなたが救い主です」(cf.マルコ8:29)
 イエスは、
 「自分の十字架を背負ってついておいで」と言いました(cf.マルコ8:34)
 ・・・「仮住まい」という十字架を、喜びをもって背負い、主についてまいりましょう


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「昨日の明け方の地震はだいじょうぶでしたか?」
 このミサの前日にあたる、2015年9月12日(土)午前5時49分、東京湾を震源とする、マグニチュード5.2の地震が発生。
 多摩教会にも近い東京都調布市で、震度5弱を観測したほか、関東地方を中心に、東北地方から中部地方にかけて、震度4〜1を観測した。
(参考)
・ 「平成27年9月12日05時49分頃の東京湾の地震について」(気象庁)
・ 「地震情報 2015年9月12日5時49分頃発生(最大震度:5弱)」(tenki.jp)
・・・< 文中へ戻る

※2:「3.11」(さんてんいちいち)
 東日本大震災のこと。2011年3月11日14時46分頃に発生。
 東北地方太平洋沖地震と、それに伴って発生した津波、その後の余震などで大きな被害をもたらした。また、この地震により、福島第一原子力発電所の事故が起こった。
発生した日付から、「3.11」(さんてんいちいち)と略されることもある。
(参考)
・ 「東日本大震災」(ウィキペディア)
・ 「東日本大震災」(NAVER まとめ)
・・・< 文中へ戻る

※3:「今日の福音書の箇所」
本日(2015年9月13日〈年間第24主日〉の福音朗読箇所
 マルコによる福音8章27〜35節
 〈小見出し:マルコ8章27〜30節「ペトロ、信仰を言い表す」、31〜35節「イエス、死と復活を予告する」〔8章31節〜9章1節〕から抜粋〉
―――――――
【内容】
〔イエスは、ご自分の受難と死と復活について教え始められた。そして、「あなたはメシア」と信仰を宣言しながらも、その話を受け入れることのできないペトロに、「人間のことを思わず、神のことを思う」ように諭される。さらに、弟子や群衆たちに、次のように言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」〕

・・・< 文中へ戻る

※4:「『あなたの思うような死に方はできないよ』っていうようなことを言われるとこがありますね」
・ヨハネによる福音書21章18節
 「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」
・・・< 文中へ戻る

※5:「いよいよ入門講座が始まりました。秋の講座。第2学期ですね」
 カトリック多摩教会では、9月13日から、入門講座の秋期(2学期)が始まりました。
 いつからでも参加できますし、事前の申し込みや、出欠のご連絡等も不要です。お気軽に、遠慮なくご参加ください。
 入門講座のクラスは、金(19時〜20時半)、土(10時半〜12時)、日(12時頃〜13時)の3クラス。ご都合のよいクラスをお選びください。講師は晴佐久神父。無料です。
 詳細は、カトリック多摩教会のホームページ、「入門講座のご案内」をご覧ください。
・・・< 文中へ戻る

※6:「いつか説教でもお話ししましたでしょ。病院で、病者の塗油を受けるときに、『ゆるしの秘跡を受けたい』って言った方ですね」
・「安心の涙」(「福音の村」2012年6月28日説教)
 説教後半、下から3段落目(この辺〜)をお読みください。
 「病者の塗油」については、同説教の最後にある、【参照】※7を、「ゆるしの秘跡」については、※8をお読みください。
・・・< 文中へ戻る

※7:「『わが本国は天にあり』っていう箇所ですね」
・ フィリピの信徒への手紙 3章20節
 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」
・・・< 文中へ戻る

※8:「地上では仮住まい」
・ ヘブライ人への手紙11章13節
 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」

・ ペトロの手紙一 1章17節
 「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」

・ ペトロの手紙一 2章11節
 「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」
・・・< 文中へ戻る

※9:「第1朗読」
本日(2015年9月13日〈年間第24主日〉の第1朗読箇所
 イザヤの預言50章5〜9a節
 〈小見出し:「主の僕(しもべ)の忍耐」50章4〜11節から抜粋〉
・・・< 文中へ戻る

※10:「多摩教会の墓地、ベンチができてね、いいですよ」
多摩教会の共同墓地は、あきる野市の「カトリック五日市(いつかいち)霊園」にある。
今年(2015年)春、拡張工事が完成し、ベンチもできた。
(画像で、晴佐久神父が座っているのが、その「ベンチ」/画像はクリックで拡大表示
  多摩教会墓前で祈る晴佐久神父 '15春に広がった墓前のスペース 多摩教会の墓碑
(参考)
・ 「天上での宴の始まり」(「福音の村」2015年4月19日説教)
   説教上から2段落目(この辺)と、【参照】の※3
・・・< 文中へ戻る

※11:「『もはや死はない』っていう所です」
・ ヨハネの黙示録 21章3節〜5節
 〈小見出し:「新しい天と新しい地」から抜粋〉
 「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』 すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた」
・・・< 文中へ戻る

※12:「セシリア」
◎聖セシリア(2、3世紀ごろ)
 聖セシリア〈聖セシリアおとめ殉教者〉記念日:11月22日
 カトリック教会で有名な、古代ローマの聖女で殉教者。
 音楽の保護の聖人とされている。そのため、オルガンと共に描かれていることが多い。
 殉教後、カタコンベ(地下墓所・特にローマ帝国時代の初期キリスト教徒の共同墓所)に埋葬され、5世紀には記念する聖堂ができたが、現存するサンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会は9世紀に再建されたもの。この再建に伴い、遺体も移葬された。
(画像はクリックで拡大表示)
(参考)
・ 「聖セシリア」(ウィキペディア)
・ 「11月22日 聖セシリアおとめ殉教者」(ラウダーテ〈女子パウロ会〉)
・ 「聖セシリア」(アンティーク・アナスタシア)など
・・・< 文中へ戻る

※13:「トラステヴェレ地区にある聖セシリアの教会」
◎サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会(画像はクリックで拡大表示)
 サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会(外観) サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会(聖堂-3廊式バジリカ)
 「トラステヴェレ」というのは、「テヴェレ川の向こう側」ということで、ローマの中心地から見た場合、テヴェレ川をはさんだ向こう側を意味し、「ローマの下町」とも評される。バチカンからは南方にあたる。
 「サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会」の起源は曖昧のようだが、この教会(聖堂)の場所に、聖セシリアの生前の邸宅があったという伝説によって、5世紀ごろから、この名称で呼ばれるようになった。9世紀に聖セシリアの遺体が、教皇パスカリス1世によってこの教会に移葬された。以後、何度も改装されている。
 聖堂内にはピエトロ・カヴァリーニ作のフレスコ画『最後の審判』や、ステファノ・マデルノによる聖女の殉教の姿をとどめる大理石彫刻も所蔵されている。
(参考)
・ 「トラステヴェレ」(ウィキペディア)
・ 「サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会1」(個人ブログ)
・ 「美術館・教会巡り(383) ローマ、サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ聖堂」(個人ブログ)
・・・< 文中へ戻る

※14:「サン・カッリストというアッピア街道のとこにあるカタコンベ」
 ローマ市周辺のカタコンベは約60カ所あり、そのうち5カ所が一般公開されている。
 「サン・カッリストのカタコンベ」は、その一つ。アッピア街道沿いにある。地下4層で、迷路のような細い道が全長20キロメートル以上続いている。約10万人が祀られており、9人の教皇も葬られたことから、「小さなバチカン」とも呼ばれている。1854年に発見された。聖セシリアが埋葬された場所としても知られている。
(参考)
・ 「サン・カッリストのカタコンベ」(ユーロトラベルノート)
・ 「サン・カッリストのカタコンベ」(個人ブログ) 
・ 「アッピア地域・アルデアティーナ地域のカタコンベ」(個人ブログ)など
・・・< 文中へ戻る

※15:「現に今日も、水害の被災地では家に戻れない人たちも大勢いる」
 2015年9月9日から11日にかけて、いわゆる「平成27年9月関東・東北豪雨」が発生。9月7日から11日までに観測された雨量は、栃木県日光市今市647.5ミリ、宮城県丸森町筆甫536.0ミリなど、9月平年雨量の2倍を超える大雨が降った所があった。
 この豪雨で、河川のはん濫、浸水、土砂災害など、多くの被害が発生し、宮城、栃木、茨城県で計8人が死亡したほか、46人が重軽傷を負い、1万9千戸の住宅に被害が出ている。
(参考)
・ 「関東・東北の記録的豪雨を命名 気象庁」(tenki.jp)
・ 「平成27年9月関東・東北豪雨の情報」(国土交通省・国土地理院) 
  そのほか、新聞各社のニュースなどをご参照ください。
・・・< 文中へ戻る

2015年9月13日 (日) 録音/2015年9月20日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英