主の憐れみは必ず実現する

2015年12月20日 待降節第4主日
・第1朗読:ミカの預言(ミカ5・1-4a)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ10・5-10)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ1・39-45)

【晴佐久神父様 説教】

 今年もそろそろ終わりに近づいてきましたけれども、どんな一年でしたか?
 神さまに祝福されて、いろいろいいこともあった。この自分の弱さゆえに、さまざまなつらい思いもした。・・・いろいろありましたけれども、いずれにしても、この年の最後のほうにあたって、「イエスさまが来られる」っていう、この毎年の「仕組み」っていうのかな、流れっていうのは、いいですね。一年間いろいろあって、そして最後に、イエスさまがちゃんと、私たちの間に来てくださる。
 ・・・それが、「クリスマス」です。
 「イエスさまが、私たちのうちに来てくださる」ということは、私たちのすべてが(・ ・ ・ ・)、もう赦されて、私たちのすべてが(・ ・ ・ ・)、受け入れられて、私たちのすべてが(・ ・ ・ ・)、もうよいものに変えてもらえるという、最高の喜びです。
 一年間、いろいろ頭で考えたり、いろいろ失敗したり、あんなことを思ったり、こんなことをやったりと、やってきましたけれども、どれも結局は人間の考えであり、人間の(わざ)であり、それには限界があって、まあ、バタバタな一年でしたけど、最後に神さまが、ちゃ〜んとつじつまを合わせてくれるというか、 すべてを祝福するかのように、年の終わりにイエスさまが来られて、「これでよし」と。毎年そういう流れになっているような感じで、いいですね。そして、新年を爽やかに迎えて、また来年も、・・・いっぱい罪を犯すのです。(笑) そしてまた来年も、クリスマスが来る。

 マリアさまがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトが、素晴らしい宣言をいたしました(※1)。最後の一行
 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45
 この「主がおっしゃったこと」って何かっていうと、このすぐ後で、聖母マリアが、「マリアの賛歌(※2)」っていうのを神さまに捧げてるんですけど、その中で強調されているのが、「神さまの(あわ)れみ」なんですね。
 「神の憐れみは代々に限りなく」(ルカ1:50)とか、「神さまは決して憐れみをお忘れになりません、永遠に」(cf.ルカ1:54-55)というような言葉が出てくるとおり、マリアの賛歌で強調されているのは、「神の憐れみ」です。
 「憐れみ」っていう言葉は、ホントにいい言葉ですよ。一番弱いところ、一番貧しいところ、一番傷ついているところに、特別にいつくしみを示すっていう意味ですから。
 この一年間、いろいろと弱い人たちの現場、苦しんでいる小さな人たちの現場をいっぱい見ましたけれども、聖母の賛歌の、「神は決して憐れみをお忘れになりません」(cf.ルカ1:54)っていう、 そういうみ言葉(・ ・ ・)を、私たちは信じているし、聖母が「主がおっしゃったことは必ず(・ ・)実現すると信じた方は、なんと幸いか」(cf.ルカ1:45 強調引用者)と言ったように、 私たちも、「主の憐みは必ず実現すると信じた者」でありましょうよ。
 ・・・神は、憐れみ深い。

 「いつくしみの特別聖年(※3)」が今月から始まりましたけれども、12月8日、マリアさまの祝日から始まったんですね。
 「いつくしみ」っていう言葉のこと、教会ニューズにも書きましたけど(※4)、辞書で試しに引いてみたら、「かわいがる。大切にする」っていうような感じです。・・・「かわいがって大事にする」。で、用例として、「わが子のようにいつくしむ」っていうのも出ていました。「わが子」っていうのは、小さくて、いとおしくって、弱くって、それを「いつくしむ」わけですよね。
 神さまの「いつくしみ」、神の「憐れみ」、ほぼ同じ意味です。この「憐れみ」や「いつくしみ」、それが、この世界において実現するし、それを「信じた人は、本当に幸い」(cf.ルカ1:45)。・・・ここが、キリスト教の一番素晴らしい、というか、 うれしいところでしょ。私たちは、弱くなればなるほど、 こういうみ言葉に励まされるわけですね。
 ・・・神さまの「憐れみ」、「いつくしみ」に。
 その「いつくしみの特別聖年」にあたって教皇フランシスコが出した大勅書(※5)っていうのがあるんですけど、その中に、おもしろい引用があった。トマス・アクィナス(※6)っていう、有名な神学者の言葉ですけど、「神さまの全能は、何よりも第一に、憐れみによって明示される」っていう言葉です(※7)
 神は全能ですから、宇宙もつくる。人間も生み育てる。そして神の国をやがて完成させる。・・・もう、何でもおできになる、神さまは。ただ、その神の全能っていうことを、何によって一番知るか、何をもって、その神の全能が明らかになるかというと、「憐れみによってだ」っていうんですね。
 この弱い私が、神さまの憐れみによって(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)祝福されて救われる。
 この罪深い私が、神さまの憐れみによって(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)赦されて、まことの幸いに導かれる。
 この真っ暗闇な世界が、神さまの憐れみによって(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)輝きに満たされて、やがて永遠なる「神の国」として完成する。
 ・・・この神さまの憐れみによって(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)、神さまが本当に全能であることがはっきりと表されているのです。
 弱い私たち、罪深い皆さん、神さまの憐れみが、そんな私たち一人ひとりのうちに表れているからこそ、なるほど神は全能だ、何でもおできになると知ることができる。だから、私たちは諦めちゃいけないんです。何があろうとも、諦めてはいけない。試練の中で「もうこれで終わりだ」なんてことが、あってはいけない。たとえそう思っちゃったとしても、神は全能であり、憐れみ深いんだから、もうこれは無理だという状況でも、それを必ずよいものに変えてくださる。この神の憐れみ深さ、それを私たちは信じます。
 聖母マリアは、神の憐れみがこの歴史において必ず実現すること、それを信じた。
 「いや、私にはとても無理です」とか、「これほど暗い世の中には、もはや救い主が来ても無駄でしょう」とか、そんなことを、聖母がもし思ったらですよ、イエスさま、お生まれにならなかったわけだ。聖母が、「はい。お言葉どおりになりますように」(cf.ルカ1:38)って、そう引き受けたから、「神は憐れみ深く、その憐れみを必ず実現する方だ」と、そう信じたから、そこにイエスが宿った。
 だから、皆さんも聖母マリアになるべきですよ。「神さまは絶対に憐れみ深い」と信じる聖母になるべきですよ。皆さんも、今、悩んでいることや、恐れていることや、困っていることや、いろいろあるでしょうけれど、それにもかかわらず、「神は憐れみ深い」、「お言葉どおりになりますように」、と。
 「わが子のようにいつくしむ」っていう辞書の用例のように、神さまは、すべての(・ ・ ・ ・)わが子を、か弱いわが子をいつくしむ。それを信じたとき、皆さんの中にイエスが宿るんです。皆さんも、聖母マリアになるんです。そうしてイエスさまが宿ったら、もう百人力じゃないですか。 皆さんの中に宿ったそのイエスさまが、 大勢の人を救いますよ。
 信じるならば、そこに救いが訪れる
 それが、「主イエスを迎え入れる」というクリスマスの本質です。

 12月8日、「いつくしみの特別聖年」が始まりました。それは聖母の祝日でありますけれど(※8)、私にとっては、12月8日というと、以前もお話ししたと思いますが(※9) ジョン・レノン(※10)の命日なんですよ。12月8日っていうと、まずそれを思い出す。
 今年で35周年なんですね。ああ、もうそんなになるんだと思う。「イマジン(“Imagine”)」という歌がありますけれど(※11)、この私たちが、さまざまな、民族だの思想だの、原理主義的な宗教だの天国だの、いろんなものにとらわれて、バラバラになっているときに、一番本質の普遍的な世界、それをこそ神の国とでも呼ぶべき透明な世界を、ジョン・レノンは歌ったわけですね。
 「みんな、イメージしてくれよ」と。「イマジン(Imagine)が大事なんだ」と。
 そして、「いったいみんな、何にとらわれてるのか」と。
 ホントに透明な、そんな神さまの世界を歌ったあの歌は、私にとって、もう「聖歌」みたいなもんですけどね。讃美歌みたいなもんです。
 35周年にあたって、12月8日の命日に、ジョン・レノンの追悼に行こうと思って、当日は無理でしたけど、先週行ってまいりました。 おととい、ニューヨークから帰ってきたところです。ジョンが住んでいた「ダコタ・ハウス」の前にセントラルパークがあって、そこに「ストロベリーフィールズ」っていうコーナーがあって、そこに「IMAGINE」(イマジン)ってね、オノ・ヨーコがこう、モザイクをはめ込んだんですね(※12)。その周りには、ジョンのファンが常に集まっていて、今回も行ったら、「イマジン(“Imagine”)」を歌っている人がいましたよ。 ギターを抱えてね。周りにベンチがあってね、みんなで囲んで、静かにそれを聴いている。
 実は9・11の直後にも、私、ニューヨークに行きました。縁のある、マイケル・ジャッジという神父(※13)が亡くなったんですね。その追悼のミサを捧げるために行ってまいりました。まだグラウンド・ゼロから、煙がモクモクと上がっているとき。そのときも、大勢の人が、ストロベリーフィールズで「イマジン(“Imagine”)」を歌っていました。
 今回、9・11の跡地に行きましたら、もう立派に整備されていて、 二つのタワーのところが、プールのようなモニュメントになっていて、周囲には亡くなった方の名前がぜんぶ彫り込まれてあって、まあ、家族か何かなんでしょう、自分の親しい人の名前の所に、バラの花なんかを飾ってるんですね。彫ってあるから、茎を差し込めるんです(※14)
 隣にはメモリアルセンターができていて、見学いたしましたが、入ってから出るまで、ず〜っと私、「なんという野蛮・・・!」「なんという野蛮・・・!」って、つぶやいておりました。あのテロはホントに野蛮な出来事だった。
 実際に、恐ろしい映像がいっぱい展示されていて。特に、燃え盛る炎の中、逃げる場所もなく、窓を割って外に身を乗り出している大勢の人たちの映像は、やっぱり、(ああ、見なければよかった・・・)って思いました。でも、見るべきです。事実なんだから。動画でね、そういう人たちが、ぱらぱらと落ちてくる映像も展示されているんですよ。
 つらかったのは、全員の顔写真の部屋です。全員の顔写真が、ダーって貼ってあって、一人ひとり、みんなニコニコしてるわけですね。それぞれの人生。何千人という方々の写真です。・・・マイケル・ジャッジ神父さまのお写真もありました。
 ただですね、私、「なんという野蛮・・・!」「なんという野蛮・・・!」ってつぶやいていたのは、もちろんテロに対してですけど、同時に、そのテロへの報復戦争のことでもあります。だって、報復戦争が始まって、10万というオーダーで人が死にました。民間人です。だから、私、アフガニスタンにも、イラクにも、メモリアルセンターを造るべきだと思いました。同じように、その10万人のお写真を、ぐるりと掲げるべきだと。
 人間のやっていること・・・なんという野蛮・・・!
 こんな現実に、救いは本当に来るのかって、思わず思う。思わず(ひる)むんですね。これやっぱり、人間って、どんどん悪い方に行くんじゃないか、テロリストはやがて核を手にするんじゃないか。・・・私たちは(おび)えます。そして、守りに走ります。悪いものを排除しようとします。寛容さを失い、暴力的になり、人間はやがて自らを滅ぼすまで争いをエスカレートさせる・・・のでしょうか? それとも、踏みとどまって、神の国に向かって、忍耐強く、一歩、また一歩と歩み始めることができるのでしょうか?
 私は「できる」と信じます。なぜなら、「神は全能」だから。
 全能の神の憐れみを、私たちは信じます。 信じて、ほんのちょっとでも憐れみ深い者になって、神のみ業に協力しようと、そういう決心を新たにいたします。それ以外に、世界が救われる道はないですから。
 そのために、「主イエスよ、私のうちに宿ってください」と祈ります。クリスマスですから、今こそ私のうちに、と。・・・先ほどの第1朗読(※15)の最後にもありました。
 「彼こそ、まさしく平和である」(ミカ5:4a)
 主イエスのことを預言しているんですよ。・・・「彼こそ、まさしく平和である」と。その方が私たちのうちに宿らない限り、私たちは、いったいどうなってしまうのか。
 ・・・神の憐れみを信じてください。そして、イエスのように憐れみ深い者になってください。

 洗礼シーズンに、次々と面談をしておりますけれども、その方たちに、やっぱり、私は、「神さまが憐れみ深い」っていうことを、何とか伝えたい。っていうのは、迷っている人もいますから。
 まあ、洗礼を迷っても、別にいいです。迷ったところで、もう、「聖霊による洗礼」は受けていますしね、すでに救われているという意味では、本人知らなくともホントに救われているんですから。だけど、「神さまの憐れみ」によって私たちは救われているんだという、その喜びは、やっぱり知ってもらいたいですよ。
 昨日面談した方は、結局、「私は洗礼を受けるつもりはない」と、「どうしても心からは信じられない」っていうことを、私に訴えました。
 「晴佐久神父さんが、よく説教で、『あの人も救われた、この人も救われた』っていう話をするけれども、なんだか、安っぽいダイエットのCMみたいに聞こえる」って言うんですよ。
 だから私、即座に申し上げました。
 「ダイエットのCM、素晴らしいじゃないですか。『あの人も痩せました、この人も痩せました』って、・・・福音でしょ? ホントに痩せたいっていう人には福音ですよ。だけど、ダイエットのCMを見て、ダイエットに成功したら、本当に幸せになるのか。本当に神の国が来るのか。それは、どう思いますか?」と。
 私が、「あの人も救われた、この人も救われた」って言っているのは、決してこの世的なね、ひと時の喜びの話じゃない。神の憐れみがあなたに及んで、「今あなたは、本当に、永遠なる神さまのいつくしみの中にある」っていう宣言、それを信じた人は、なんと幸いかという、そういう証しを私はしているんです。
 ダイエットなんて言ったって、・・・ねえ、すぐにまた、・・・元に戻るんでしょ?(笑) テレビコマーシャルで、おなかの出たおじさんがションボリしていて、やがて音楽が変わると、すっかり痩せちゃって、ニッコニコしてガッツポーズしている、・・・でも、あのおじさんも、その後どうなっているか。また元に戻ってるんじゃないですかねえ。・・・だから、私、その方に、その話をしたんです。
 「ダイエットなんて、リバウンドするでしょ? 私が証しした人たち、もう救われていると信じ、神さまの無限のいつくしみを信じ、永遠のいのちへの希望を新たにした、そういう人たちの中で、リバウンドした人なんて、一人も知りませんよ。
 『神父さま、私は福音を信じて、受け入れて、まことの救いに目覚めました。本当に洗礼を受けてよかったです』って言ってた人が、やがてまた、まったく元に戻って、暗闇の中を生きているなんて、・・・まあ、多少はね、浮き沈みがあるにしても、『元に戻る』なんていうことは、見たことがないですよ」と、そう証ししました。信じてほしいんです。

 神さまが憐れみを示す。
 ・・・それはもう、永遠なることです。
 「主がおっしゃったことは必ず実現する」(ルカ1:45)って信じていただきたい。その信仰において、主イエスは、素晴らしい働きをしてくださる。特に弱っているとき、苦しんでいるときほど、そのような信仰が、私たちにとって輝きます。クリスマスも近いけれども、ぜひぜひ、もっともっと、神さまの憐れみに、寄りすがっていただきたい。何も考える必要がないです。何も恐れることもないです。
 「主がおっしゃったんだから、主の憐みは必ず実現する」、この信仰です。
 主がおっしゃったのだから、宇宙は存在し、
 主がおっしゃったのだから、私が存在し、
 主がおっしゃったのだから、私に憐れみが必ず示される。
 その憐れみは、代々とこしえに(cf.ルカ1:54〜55)


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「マリアさまがエリサベトのところに行ったとき・・・」
この日、2015年12月20日の福音朗読箇所
 ルカによる福音書1章39〜45節
  〈小見出し:「マリア、エリサベトを訪ねる」(1章39〜45)〉
・・・< 文中へ戻る

※2:「マリアの賛歌」
ルカによる福音書1章47〜55節。
 イエスを身ごもった聖母が、洗者ヨハネを身ごもった親類のエリサベトを訪ねたときに祈った言葉。
 詩編の伝統的な形態、特に感謝の詩編の表現形式に従って、神の国の到来という、新しい時代が始まったことを歌いあげている。この賛歌には、神の民への奉仕に全力を尽くす彼女の姿勢も示されている。彼女において、彼女によって、救いが告知され、約束が成就し、また、彼女の貧しさのうちに、真の幸いが神秘的に実現したといえる。
 このマリアの信仰は、「神の民」の信仰のほかならない。それは、たえず暗黒と試練を体験しながらも、感謝をもって救いについて黙想し、献身的に奉仕することにより、少しずつ光を受けて深まっていく、つつましい信仰である。(ヨハネ3:21,7:17,8:31〜32)
(参考)
・ X.レオン・デュフール編(1993) 「マリア」,『聖書思想辞典』 三省堂

************☆************
【マリアの賛歌】(ルカ 1:47〜55)
 わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、
 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

************☆************
・・・< 文中へ戻る

※3:「いつくしみの特別聖年」既出
 教皇フランシスコは、2015年3月13日、バチカンで行われた共同回心式の際、「いつくしみの特別聖年」の開催を宣言した。
 教皇は、今までも繰り返し、神のいつくしみに気づくことがいかに大切であるか、また、神のいつくしみが、今、世界中で、いかに必要とされているかを話し続けてこられたが、特に、この特別聖年を通し、「誰も神のいつくしみから排除されることはない」と呼びかけ、いつくしみ深い神を知り、皆が神のもとへ帰るように、また、神との出会いによって、その豊かないつくしみに目覚めるようにと願われている。
 この特別聖年は、2015年12月8日、無原罪の聖母の大祝日に始まり、翌2016年11月20日、王であるキリストの大祝日に終了する。(「特別聖年」については、「既出」をご覧ください)
(参考)
・ 「いつくしみの特別聖年」(カトリック中央協議会)
・ 「教皇、特別聖年を宣言/大勅書を発表し、特別聖年を公式に宣言(2015/4/17)」(カトリック中央協議会)
教皇フランシスコ、いつくしみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」(カトリック中央協議会)
・ 「いつくしみの特別聖年」<関連記事>(バチカン放送局)
・・・< 文中へ戻る

※4:「教会ニューズにも書きましたけど」
 カトリック多摩教会では、『多摩カトリックニューズ』という月報を発行している。その、今月(12月号)に主任司祭巻頭言として、晴佐久神父は、「いつくしみの特別聖年」というタイトルで記事を寄せている。
(参考)
・ 「いつくしみの特別聖年」(『多摩カトリックニューズ』12月号 主任司祭巻頭言)
・・・< 文中へ戻る

※5:「『いつくしみの特別聖年』にあたって教皇フランシスコが出した大勅書」
(参考)
教皇フランシスコ、いつくしみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」- 2015年(教皇在位第3年)4月11日 復活節第2主日、神のいつくしみの主日の前晩 -(カトリック中央協議会) >>> 「PDF版はこちら」(PDF版で47ページあります)
・・・< 文中へ戻る

※6:「トマス・アクィナス」
◎「トマス・アクィナス」 (Thomas Aquinas)
 1225年頃〜1274年 ナポリ近郊に生まれる。
 イタリアの盛期スコラ学最大の哲学者、神学者。ドミニコ会士、教会博士。「天使的博士(Doctor Angelicus)」と呼ばれる。カトリック教会と聖公会では聖人。カトリック教会では、33人の教会博士のうちのひとり。
 その思想の歴史的意義のひとつは、信と知を明確に区別し、同時に両者の有機的な関係を基礎づけ、学としての神学を樹立したこととされている。「恩恵は自然を完成する」という洞察は、彼の哲学、神学を貫いている。「神が人となった」という新約のメッセージのうちに、汲み尽せぬ知恵を見出した。『神学大全』『対異教徒大全』が主要著作。
(参考)
・ 2008年『岩波キリスト教辞典』 岩波書店
・ 「トマス・アクィナス」(ウィキペディア) 他
・・・< 文中へ戻る

※7:「『神さまの全能は、何よりも第一に、憐れみによって明示される』っていう言葉です」
(参考)
大勅書6段落目(カトリック中央協議会)には、以下のようにある。(赤字強調引用者)

 『あわれみを起こすことは神に固有なることであるとされ、また神の全能は何より第一にあわれみにおいて明示される』。聖トマス・アクィナスのこのことばは、神のいつくしみが弱さのしるしではなく、むしろ神の全能の表れであることを示しています。
 (聖トマス・アクィナス『神学大全』(Summa Theologiae, II-II, q.30, a.4〔稲垣良典訳、『神学大全16』創文社、1987/2012年、352頁〕)から)

・・・< 文中へ戻る

※8:「それは聖母の祝日でありますけれど」
 12月8日は、「無原罪の聖マリアの祭日」にあたる。この祭日は、聖母マリアがその母聖アンナの体内に宿った瞬間から、原罪の汚れから守られていたことを記念する。
 大勅書3段落目(カトリック中央協議会)で、
「この聖年は、2015年12月8日、無原罪の聖マリアの祭日に開年します。典礼におけるこの祝い日は、わたしたちの歴史の初めから、神がどのように振る舞われてきたかを示します」以下、それに関する記述を読むことができる。
・・・< 文中へ戻る

※9:「以前もお話ししたと思いますが」
(参考)
・ 「『もう1枚』をお願いします」(2013年12月8日説教)
 (説教始まってすぐです)
・・・< 文中へ戻る

※10:「ジョン・レノン」既出
「ジョン・レノン」
◎ ジョン・ウィンストン・オノ・レノン (John Winston Ono Lennon)
 1940年10月9日-1980年12月8日
 イギリスのミュージシャン。1960年代に世界的人気を得たビートルズのリーダー。ヴォーカル・ギターを主に担当した。ポール・マッカートニーと大半の楽曲を製作。1969年オノ・ヨーコ(小野洋子)と結婚、1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また平和運動活動家としても活動。1975年から約5年間音楽活動休止した後、1980年12月8日に、ニューヨークの自宅アパート前においてファンを名乗る男性により射殺された。(ウィキペディア:「ジョン・レノン」より抜粋)
・・・< 文中へ戻る

※11:「『イマジン(“Imagine”)』という歌がありますけれど」
◎ イマジン(“Imagine”)
 1971年に発表されたジョン・レノンの楽曲。
(参考)
・ 「イマジン(ジョン・レノンの曲)」(ウィキペディア)
・ 「【和訳】ジョン・レノン - Imagine」(洋楽歌詞和訳サイト)
・・・< 文中へ戻る

※12:「『IMAGINE』(イマジン)ってね、オノ・ヨーコがこう、モザイクをはめ込んだんですね」
(参考画像)

         (画像はクリックで拡大)
その他の画像は、>>こちらなど。
・・・< 文中へ戻る

※13:「マイケル・ジャッジという神父」
◎マイケル・ジャッジ神父 (Michael Fallon Judge)
 1933年5月11日- 2001年9月11日
 カトリック、フランシスコ会の修道司祭。ニューヨーク市消防署のチャプレン(教会ではなく、社会組織で働く司祭)。
 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが自爆攻撃を受けた際、その場に急行。負傷者と死者のために祈りを捧げ続けたが、燃え盛る貿易センタービルから落ちてきた建造物の破片の犠牲となった。最初に亡骸が運び出され、最初に検死を受けたため、このテロ攻撃の公認第一号の被害者と認定され、「死者0001号」に指定された。
(参考)
・ 「私はショックから覚めやらない!」(フランシスコ会日本管区
・ 「マイカル・ジャッジ」(ウィキペディア)
・・・< 文中へ戻る

※14:「今回、9・11の跡地に行きましたら・・・」
(参考画像)
 
                  (画像はクリックで拡大)
・・・< 文中へ戻る

※15:「第1朗読」
2015年12月20日の第1朗読箇所
 ミカ書5章1〜4a節
・・・< 文中へ戻る

2015年12月20日 (日) 録音/2015年12月27日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英