クリスマスの奇跡

2014年12月24日主の降誕(夜半のミサ)
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ9・1-3、5-6)
・第2朗読:使徒パウロのテトスへの手紙(テトス2・11-14)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・1-14)

【晴佐久神父様 説教】

 皆さん、クリスマス、おめでとうございます。
 こうしてクリスマスを迎えられたことを喜びたいですし、感謝したいと思います。この一年を振り返れば、いいこと、悪いこと、いろいろ、おありでしたでしょうし、今まだ試練のうちにある方もおられるでしょうが、こうして今日、本当に、よいクリスマスを迎えることができました。
 皆さんがたとえ、ちっともよくないクリスマスだと思っていても、今、どんなつらい現実を生きていようとも、私は、そう申し上げることができる。
 「皆さんは、今日、大変よいクリスマスを迎えることができました」
 なぜなら、ここに主がおられて、皆さんのうちに宿り、永遠なる神さまの愛を与えてくださっているからです。皆さんが、それを信じようと信じまいと、それは事実です。これがキリスト教のすごいところですね。皆さんが信じていてもいなくても、ちゃんとした知識がなくても、この一年ミサをさぼっていたとしても、そういうことにまったくお構いなしに、神は、来られます。皆さんの魂に、皆さんの心の奥深くに、救いが宿ったのです。ホントによかったね〜という思いにもなります。今日は、それを、信じましょう。
 またこれからも、1年間、いろんなことがありますよ。つらい夜もあるでしょう。でもそれはもう、わが魂に神が宿っているという、この安心、喜びにあっては何ほどのものでもないと、そういう信仰を持って、やっていこうじゃないですか。皆さんが、今日ここで、そのような神の愛に、ほ〜んのちょっぴりでも気づけるなら、それこそは「クリスマスの奇跡」でしょう。

 「クリスマスの奇跡」、信じてますか?
 ご存じでしょ? 「クリスマスの奇跡」って言いますよね。
 たとえば、別れ別れになっていた恋人同士が、クリスマスの夜、偶然再びばったりと巡り合えたりして、・・・「ああ、これこそ『クリスマスの奇跡』だ!」とかね、心に願っていること、望んでいることが、クリスマスの夜にかなう。・・・「クリスマスの奇跡」。皆さん、そういうの、信じてますか?
 この、いわゆる「奇跡」を起こすのにですね、実はコツがあるんですよ。
 今日は、ぜひこれを覚えて帰ってもらいたい。すごいでしょ? 「コツ」があるんですよ、奇跡を起こすには。これ、知らないなんて、そんな損な話はない。みんな、「こんなにお得ですよ」っていう話だと、思わず身を乗り出して、耳を傾けますでしょ。(笑) 聞いてください、コツがあるんですよ。
 私、自分で言うのも変ですけど、そのコツをつかまえるのが上手ですし、実際にそうして、「クリスマスの奇跡」ならぬ、日々の奇跡をいっぱい起こして生きてきましたし、キリスト教っていうのは、そういう奇跡に満ち溢れてる宗教ですし・・・。まあ、もはや宗教を越えてますね、そういう真理の法則というか、全能の神の働きを、私はいつも実感して、証ししてきたつもりです。
 で、そのコツっていうのは、あの〜、要するに、「信じてやればいい」んです。
 もう、ダメもとでも何でも、ともかく行動すればいいんです。
 そもそも、神さまは、いつも奇跡を起こしてるんですよ。神さまは、もうちゃんとやってるんです。まあ、それは「奇跡」と言うよりは、「創造のみわざ」とでも言ったらいいことでしょうが。
 正確に言えば神さまは「奇跡」は起こしませんからね。だって、神さまにとっては、すべてが可能なんだから。神さまが、「おお、奇跡だ!」なんて変でしょう。なにしろ、宇宙を支配してる方ですから、「奇跡」なんて言葉は、神には当てはまらない。
 われわれの方は、「これは奇跡だ!」って驚きますよ。科学を越えたような、確率を越えたような、自分の人生で今まで経験したことがないから実感ももてないような、そういう体験をしたときに、「奇跡だ!」って言うわけだけど、神にしてみたら、それは当然のわざです。いつでもどこでも驚くべき愛のみわざで人を愛し、それこそ奇跡のような出来事で救い、偶然をはるかに超えたような尊い創造のわざを行なっているだけです。
 ただ、われわれ人間はそのわざに協力するように造られていますから、そのわざに協力できますし、その協力をしたときに、奇跡は起こるんです。起こるというか、神には当然のわざではありますが、われわれが協力してそれが実現したときに、それが奇跡のように見えるんですね。
 つまり、「奇跡」を起こすのは、私たちなんです。
 私たちが、神のわざを信じて手を伸ばしたとき、信じて話し掛けたとき、信じて会いに出掛けたとき、奇跡が起こるか起こらないかなんていう人間の理解や判断を越えて、ともかく、「信じて」「行動した」ときに、神のわざは実現するし、いわゆる「奇跡」が起こる。
 起こすのは、皆さんなんですよ。
 ・・・ただ、そのためには、何かしないと。何かをやらないと。
 奇跡が起こるのを、ただこう、じ〜っと待ってる。・・・それでは何も起こらない。信じて、まず何かを「ひとつ」やる。いっぺんにあれこれやり過ぎちゃだめです。奇跡をいっぱい起こそうとして、あっちこっち、いろいろ手を出すのは、よくない。神さまに協力する気持ちで、自分が今なすべきことをまずひとつ、そっと目立たないように、信じてきちっとやるとき、奇跡が起こります。ひとつ起こしたら、次にもうひとつ。

 私はいっぱい起こしてきたし、昨日の夜の奇跡だって、素晴らしかったですよね。
 昨日の、「祈りと聖劇の夕べ」(※1)、ホントにもう、奇跡のような舞台がこの聖堂で実現しました。
 ・・・観ましたでしょ?
 昨日観たっていう人〜? 昨日のミュージカル。(観た人に挙手を促す)
 あれ〜、これしかいないの? ほとんど外部の方だったんですね。・・・残念ですねえ、皆さん。(笑) これ、本邦初演、かつ本邦最終公演だったんだから。(笑) ま、もっとも、あまりにも素晴らしくできたんで、今度、来年は、ホールかどっかでやろうかなんて夢みたいな話もチラッと出てきたりもしてはいますけれど。
 素晴らしい聖劇でした。子どもたちが奇跡の舞台を、この祭壇の上で実現していました。昨日の夜。ホントに感動した。
 あんなのだって、私が「やろう!」って決心しなかったら、実現しないんですよ。
 そもそもが、今、オルガンに座っている、このオルガニストが作曲家で、「神父さん、今年はミュージカルやりたい! 本気で燃えたい!」って言い出した。でも、そこで迷ったり、いや、そりゃ無理だろうと恐れたりしたら、その話は流れちゃう。だけど私は、奇跡のコツをつかんでますからね、そこは上手ですから、決心するわけです。つまり、「これは神のわざだ」と信じるんです。
 「この人が、こう言い出した」、もうそれが神の声だと信じるんです。
 だから私は引き受けたし、「その場で」って言っていいくらい、電話かけまくりましたでしょ。知り合いの演出家にまず電話して、「今年の12月23日、ミュージカルやるから、ぜひ演出してくれ」。照明の人、舞台監督、後でミュージカル映画にするために撮影する人にまで、次々電話して。
 そして、オリジナルミュージカルを作りました。このオルガ二ストが全曲作曲してね。何といってもこれ、「晴佐久神父の(・ ・ ・ ・ ・ ・)」脚本、詞なんですよ。(笑)これはやっぱり、ねえ、見たい・・・でしょ? どんな話だろうって。興味津々の人たちで、昨日満席でしたよ。
 教会学校の先生たちも頑張ったし、大人たちの出演者も発声練習の先生まで頼んで練習したし、当日は弦まで入った生演奏だったし、何より、子どもたちが、ホントにもう、夏から歌やセリフの練習してがんばってくれた。ダンスの先生までつけたんですよ。ダンスも一生懸命練習してくれた。・・・そして、昨日の夜、奇跡が起こりました。
 でも、その奇跡が起こったのも、そもそもはホントに、決心する一瞬のことなんですよ。
 そんなこと始めたらどんなに大変かっていうのは、ぼくはもう分かってるわけですよ。昔っからそんなイベントばっかりやってきたから。だから一瞬、やめとこっかな・・・とは思うわけです。「いやそれ、無理ですよ。例年通りでやりましょう」って言うこともできたんです。だって、始めたら大変ですよ。いや、ホントにテャイヘン(声、裏返る)なんです。(笑) 声、裏返っちゃうくらい大変なんです。(笑) だけど、その一瞬、どうしようか・・・っていうときに、奇跡を起こすコツがある。
 「神がやる。神に協力しよう」
 そう信じる。これ、自分の判断とか、考えとか、実力とか、そんなこと関係ないんです。
 「信じよう。やってみよう。途中で何度もうまくいかないと思うかもしれない。でもこの一瞬、信じて始めたら、必ず奇跡が起こる」
 もう、それをずっとやってきたから、私は即決するとき、昨日の夜を、もう直感しておりました。
 「きっとうまくいって、感動が溢れて、奇跡が起こるぞ」
 何といっても、ねえ、子どもたちに、「本番の神さま」っていうのが降りてくるんですね。まさに奇跡が起こるんですよ。練習ではなんかもう、たどたどしかったり、やる気なさそうだったり、ぜんぜん声出なかったりしてたのが、「化ける」っていうかね、「本番の神さま」っていうのが降りてきて、そして、「奇跡の一瞬」。
 私は泣かされた。・・・「奇跡の一瞬」がいくつもあった。子どもたち、みんな頑張った。特に主役、よかったね〜。さっき5時のミサに、主役が来てたからね、説教で褒めまくりましたけど。

 報告だけじゃつまんないだろうから、一応ね、内容もちょっとだけお話しときますね。
 お母さんと息子の話なんです。主人公は、健太君。小学校6年生。5年生までは教会学校に通って、毎年聖劇にも出て、楽しくやってたのに、お母さんが、「来年は受験だから、もう教会学校はやめなさい。聖劇なんか出ちゃダメよ」と。まあ、母心っていうのは、そういうもんでしょう。ただ、お母さん、厳しすぎるんですね。子どもにうるさすぎるっていうか。いつも怒ってばっかりで。健太は、そんな母親のことで、すごくつらい気持ちでいるっていう設定です。
 で、舞台は、いよいよその、今年の聖劇の日。健太は、ど〜しても聖劇を見に行きたいんですね。だって、去年まで仲間と一緒にやってわけですから。ど〜しても行きたい。でも、お母さんは「ダメ!」って言う。で、ケンカになり、「言うこと聞けないなら、もう、うちの子じゃない。出てきなさい!」って叱るんです。まあ、出てけって言っても、そこは言葉のあやでしょうけど、彼は「自分はママに嫌われてるんだ・・・」、そう思いこんで、家出する。「もう帰りません」って書き置きして。で、教会に来ると、ちょうど聖劇が始まるところ。そこに健太君が現れて・ ・ ・ ・(テン テン テン テン)
 という内容で、聖劇の中で聖劇をしてるっていう劇中劇があってね〜。・・・い〜ぃ脚本なんですよ、これが!(笑)
 その健太君がね、やっぱり自分も聖劇に出たいなあと思っていると、それこそ奇跡が起こって出れちゃった、みたいな話になっていくんですけど、劇中、最後の方に健太の独唱があるんです。自分のつらい気持ちを正直に打ち明ける、「健太のアリア」。
 この主役の子の歌が、ホントに真に迫る歌でね、うまい下手を超えて、「ホントにそう思って歌ってるんじゃないの?」っていう歌声だったんで、グッときました(※2)
 また、歌詞がいいんですよ。(笑)

ママに叱られると とっても悲しい
ママが怒ってると とってもつらい
小さい頃は楽しかった 手をつないで いっしょに聖劇を見に行った
でも今は、いつも忙しそう いつも怖い顔

ねえ ママ
こっちを向いて
ぼくを見て 話を聞いて
このままじゃ ぼくは ぼくじゃなくなってしまう

小さいころに戻りたいよ 寝る前に 必ず頭をなでてくれた
あの笑顔はどこに行ったの あの優しい顔

ねえ ママ
こっちを向いて
ぼくを見て 話を聞いて
このままじゃ もう どこにも帰れないよ

こっちを向いて
ぼくを見て 話を聞いて
このままじゃ ぼくは ぼくじゃなくなってしまう

ねえ ママ
・・・もう ぼくは 消えそうだ

 これをねえ、主役が、真に迫って、
 (歌う)「♪ ねえ ママ〜 ♪」って歌うんですよ。
 ・・・泣かされますって。(笑) あれで泣けなかったら、人としてどうかって思うね。(笑)
 で、その後、・・・オチ言っちゃっていいのかな。
 家出した息子の、「もう帰らない」っていう書き置き見て、お母さん、びっくり仰天してその紙持って走り回って、教会かも!と思って来てみたら、ちょうど聖劇やってて、その聖劇に自分の息子が出てるんですよ、なぜか。そして、舞台の上で家出の話になり、健太が、
 「ママはどうせ、ぼくのこと、きらいなんだ」
 なんて言ってるから、客席の後ろから、お母さんが思わず叫ぶんです。
 「そんなことないっ! 大好きよ!」
 そう言って、実際の客席の後ろから、お母さん役が舞台に駆け上がるっていう・・・。う〜ん、泣ける。(笑) あ〜あ、言っちゃった、一番いい所。(笑) まあ、見られないよりは、いいでしょ。
 これ、撮影のために、プロのカメラマンを3人呼んであったんですよ。みんな私の仲間うちみたいなもんですけどね。あとで編集するので、見れますよ、DVDにしますから。その撮影で、聖堂の一番後ろで引きの絵を撮ってたカメラマンがいるんですけど、お母さんが後ろからステージに走っていって、健太を抱きしめるシーンを撮ってたんですね。
 舞台の上で、お母さんが、「ああ、ホントに心配した」って言って泣きだして、「ママがあなたのこと嫌いなわけないじゃない、ママはあなたのこと、大好きよ」って言って健太をぎゅ〜って抱きしめるんですけど、あんまりお母さんが泣いてるんで、健太は「お母さん、もういいから、泣かないで」とか言うシーンです。
 そのときにね、そのカメラマンのすぐ隣で、小学生の男の子を連れたお母さんが来てて、「ねえ ママ」の歌からもうずっと泣いてたんですって。(歌う)「♪ ねえ ママ〜 ♪」からもう泣かされて、ラストでお母さんが健太に駆け寄って、ぎゅ〜っていうシーンではもう、号泣したそうです。すると、その男の子が、お母さんのことをぎゅ〜っと抱きしめて、「ねえ、ママ、もう泣かないで」って言ったんですって。
 そのカメラマン、舞台の上と、聖堂の後ろで、おんなじことやってることにひどく感動して、「こんないい(・ ・)シーンない!」と思って、その二人を撮ろうと思ったけど、あまりに神聖な、素晴らしい現場で、もう手が動かなかったって言ってました。・・・いやあ、そのシーン、撮ってほしかったな〜、でも、「感動して、とても撮れなかった」って。
 「あれは奇跡的だった」って、カメラマン、言ってました。
 まさに、「ミュージカル、やりましょう!」って言ったあの瞬間に、もう、そのお母さんと息子が抱き合う瞬間が生まれてるんです。泣いてるママと息子が抱き合うって、人生で、そうないことですよね。でも、そういう瞬間に、われわれは協力できるんです。「やろう」って思わないと、奇跡は生まれない。神さまは、もうぜんぶ準備しておられる。だけど、ぼくらがやんなきゃ、何も起こらない。
 そのお母さん、なんで号泣したのか。自分の親の本当の気持ちに気づいたのかもしれない。あるいは、「息子のこと、ちっとも分かってなかった」って気づいたのかもしれない。
 ・・・気づきのとき、もうそれは、「クリスマスの奇跡」でしょう。

 奇跡のようにキラッと光り出す瞬間、そんなの、実はもう、この世界にいくらでも秘められているのに、みんなが協力しないから光らない、そういうことってあるんです。
 ちょうどLED発明した博士(※3)みたいにね。LEDなんて、もともとあったんだから。この世界の奥に秘められた可能性として。それは神さまが、ちゃんと用意してるわけでしょ。あとは、誰かが見つけて、うまく取り出して、光らせればいいんです。それでもう世界が変わってくわけですからねえ。20世紀内にはできないだろうって言ってたのが、奇跡のようにできちゃって、ノーベル賞。
 でもそれは、誰かがつくりだしたんじゃない。「発見」しただけ。つくったのは神なんです。われわれは神に協力して、見つけて、取り出すだけ。信じて、諦めずにやり続けて、実現させるだけ。
 研究を続け、あるとき一瞬思いついて、「窒化ガリウムを使ってみよう!」と。 それを、「でもまあ、無理だろうな」なんて思わず、やってみる。結果がダメでも、やり続けてみる。・・・信じて。
 そういうのが、奇跡を起こす。
 でも、神の目から見たら、奇跡でも何でもない。「やっと見つけてくれたか」っていう話でしょ。
 ぼくら、なんかちょっと、あまりに、世の中、特に悪の力に対して、受け身すぎませんかね。世界変えること、できるんですよ。そんな大げさな話じゃなく。「よし、ミュージカルやってみよう」とか、そんな程度の話でも、やれば、小さな奇跡がたくさん起きて、必ず誰かが救われていく。

 去年の12月23日に、その「祈りと聖劇の夕べ」に、初めて教会に来て、その後洗礼受けたっていう大学生もいますからね(※4)
 ・・・これ、奇跡でしょう。「祈りと聖劇の夕べ」やってよかったって、去年もホントにそう思った。
 母親亡くして、兄弟も亡くして、親しい人も亡くして、もう自分なんか生きていてもしょうがない、どうやって死のうかと考えて、心をまったく閉ざして、誰とも関わりを持たずに生きていた、ひとりの大学生が、『レ・ミゼラブル』(※5)っていうミュージカル映画を観て、「自分も主人公のジャン・バルジャンみたいに本気で生きてみたい。救いの道を歩みたい」っていう希望を持って、ジャン・バルジャンが教会に行ったおかげで回心できたのに倣って、思ったんですよ、
 「自分も、教会に行こう!」
 で、インターネットで探したら、近くの多摩教会で「祈りと聖劇の夕べ」をやってる。
 2013年12月23日、恐る恐る多摩教会にきたら、門の所で神父が待ち構えていて、「よく来たね」と声を掛ける。
 聖劇の中では、子どもたちの「信じて、愛して、やったるで〜!」っていう歌に励まされ、聖劇の後では一緒にメシ食って、神父とたくさん話した。私は、彼のつらい胸の内をいっぱい聴いたし、福音をいっぱい語りまくった。やがて終電もなくなって、教会に泊まり、翌日、生まれて初めてミサに出たんです。12月24日、降誕祭の夜半のミサに。・・・彼にとって生まれて初めてのミサです。
 彼は結局三泊し、「洗礼を受けたい」と言い出し、翌年復活祭に洗礼を受け、今や、カトリック多摩教会に、なくてはならぬ青年として活躍しております。そして、去年、「祈りと聖劇の夕べ」に初めて教会に来た彼は、今年の「祈りと聖劇の夕べ」で、司会をやったんですよ。
 ・・・奇跡じゃないですか? こんなの。
 でも、その奇跡は、もしも「祈りと聖劇の夕べ」やらなければ、そしてインターネットでそのことを流さなければ、神父が門の前で待っていて声を掛けなければ、その後で福音を語らなければ、たぶん起こらなかったでしょう。
 ・・・コツがあるんですよ、コツが。
 神さまは、ちゃんと働いてます。だから、私たちは必ず救われます。・・・それを、ぼくらが信じてなければ、信じてその働きに協力しなければ、奇跡は起こりません。
 そもそも、奇跡なんか起こらないだろうと思い込んでるんじゃないですか。・・・起こしたこともないのにね。起こしたら分かりますって。
 「ああ、こんな簡単なことか。やればいいんだ」
 昨日、その司会をした彼は、生まれて初めてミサに出たのが翌日の12月24日ですから、ちょうど丸1年たった今日が記念日になるわけですが、今この祭壇で、侍者(※6)の奉仕をしております。
 (後ろに控えているその彼に)「・・・ミサデビュー、1周年、おめでとうございます」(大拍手)
 神さまがなさっておられることに協力しましょう。信じて、やってみる。せめて、じゃまはしない。楽しいですよ。慣れてくると、当たり前になって、奇跡とも思わなくなるから。
 信じてやり続ければ、何でも可能です。

 この夜、皆さんは奇跡を起こすことができます。
 それが、どれほど素晴らしいことか。
 ・・・関わればいいんです。
 ちょっと知らせて、誘って、
 ちょっと電話かけて、励まして、
 もう1回思い出して、「こうあったらいいな」って夢を見て、
 「あの人を助けてあげたい、きっとなんとかできる」っていう思いを大切にして、
 「奇跡」を起こしてください。できるんだから。
 できないことをやれって言ってるんじゃない。できるんですよ。
 今日の私のこの話も、たくさん奇跡を生み出すんだろうなあ。
 ・・・楽しみですねえ。報告してくださいね。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「祈りと聖劇の夕べ」
☆ ご案内のチラシ (12/23 火・祝「祈りと聖劇の夕べ」聖劇「あぶう ばぶう」
☆ 舞台と会場の様子
元気いっぱい演じる子どもたち 会場は超満員
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※2「この主役の子の歌が、ホントに真に迫る歌でね・・・」
☆ その時 「ねえ、ママ・・・」・・・< 文中へ戻る

※3:「ちょうどLED発明した博士みたいに」(関連の注>>>既出
 名城大学終身教授の赤崎勇(あかさき・いさむ)氏(85)、名古屋大学教授の天野浩(あまの・ひろし)氏(54)、カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の中村修二(なかむら・しゅうじ)氏(60)の3人の博士。
 この3氏が、発光ダイオード(LED)の発明、実用化に貢献したとして、今年のノーベル物理学賞受賞となった。(2014年12月7日発表)
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※4:「去年の12月23日に・・・」
 ことのいきさつは、「どうぞ何でも盗んでいってください」(2013/12/25日説教)でお読みになれます。説教のちょうど中ほど(上から6落目)から、最後までです。
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※5:映画『レ・ミゼラブル』(既出)
 映画『レ・ミゼラブル』(原題:Les Misérables )2012年12月21日公開
 イギリス、ワーキング・タイトル・フィルムズ製作のミュージカル映画。
 ヴィクトル・ユゴーの同名小説を原作として、1980年代のロンドン上演後、ブロードウェイを含む世界各地でロングランされていたミュージカルの映画化作品。
<参考>
『レ・ミゼラブル』(2012年の映画)(ウィキペディア)
映画『レ・ミゼラブル』公式サイト:トップページ(UNIVERSAL Pictures)
映画『レ・ミゼラブル』予告編CM(30秒)(YouTube)
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※6:「侍者」
 ミサや他の典礼祭儀において、特に祭壇の周囲で司式司祭を補佐する。
 通常、アルパ(体全体を包む長い白衣)を着用し、司式司祭や他の奉仕者と共に入退堂する。主な役割としては、典礼書、十字架、ろうそく、パンとぶどう酒、水、香炉などを運ぶこと、福音朗読のときに司祭、あるいは助祭に付き添うこと、祭壇の準備を手伝うことなどがある。
 従来、少年が務めることが多いが、年齢に特に規定はない。また、男性が務めることが慣例であったが、近年では女性が務めることもある。
(参考)
・ 「侍者」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「侍者とは何をする人ですか」(カトリック大阪教区 典礼委員会) など
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2014年12月24日 (水) 録音(午後9時のミサ)/2014年12月31日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英