2014年1月1日 神の母聖マリア
・第1朗読:民数記(民数記6・22-27)
・第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ4・4-7)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・16-21)
【晴佐久神父様 説教】
皆さん、明けましておめでとうございます。
「初詣」に、こうしてちゃんと教会に集まることができました。ありがたい、ありがたい。年の初めにですね、こうして信じる仲間が集まって、「さあ、今年も神さまを信じて、お互いに信じ合って、教会を始めようじゃないか」ってミサを捧げるというくらい、素晴らしいこと、ないです。
新年のミサに参列した皆さん、今年は特別な年になりますよ。
晴佐久神父は、預言者みたいなことばっかり言うんで、よくみんな振り回されますが、私の直感っていうのは、なかなかすごいんですよ。
それによればですね、今年は「出発の年」です。新しいスタートの年、何か始まる年、始める年。もちろん、新年は、いつもそんな改まった気持ちになるもんですけど、今年は一人ひとりにおいて、特別に新たな出発の年になります。ぜひ、今日はその思いを分かち合おうじゃないですか。
ですから、皆さん、大いにお祝いしていただきたい、この新しい年を迎えたことを。
それは、単に新年だからではなく、今日が、今年起こる、今年始める、なにか素晴らしいことの始まりの日だからです。それが何であるか、今は神だけがご存じ。しかし、私たちが、まずはこの新しい年を、ちゃんとこうして迎えなければ始まらない、何かです。
そういう特別な出来事、素晴らしい出会いが待ってますよ。それは何でしょうかねえ。今はまだ知らない・・・これがいいですよね。今は知らない。しかし、その素晴らしいことを、今年が終わるときには知ってるんです。「ああ、新年に知らずに祝ったのは、これだったか」と。それを、大いに祝っていただきたい。
でも、もう、お祝いしてきた方もいますね。今、入祭の歌の中、聖堂に入って来たら、結構お酒臭い方がおられて(笑)、朝、召し上がってらしたんですね。いいじゃないですか。大いにお祝いしてください。大変だった一年が終わって、「新しい年を迎えておめでとう」っていうだけでなく、その、今年起こるはずの素晴らしい神のわざを、先にお祝いしちゃいましょう。
その素晴らしい神のわざを、今年、皆さん自身が始めるんですから。あるいは、今年、皆さんが広い心で受け入れることで、現実にするんですから。
それは、何でしょうねえ。楽しみですね。一年終わらないと分からないことであっても、神さまはご存じです。すべてをご存じの神さまが、すべてを支配しているし、良いように計らっているんです。私たち、そのみわざっていうものに、もうちょっと信頼して、委ねていいんじゃないですか?
何か悪いことが起こるんじゃないかなんて、心配する必要ないですよ。そもそも、「恐れる」っていうのは、「それを知らない」ってだけのことですからね。もし、神のわざをちゃんと知ってたら、絶対恐れないわけでしょ? 「あっ、これはこうなるんだ、そして最後はちゃんとこうなっていくんだ」ってわかってたら、「どうなっちゃうんだろう?」っていう恐れは、もうなくなるわけですよ。だから、知らなくても、知っているかのように生きていけばいいんです。信じるってそういうことです。
皆さんは神ならぬ身、すべてを知らなくていいんです。神が知ってればいいんです。そしてその神は、「善なる神」であり、「愛である神」であり、ちゃんと一人ひとりのために計らってくださっているんです。そのことを、ホントに、ちょっとでも信じられたら、私たちの貧しい恐れはもうどこへやら。結局、考えるだけ無駄って話ですよね。
この言葉好きですね、座右の銘のひとつですね。・・・「考えるだけ無駄」。
考えたってしょうがない。年の初めに私たちがするべきことは、信じることです。考えることじゃない。
聖母マリアもね、いろんなことがあったけれども、「すべて心に納めて、思い巡らしていた」(※1)。これ別に、考え込んで悩んだっていう「思い巡らし」じゃないですよね。
「心に納めて」・・・つまり、すべてを受け止めるってこと。実際、今後どういうことになるのか、マリアにはまったくわからない。でも、「ああ、私にはすごく不思議に思えるけれども、神の素晴らしいみ業が、今起こってるのね」と、すべてをそのまま、静かに受けとめている姿。・・・いいですねえ。今年は、この聖母の「どんな出来事も受けとめる」っていうやつ、やっていきましょうよ。
たとえば今日の福音書のこの出来事なんか読んだって、もうぼくら、何が起こるか知ってますからね、聖劇なんか見て、「ああ、まずは羊飼いが来るのね。次は博士たちね」ってわかってるから、なんてことなく読み過ごしますけど、聖母にしてみたら、旅先で初めての子どもを産んで、これからどうなるのか何も分からないんですから。
誕生の喜びはあるにせよ、この子を守っていかなきゃっていう緊張感や、これから何がどうなっていくんだろうっていうような底知れぬ不安は、もちろん人間としてあったと思うんですよ。そんなところに、いきなり、深夜、羊飼いがドヤドヤやって来るんですよ。・・・結構、私これ、怖いと思うんですよね、知らないんだから。マリアさまとはいえ、「そろそろ羊飼いが来る頃だわ」「博士たち、まだかしら・・・」なんて、思うはずもない。そこへ羊飼いたちがドヤドヤやって来て、天使がこんなことを言った、ああ、その言葉どおり、ホントに幼子がいたっていう、・・・まさに、想像もしていなかった不思議な出来事。
イエスという、いと高き方の子どもが、自分の胎から生まれてですね、これからどうなっていくか何もわからない。もちろん私たちは知ってますよ。この後、この幼子によって、どれだけの人が救われたか。この私だって、皆さんだって、試練の一年を過ごして、新しい年を信仰のうちに迎えたじゃないですか。・・・全部この幼子イエスのおかげなんですよ。でも、まだマリアは知らないんです。何も知らないんです。ただ、すべてを受け入れている。そのおかげで、私たちに救い主がもたらされる。
この夜、聖母が思い巡らしている、この「不思議」。
私たちも、すべてはわからないけれども、どれほど不思議でも、信じて、受けとめるべきです。今皆さんが悩んでいること、恐れていること、それらは、今のこの貧しい頭で受けとめるのは大変かもしれませんが、信じて、受け止めるべきです。
何の意味があるのかもよくわからず、今後一体どうなっちゃうんだろう?って思うようなことかもしれないけれども、神さまのみ業のうちには、ちゃんともう用意されていて、すべてうまくできてるんですよ。
そのことを、この年の初めにしっかりとですね、「今年、疑いと恐れの悪霊には振り回されないぞ!」と、「今年、いたずらに恐れたり悩んだりしないぞ!」と、自らに言い聞かせましょう。一年の計、元旦にあってですね、この年の初めに誓おうじゃないですか。
「今年は何かがちゃんと始まる。神さまの素晴らしいみ業がちゃんと起こる年。何があろうとも信じてやってこう」と。
恐れを超えて小さな決心をするんでもいい、疑うのをやめて誰かをそっと赦して受け入れるんでもいい。そこが、神の業である、神の国の始まりなんです。今年起こる神のみ業は、私たちの信じる心のうちに、ちゃんと始まっている。
なにか、世の中の「経済再生だ、成長戦略だ」っていうのも、実はみんな、そういうの、もういいよねって感じ始めて、もっと分かち合おうとか、もっと受け入れ合おうとか、そういう気づきが、静かに、しかし広く、広がってるんじゃないですか? 今年は、そういう、「もっと本質的な所に帰ろう」みたいな、「そのために具体的にちょっと工夫してやっていきましょうか」みたいな、そういう思いの新しいスタートの年でもあるでしょう。全人類がそんなふうに、少〜しね、重心を移したような、そんな年になるような予感がします。
象徴的がどうかわかんないですけど、今、司祭館の2階、お湯が出たり出なかったりで、困ってるんですよ。
不思議な話ですけど、私、そんなことめったにしないんですが、ふと、年末年始、大勢泊まりに来たりするから、急にお湯が出なくなったら困るなあって思って、東京ガスに電話したんですよ。・・・湯沸し器ってお湯出すたんびにボッと火をつけてね、止めると消えるじゃないですか。蛇口はいつもお湯の側になってるから、使うたびにボッとついて、ボッと消えてるんですよね。無駄な現代生活をしてるわけですけど。でもこれ、20年使っている湯沸し器なんで、そろそろ点検しとかないとまずいんじゃないか、急にお湯が出なくなったら困るしと思って、年末、東京ガスの人に来てもらったんです。
私、本来そんな準備のいい方じゃないんで、えらいぞ、ハレサク♪って自分で思いながら、こういうときの直感を信じて、今のうちに点検してもらって、どこか問題あれば直してもらっとこう思ったわけですね。えらいですよね。で、点検したら、「20年使ったにしては、いい状態です」と言われ、ついでにボロボロだった水道管の保温材も巻き直してもらい、点検費を払って、これで安心してお正月を迎えられる♪って満足した、その翌日から、・・・お湯が止まったんです。(笑)
びっくりでしょう? 私、すぐ電話して、「昨日点検してもらって、何の問題もないって言われた今日、お湯が出なくなった。どういうことですか。大変困っていますから、年末ですけれども、すぐに来てくださいと強くお願いいたします」って言ったんです。まあね、客が「強く
もちろん、すぐに来ましたよ。で、調べて、「ああ、これは基板がやられちゃってるんでしょう」と。で、昨日来た時は、その基板は、ちゃんと正常に動いてたっていうんです。なぜかはわからないけど、今日から基板が・・・。で、その基板はもう20年たってて、ない。取り替えられない。湯沸し器を替えない限り直らない。しかも、もう年末年始で、商品が届かない。で、「1月6日までは、これで我慢してください」って言われた。しょうがない。どんな不思議も受けとめなきゃならない。
で、この基板が気まぐれでね、火が着くときと着かない時がある。そうすると、毎回どきどきしながら使うわけです。「これは出るかっ!?」・・・「あ〜、出なかった〜(泣)」。・・・特に寒い夜、出ないんですよね。風呂入れないの、つらいですよ。そうすると、どうなるかというと、「これはどうか?」って蛇口をひねる前に・・・十字を切るようになるんです。(笑) こう、蛇口に十字を切って「出ろ!」って。・・・これが、出るんですよね〜。(笑) 皆さんもお試しくださいね。エンジンが急に止まったとかなんか、いろいろあるでしょ。でもやっぱり、それでもうまくいかないときもある。結局我慢ですけど、私、二日ほど、やかんでお湯沸かして、顔を洗ってます。
ふと思い出した。昔、ある教会で、お湯が出ない部屋に住んでた。助任神父のときです。そのときは、ホントに寒い時はヤカンでお湯沸かして顔を洗ってた。でも、特に不自由だとも思ってなかったし、そんなもんだと思ってた。思い出すわけですよ・・・昔、蛇口ひねって、お湯なんか出てなかったよねえ、と。
私の母は、私のおむつを、アパートの裏の外の水道で、真冬に、洗濯板で洗ってた。冷たい水ですよね。ゴシゴシゴシと。「外で」ですよ、たらいに水を入れて、斜めに洗濯板を置いて、それでゴシゴシゴシと洗って、絞って干して。毎日でしょ、おむつって。・・・「ありがとうございます」ですよ。冷たい水で、手を真っ赤にして、ゴシゴシゴシと、私は、冷たい水でおむつを洗ってもらって育ったんです。
これ、紙おむつでね、ポンッと使い捨てで、子どもは楽に育てられるようになりましたけど、その分、子どもへの愛情が増したかっていうと、そんなことはないわけですよね。・・・もしかして、ちょっと逆かも。
さて、だからと言って、「お湯の出ない生活に戻しましょう」とは言わないが、何か大切なものを人間が見失いながら、だんだん、だんだん骨抜きになって、弱くなって、信じること、希望を持つこと、忍耐すること、そういうこともだんだん弱くなってるとしたら、ちょっと今年は、性根入れて、なんかステキなこと始めようかな、と。ただ不満を言って、便利なこと、快適なこと、利益だけを求めるんじゃなくて、不便でも、不快でも、不利益でも、それを補って余りある、真の喜びがあるはずだし、今年はそれを知る年じゃないか。
いや実際、大変だなあ・・・って思ってたけど、やったらこんなによかったっていうこと、いくつか去年も試してみましたけど、今年はいっそうやろうって思ってるんですよ。
たとえば、年末の「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」(※2)、よかったですよ〜。ある意味、この世は元気な人が中心ですから、元気のない人が中心になる天国があってもいいじゃないですか。そんな所、体験したことがないから、みんなすごく喜んでくれました。
ある方、この方は体も不自由で車椅子なんだけれども、同時に心の問題もあり、二重苦なんですね。その人が、介助の人はついてるんですけど、どこに行ってもなかなか受け入れてもらえないで、それこそ、教会でさえ、「うちでは、対応できませんって言われました」みたいなことを言うんで、私もがぜん燃えて、「ぜひぜひ、今日だけじゃなく、これからは、ここに通ってくださいよ」と申し上げ、「この教会は、あなたのような方のための教会です」と言ったら、「初めてそんなこと言われました」っておっしゃって、こちらに通うことになりました。・・・信じて始めれば、神さまが新しい業を行なってくださるんですよ。苦しんでいる人に、「初めてそんなこと言われた」っていうことを言ってあげましょう。そこから何が始まるか、楽しみじゃないですか。
参加者からのお礼状も、続々来てるんですよ。当日は四十数名のご病気の方が来られてたんですけど、参加者からのお礼状、続々です。「心から感謝してます。スタッフの人がホントによくしてくれて、歌も素晴らしかったし、手作りのお料理も心づくしで、まるで天国みたいだった」と。
で、ある方はこう書いてました、「あの集いで、私は気づきました。自分はもう、癒やされなくても平気なんだ」と。そして、「私は癒やされなくても平気なんだって思えたっていうことが、私の癒やしなんだと気づきました」。・・・カッコいいでしょう? この言葉。この言葉だけは、紹介したかった。・・・いい言葉ですよ。「私はもう癒やされなくても平気だと、そう思えたことが、私にとっての癒やしだ」。・・・新しいこと、始まってるんですよ。「それがあの『ここクリ』での、私の発見です」と。
「ここクリ」って略してるんです。「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」って長いので、(笑)私たちは内輪で「ここクリ」って呼んでいたんですけど、今回は来た人たちにも、「これ、『ここクリ』って呼んでくださいね」って。
で、皆さん書いてこられるんです。「来年も『ここクリ』やってください」「来年もきっと『ここクリ』に来ます」っていう、そのお手紙を読みながら、思ったんですよ。ちょっと待てよ。「来年」っていうけど、なにも1年待たせることはないじゃないか・・・そうだ、夏にもやろう♪って、思いついちゃったんですよ。思いついちゃったらもうやるしかない。
「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り」・・・やりますよ。略して「ここナツ」!(笑) ・・・やりましょうよ、楽しいだろうな。「お祭りなんてにぎやかなこと、私はとてもじゃないけど、そんなの無理」とか、「自分もお祭りで楽しんだりしたいけど、そんな勇気はない」とか、そう思ってる人が、「あなたのような人ためのお祭りです」と聞いて、安心してやってきて、そこでもてなされ、いい仲間と出会い、生きていく希望をもらう。時には、新しい気づきさえもらえる。
「癒やされなくてもいいと思えたことが、私の癒やしだ」
・・・ぜんぶ受け入れるってことですよ。すべて。神の与えてくださったもの「すべて」。
なぜなら、神は良いお方だから。
クリスマスの25日に、「初めに言
あれ、何のことかって、みんなピンとこないような顔してるから、私この前、修道院のミサではね、「愛の」を付け足してお話ししました。「ことば」っていっても、冷たいことばじゃない。愛のことばなんだから。
「初めに愛のことばがあった」、そう読んでください。
「愛のことばは神と共にあった。愛のことばは神であった」
「万物は愛のことばによって成った」
「愛のことばの内に命があった」
神さまの「愛のことば」によって、すべてが成立しているんだから、恐れてはいけないんです。
新しい出発をいたしましょう。
今日もここに、おととし、ホントにつらい思いをして、ショックで1年以上過ごして、今もつらい気持ちを抱えている仲間がここにおられますけれども、「このことがあって以来、昨日初めて泣いた」って言ってましたよね。
「泣けるようになった」・・・いいことです。新しい出発が始まってるんですよ。それがいつ、どんなかたちで、本当に喜びの世界につながっていくか、まだわからない。でも、確実に始まっている。
今日のミサには、被災地の牧師先生も来られてますね。後でぜひ、ご挨拶ください。昨夜、この教会に泊まってくださったんですよ。
震災はもちろん、さまざまな意味で大変な思いをした何年間を過ごしてね。本当に頑張っておられる。・・・でも、いよいよ今年は始まりますよ。特別な神の業が。一緒に、恐れずに、やっていきましょう。
プロテスタント教会とカトリック教会が、こうして仲良く行き来しているっていうのも、いいねえ〜って、私、思うんですけれども、考えてみたら、「カトリック」とか「プロテスタント」とかって違いがある以前に、本当に神さまは働いていると信じて、神の国のため、福音のために奉仕している教会か、閉じこもって恐れて、「うちでは対応できません」って言っている教会か、その違いがあるだけだと思うんですよね〜。
昨日のカウントダウン、若い仲間と一緒にやってくれて、ありがとうございました。神父と牧師が一緒にカウントダウンって、珍しいんじゃないですか?
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、・・・新しい年、おめでとう!」
神さまが本当に、この新しい年に何か始めてくださったという予感で、昨日の夜は心が熱くなりました。
信じてください。あなたの信仰があなたを救います。
あなたが信じたとき、あなたの恐れを越えたときに、本当の2014年が始まる。神の国が、確実に始まる。
【 参照 】
※1:「すべて心に納めて思い巡らしていた」
・ 本日の福音朗読(ルカによる福音書2章16〜21節)より、19節の引用
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※2:「心の病気で苦しんでいる人のためのクリスマス会」
・ カトリック多摩教会で開催しているクリスマス会。2013年は第2回。
「クリスマス会なんて、経験したことがない」「心がつらくって、元気な集まりに出ていけない」「自分なんかはそんな幸せなクリスマスにふさわしくない」と思っていらっしゃるような、心の病で苦しむ方たちのために開かれています。
詳細は、以下をご参照ください。
・ 「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」 <カトリック多摩教会ホームページ>
・ 「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」(「福音の村」2012年12月30日<聖家族の主日>説教)・・・2012年の、このクリスマス会の様子が話されています。
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※3:「クリスマスの25日に、「初めに言
・ 「初めに言があった」(ヨハネによる福音書1章1節)
<2013年12月25日 主の降誕(日中のミサ) 福音朗読箇所(ヨハネによる福音書1章1節〜18節)>参照
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