一瞬の勇気で、一生の家族

2016年1月1日神の母聖マリア
・第1朗読:民数記(民数記6・22-27)
・第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ4・4-7)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・16-21)

【晴佐久神父様 説教】

 改めまして、新年、あけましておめでとうございます。
 もう、何度でも言いたいですよね、「おめでとうございます」。
 この「教会家族」で新年を迎える。ここに私たちが集まって、今そこに座っているということは、これは本当に素晴らしいことです。その素晴らしさを、私たちは、ちゃんとまだ分かっていないと、ぼくはそう思いますよ。
 「教会家族」「教会家族」って、最近、私、乱発していて、もう聞き飽きちゃったかもしれないですけれど、皆さんはいったい、どういう意識で聞いておられるんでしょうか。・・・「教会家族(・ ・ ・ ・)」、漢字四文字です。「教会」そして「家族」。それがつながって、「教会家族」。この言葉を、どういうイメージで、どういうリアリティーで感じておられるんでしょうか。

 お正月といえば、やっぱり、一番のイメージは、子どものころ、お元日の朝起きると、お雑煮の匂いがしていてね、そしてみんなで、ちゃぶ台の周りに集まって、「あけましておめでとうございます」って言ってね、お雑煮を食べる。
 ぼくが、「この世で一番おいしいものは?」「今まで食べたものの中で、一番おいしかったものは?」と、そんな質問を受けたら、いつも「はれママのお雑煮」って答えています。それはホントにおいしかった。年に一度食べる、あのお雑煮の味は、忘れられない。
 家族みんなで揃って、「あけましておめでとうございます」。で、それから出かけたりするわけですけど、その朝の雰囲気、「そんな朝の(・ ・)一瞬の気配」が、私にとって、「お正月」ですね。
 東京のお正月は、特に空が真っ青ですしね、いつも。ぼくが子どものころは、普段、排気ガスのスモッグが東京の空を覆っていたので、お正月になると車がピタッと止まって、真っ青のね、澄んだ青空になるのは、ホントに忘れられない。爽やかな気持ちでね。
 ・・・いや、何が言いたいかっていうと、皆さん、今日、お正月にわが家を出て、教会に「来た」と思っているでしょう? 確かに、神父がね、「皆さん、日曜日は教会にいらっしゃい」とか、それこそ、「お正月は、神社に初詣に行ったりしないで、教会に来なさい」とか、「神社でお賽銭(さいせん)投げたりするんだったら、その倍は教会の献金に入れなさい」とか、冗談交じりで話したりしますけれど、この「教会に来てください」って、よく考えると変じゃないですか。
 「みんなはお正月に神社に行きます。私たちは信者だから、お正月は神社じゃなくって教会に行きましょう」って・・・私、それは変だと思うんですよ。「神社」か「教会」かっていう、選択肢の話じゃない。だって、教会は「朝のお雑煮」の世界なんだから、ここは。教会に「行く」んじゃないんですよね。ここが、皆さんの「家」なんです。・・・ここが「みんなの家」なんです。「神社に行く」なら分かるけど、「家に行く」って言わないでしょう?
 そりゃあ、教会にいる時間は少なくて、その他の時間のほとんどは出かけているかもしれない。でも、本当の意味で帰ってくるのはここだし、ここにいるのが家族だし、どこにいようと、家族は家族でしょう。ここからどこの家に行こうと、どこの職場に行こうと、それは自由ですけれど、「行った先はたとえ血縁の家族でも、実はこの世の家族、仮の家族であって、真の家族じゃない。信仰で結ばれた、この集いこそが本当の家族だ」っていうリアリティーを、どれだけ持ってるんでしょうか。
 今、皆さんがこうして集まって、私も「教会家族」と一緒にいる。お正月を、この「本当の家族」で過ごしている。・・・とてもいい気持ちですけれど、やがて賀詞交換会があって、だんだん人が帰り始め、何人かで、昨日の残ったお蕎麦かなんかをちょこっと食べたりして、でもみんな、やがて夕方になるとそれぞれの家に帰ってく。・・・私、最後に一人残るんです。この教会に最後、一人残る司祭の気持ち、(笑) 想像したことありますか? 「神父さま、今頃お一人ね」なんて、正直、誰もそんなこと、考えてないでしょ? まあ、今は同居人もいるから、ちょっとは気も紛れますけど、もしも、みんなの意識が、「本当のわが家は血縁の家で、教会家族は二の次だ」ってことなら、神父なんてわびしいもんですよ。
 司祭は血縁の家族を持ちませんから、信者のみんなが家族です。というか、そのために家族を持たないんです。だから、みんなもそう思ってくれていないと、ホントに一人ぼっちです。逆に、みんなが真の家族だって信じているなら、教会に一人でいても、ちっとも寂しくありません。
 もっとも、みんな一緒には暮らせませんから、それぞれの家に住んでますけど、「日曜日には、信者だから教会に行きましょう」とか、「普段行けないけど、1月1日くらいは、教会に行ってお祈りして来よう、初詣気分でお祈りして、すがすがしい気持ちになろう」。・・・なんか、そんなのって、教会かなあ・・・って思う。ただの宗教じゃん、それじゃ。ぼくらは、「ただの宗教」やってるんじゃないんです。「家族」なんです。キリスト教の一番肝心なところ、一番すごいところ、それはもう、ぼくらが「お雑煮」の世界を生きていることなんです。「お正月だから教会行こう」じゃなくて、「お正月くらい、家族みんなで過ごそう」なんです。

 それでいうなら、昨日の大晦日の夜、無人島キャンプの仲間たちと、そこに合流した多摩教会の青年会の仲間たちと、一緒に紅白を見て、カウントダウンして、クラッカー鳴らして騒いで、飲んだくれた末に、みんなそのまま広間に雑魚寝して、さっき寝ぼけ顔でぞろぞろ起きてきて、今このミサに出てますけど、これから、お雑煮ならぬご聖体をいただきます。・・・って、これ、とても象徴的。まさに、目に見える教会家族。もちろん、そんなこと、教会全体でやったら大変ですよ。(笑) 聖堂に貸布団敷き詰めて・・・みたいな。(笑) でも、一度、やっちゃいましょうか。それくらいやってもいいんじゃないの? 楽しいですよ。
 「みんな集まって紅白一緒に見ようよ」って、これ、何年も続けてますけれども、実を言うと、私、神父になった最初の年からやってるんです。神父になった最初の年に、何の弾みだったかもう忘れましたけど、誰かが、「私、毎年、紅白を一人で見るんです。寂しいもんですよ」っていう話をしたとき、「それじゃあ、みんなで見ればいいじゃん。教会で見ましょうよ」って言って、「みんなで一緒に紅白を見る会」ってのをやった。・・・結構集まりました。「一人で紅白を見るのが寂しい人、みんなで一緒に見ましょうよ」って呼びかけて。あの頃ですから、重〜いブラウン管のテレビを司祭館から外して持ってきて、信徒館の和室にドンと置いて、アンテナから線をつなぐの、大変だったのを覚えてますよ。私のことだから、わざわざ買ってきたんじゃないですかねえ。テレビを置いて、上に鏡餅飾って、みんなが入れるように大きな座卓に毛布かけてこたつみたいにして。ま〜あ、みんな、喜んだこと! 「いいねえ、こういうのって」って、紅白を一緒に見た。もう30年近く前ですけど。
 あれからねえ、この会もず〜っと続けてくると、今では教会にほとんど住んでるようなのもいて、みんなで一緒に年を越すなんてあたりまえみたいになっていて、「これが教会家族だ」っていうことを、普通に感じられるようになりました。・・・「一緒に紅白を見る」とか、家族のシンボルですから。
 皆さん、もっともっとリアリティーを感じて、「私たちは神さまが集めてくれた家族なんだ。こうして信じ合っているこの仲間が真の家族なんだ」と思ってほしい。見た目には、神父が一人で最後に司祭館に残っていても、独り暮らしの人が自分の家に帰って一人ぼっちだというときも、「教会家族がいるんだ。離れていても一つの家族じゃないか」と、その気持ちだけは、絶対に忘れないで、一緒に「キリストの家族」、やっていきましょうよ。

 先週の聖劇(※1)なんかは、もうまさにそういうテーマだったので、パンフレットのご挨拶も、「『教会家族』。なんと美しいことばでしょうか」っていう書き出しで書きましたけど。脚本も、「ここはみんなの家なんだから」とか、「俺たち離れられないんだよ。家族なんだよ」とか、もう、そういうセリフ(・ ・ ・)てんこ盛りでですね、聞いてるうちに、なんだかホントに家族になっちゃうって、なんか、「洗脳空間」みたいな、(笑) そんな芝居でしたけど。
 一人の人が言ってくれました。「ホントに、この教会、家族なんだ。神父さんが、いつも言ってたことを、ようやくリアルを持って感じられました」って言ってくれた。それはうれしかったです。芝居とかイベントって、そういう効果がありますからね。だって、「お正月に家族全員でちゃぶ台を囲んでお雑煮食べる」なんていうのだって、イベントでしょ、ある意味。それは、ちゃんとやるべきですよ。「いいよ、別に正月に雑煮なんて、決めつけなくったっていいじゃないか。それぞれ好きなもの食べれば。俺はピザでいいよ」とかって言ってたら、わが家の正月っていう記憶は残らなかったと思う。やっぱりちゃんとね、みんなで正座して、「あけましておめでとうございます」って。
 ・・・わが家はいつでも、まずは家庭祭壇の前でお祈りですから。新年のお祈りとかね、もう、長いんですよ、うちのおやじは。まじめにやってると祈りも長くなって、「あの祈りも!」とかって、付け加わったりすると、「もう、いいんじゃないの? ^^;」って子どもは思ってるんだけど、でも忘れられない大切な時間だったな。元日は、その後で、「あけましておめでとうございます」って、ちゃんとお雑煮をみんなで食べて。・・・儀式なんですよね、儀式。
 共に祈って、一緒に食べて、そして具体的に助け合って、信頼関係を深めていく。
 そんなふうに、「ぼくらは、本当に家族なんだ」というその思いを、現実に味わっている教会って、どれだけあるんだろう。・・・よく、「家族みたいな教会」っていう言い方あるけど、私は大っ嫌い。「みたい」じゃないんですよ。家族なんだから。だって、変な言い方でしょ。「お宅の家族、家族みたいですね」って言われたら、腹立ちません? 「いえ、みたい(・ ・ ・)じゃなく、家族なんですよ」って言うでしょう。・・・家族なんですよ。

 青年会のみんなは、今、そんな思いを大切にしてるんですね。「ぼくらは、家族みたい(・ ・ ・)なんて仲じゃない。ホントに家族なんだ」って。もちろん、それぞれの青年には、一応、血縁の家族もいるけれど、それぞれの家族が問題を抱えているし、他の家族はみんな仲良さそうに見えるしで、なかなかつらい現実を抱えた思春期を過ごしたりもしてきたわけです。でも、今は青年会という家族に出会って、「血縁の家族は、実は半端な家族だったんであって、今、『教会家族』っていう、ホントの家族に出会えたんだ」という、その喜びで、ホントの信頼関係をつくり合っている姿っていうのは、素晴らしいですよ。
 今、仲間たちをね、呼び集めてるんですね、青年会は。たとえば、クリスマスのとき、23日の初めて教会に来る人のためのイベント、24日の降誕祭ミサ、25日も心の病の人のためのイベントがあった。そういうときに、初めて来たような青年に声をかけて、「仲間になりましょう」「一緒にやっていこう」と、まあ、いわば、「家族になりませんか?」っていう、すごいプロポーズですよね、そういうことをしてるんですね。そういう勧誘って、ちょっと浮世離れしてるっていうか、ちょっと声をかけるのが恥ずかしいっていうか、ときには嫌がられるんじゃないかとか、変な人って思われるんじゃないかとか、新手のナンパじゃないかとか、(笑) なんか、そんなふうに思われるとヤダなって、やっぱり思いますよ、ふつうに考えたら。
 でも、そこで、声をかけることで、ホントに家族になっていくことができたら、その一瞬って、素晴らしい一瞬ですよね。一人の人の歴史が変わる瞬間・・・にもなり得るわけでしょ。そのことを、一人の青年がこういう言い方してたんです。
 「一瞬の勇気で、一生の家族」
 ・・・うまいこと言うね。拍手、鳴り止みません、ですよ。・・・「一瞬の勇気で、一生の家族」
 確かに、重いブラウン管を外して持ってくるのはね、なんか面倒くさいし、あるいは、そんなことするのはやりすぎだって思われないだろうかって、ちょっと気後れするところもあるけど、まあ、そこで勇気を出してやってみる。すると、一生の家族が生まれる。
 ・・・その勇気なんです。たぶん、今の世界に一番欠けているのは、その勇気なんですよ。その一歩があれば、その一本の手があれば、そのひと言があれば、人生、変わるのに。それがないから、歴史が変わらない。あるいは、悪い方向に、どんどん落ち込んでいく。もし、そうだとするならば、「一瞬の勇気で、一生の家族」、ぜひ、その勇気を持ってもらいたいし、このたびの聖劇なんかは、ホントに勇気のいることでしたけど、やってよかったと思う。

 芝居の中で、神父がベースギターを弾いてるんですけど、・・・「神父役」がね(※2)。で、主人公がそのことを話して、「あいつ、ベース弾けんの?」って恋人に言うシーンがあるんですね。恋人が、「これがうまいんだよ、結構」みたいなことを答えると、主人公が、「何でも本気でやる系だからね〜」って、(笑) こう、答えるシーンがある。
 私は別に、それほど、何でしょう、笑わせるつもりもなく書いたセリフで、要するに、神父の説明を、そのセリフでこなす(・ ・ ・)わけですね。・・・ミュージカルなんて、一行も無駄なセリフがないんですよ。ぜんぶ、実は意味を持ってるように作られてる。すべてのセリフが、他のセリフとちゃんと組み合わされるように出来上がってるんです。なかなか大変なんですよ、これ作るの。だけど、「何でも本気でやる系だからね」っていうのは、まあ、この神父の説明として、恋人の口から言わせたセリフなんだけど、そのとき、会場が笑ったんですよ。(笑) ぼくは一番前で、演出、プロンプター(※3)も兼ねて座ってて、「えっ? ここで笑うの?」って思って、ハタと気が付いた。「あれ? これ、もしかして、みんな晴佐久のこと思ってんの?」って。(笑) 「何でも本気でやる系だからね」って、「ああ、はいはい、晴佐久のことね・・・ ;」みたいな。でも、もしもそういう思いが、皆さんの中にチラッとでもあるんだったら、それはすごくうれしいな、と思う。
 ぼくは、正直、半端な人間だし、怠慢だと思うし、だけど、「何でも本気でやったらすごいことが起こるんだ」ってことは知ってるんですよ。だからやりたいんだけど、なかなかいかない。その一瞬の勇気がなくって、どれだけ一生の家族を失ってきたか。でも、今年はですね、もうちょっと本気出したい。
 それで、まあ例年、お正月に、「この一年」の抱負というか、標語というか、なんか、去年もおととしも、いろいろ言ってきましたけど(※4)、・・・どうせ皆さん、忘れたでしょ? (笑) 去年の、覚えてます? ・・・覚えてませんよね。
 今年はですね、これにしますから、忘れずに覚えておいて、実行しましょう。
 「一瞬の勇気で、一生の家族」
 その「一瞬」は、聖霊が働くんですよ。そして「一生の家族」が与えられる。それは、「誰かを招き入れる」っていうのもあれば、自分がどこかに「勇気を持って入っていく」っていうのもあれば、自分が今までできなかったことにチャレンジする、そんな自分はだめだと思っていたのを、勇気を持って超えていく、それで初めて、お互いに出会えるってのもある。実際に、勇気をもって出会った仲間で、聖劇をやったっていう事実がここにありますから。
 今回の聖劇、青年や大人の役者の半分以上は、この数年に洗礼を受けた仲間たちですからね、大道具をやってくれた人にも多かった。つまり、みんなのそういう「勇気」がなかったら、あの聖劇も成り立たなかった。かわいい、ちっちゃな子どもに至るまで、みんな、そういう勇気に支えられた家族なんです。
 ちょうど今日、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(ルカ2:20)っていうシーンが読まれましたけれども(※5)、実は、聖劇にも、そういうシーンがあったんですよ。
 聖母が、「ごらんなさい、私の子」って歌っているときに、救われた羊飼いたちが喜びながら帰っていくっていうシーンで、舞台上手から下手に、みんなでワ〜ッとね、ゆっくり通り過ぎていくっていう演出があったんだけど、一人、出遅れた子がいたんですよ。(笑)一番ちっちゃい子が。みんながにこにこしながら通り過ぎていった後でですね、一人、トコトコトコトコって出てきて、どうしよう・・・って顔で、そこにペタンと座っちゃって。そしたら、舞台の下手の袖からですね、「こっちよ、こっちよ」って招いたので、また、トコトコトコって(※6)。(笑) もう、ホンットにかわいかった。
 どれだけ記憶に残っているか。教会家族の中で始まった自分の人生、これからね、どれだけ素晴らしいことが起こるか、「羊飼いたちの話を聞いた人々は不思議に思った」って聖書にあるけれど、「キリストの教会」っていう不思議は、この世界の中でも、最も不思議ですよ。

 そんなわけで昨日、大勢、青年たちが集まりましたけど、中に一人、学校に行ってないやつがいてね、お母さんが、とっても心配してるんですね。まあ、浮世離れしてる教会として言わせてもらえば、別に学校に行かなくったって、神さまに愛されているし、幸せにはなれると思いますけれど、問題は、本当の自分を知らない、本当の自分の力が分かっていない、本当に出会うべき仲間に出会っていない、本当に信じるものが何だか分かっていない。そういうことが分かってないから、勉強しようって気にならないってところにある。自分の価値や可能性を分かってたら、頑張ろうって気にもなるし、学校に行くことなんか、別になんでもないし、行ったら行ったで、ホントにいいこと、いっぱいあるんですよ。
 それこそ、「一瞬の勇気」が湧かないでいて、「一生の出会い」を逃してしまっているような、その彼を、親がね、今年の夏、ぼくの島キャンプに放り込んできたんですよ、「ぜひ、連れて行ってやってください」とかって。で、まあ、「じゃあ、引き受けましょう」って言ったんだけど、本人は、それほど行きたくなさそうだった。
 で、島のキャンプですから、ダイビングの装備がいるわけですよ。シュノーケルとマスク、フィンとか、グローブとか、ブーツとか。「5点セット」って呼んでるんですけど、それ、揃えると、結構高いんですよ。それを、初心者は借りたりして使うわけです。ベースキャンプに、ちゃんと貸し出し用も備品として揃ってますから。
 ところが、その子が、「5点セット、ぜんぶ買って揃えてくれたら行ってもいい」って親に言ったんですよ。それで親が、困って私に電話してきたんです。「本人は買えと言ってるけれども、貸してあげることはできないんですか?」みたいにね。・・・だって、すごく高いんですよ、ぜんぶ揃えると。しかも、「安い物じゃなく、本格的な物を揃えたい」って本人は言ってると。「息子をなんとか説得してくれないか」っていうような電話だった。
 私、即座に言いました、「金に換えれないこと、ありますよ」。
 確かに、ぜんぶ揃えたら、5万くらいかかるのかな、本格的なのを揃えると。親としても、(ひる)むものがあるのは理解できます。うちだって、そんなに裕福なわけじゃない。子どもを甘やかすことにならないか。どうせすぐ飽きて無駄になるんじゃないか。借りて済むことなのに、本人が「揃えろ」って言ってるのはわがままじゃないか・・・。そう思うのは、分かります。ぜんぶ分かるけれど、私は思う。もしも、それで、本当の家族に出会えて、本当の自分を知って、本当の可能性が開いて未来が変わっていくなら、それ、どんな教育費よりも安いんじゃないか。このキャンプは、それだけの価値あるキャンプだという、自負もありますから。
 それで、「お母さん、よく考えてください」、・・・まあ、そう申し上げた。結局、お母さんは買い与えて、本人、キャンプに参加しました。本人にはあとでね、「ママに言っといたからね、感謝しなさい」って言っときました。・・・本人、喜んでましたけど。
 その彼は、そのキャンプで、すっかり変わりました。教会が大好きになって毎週来るようになりましたし、年上の仲間たちと語り合ううちに、自分の人生を真剣に考えるようにもなった。そして、その後もなかなか学校に行く様子もなかったんですけど、昨日のカウントダウンにやって来て、信頼する島の仲間たち、教会家族のお兄さんたち、お姉さんたち、み〜んなから励まされ、説得されて、昨夜、ついにみんなの前で宣言いたしました。「ぼくは学校に行って卒業して、大学に行きます」と。感動的な宣言でした。
 ちょうど、この教会家族の仲間たちに、現役の塾の講師もいて、この講師を、私は家庭教師として引き合わせました。今、この講師は彼の個人授業をやってくれていて、学校に戻って受験するのをサポートしてくれています。
 昨夜、本人が、学校に行きますと宣言したとき、私はみんなを集め、その場でお祈りをいたしました。
 「神さま、ありがとうございます。この教会家族のおかげで、一人の神の子が、新しい一歩を踏み出そうとしています。どうか祝福して守ってください。あなたのなさることは素晴らしい。このように、神さまの子どもが素晴らしい仲間に巡り合えて、真の喜びを見出だしていく、この教会は、本当に素晴らしい教会です。これが、教会家族です。・・・神さま、ありがとうございます」と、お祈りいたしました。

 ・・・皆さんのおかげです。
 多摩教会は、「教会家族」です。まだ、この家族を知らずにいて、今年一年の間に皆さんの「一瞬の勇気」で、「一生の家族」を見いだす、そんな恵みの日を体験する人が大勢おられます。
 その人たちの笑顔を、イメージしてください。その笑顔こそが何よりの報いです。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「先週の聖劇」既出
◎「ミュージカル『みんなの家』」
2015年12月27日(日)開催(於:稲城市立iプラザ ホール)
  
(参考)
・ 「12/27(日)聖劇「みんなの家」☆チケット完売御礼」(カトリック多摩教会HP)
・ 「信じ合う教会家族」(2015/12/27説教)
  (参照)※2:「ミュージカル『みんなの家』」
(参考画像)

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※2:「芝居の中で、神父がベースギターを弾いてるんですけど、・・・『神父役』がね」
(参考画像)

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※3:「プロンプター」
 客席から見えないようにキャストに台詞やきっかけを教える役目。役者が横を向きながら台詞を喋っているときにはプロンプターの小さな声を聞きながら演技している人がある。プロンプ
(参考)
・ 「舞台用語辞典」(あさひサンライズホール)
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※4:「お正月に、『この一年』の抱負というか、標語というか、なんか、去年もおととしも、いろいろ言ってきましたけど」
◎ 2010年〜2014年
「荒れ野(砂漠)のオアシスとなる教会を目指して」
(参考)
・ 「わたしがオアシス」(『多摩カトリックニューズ』2010年2月号主任司祭巻頭言)
・ 「あなたも同じようにしなさい」(『多摩カトリックニューズ』2010年3月号主任司祭巻頭言)
◎ 2015年
 「荒れ野(砂漠)のオアシスとなる教会を目指して」+「私は今年、もう少し優しくなります」
(参考)
・ 「私は今年、もう少し優しくなります」(2015年1月4日説教)
・ 「もう少し人に優しくなります!」(『多摩カトリックニューズ』2015年1月号主任司祭巻頭言)
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※5:「ちょうど今日、(中略)読まれましたけれども」
2016年1月1日の福音朗読箇所
 ルカによる福音書2章16〜21節
  〈小見出し:「イエスの誕生」2章1〜21節の抜粋〉
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※6:「舞台の下手の袖からですね、『こっちよ、こっちよ』って招いたので、また、トコトコトコ・・・って」
(参考画像)
子羊1匹、トコトコトコ・・・
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2016年1月1日 (元旦・金) 録音/2016年1月9日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英