あの日々神は私をゆるしていた

2015年3月1日四旬節第2主日
・第1朗読:創世記(創世記22・1-2、9a、10-13、15-18)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・31b〜34)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ9・2-10)

【晴佐久神父様 説教】

 今日は共同回心式(※1)ということで、ゆるしの秘跡(※2)を、昨日の夜のミサからずっとたくさん聴いておりますけれども、聴けば聴くほど思うことは、皆さん、もう、そんなに、・・・回心しなくていいですよってことです。そこまで厳しく、そこまで細かく自分を責めずとも、いいんじゃないか。特に日本人は真面目ですしね、「もっとちゃんとしなきゃ・・・」っていう思いが強いのかもしれないですけれど。
 まあ、共同回心式にあたってね、「そんなに回心しなくていいですよ」って言うのも変に聞こえるかもしれませんが、それは、本来の「回心」からずれちゃってることが、あまりにも多いからです。
 私が思うにですね、自分の弱さや過ちなんて、努力してどうにかできるものでもないんだから、「本人が分かってるならいいよ」ってことじゃないでしょうか。
 イエスさまは、たとえば律法学者やファリサイ派の人たちに、非常に厳しいですけれど、それは彼らが「分かってない」からなんですよ。自分の弱さや本質的な過ちについて分かってない。自分は正しいと思っていて、弱い人たちの心の痛みが分かってないし、間違ってる人たちを厳しく責めても何とも思わない。むしろ、「自分は神に選ばれてそうやってるんだ」くらいに思い込んでるわけですね。
 彼らの、その曇った目を覚まさせるために、イエスさまは厳しいことを言います。「おい、実はお前たちが一番罪深いんだぞ、分かってるのか?」と、目の前でパンッと手を叩いて「目覚めろ!」って言うかのようにね、いろいろ厳しいこと言いますけれど、娼婦や徴税人には優しいでしょ。
 なぜ優しいかっていうと、彼らは「分かってる」からなんですよ。娼婦とか徴税人とか、「ホントはこんなの良くないんだけどな〜」と、「でも、抜け出せない、ああ、神さま、ごめんなさい・・・」って心の中では自分を責めてる。心の弱さゆえか、育ってきた環境ゆえか、人から尊敬されるような生き方ができず、いつも軽蔑されたり嫌われたりしていて、「神よ、こんな自分をゆるしてくれ、助けてくれ」って思ってる。そんなような人にはね、すごく優しいですよね、イエスさま。
 ここにお集まりの皆さんは、神の愛に目覚めた人たちのはずです。
 罪深い身でありながら、神の愛のしるしである洗礼を受け、ミサの中では、ゆるしのしるしであるイエスさまを頂いて、日々ゆるしを願い続けている身ですから、まあ、こうして年に一度、回心式のゆるしの秘跡でちょっとメンテナンスっていうのは、いいことではありますけれども、本来私たちは、すべてをゆるす神の愛に目覚めた仲間であるはずです。「必要以上に自分を責める傾向のある人は、お気を付けくださいね」ってね、逆に言いたくなります。

 私も、思い返すとね、神父になったころは、あまりそこのところは強調できていなかったような気がする。神父になりたてのころは、もうちょっと厳しい言い方をしていたような気がします。ゆるしの秘跡の中で、「あなたの罪、それだけのはずないでしょ」って、(笑)言ったことがあるのを覚えてますもん。
 だけど、ず〜っと何十年も、こうして神父をやって、罪の告白を聴き続けてると、ああ、人は変わらないんだなっていうことが、(笑)よく分かりますから。・・・だって毎年、おんなじこと言うんだもん、みんな。(笑) 人ごとじゃない、振り向けばかくいう(・ ・ ・ ・)自分だってね、ぜんぜん変わってない。
 ですから、少しでもまし(・ ・)になろうって努力するのがキリスト者だっていうよりは、こんな変われない私だけれども、神はゆるしてくれているということに感謝して、その神が私を通して働いておられるのだと信頼して、あとは、こんなだめな私を、その神の御手(み て)に委ねようっていうのが信仰なんだっていうふうに、まあ、だんだん気づいていくわけですよね。
 さすがに、10年、20年と神父やってると、もう、どんな罪を抱えた人がやってきても、「それでも あなたは ゆるされている」って宣言し続けるように変わっていかざるを得ない。
 それこそ、神父になったころはね、「もっとこうしたら変われるんじゃないか」とか、「もっとがんばって変わっていきましょう」とか、いろいろ(さと)したり励ましたりもしてたんですけれど、まあ、みんなみんな、ちっとも変わらないっていう事実を前にして、実は本質はそういうことじゃないのかなって、だんだん分かってきたっていうこと。
 だから、私なりの言い方ですけど、「分かってるならいいよ」と。
 自分の弱いところ、直せない(くせ)、そういうことにくよくよ(・ ・ ・ ・)しているわが子を、親だったら、「だいじょうぶよ。そんなあなたでも幸せになれるわ。いいのよ。むしろそんなあなたがステキよ」って、認めたり褒めたりするじゃないですか。神さま的には、やっぱりそこが第一であると思います。
 ホント、皆さん、よくやってますよ。まあ、回心は尊いことですけれど、ゆるしの神に祈っている以上、自分を責めるような思いの回心は、どこか間違ってます。もっと、ちゃんと自分を受け入れなくっちゃ。「私はあなたを愛している。もう、そのあなたでだいじょうぶだよ」っていう神の(あわれ)みを受け入れるのが、回心なんだから。「私は偉い」「私に罪はない」っていう人にはね、目を覚まさせるようなこと言いたいですけれど、皆さんのように自分の弱さ、汚れをよく分かっている人は、大船に乗った気持ちで安心していてください。頑張って今までも生きてきたし、これからも神の恵みのうちに、ホントにどんな試練があっても、神は守り続け、ゆるし続けて、最後は神の国、天の国に迎え入れることをおゆるしくださるんです。
 ・・・「ゆるしの神です。ご安心ください」と言いたい。

 今週の月曜日に、中野サンプラザで、ひとつのコンサートに行ってきたんですけど、これがねえ、何て言ったらいいものか、「同窓会コンサート」(※3)っていう昭和歌謡のコンサートなんですよ。
 あれは、中心は1970年代ですかね、60年代から70年代ごろにヒット曲を飛ばした歌手たちが「夢コンサート」とうたって、当時のヒット曲を、当の本人が次々と出て来て歌うっていう、まあぜいたくなコンサートなんです。 
 たとえば、フィンガー(ファイブ)(※4)(あきら)が出て来てね、・・・もういいおじさんなんですよ、だけど、「学園天国」を歌うんですよ。それから、青い三角定規(※5)のね、西口久美子が出てきてね、「太陽がくれた季節」を歌うんです。本人が歌うわけだから、その時代を生きた者としては、胸がキュンキュンするわけですね。(歌う)「♪君は、何をい〜ま、見つ〜めているの♪」(笑) ってね、もう、胸がキュンキュンするんですよ。ガロ(GARO)(※6)の「学生街の喫茶店」とかね、もう、次々なんです。本人がですよ。狩人(かりゅうど) (※7)が出てきて、「あずさ2号」を歌うんですよ。(笑) 「8時ちょうどのあずさ2号で、私はあなたから旅立ちます」・・・よく、口ずさんだもんですよ。
 ・・・あの時代、一生懸命生きていた。バカだったし、愚かだったし、でも、いろんな憧れを持ち、精いっぱい生きていた。あの日々は、しかし、ただ遠く過ぎ去ったわけじゃない。まさに、神さまが与えてくれた、・・・「太陽がくれた季節」じゃないですけどね、神さまが与えてくれた季節。もう、それはかけがえのない日々であり、決して消えない日々なんです。やがて、歴史の隅に消えていくっていうものじゃない。これはもう、永遠(・ ・)なんです。
 私たちは、神さまのおゆるしがあって生まれてきたし、神さまのおゆるしの中で生きてきました。あの日々、すべての日々は、神のゆるしのなかに備えられていたのです。確かにその時を生きていた。それはイコール、確かに神にゆるされていたっていうことです。・・・それは、事実です。これは、もう消えません。そうあったらいいなっていうファンタジーじゃないんです。リアルなんです。
 私たち、あのころ、精いっぱい生きていました。確かに、罪深かったですよ。愚かだった。人を傷つけてもいた。でも、あの日々神は私をゆるしていたし、私を育てていた。
 その事実の上に、サンプラザでのコンサートが乗っかってるんです。あそこに集まっていた人たち、「お互い頑張って生きてきたよね。いろいろ(つら)かったりもしたけど、すべてはゆるされてるんだよね」っていう思いを共有しているわけですから。そういうコンサートだったので、私はそれで感動したんです。じ〜んとした。みんな、精いっぱい生きてきたんだなあ・・・って。40年前を思い起こして、みんな涙しているんですから。
 自分の人生、かけがえのない自分の歴史、それは尊い。私は信仰者だから、それは神の恵みによるものと思ってますけど、みんなも何かね、大きな働きの中で、自分の人生を肯定したいって、そんな思いで聴いてるわけです。そこに私はなんか、すごく共感した。
 私は、結構若い(ほう)で、年配の方が多かった。考えてみたら平日の昼公演だったんで、当然なんですけど、まさに昭和を生きた人たち。司会を、あべ静江(※8)っていう人がやっててですね、(歌う)「♪みずいろは、なみだいろ〜♪」って歌ってた、(笑) ねっ、清楚(せいそ)極まる歌手でしたけど、これがもう大変身してまして、(笑) ものすごくよく(・ ・)しゃべるおばさまになってて、体格も大変よろしく、(笑)・・・なっていらしてね。40年前の話をちょっとしてから、「あれから、時は流れて40年! 私もこんなに成長いたしました!」って、(笑) 言ったらみんなドッと笑ったりして、なんかみ〜んな、すごい共感して、しみじみとその時間を共有しておりました。
 実はこれ、私の大変親しい10代の友人が昭和歌謡が大好きでいつも聞いてるんで、このコンサートを教えたら、「ぜひ行きたい!」って言うから、まあ、私も興味津々で付き合って行ったわけですけど、あの会場で10代の子連れて歩いてると、誰がどう見ても、「親父(おやじ)につき合わされたかわいそうな息子」(笑)っていうふうに見えるわけですよ。通り過ぎる人にいちいち、「コイツが行きたいって言ったんです!」って弁解するわけにもいかず。(笑) まあ、昭和歌謡の往年のスターたちを目の当たりにしてね、10代も10代なりに感動してましたけど、連れてってよかったです。だって、みんな喜ぶんですよ。
 その10代の隣の席に座っていた、私よりも年配の女性がね、一人で来てたんですけど、隣の席の10代に話しかけるわけですね。 「あんた、どうして来たの?」みたいにね。(笑) 「いや、昭和の歌、好きなんです」とか答えてましたけど、その人、こう言ったんですよ。
 「あなたの世代も来てくれて、うれしいわ。ありがとね」って。
 私、その言葉に、また感動した。その気持ちが分かるから。
 世の中はどんどん変わっちゃって、自分の青春時代の日々とか、忘れられない出来事とか、あのころ味わった感動とか、そういう古いものはもう理解されない世の中になっちゃったんじゃないか。そういう寂しさを、みんな持ってるんですね。大切な思い出も、どんどん遠くなり、ただ過ぎ去っちゃって、ただ古いものになっちゃって、若い世代からは下手すると軽蔑されかねない、そんな恐れすら感じてるかもしれない。
 だから、40も50も年下の世代が、自分の若いころの感動を共有してくれてることに、すごく喜びと言うか、安心を感じて、「ありがとう」とまで言ってるんですね。・・・なんか、その会場の雰囲気が分かりますでしょ。

 私の一番のお目当ては、ピンキーとキラーズ(※9)(こん)陽子で、彼女は「恋の季節」を歌ってくれました。これは、私にとっては、小学生の時の歌ですけど、思い出の歌なんですよ。「忘れられないの、あの人が好きよ」っていう歌詞ですけれど、「恋は、私の恋は、空を染めて燃えたよ」みたいな恋の歌ですね。
 小学生の頃、(歌う)「♪わ〜すれられないの〜♪」って歌ってたら、祖母から、ものすごく叱られた。「そんな歌を、子どもが歌うんじゃない!」(笑) でも、そのころの私は分からなかった。「なんでいけないんだろう・・・。悪い歌なの? これ」って、キョトンとした。・・・懐かし〜い思い出です。
 まあ、うるさくって大嫌いな祖母でしたけど、(笑) でも今となっては、そういう思い出があるっていうだけで、胸がキュンキュンする。それこそ、はやり歌に「ありがとう」っていう思いになる。
 その時は、好きとか嫌いとか、うれしいこと悲しいこと、いろいろとあったけど、今となってはそんな違いはどうでもいい。良いことも悪いことも、楽しかったことも苦しかったことも、ぜんぶひっくるめて、ぜ〜んぶひっくるめてですよ、神のおゆるしのうちにあったんです。すべては「よいもの」として、天に捧げられていくんです。
 なんか、私たちってね、いつも、「今、ここで」のことに、怒ったり文句言ったりしてますけれど、もう、そういう細かい「今日ここで」の話じゃなくて、もっともっと、おおらかに、永遠な気配を感じながら、神さまがぜんぶおゆるしになって、最後はすべてを完成させてくださるんだっていう、そんな大船に乗った気持ちって、大事じゃないんですか?
 ゆるしの秘跡において、私たち、あれこれとゆるしを願いますけれども、そもそも「神は、私をゆるして存在させてくれてる」っていう大原点からね、そもそも「神は、この世界をゆるし続けてるんだ。だから私は存在してるんだ」っていう、その原点の原点からね、もう一度、感謝、賛美っていうことにするべきでしょう。それが、やっぱり回心ってことでしょう。
 「この世界は本当に神さまに愛されてるんだ」
 「この私の人生は、本当に神さまにゆるされてるんだ」
 「この私は今、神さまの恩寵(おんちょう)によって、ここに存在しているんだ」
 ・・・そんな信仰。そこはもっと、安心していただいていいんじゃないですか。

 ゆるしの秘跡に続いて、こうして聖体の秘跡(※10)をいただくわけですけれど、
 「こんな私のうちに、神さまの愛が宿ってくれるんだ」「こんな世界のうちに、神さまのゆるしが宿ってくれたんだ」っていうことを深く味わうのが、このご聖体。
 さっき、福音書で、イエスさまが山の上で光り輝いて、一瞬、完成した神の国がチラッと見えちゃったみたいな、恵みの出来事の箇所を朗読しましたけれど(※11)、そこで旧約のモーセとエリアが、イエスさまとおしゃべりをしてるじゃないですか。・・・これ、何を話してたと思います? ここには書いてませんけれども、ルカの福音書では、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)とあります。つまり、十字架と復活の神秘について。
 この罪深〜い私たちの中に、イエスさまが来られて、私たちの罪をすべて(・ ・ ・)背負って復活の栄光で包んで、み〜んな神の国に連れてってくれるという、そんな神さまの御計画について、旧約の大預言者二人とイエスが語り合ってる。・・・非常に神秘的ですけれども、とても希望に満ちた、罪深い私たちにとって、ホントにありがた〜いビジョンですよね。
 だからこそ、その十字架と復活による救いの記念であるミサの中で、司祭は、カリス(※12)を捧げて、イエスの言葉を繰り返します。
 「これはわたしの血の(さかずき)。あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるし(・ ・ ・ ・ ・)となる新しい永遠の契約の血である」
 こんな希望に満ちた言葉、ないですよ。
 神さまは、この罪深い、弱い私たちを、「それでもいいよ」と、優しくゆるし続けておられることに心を開く。これが回心でしょう。

 今日は、そういうご聖体をいただくわけですから、ただただ、もう神さまに信頼して、自分の、この何十年という尊い人生の歴史をゆるしつづけてくださった神さまに感謝して、ゆるしの主であるイエスさまとひとつになったという、洗礼の恵みを新たにいたします。
 洗礼志願者は、自分がそのような恵みに(あずか)るということを、そういう思いを、いっそう深めて、憧れていただきたいです。
 先ほどからゆるしの秘跡を受けている方にはですね、「今日のご聖体を、神が私をゆるしてくださっているしるし(・ ・ ・)として、本当に感謝して受けることを償いといたしましょう」と申し上げてまいりましたが、今日、ゆるしの秘跡を受けていない方も、「こんな私のうちに、神のゆるしが降ってきて、神のゆるしに満たされて、私はそのゆるしから出発できる。そのような神のゆるしを深〜く味わうことで、私も、ちょっと人をゆるしたりできる(・ ・ ・)ようになる」、そんな恵みを願っていただきたい。
 まあ、でもね、あくまでもそれは神がお望みならば、ということで、いうなれば、おまけなんです。だって、「人をゆるす」なんて、完全には、決してできないから。しかし、憧れてもいいでしょう。そして神さまがお望みなら、人をゆるせるようになるっていう、最高のご褒美を、ふんだんに私たちに下さるでしょう。
 まずは、この私がゆるされているという、そんな恵みに心を開きます。
 長〜い私たちの人生、あの時も、この時も、そして今も、これからも、すべて神のゆるしのうちにある。
 ・・・感謝しましょう。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「共同回心式」〈英:communal penance〉
 現在のカトリック教会で、罪のゆるしを受けるために、信者が共同で行う回心式。
 式には以下の2つの方法がある。
*******
 ① 信者が司祭のもとへ個別に行って、罪を告白し、赦免(ゆるし)を受ける。
 ② 定型文によって共同で一般的な罪を告白した後、司祭を通して全員に赦免が与えられる。しかし、この場合、その赦免を受けた人が大罪を犯している場合は、少なくとも1年以内に、司祭のもとへ行き、個別に告白しなければならないという条件がある。
*******
 どちらも、「回心を呼びかける神の言葉に、共に耳を傾けて聴いて準備し、ゆるしを求め、その後、共同で神に感謝をささげる」という点では、共通しており、個人の罪(自らの罪)はもとより、キリストの体として一つに結ばれている共同体としての罪を考える場ともなる。
(参考)
・ 「共同回心式」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「ゆるしの秘跡の挙行」(『カトリック教会のカテキズム』1480〜1484番 カトリック中央協議会、2002年)
・ 「共同回心式」(『カトリック教会のカテキズム』1482〜1483番 カトリック中央協議会、2002年)
・ 「ゆるしの秘跡」(ウィキペディア)
・ 「ゆるしの秘跡」(キリスト教豆知識:ラウダーテ)
・ 「昔と今の告解の違い、並びに共同回心式について
   (「司祭からのメッセージ集」小林陽一神父:中和田カトリック教会)
・ 「【9】共同回心式の良い準備について」(マルシリオ神父の5分間ミニ講座:カトリック下井草教会)
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※2:「ゆるしの秘跡」
 カトリック教会で、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、
ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちの一つ。
 洗礼以後に犯した罪を、教会の司祭を通してゆるし、罪びとを神に和解させる秘跡。
 現代の「ゆるしの秘跡」には、個別の「ゆるしの秘跡」と、「共同回心式(※1)」がある。
 ただ、これだけが罪のゆるしを得られる道ではない。祈り、善行、愛の業、また、聖体や病者の塗油の秘跡を受けることなどによっても、神のゆるしを受けることができると、教会は教えている。福音は、神の無条件のゆるしを説いているのであり、人が神への回心を何らかのかたちで示すとき、ゆるしが実現する。
(備考)
 「秘跡」とは、イエス・キリストの制定によるものであって、神の恩恵を示し、キリストの働きによってそれを与えるしるし(・ ・ ・)のこと。〈『カトリック要理(改訂版)』(中央出版社、1979年)p.167〜169 〉
(参考)
・ 「ゆるしの秘跡」(『カトリック要理(改訂版)』中央出版社、1979年)
・ 「ゆるしと和解の秘跡」(『カトリック教会のカテキズム』1422〜1498番 カトリック中央協議会、2002年)
・ 「ゆるし」【秘跡】(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「ゆるしの秘跡」(ウィキペディア)
・ 「ゆるしの秘跡」(キリスト教豆知識:ラウダーテ)
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※3:「同窓会コンサート」(「夢コンサート」)
 株式会社夢グループモバイルマガジン株式会社の企画、運営するコンサート。
 1960年〜70年代のヒット曲を、当時の歌手たちが歌い、客席と共に楽しむコンサート。テーマは「あなたの心をワクワク」。
(参考)
・ 「ユメコン」(「同窓会コンサート」「夢コンサート」公式サイト)
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※4:「フィンガー5」
 フィンガー5(ファイブ)は、1970年代を中心に活躍した、沖縄出身の5人きょうだい(男4:女1)の歌謡アイドルグループ。晃は、四男でメインボーカルを担当し、変声期前のハイトーンボイス、歌唱力、ルックス等で爆発的な人気となり、数々のヒット曲を飛ばした。
 代表曲は、「個人授業」(1973)〈オリコン集計70万枚位〉、「恋のダイヤル6700〈シックスセブンオーオー〉」(1973)〈オリコン集計85万枚位〉、「学園天国」(1974)〈オリコン集計55万枚位〉、など。
(参考)
・ 「フィンガー5」(ウィキペディア)
・ ヒット曲「学園天国」(YouTube)
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※5:「青い三角定規」
 青い三角定規は、1971年結成、1973年解散、2008年再結成の日本のフォークグループ。
 西口久美子(1950-)、岩久茂(1949-)、高田真理(まり・男性)・(1947-2006)の3人。作曲家のいずみたく氏がプロデューサーとして関与。
 代表曲は、青春ドラマの主題歌・「太陽がくれた季節」(1972)〈メーカー公表100万枚〉
(参考)
・ 「青い三角定規」(ウィキペディア)
・ ヒット曲「太陽がくれた季節」(YouTube)
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※6:「ガロ(GARO)」
 ガロ(GARO)は、1970年から1976年まで活動した日本のフォークロックグループ。
 堀内護(愛称MARK/マーク/1949-2014)、日高富明(愛称TOMMY/トミー/1950-1986)、大野真澄(愛称VOCAL/ボーカル/1949-)の3人グループとしてデビュー。全員が生ギターとボーカルを担当するのが基本的な編成。
 代表曲は、いずれも1973年にヒットした「学生街の喫茶店」、「君の誕生日」、「ロマンス」。
(参考)
・ 「ガロ(GARO)」(ウィキペディア)
・ ヒット曲「学生街の喫茶店」(YouTube)
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※7:「狩人」(かりゅうど)
 狩人は、1977年デビュー、2007年に解散するも、2012年再結成の日本の歌手グループ。兄・加藤久仁彦(デビュー時を含む一時期、本名の邦彦名義で活動。1956年- )と弟・加藤高道(1960年- )の二人による兄弟デュオ。現在は「狩人」として兄弟でも、また、兄、弟、それぞれでも、歌手活動を続けている。
 代表曲は、「あずさ2号」(1977)、「コスモス街道」(1977)、「アメリカ橋」(1979)、「国道ささめ雪」(1978)など。
(参考)
・ 「狩人」(ウィキペディア)
・ ヒット曲「あずさ2号」 (YouTube)
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※8:「あべ静江」
 あべ静江(1951-)は、日本の歌手。女優。
 1973年、「コーヒーショップで」で、歌手デビュー。この曲が、オリコンでベスト10内に入るヒット曲となる。同年、「みずいろの手紙」も続けてヒットし、第15回日本レコード大賞新人賞を受賞。翌年、「みずいろの手紙」で、第25回NHK紅白歌合戦に初出場。映画やテレビドラマにも出演し、女優としても活躍した。現在は、女優業のほか、懐メロの歌番組などに出演するほか、出身地の地域イベントにも参加している。
 代表曲は、デビュー曲の「コーヒーショップで」(1973)、「みずいろの手紙」(1973)
(参考)
・ 「あべ静江」(ウィキペディア)
・ ヒット曲「みずいろの手紙」(YouTube)
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※9:「ピンキーとキラーズ」
 ピンキーとキラーズは、1968年から1972年にかけて日本で活躍した、ソロ歌手を伴ったボサノヴァ・バンド。
 1967年に15歳でソロ歌手としてデビューした今陽子(こん・ようこ/ピンキー)が、レコード会社移籍とともに、男性4人のボーカルと共に結成。男性4人はそれぞれ、ギター2人、ベース、ドラムを担当し、「キラーズ」となる。山高帽をトレードマークにしていた。特にデビュー時、ピンキーの山高帽と黒いパンタロンスーツは人目を引いた。
 代表曲は、デビュー曲の「恋の季節」(1968)が有名で、発売直後から爆発的ヒットを記録し、オリコンで17週1位というミリオンセラーを記録し、270万枚を売り上げた。数々の賞も受賞。1969年には、同名の映画が彼ら主演で、松竹によって製作、公開。その他、「涙の季節」(1969)、「七色のしあわせ」(1969)など。
(参考)
・ 「ピンキーとキラーズ」(ウィキペディア)
・ ヒット曲「恋の季節」(YouTube)
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※10:「聖体の秘跡」既出
 カトリック教会で、七つの秘跡(洗礼、堅信、
聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちの一つ。
 救いのいけにえ(・ ・ ・ ・)であるイエス・キリストの御からだと御血とが、パンとぶどう酒の形態のもとに神に捧げられ、永遠の生命の糧となる秘跡。
 七つの秘跡の中でも、「秘跡中の秘跡」といわれる。(文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
 この秘跡は、イエス・キリストが、最後の晩餐に時に、パンをとって感謝して使徒たちに与え、「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」と言われ、また杯をとって同じように、「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい」と言われたところに端を発する。(マタイ26:26-28、マルコ14:22-24、ルカ22:19-20、Ⅰコリ11:23-25参照)
 キリストは、信じる者が、この秘跡によって永遠の生命で養われるために、世の終わりまで教会において記念され、再現され続けるように願われた。そして、その権能と務めを、使徒たちと、その後継者に与え、今も、司教や司祭たちが引き継いでいる。
 信者は、キリストの制定の言葉に従い、パンとぶどう酒は、キリストの御からだと御血に変化し、そこに現存され、また、その御霊魂も、神性も、共におられると信じる。これは、理性を超えた「信仰の神秘」といわれる。
(参考)
・ 「聖体の秘跡」(『カトリック要理(改訂版)』カトリック中央協議会、1979年)
・ 「エウカリスチアの秘跡」(『カトリック教会のカテキズム』1322〜1419番 カトリック中央協議会、2002年)
・ 「聖餐」(ウィキペディア)
・ 「聖体の秘跡」(キリスト教マメ知識:ラウダーテ)
・ 「54. 聖体の秘跡・ミサ」(山本神父入門講座:ラウダーテ)
・ 「55. 聖体の秘跡2」(山本神父入門講座:ラウダーテ)、その他
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※11:「さっき、福音書で、・・・朗読しましたけれど」
 本日、2015年3月1日〈四旬節第2主日〉の福音朗読箇所は、以下のとおり。
  マルコによる福音書 9章2〜10節。
   〈小見出し:「イエスの姿が変わる」から抜粋〉
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※12:「カリス」〈ラテン語:calix〉既出

カリス
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 「杯」の意味。ミサの中でキリストの血となるぶどう酒を奉納、聖別、拝領する際に使用する祭器具。
 パテナ(聖体皿。ミサの中でキリストの体となるパンを奉納、聖別、拝領するときに用いる円形の皿)と共に最も重要な祭器具とされる。初期の時代はガラス製のものも作られたが、9世紀頃からは金属で作るようになった。
 現在は金メッキを施された金属製のものが一般的だが、ぶどう酒が染み込まない硬い材質を用いることもできる。最初に使用する前に、司教か司祭によって祝福される。
(参考)
・ 「カリス」(『キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
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2015年3月1日 (日) 録音/2015年3月8日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英