神と人とのバリアフリー

2015年12月6日 待降節第2主日
・第1朗読:バルクの預言(バルク5・1-9)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ1・4-6、8-11)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・1-6)

【晴佐久神父様 説教】

 今日も福音を語りましょう。
 福音は神さまが語られ、キリスト者を通して、一人ひとりに届きます。この、神さまからキリスト者を通して人に流れていくという、「福音の流れ」を何よりも大切にすることが、神の国を目指す私たちキリストの教会の、最高の目的というか、使命というか、(おきて)というか。
 一司祭として、今日も皆さんに福音を語ります。

 私たちが「福音を語る」「福音を伝える」というときに、一番大事なことは、もちろん「さあ、福音を語るぞ!」っていう意識で福音を語るわけですけれども、そもそも福音は、もうすでに神さまから圧倒的な力をもって私たちの内に来てますし、人々はそれを聴きたくってしょうがないわけですし、実はみんな、それを迎え入れる準備もちゃんとできてるんです。だから、あとは、福音が一人ひとりに流れるために、何か邪魔になっているものを取り除く。・・・これが大事なんですよ。
 でも、このことがあんまり気づかれていないんですね。どんなに流そうとしても、詰まってたら流れない。そういう体験、いくらでもしてるんじゃないですか?
 雨どいの掃除をするとき、枯葉を取り除くと、サーッと流れる。気持ちいいですねえ。側溝に泥が溜まっている。泥かきをすると、サーッときれいな水が流れる。気持ちいいです。・・・もう、水はちゃんと来ているし、流れようとしてるんです。でも、いくら流そうったって、詰まってると、流れない。
 ぼくらの感覚では、よく、「さあ福音を語ろう! 頑張ろう!」とか、「キリストを伝えよう! 努力しよう!」って、流れに圧力をかけようとしますよね。だけど、いくら圧力をかけても、福音が流れていかない。ところが、何も頑張らなくても、流れを邪魔してるものをチョイと取り除けば、サーッと流れる。これがコツです。
 先ほど、イザヤの預言がちらっと出てきましたね。福音書の中です(※1)。福音書の中で、イザヤの預言が引用されてるわけですけども、「イザヤの書に書いてあるとおりである」(ルカ3:4)と。
 「谷はすべて埋められ、山が低くされ、曲がった道はまっすぐにされ、でこぼこの道は平らになる」(cf.ルカ3:5)・・・すると、
 「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3:6)
 まあ、逆に言えば、でこぼこしてたから、神さまの救いが見えなかった。そこを、削る。
 くにゃくにゃ曲がっていたから、神さまの救いが見えなかった。そこを、まっすぐにする。
 そうすると、もとより神さまの救いはあるんだから、これが見えてくる。これが感じられる。「じゃあ、何が邪魔してるのか」っていう、そこに気づくのが大事だってことです。
 よく、キリストの教会で、「福音を語るぞ!」「信者を増やすぞ!」「人々救うぞ!」って、こう、熱意はあるし、伝統もあるし、まあ、みんなで祈って頑張ってやってるけど、ちっとも、みんなに伝わらないっていう現場が多いんですけど、これって、「さあ、頑張るぞ!」っていうこと自体が思い上がりなんじゃないか。もうすでに福音は来ているんだから、後は、「もしかして」ですよ、自分たちの頑張りが邪魔してるんじゃないか。それに気づいて、むしろそれを取り除くと、「なんだ、こんなに簡単に流れるんだ」と、そういうことがいっぱいある。
 一番邪魔しているのは、まあ、・・・いくつか思いつくんですけども、最近特に思うのは、「前からこうしてるんだから・・・」っていう、何ていうんでしょう、伝統や慣例にとらわれて思考停止状態になっている、その思い込み状態が、すごく流れを悪くしているって思いますよ。
 「ず〜っとこうやってきているんだから」とか、「もう、こうするしかないんだよ」とか、勝手に思い込んでるんですよね。でも、そういう思い込みを、ちょっと取り除くと、もう、驚くほどたくさんの水が流れ込んできて、周囲に溢れて行き、美しい流れが、そこに実現する。
 そういう喜びの経験を、わがカトリック多摩教会も、したいですね。・・・「邪魔を取り除く」。

 昨日、高知から帰ってまいりましたが、いい体験をいたしました。
 おとといの夜、高知で「市民クリスマス」があったんですよ(※2)。この「市民クリスマス」っていうの、私、よく頼まれて、地方に出かけて行きます。いわゆる市民会館とか、県民ホールみたいな所に、その市の、あるいはその県の、さまざまなキリスト教会がひとつに集まって、そこでクリスマスをお祝いする。そこにお友だちや、近所の方も読んできて、福音宣教のチャンスともする。そういう集まりですね。
 今まで、あちらこちらから呼ばれてお話をしてきたのです・・・が、私、正直言って、あ〜んまり好きじゃなかったんですよ、この「市民クリスマス」っていうのが。・・・それ自体はいいですよ。いいんだけれども、どこも、毎年の慣例みたいなのに縛られてて、マンネリ化っていうか、本来の「神の子たちがみんな集まって、クリスマスをお祝いしよう」っていう、そんな感じじゃないんですね。
 初めてそこに来た求道者、あるいは、「求道者」とまでもいえないようなご近所の方に、福音を伝える最高のチャンスじゃないですか、クリスマス。でも、なんだか、「今、ここで、福音をその人に届ける」「イエスさまの誕生で、みんなの心がひとつになる」っていう感じにならないんです。
 なんでそうならないかっていうと、だいたい、県民会館とか、市民ホールっていう所は、だだっ広いですよね。で、結構満席に近くなったりもするんですけど、ホールですから、階段席で、緞帳(どんちょう)が下りてるわけでしょ。・・・なんかやっぱり、コンサートみたいになっちゃうんですね。
 大抵は、ブーってブザーが鳴ると、「まもなく開演します」というアナウンスがあり、で、みんな座ると、緞帳がガーッと上がって、ライトが灯って、司会者が出てきて、「それでは、ただいまから第何回、市民クリスマスを・・・」って感じで、まずは実行委員長の挨拶があり、次にちょっと有名な演奏家とかクワイヤーとかが出てきて、演奏したり歌を歌ったり。拍手して引っ込んで、次に牧師先生が出てきて聖書を読み、お祈りがあり、それが引っ込むと、司会者が、「さて、続いてメッセンジャーの晴佐久神父です! 今日はどんなお話を聴かせてくれるのでしょうか。さあ、どうぞ!」って言うと、みんな拍手して、舞台の袖から出ていって、お話をする。・・・まあ、せいぜい、15分とか20分とか。
 私、・・・分かりますでしょ? 20分じゃ足りないんですよ。(笑) この説教も、二十何分か、今日もどこまでいくか知りませんけど。・・・話し終えると拍手があり、引っ込むわけです。で、「次にハンドベルの皆さん!」って。(・・・笑) しまいに、「ここで15分の休憩です」って緞帳が下りる。・・・な〜んだかね〜、・・・しかも、ステージの上、何にもないんですよ。「クリスマス」って言ってもねえ、「これ、何だろう?」っていう感じだったんですよね。
 だから、最初、私、そのお話をいただいたときに、正直に言ったんです。「私、あんまり好きじゃないんですよ。なんだかあれ、コンサートみたいで。まあ、行きますよ、行ってお話しはしますけど、もう少し、何とかなりませんかねえ」と。そしたら、「ず〜っと、いつもこうしてきちゃってるから、正直言って変えたいんだけど、どうすればいいかよく分からい」って言うんで、「じゃあ、ミサみたいにしたらどうですかねえ」って、チラッと言ったら、「一度、相談に行きます」って言って、実行委員の神父が来られたんですね、東京までわざわざ。カトリックの、高知の教会の神父で、この神父さまが、右代表で来たわけです。で、聞いてみると、今年はぜんぶ、カトリックにお任せしましょうっていう話になれそう(・ ・ ・ ・)だっていうんで、私は、「それなら、こうしてほしい」っていうことを言いました。
 まず、緞帳を下ろさずに、カラーンとひとつの聖堂のようにして、ステージの真ん中に、ちゃんとイエスさまのご像を置いて、周りにろうそくを灯して、聖なる雰囲気をつくる。そして、神父も歌う人もステージの上に、最初っから全員座っていて、イエスさまを囲んでみんな「ひとつに」なって、最初に、神父がはっきり言う。
 「この集まりは、神さまが集めてくれた神さまの家族です。ここに今、聖なる霊が注がれている。今日、ここに、悩んでいるあなたのところに、イエスさまが来られました」
 そういう話をして、みんなの心をグッとひとつにして。それから、みんなで共に歌って、聖書が読まれて、そして、講話を30分は(・ ・ ・ ・)(笑)やって、つまりみんなで福音宣言を聴いてですね、そしてまた歌って、祈って、最後に、また神父が言います。
 「さあ、キリストが宿って、みんなひとつの家族になれた。これで、神さまがホントに私たちのうちに来られた。喜びのうちに出発しよう!」
 そう祝福をして、終わる。・・・つまり、まあ、「ミサ」ですよね。聖体拝領はないですけれど、そこに福音がイエスさまとして来られるならば、もう、聖体拝領したも同然ですよ。
 「ミサのような集まりにしようよ」、・・・まあ、そうお話した。すると、高知の神父さま、「どこまで実行委員会で受け入れてもらえるか分からないけれども、やってみます」って言って、帰っていった。
 さあ、どうなるかと思って当日行ってみたら、相当頑張ったらしく、言った通りになってたんですよ。・・・私、うれしかったですね。ただ、言葉が足りなかったのか、緞帳は下りてた。(笑)
 ・・・あれ、よくないですよね。ミサだって、ここに緞帳下りてて、(笑) 入祭の歌でガーッと上がってミサ始まったら、(笑) なんか違う・・・でしょ? あの「緞帳」っていうのは、ホントに、「客」と「出演者」っていうのを分ける。そういう分けるもの、壁をなくすのがね、やっぱりキリスト教のはずですよ。分けちゃうと、全体に霊的な流れがないんですよね。「客」と「出演者」じゃ流れない。みんなひとつの家族になってはじめて、流れるものがある。

 まあでも、仕方がない。その緞帳の裏側で、みんなイエスさまを囲んで座ってるわけで、私もイエスさまの真後ろに座りました。
 私、そのときに「聖霊来てください」って祈ってたら、すぐ右隣にいた方が、「晴佐久神父さま、来てくださって、ありがとうございます」って、緞帳が上がる前にね、声かけてきたんですよ。目をつぶりながら話してるんで、あれ?って思ったら、全盲の方なんですね。で、「私、晴佐久神父さまのお説教集を、点字で3冊読みました」って言うんです。・・・点字になってるんですね、説教集が。「点字で読んで、感動して、今日は本当にお会いするのを楽しみにしておりました」と。
 ・・・たぶん、晴佐久神父さんのすぐ隣にしてもらったんじゃないですかね、あれ。だから、声をかけてきたんですよ。私、そのときに、「ああ、これは聖霊の働きだ。これで、この集まりは、必ずひとつになる」って確信しましたし、緞帳が上がってね、すぐに宣言いたしました、
 「今日ここに、聖霊が働いている。私たちは家族だ。家族は、クリスマスくらい、一緒にいましょう。ここがひとつであれば、世界がホントに救われる。皆さんいろんな教会から来ているけれども、私たちは、イエスさまを迎えて、今、ひとつになった。こんな素晴らしいことはない。感謝しましょう」と。
 ミサで言えば、集会祈願(※3)ですよね。今日も私、集会祈願の直前にお話ししましたでしょ、「この集いは、神さまが集めてくださった素晴らしい仲間だ」って。もう、毎回なので皆さんは聴き飽きちゃって、(笑) 効き目が少なくなったかもしれないですけど、初めての方たちは、やっぱり、ビックリしたみたいですね。すごく喜ばれました。
 そうして、講話では、「実は、全盲の方が隣におられて、声をかけてくれた。それで私、皆さんに、昨日の話をしたくなりました」と、一昨日の金曜日のお話をしました。金曜日に、多摩教会で、全盲の方が私に、「今度の復活祭に、ぜひ洗礼を授けてください」と申し出たんです。これ、私には、ホントにうれしい出来事でした。

 ・・・半年前を思い出しますよ。1本の電話がきて、「私は全盲です」と。「多摩教会に行ってみたいけれども、全盲の人を受け入れる設備、ありますか?」っていうようなことを聞かれたんです。バリアフリーの話ですよね。だから私、もう、「あります、と自信を持っては言えませんが、来てくだされば、必ずそうします」っていうようなことを言ったんです。
 で、その方、来られました。そして、まあ、心の内を打ち明けてくださった。以前も、この説教で、チラッとお話したことがあります。(※4)
 彼の話はとても象徴的なんです。「自分は目が見えなくって、闇の体験をしてるわけだけど、見えないこと、これはもう、仕方がない。でも、見えなくなったということで、自分が何か決定的に喪失してしまったという、その喪失感で、心が闇なんだ」と言う。・・・「目が見えない」っていう闇よりも、「心が見えない、心が暗い」っていう闇が深い。
 これは象徴的ですね。私たち、目が見えていても、心が闇ってことがありますし、逆に、目が見えてるからこそ、心の闇がちゃんと受け止められずにいるみたいなとこ、ありますから。
 私は彼に、福音を語りまくりました。
 「私を信じてくれ」と。「神の招きを信じ、この教会を信じ、福音を信じ、ともかく毎週、ミサに来てほしい。福音を、ず〜っと聴いてほしい。そして、この教会が、あなたを受け入れますから、家族になってください。教会家族を体験してほしい」と、お招きしました。
 そうしてすぐに、彼を駅から教会まで案内する係を決めて、彼がひとりで来られるようになるまでのお世話をお願いしたし、教会に来たら、掲示物を読んで差し上げる係とか、席までの案内係とか、みんなにいろいろお願いしましたし、点字ブロックも、すぐに整備しました。
 聖堂までの点字ブロックの工事をして、でも、そのうちに信徒館に行きにくい、場所が分かりづらいって言うんで、「じゃあ、信徒館まで延ばしましょう」って、信徒館まで点字ブロックを延ばす工事をしました。
 また、皆さんはミサに来たら、『聖書と典礼』(※5)をね、パッと手にしますけれども、目が見えなければ、『聖書と典礼』は読めないし、どこにあるのかも分からない。で、すぐに点字の『聖書と典礼』を毎週文注文したし、この点字の『聖書と典礼』を、必ずそこにあるという所で彼が手にできるように、日曜日になったらそこに点字の『聖書と典礼』を置く係も、ちゃんと決める手はずを整えたし、ミサでは一番前の席に座れるようにした。それは、聖体拝領の時、彼が出て来なくても、私が行って祝福できるように、と。
 さらに、彼が入門講座にも通うようになったので、講座で「さあ、皆さん、聖書開いてください」って言っても、彼は読めませんから、点字の聖書も揃えました。
 ・・・そして何よりも、皆さんが、声をかけてくれるようになった。
 だんだん親しくなってくると、声でどなたか分かるようになってくるし、毎週一緒に食事をし、毎週毎週、お話をして、教会家族になってくれました。
 そしてついに、二日前、その方が、「洗礼を受けたい」と言ってくださった。
 彼は、こう言ったんです、「私は、最初は、なぜキリスト教でなければならないかという理由もはっきり分からないままに、ここに通いだしたけれども、いつの間にか、ごく自然に、ああ、ここで洗礼を受けたい・・・と思うようになった」って。
 これは、いいですねえ。何か特別の理由があって、「じゃあ、洗礼を受けよう」じゃなくって、「いつの間にか」「ごく自然に」。・・・これ、「家族」ってことじゃないですか。
 何かこう、邪魔なものが、ぜんぶ取り払われてね、流れができる。ノーマライゼーションとか、あるいは、バリアフリーとかいう言葉がありますけど(※6)、それって、そういうことだと思うんです。邪魔を取り除いて、ごく普通に、ごく自然に、一緒にいられるようになる。
 「バリアフリー」って、まあ、目の見えない方にとっては、本当に大事ですけれども、考えてみたら、神さまと人の間に、いろんな邪魔があって、そこのバリアフリーが一番大事なんですよ。ここを取り除かないと。だって、目の見えない方が教会に来られる、それもいいけど、その闇の心に神の愛が届く、それが、最も大事なことでしょ
 神と人のバリアフリーを心がける。これ、教会の使命じゃないですか?
 「でこぼこのものがあるなら平らにして、みんなが、神さまの救いを仰ぎ見るようになる」(cf.ルカ3:5-6)。そのためなら、何でもしましょうってことでしょ?

 ・・・あさって、12月8日から、「いつくしみの特別聖年(※7)」が始まります。教皇フランシスコが、どうしてもやりたいと、強く主張なさって始まる、この「いつくしみの特別聖年」、あさってから1年間、この特別聖年が続きます。来年の11月まで。
 この聖年の間、最大のシンボルとして、聖年の扉(※8)が開きます。(※9)
 バチカンでいえば、向かって一番右端の扉ですね。他の四つは、いつも開いてる。右端の扉は、聖年にしか開かない。聖なる年にしか開かない扉です。この扉を、その年にくぐるために、巡礼客がいっぱい来るんですけど、教皇は、これこそがシンボルだと言って、こうおっしゃったんですよ、「この扉は、神のいつくしみの扉です」と。「神さまは、常に、いつくしみの扉を開き続けて、そして、すべての人に、救いの手を差し伸べます。そのシンボルなんです」と。
 どうぞ、その扉、巡礼でも何でも、くぐりに行かれたらいいと思いますよ。ただ、行った以上はですね、今度、自分も「聖なる扉」になって、神さまのいつくしみ、すべての人に注がれる神さまのいつくしみのしるし(・ ・ ・)にならないとね。
 教皇さまが、「この扉が開いているということの意味は、教会が、そのように、すべての人に向かって扉を開くということ、すべてのキリスト者が扉を開くということ、そのためだ」とおっしゃいました。
 この特別聖年の間、私たちの教会を、開かれた教会にいたしましょう。

 「今までこうだったんだから、こういう市民クリスマスじゃなきゃだめだ」とかいうんじゃなくって、まさに開かれた市民クリスマスにしたかったんです。・・・私、その市民クリスマスのお話で、この洗礼を受ける決心をした全盲の方のお話をはじめ、たくさんの方が、こんなふうにイエスと出会って救われていく、救われてきた、そんなお話をいっぱいして、そして、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(cf.ルカ2:11) という、あのルカの福音書が読まれたので、「今日、このホールに、神さまの救いが実現した。安心してほしい。特に今、もう死にたい・・・!なんて思ってる人、本当に、苦しみのさなかにある人、ぜひ、今日ここで、神さまの福音に出会ったと、そんな喜びを味わってほしいです」と、そういうお話をした。
 とても喜ばれましたし、牧師先生がたも、後から、「今日は目が開かれました」ってね、言ってくださって、すごくうれしかったです。超教派の集まりで心が通うのって、ホントに気持ちがいい。

 実は先週、大勢の牧師たちが、多摩教会に集まったんですよ。私を慕ってくださる牧師って多いんですけど、私はみんなを知ってても、お互いは知らなかったりするので、そんな牧師たちを集めて、出会いのチャンスをつくったんですよ、食事会として。・・・いろいろでしたよ。福音派、フリーメソジスト、日本基督教団はもちろん、福音ルーテル教会とか。
 牧師たち集まってね、まあみんなよくしゃべる、よく食べる。(・・・笑) 超教派で楽しく過ごしました。で、まあ、そういう牧師たちですから、話がとても通じるんですよ。「扉が開かれた教会」、ホントにイエスさまが共にあって、すべての人に開かれた壁のない教会を目指そうよっていう話で盛り上がって、なんか、ホントにうれしい集まりになりました。
 ・・・晴佐久神父を好きな牧師って、いい牧師です。(笑) すごく、いい牧師たちです。まあ、晴佐久神父を嫌いな牧師もいるでしょうけど、そういう牧師は、・・・次にいい牧師。(笑)いい牧師たちと一緒にいると、「今までこうだったから、こうでなきゃならない」っていうんじゃなくって、神父と牧師、牧師どうしのバリアフリーを感じて、とっても気持ちよかった。その食事会で、「本当に楽しかった。目が開かれた」って言った牧師がいましたよ。・・・ああそうだ、市民クリスマスでも、おんなじこと言ってた。「目が開かれた思いだ」って、後で言ってくださった牧師がいた。
 邪魔なものが取り払われたときに、すっと福音が流れてくる喜び。何にも代えがたい。

 今回の市民クリスマスでは、最後に緞帳が下りて、その後で、最後のアナウンスをするっていう計画だったようですけれども、私、みんな心ひとつになったいい集まりだったんで、「これ、もう緞帳下ろすの、やめましょうよぉ〜 」って思ってたんです。で、「もろびとこぞりて」を歌い終わって、緞帳が下りてくることになってたんですけど、司会者が、じ〜っと緞帳を見上げてる。・・・なんと、故障だか手違いだかで、下りてこなかったんですよ。(笑)
 だから、私、「もう下ろさなくていい、下ろさなくていい!」って言ったら、周りの人が笑ってね。会場の人たちも、笑い始めて、みんながニコニコして、なんかすごいあったかい感じのラストになったんですよ。・・・これは、聖霊の力ですねえ。「緞帳、下ろさなくていいよ」って思ってたら、ホントに下りてこなかった。非常にシンボリック。・・・で、「ああ、よかった♪ よかった」って思って退場しようとしたら、ようやく直ったのか、いきなりガガ――ンって緞帳が下りてきちゃった。(笑) 最後の最後でがっかりでしたけど。
 それにしても、何でしょうね、この緞帳。
 私たちを分けているもの? 邪魔になっているもの? 障害物? 詰まってるもの? 罪?
 ・・・神さまの限りないいつくしみと、この私たちを、分け隔てているもの。
 こうでなきゃならないという、ささやか〜な思い込みを解き放って、神と人との間のバリアフリーを、この特別聖年の1年間、目指しましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「先ほど、イザヤの預言がちらっと出てきましたね。福音書の中です」
2015年12月6日の福音朗読箇所
 ルカによる福音書3章1〜6節
  〈小見出し:「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」(3章1〜20)の抜粋〉
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※2:「おとといの夜、高知で『市民クリスマス』があったんですよ」
(チラシはクリックで拡大)
(参考)
主催の高知加賀野井キリスト教会の福江等牧師先生が、開催前後のことを、ご自身の教会のブログに書いておられます。ぜひご一読ください。
「牧師の小窓」<380>(2015年11月1日)〔今年の高知市民クリスマスの講師として晴佐久神父を紹介する記事〕
「牧師の小窓」<384>(2015年12月6日)〔高知市民クリスマス終了後のご報告〕
 〔 「*みどりのまきば*」 高知加賀野井キリスト教会ホームページ(プロテスタント・メソジスト教団)〕
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※3:「集会祈願」既出
 カトリック教会におけるミサは、大きく、「開祭」、「ことばの典礼」、「感謝の典礼」、「閉祭」から構成され、式が進行していく。
 この「集会祈願」は、最初の「開祭」中、最後に行われる。
 (「開祭」: 1.入祭の歌、2.あいさつ、3.回心、4.あわれみの賛歌、5.栄光の賛歌〈待降節、四旬節以外〉、6.集会祈願
◎「集会祈願」の内容
 司祭が会衆を祈りに招き、一同は司祭と共にしばらく沈黙する。それは自分が神のみ前にいることを意識し、自分の願いを思い起こすためである。それから司祭は、「集会祈願」と呼ばれる祈願を唱える。この祈願によって、祭儀が聖霊において、キリストを通して、神なる父に向けられるという性格が表現される。会衆は、心を合わせ、「アーメン」という応唱によって、この祈願を自分のものとする。
(参考)
・ 「集会祈願」,『ローマ・ミサ典礼書の総則』[PDFファイル]54[=32]p.22,カトリック中央協議会(2004)(「カトリック中央協議会「公開文書」 -「典礼秘跡関連」)
・ 『ともにささげるミサ-ミサ用式次第 会衆用-改訂版』2006年,オリエンス宗教研究所
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※4:「以前も、この説教で、チラッとお話したことがあります」
(参考)
「目覚めれば、天国」(「福音の村」2015年6月21日説教)
 ・・・説教中盤、この辺の少し上から。
 (5月から教会にいらしていたこの方が、4回目のミサに与っておられたときの説教)
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※5:『聖書と典礼』既出
 『聖書と典礼』(発行:オリエンス宗教研究所)は日本のカトリック教会共通の小冊子で、主日のミサ、また、一部の祝日のミサのときに用いられる。
 B6版のものと、少し大きめのB5版のものがあり、通常は8ページ程度から成る。
 ミサは典礼書に従って進められるが、聖書の朗読箇所や、答唱詩編、アレルヤ唱、共同祈願などは、ミサのたびに異なるので、この小冊子が会衆(参加者)に配布され、それに添って進んでいく。
 表紙には、その日の典礼に合わせた、美しい絵画やイコンなどが載っている。
(参考)
・ 「オリエンス宗教研究所
・ 「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所)〈美しい表紙絵の解説は、過去の分も載っています〉
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※6:「ノーマライゼーションとか、あるいは、バリアフリーとかいう言葉がありますけど」
◎「ノーマライゼーション」 (英: normalization)
 障害者や高齢者、(また、広く社会的マイノリティも含む)が一般市民と同様の権利が保障され、普通の生活が送れる社会を築くという考え方のこと。
(参考)
・ 「ノーマライゼーション」(コトバンク)
・ 「ノーマライゼーション」(weblio辞書)

◎「バリアフリー」 (英: barrier free)
 障害者や高齢者が社会生活を送るうえで、物理的、社会的、心理的に障壁(バリア)となるものを取り除くこと。
・ 「バリアフリー」(コトバンク)
・ 「バリアフリー」(weblio辞書)
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※7:「いつくしみの特別聖年」
 教皇フランシスコは、2015年3月13日、バチカンで行われた共同回心式の際、「いつくしみの特別聖年」の開催を宣言した。
 教皇は、今までも繰り返し、神のいつくしみに気づくことがいかに大切であるか、また、神のいつくしみが、今、世界中で、いかに必要とされているかを話し続けてこられたが、特に、この特別聖年を通し、「誰も神のいつくしみから排除されることはない」と呼びかけ、いつくしみ深い神を知り、皆が神のもとへ帰るように、また、神との出会いによって、その豊かないつくしみに目覚めるようにと願われている。
 この特別聖年は、2015年12月8日、無原罪の聖母の大祝日に始まり、翌2016年11月20日、王であるキリストの大祝日に終了する。
―――――――――
◎「聖年」
 教皇ボニファティウス8世が、1300年を「聖年」と定めたのが始まりで、1475年からは、25年ごとに行われている。一番最近は、2000年の大聖年。
 「特別聖年」は、重要な出来事などを機会に公示されるが、20世紀になってからの特別聖年は、1933年と1983年に「あがないの聖年」が開かれている。
 今回の、「いつくしみの特別聖年」は、1965年の第2バチカン公会議閉会から50周年にあたり、カトリック教会が同公会議の実りを生かし続けていくという特別な意味も持っている。
(参考)
教皇フランシスコ、いつくしみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」(カトリック中央協議会)
・ 「いつくしみの特別聖年」(カトリック中央協議会)
・ 「教皇、特別聖年を宣言/大勅書を発表し、特別聖年を公式に宣言(2015/4/17)」(カトリック中央協議会)
・ 「いつくしみの特別聖年」<関連記事>(バチカン放送局)
・ 「聖年」(「キリスト教マメ知識」>ラウダーテ)
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※8:「聖年の扉」
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂には、五つの扉があり、一番右の扉が「聖なる扉」(Porta Santa/ポルタ・サンタ)といわれ、聖年になると開く。
 「聖なる扉」(Porta Santa/ポルタ・サンタ)
     (画像はクリックで拡大)

(参考)
・ 「観光前に知る!サンピエトロ大聖堂/バチカン」(All About 旅行)
・ 「数十年に一度のイベント『聖年』にローマへ行こう」(All About 旅行)
・ 「サン・ピエトロ大聖堂」(イタリア旅行記:個人ブログ「Tokoの夢物語!写真と旅行記」)
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※9:「聖年の扉が開きます」
バチカン放送局により、ライブ配信がありました。
教皇さまは、下の動画で、開始から「1:48:30」くらいに、扉を開けられます。

   Inauguration of the Jubilee of Mercy -2015.12.08(YouTube)
※「YouTube」のサイトからご覧になる場合は、>>> こちら
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2015年12月6日 (日) 録音/2015年12月12日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英