悪い子だからこそ

2012年1月29日年間第4主日
・第1朗読: 申命記(申命記18・15-20)
・第2朗読: 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント7・32-35)
・福音朗読: マルコによる福音書(マルコ1・21-28)

【晴佐久神父様 説教】

 そういえば、つい何日か前にフジテレビから電話があって、この聖堂を撮影したいって言うんですね、テレビ番組のために。何の番組ですかって聞けば、エクソシストの特集だって言うんですよ。(笑)だから、「ここの聖堂は明るくって、そういうのにあんまりふさわしくないですよ」ってお答えしておきました。それでも今週下見に来るようなこと言ってましたけど、ご覧のとおり、ここ明るいですしねぇ、爽やかで、清らかで、う〜ん、なんかこう、エクソシストの雰囲気には合わないんじゃないですか。「エクソシストが必要な人ならいっぱい来てますけどね」(笑)とは申し上げませんでしたけど(笑)。
 しかし後でよくよく考えてみると、エクソシストって悪霊払いですから、今日の福音のように、汚れた霊、悪霊を追い出すわけでしょ。その意味では、この明るさ、この爽やかさ、そしてここに集まっているこのみんなの喜び、これは言うまでもなく汚れた霊、悪霊を追い出された者の喜びなわけですから、ま、その「追い出された後」っていうイメージだったらピッタリかもしれません。
 実際、このわれわれのミサなんていうのはある意味、悪霊払いですから。信者だって一週間生きてたら、汚れた霊にいっぱい取りつかれますでしょ。怒りとか、恐れとか、苛立ちとか、嫉妬とか、なんだかいろんな悪霊が取りつきますでしょ。でも、たとえそれを抱えたままでも、ひとたびこうしてミサにやって来れば、今日のようにイエスさまから「この人から出て行け!」と命じられて悪霊は退散し、みんな爽やかに、清らかに、新しい一週間を始められる。そういう意味では、ミサは立派な悪霊払いですよね。誰だって一週間生きれば、いろんな汚れたものに取りつかれちゃいますから、ミサですっきりと、きれいになってください。

  言うまでもなく、そのミサの出発点である洗礼式っていうのが、そもそも悪霊払いですからね。ご存じでしょ、洗礼式の時、洗礼水をかける前に「悪霊の拒否」っていうのをやるじゃないですか。あれはまさに、洗礼式が悪魔払いという側面を持ってることを、よく表してます。
 ただですね、あの「悪霊の拒否」っていうのは、洗礼を受ける側が、「悪霊を捨てます」とか「神に反するものを退けます」とか宣言しますよね、受ける側が。その後の信仰宣言も、受ける側が宣言するわけでしょ。「神を信じます」「救い主イエスを信じます」「聖なる霊を信じます」。・・・で、実はそれらは、まだ洗礼そのものではないんです。悪霊を拒否したり、信仰宣言をしたりするのは、どちらも受ける側、つまり人間の拒否とか宣言ですね。それは必要ではあるけれども、中心ではない。受ける側の条件がどれだけ整っているか、整っていないかというようなことは、洗礼という新たなる誕生においてはあまり大きな問題ではない。
 洗礼を完成させるのは、その後で、聖なる水をかけられて、「私は、父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」と宣言されたときです。まさに神さまの宣言によって、成立する。洗礼を授けるのは神なんです。受ける側がね、いくら胸張って「悪霊を拒否します」なんて言ったところで、皆さんも、もうお分かりでしょうけど、人間の決心とか宣言とか、いいかげんなもんじゃないですか。「悪霊を拒否します、退けます」って言っといて、その翌日にはいろんな悪しき思いにとらわれてるわけですから。で、「それはしょうがないですよ、そんなんでも構わないですよ、救うのは私ですから」と言うかのように、その後で、水をザバッとかけられて、神からの絶対的な宣言がなされる。これが、洗礼を成立させます。まさに、イエスさまが「黙れ。この人から出て行け」と、そう命じると、悪霊は、ヒャ〜ッと出ていっちゃう。人は、このイエスの宣言によって救われるんです。
 この一週間だって皆さん、いろいろあったんじゃないですか、きっと。あの人にイライラ、この人にブツブツ・・・、いろいろやったんじゃないですか、悪霊の仕業みたいなことを。これはもう、避けられない日常です。しかし、そんな人間の現実を超えて、神さまが宣言する。「この人から出て行け」。ぼくらが信頼するのは、この神の権威です。そして、神の権威は絶対です。どんな悪霊も逆らえない。どれほど恐ろしい罪であっても、汚れであっても、イエスさまが「黙れ、出て行け」と言えば、出て行く。だから、われわれが必要とするのは、まあ、回心であったり、悪霊の拒否であったりする以上に、まずはイエスさまから宣言してもらうことなんですよ。
 洗礼の時は、まさにその宣言を受けるとき、神がその人の全ての悪を追い出してくださるときなんです。そしてさらには、再洗礼のようなこのミサにおいて、皆さんがどんなにいっぱいの悪霊を抱えて来ても、イエスさまが「出て行け!」と全部追い出してくれる。この、ミサにおける不思議な清らかさというか、気持ち良さっていうのは、まさに、人間の力を超えた「天の宣言」をわれわれが聞いて、「ああ、全て追い出していただいた」という安心に満たされる、そんな体験だということじゃないですか。
 ま、そう考えてくると、まさしくこの聖堂、ミサを捧げるこのわが家こそは、エクソシストにふさわしい場所だっていえるかもしれませんね。実際、ミサが終わって聖堂から出てくる人たち、みんなすごくいい顔してますもんね。爽やか〜な顔。来る時はブスッとした顔してても(笑)、出て行く時は爽やか〜な顔してる。ミサから離れてはいけないってことですよ。ミサという悪霊退治、ミサという神の権威による宣言、これに信頼してほしいということですよ。

 今、洗礼を準備している人が大勢いますけれど、その皆さんにホントに心から申し上げたい。「もう迷わないでほしい」と。昨日の夜も、ミサの後ですけど、もう洗礼面談も終わって洗礼を許可され、洗礼志願書も出してる方が、心配そうな顔で聖堂の出口のところで待ってて、私をつかまえて言うんですね。「やっぱり不安です。私、まだホントに自分の信仰が確かなものかどうか、自信が持てない。こんな信仰で洗礼を受けちゃっていいのかどうか、どうしても不安です」。
 でもね、そんなこと言われたら、信者の皆さんだってね、もう「すいません、洗礼返上します」って言いたくなる、(笑)現実の信仰生活ってそういうもんでしょ。
 むしろ、だからこそ洗礼受けて、イエスさまからそんな恐れを追い出してもらうってことじゃないですか。そう思うと、その「私の信仰なんて」っていう不安こそが、悪霊の仕業なんでしょうね、きっと。だって悪霊にしてみたらですよ、この人が洗礼を受けちゃったら、もうまさに自分の居場所がなくなるわけでしょ。仮にそのあとで再び一回取りついたとしても、ミサ一発で、またすぐ追い出されちゃう。だから今、彼らは必死に攻撃してるわけですよ。洗礼志願者たちを。「やめた方がいいぞ」と。「お前は、まだまだだ」「信じないほうがいいぞ」「あの神父は偽物だぞ」(笑)・・・。いろんなやりかたで、今、必死に邪魔してるんじゃないですか。その一番の邪魔は「恐れ」でしょうね。その人の心に「恐れ」さえ吹き込めば、あとはもう神からどんどん離れていっちゃうわけですから。悪霊のやり方はいつも一緒。恐れさせて、不安にさせて、神の喜び、神の安心から遠ざけようとする。
 そんな意味では、洗礼志願者の皆さん、ぜひ、このミサでの宣言、主イエスの宣言を心にしっかりと受け止めて、「黙れ。この人から出て行け」という天の権威に信頼していただきたい。神さまは、あなたの悪を追い出すことができます。自分では追い出すことができません。だから、洗礼を受けてください。
 また、先輩の信者さんたちは、その洗礼志願者たちの、今の迷いとか恐れとか、そういう一人ひとりの思いを、ぜひ祈りをもって応援していただきたい。「だいじょうぶ、神さまの愛を信じよう」と。そして声をかけてください。「祈ってるよ、一緒にやっていこう」と。それがこの教会の使命、まさに、エクソシストとしての教会、悪霊を退治する教会の姿でしょう。

 もっとも、洗礼志願者にはすでに聖霊が働いていますから、実はみんなもうその悪霊に打ち勝っていると言ってもいいんですけどね。先日洗礼面談した男性は、まだこの教会に来て日も浅いんですけど、ホントにもう初めて訪れた時に「ああここだ、やっと見つけた」と思ったそうです。これまで救いを求めていろんな所を回って来たんですよ。でも、どこに行っても「なんか、違う」と感じてた。けれど、ここに来た時に「ああ、これだ、ここに救いがある」「もうここから離れない」と、そう思ったとおっしゃいました。嬉しいですよね。私たち、多摩教会の仲間たちは、そういうことを言われる仲間たちに成長してるんですよ。真実なるものを探し回ってきた一人の人に「ついに見つけた、もうここから離れたくない」と言ってもらえる仲間たちに。
 そうは言ってもまだ日も浅いので、今年洗礼を授けるかどうかについては迷うところです。ほかの教会でずいぶん勉強してきているし、長いこと聖書を読んできて確かな信仰も持っているとはいえ、今年授けるかどうかは一応保留になってます。なってますけど、彼、こう言ったんですよ。「たとえ、洗礼を授けていただけなくとも、ともかく私はもう、ここから離れる気はありません」。そういうの聞くとね、なんだか嬉しいというか、ほろりときて、「それじゃあ」(笑)ってやっぱり思っちゃいますよ。ゴールじゃないですもんね、洗礼は。スタートですから。「そんな君と一緒にやって行きたい」とも思いますし、なにしろもう彼の今の喜び、ようやく本当に神さまの恵みにあずかれると信じられる場所を見つけた、その彼の喜びがひしひしと伝わってきて、ああいうのを見ると、それこそ悪霊も取りつく隙なしって感じですかねえ。

 もうすぐ来る洗礼式。それは、ホントにもう大勢の悪霊がヒャ〜ッと叫んで退散していく、非常に美しい現場です。よく、「洗礼で全ての罪がゆるされる」って言い方、聞いたことあるでしょ。まさしくそうです。で、もちろんその後もまた、恐れたり、苛立ったりして、罪の状態に戻っちゃったりするけれども、そのときは再洗礼のようなこのミサに戻って来て、また新たにされていく。この信仰生活は、美しい。
 全ての人に、こんなにある意味簡単なね、そして誰でも受け入れることのできる究極の救いは他にないですよって、私は言いたい。みんなに、キリストの教会にいらっしゃいと言いたい。信じてミサにあずかり、信じて「神さま、あなたに全て委ねます」と祈れば、あらゆる悪霊がもはや取りつく隙なし。これこそは、今の日本が、ホントに必要としている信仰でしょうから、みんなで、どんどん広めましょうよ。
 今、日本の社会は恐れてますし、まあ、言うなれば悪霊に取りつかれてますよ。いろんな悪しき霊が、さまざまな悪さをしている。そんな中、立派な信仰を持った人とか、よく聖書を勉強した人とか、そんな善人が救われるっていうんじゃ、あんまりでしょ。むしろ、悪霊に取りつかれて、もうにっちもさっちもいかないというような人に、ただひと言、救い主が「黙れ。この人から出て行け」と言ってくださればもうそれですべてオッケー、誰でもが救われるというような、そういう信仰に導かないと。

 もうひとり別の男性ですけど、先日の入門講座に初めて来られた方で、洗礼を望んでるっていう方が来られました。よくよくお話を伺うと、この方、浄土宗の僧侶なんですね。佛教大学を出て得度して、実際にお寺のお手伝いをしていたこともある。でも、以前からキリスト教も深く学んでおられて、ホントに救いを求めて生きてきたし、本物の信仰を求めて来たし、思うところあって、残された人生を神と教会への奉仕の人生にしたいと、このたび一大決心をして来られたんです。この出会いは私にとっても、ある意味とても象徴的な出来事でした。
 もちろん、浄土宗の教えも素晴らしい教えですよ。私自身、仏教には大変敬意を持っております。特に浄土宗、浄土真宗は、「全ての人を救う御仏の本願」をその教えの本質としているわけでしょ。「本願」っていうのは、まあ、キリスト教的に言えば「神さまのみ心」ですよね。「全ての人を救いたいと願っている、神のみ心」です。そのような本質を信じる浄土宗の人たちならば、もしもイエスに出会ったら、この人こそ本願そのものだと悟るでしょうし、その本願を生きる教会の本質を知ったら、「これはすごい」「これは本物だ」「この仲間たちのことを是非知りたい」って思うのは当たり前だっていう気は致します。
 私自身、教会が、わりとこう、罪を強調してですね、裁きを強調してですね、「ちゃ〜んと良い子にしてないと天国行けないよ」みたいな雰囲気が支配的だった時代に子ども時代過ごしましたから、子ども心にも「なんか変だなぁ」「もしそうなら、ぼくは救われないな」って思ってたわけですよ。そこからやがて、「いいや、私たちが良い子になったから救われるんじゃない。悪い子でも、いや、悪い子だからこそ、神さまはあわれんで救ってくれるんだ」という、あのイエスの福音の本質を知って救われたものですから、この浄土系の教えのね、「南無阿弥陀仏と唱えれば、すべての人が救われる」「善人ですら救われるのだ、まして悪人が救われぬわけはない」っていう教えは、非常に親近感あるんですよ。
 で、この方、まあ当然、法然さんを尊敬してるわけですけれども、その方がこう言うんですよ。「もし法然さんがイエスさまに出会っていたら、きっとイエスさまについて行ったに違いない。私はそう思うんです」。そうおっしゃった。「なるほど」とも思いました。イエスさまこそは、そのような普遍的な救いの、目に見える現実ですから。私、自分が罪人だと分かってますし、また悪霊に取りつかれる体験もしょっちゅうしております。しかし、それでいながら、これほどまでにいつも救いの喜びを生きていられるのは、そんな救いの現実に出合ったからです。罪にまみれ、悪霊に取りつかれている「悪い子」でありながらも、「黙れ。この人から出て行け」と言って、いとも簡単に悪霊を追い出してくださる救い主に出会ったからです。
 そもそも、主イエスが来られてから二千年間のこの新約の時代は、あらゆる悪霊がもはや、主を信じる人に取りつく隙なしになっている時代であって、取りついたかに見えても、すぐに追い出されてしまうというのが現実です。悪霊はもう、キリストの教会において、居場所を失っているんです。
 私はこの、すべての人が救われる、とりわけ悪い子ほど救われるという信仰に救われている者として、イエス・キリストが、全ての悪い子たちに真の救いをもたらす、そのような福音を、まさに自分は悪い子だと思い込んでいる人たちに、悪い子だと思い込まされている人たちに、聞かせてあげたい。知らせてあげたい。どこにでも、それを伝えて歩きたい。
 法然さん、親鸞さんなんかは、立派な学問を修め、立派な修業に努め、立派な信心を持っている立派な人たちのことを考えなかった。むしろ、自分は信心なんか持てない、学問もないし修行をすることもできない、だから自分は救われないと思っている人に、「いいや、御仏はそんなあなたを救う」と、そう宣言して回った。日本の仏教界は、こんな素晴らしい偉人を持っているわけですよ。
 今、この日本の社会が必要としているのは、さらにそれを上回る「救い主」の働きでしょう。皆さんのことですよ。皆さんがキリスト者として、「そんな悪い子ほど救われるんだよ」と、そう言って回ったら、どれだけ多くの人が救われるか。悪霊は「お前は悪い子だ、悪い子だ」って言って回ってるんですから。
 私もこれから、いっそうそんな救いの話を、いろんな所で宣言していきたいです。私、お寺で説法したいんですよね、ホント言うと。あの〜、もしカトリックをクビになったら、私、浄土宗の僧侶になって、(笑)全国のお寺回ってですね、「神の愛を信じなさい! 南無イエス・キリストですよ!」と宣言して回りたいんです。

2012年1月29日(日)録音/2月1日掲載

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