ようこそ、福音の舟へ

2012年1月22日年間第3主日
・第1朗読: ヨナの預言(ヨナ3・1-5、10)
・第2朗読: 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント7・29-31)
・福音朗読: マルコによる福音書(マルコ1・14-20)

【晴佐久神父様 説教】

 福音書のイエスさまと一緒に、私も皆さんに宣言します。時は満ちました。すなわち、今、ここに、その時、「神の時」が来たってことです。洗礼を準備している方は、いよいよその時が来たと悟ってください。洗礼を受けている方たちも、改めて、今こそ「神の時」が始まっていると信じて、この時を生きていこうじゃないですか。
 それは、この世で時計が刻むような時間とは違う。私の言い方で言えば「旧約の時間」とでも言いましょうか、単調に過ぎていく歴史の時間とは違う。旧約の時間というのは、「昔は神に救ってもらったねぇ、でも今は救ってくれないねぇ」とか、「いつか救い主は来ると聞いているけど、いつ来るんだろうねぇ、なかなか来ないねぇ」と、そんな感じです。昔のことにこだわって過去にとらわれ、先のことを心配して未来を案じ、「今、ここ」での神の働きを見損なっている。
 「新約の時」を生きる私たちは、そうであってはいけません。ですから、私は今、イエスさまと一緒に宣言します。
 「今、ここに、神の時が満ちました。あなたたちのうちに神の国が来ています」
皆さんの心に、魂に、もう救いが訪れているんですよ。現実にはいろいろ悩んだり恐れたりする毎日ですけれども、今、もうここに神の救いが来ているっていう福音に立ち返るならば、どんな恐れも超えていけるんじゃないですか。
 「時は満ちた。神の国は来た。さあ、全面的に神のことを思って、神の愛が私たちを救うという福音を信じよう」
 そうイエスさまが宣言してからこの二千年間、それはもう、「新約の時」「神の時」です。時計の刻む二千年なんかじゃない。一瞬でもあり、永遠でもある、神の愛だけが満ち満ちている時。ちょうど恋人同士が見つめ合って、今、ここにあなたがいてくれれば、もう他に何もいらないと、昔も思わず未来も考えないような、そんな永遠の一瞬。
 「イエスさま、今、ここにあなたがいてくださるのですから、もう他に何もいりません。神の時が満ちている、そのあなたがいてくれだされば、何もいりません。神の国が実現している、そのあなたが共にいてくださるならば」
 そういう思いで、今日も私たち、ここに集まりました。ここに主がおられます。こんなに安心なことはないんです。そして、その福音をすべての人に宣言しなさいと、そう命じられたので、私はいつでもどこでも宣言して回ります。

 先週、また被災地を回ってまいりました。9回目になります。今回は開所したばかりの大船渡の支援センターと釜石のベースをお訪ねし、また、信者のボランティアグループの皆さんと仮設住宅の支援にも行ってまいりました。
 仮設住宅の支援ですけど、敷地内に「談話室」という別棟の建物があって、これは孤立しがちな住民たちが、横のつながりをつくるために集まるコミュニティースペースですけども、そこでボランティアグループの方が「すいとん」を作って、住民の皆さんにふるまうという企画に参加しました。ボランティアと私も含めて20人くらいの集まりでしたが、郷土料理の「すいとん」がとってもおいしくって、皆さんにぎやかに談笑して、幸いなひとときでした。
 神父が来るっていうんで、なんだか皆さん興味津々という感じでしたよ。「東京からカリスマ神父来たる!」みたいな。(笑)どんな神父なんだろうって感じで、最初はちょっと様子を見ているというか、こちらも何をお話していいか分からない。普通ですと、そういうところで宗教の話をするのは難しいですけれども、せっかくカトリックの神父が来たんだから、ちょっとは宗教に関することもと思い、神さま仏さまを超えた普遍的な方へのお祈りを致しました。でも、それが皆さんすごくうれしかったようで、喜んでくださいました。私としては、イエスさまと一緒にやって来ているつもりですから、「今こそ神の時が満ちている」とか、「ここにこそ神の国が始まっている」とか、「どんな被災地でも、神の愛を信じるならば、今、ここに救いがある」っていう福音をなんとか宣言したいわけですけど、ともかく、その思いだけでも伝わればいいかな、と。
 結局、大切なことは、「何を言うか」じゃないんですよね。「どういう思いでそこにいるか」が大事なんだと思う。で、それは伝わったと思いますよ。つらい思いをしている方に、ほんの少しでも福音を伝えたいという思いは。
 中にはご病気の方もいてね、痛みをこらえて生活しておられて、もうすぐ手術だそうです。本当におつらそうで、かわいそうでした。手術のことをとても不安に思っておられるご様子でしたので、いやしのお祈りをしました。信者ではない人に、神父がどんなお祈りすべきか、ちょっと戸惑いましたけど、やっぱりここは手かざしかなと思って、按手してお祈りしました。神さまの恵みがたくさんあるようにと。す〜ごく喜んでくれた。涙ぐまれてね。「手術終わって良くなったら、またお会いしましょうね」とお約束しました。お元気になって、またお会いできるのが楽しみです。あの神父の手かざしで治ったとか、そういう話にならないといいと思いますけれども。(笑)
 ともかくも、どんな関わりであれ、あのつらい現場にイエスさまが行かれたんだって思うと、ああ行ってよかったなぁと思うし、私もすごく幸せな気持ちだった。これからは日本全国、手をかざしながら歩いて回ろうかな。(笑)それこそイエスさまが、苦しむ一人の人に触れる現場の、うれしさというか、喜びというか。
 「時は満ちた。神の国がここに来ている」
 私はそれを、証ししたい。昔のことにとらわれたり、未来のことを心配している私たちにとって、イエスさまにおいて、「今、ここに救いがある」というこの福音は、何にも増して大切です。こうしてミサに集まっている私たちのうちに、その喜びが溢れていてほしい。

 イエスさまは、弟子たちに「ついて来なさい」と、そう命令なさいましたけど、それはそのようなイエスの救いのわざに協力するためでしょう。「人間をとる漁師にしよう」と。昔、海は悪霊の棲む所と思われていたので、そんな悪しき地獄から人々をイエスさまの舟に引き上げるというのが、「人間をとる」という救いのイメージだったわけですね。ですから、「人間をとる漁師にしよう」と宣言された。
 そして、私たちキリストの弟子たちは、今苦しんでいます、恐れています、迷っていますという人たちを、喜びの舟に引き上げます。イエスさまは、それを願っておられます。
 このイエスさまの舟を「教会の舟」と言ってもいいんですけど、「教会の舟」よりは「福音の舟」と言った方が、きっと真実に近い。「この教会に入りなさい。そうすれば救われますよ」って言うよりは、「この福音を信じなさい。そうすれば、そこに救いが実現しますよ」と言う方が実情に近い。教会は、その福音にこそ奉仕しているんだから。
 被災地回っても、どこに行っても、「私はイエスと一つであるキリスト者だ。だからあなたは、もうイエスに出会っている。ここに救いは実現している。イエスを信じ、福音を信じて、福音の舟に乗りなさい」と、「この舟に乗って、一緒に神の国の完成に向かって進んで行こう」と、そう言いたいのです。
 なんか、特定の宗教に入れというよりも、まず、イエスの福音を聞いてもらって、「福音の舟」に乗ってもらいたい。特に被災地なんかでは、お話している時に、宗教の押しつけにならないようにとは思いながらも、でも福音は語りたいわけですよ。そうしてある意味、宗教を超えて、あなたの自身への神の愛について語ると、みんなホントに喜んでくれる。
 皆さんもぜひ、イエスについて行く者として、福音を語る者として、「もうここに救いが来たぞ〜!」っていうことを、いろんな方法で、いろんな方に伝えて、「福音の舟」をいっぱいにしていただきたい。
 そういえば最近、イタリアで豪華客船がひっくり返りましたね。怖いですね。そのとおり、この世の船はひっくり返るんです。しかし、イエスさまの舟は、ぜったいに転覆しませんよ。しかも報道によると、転覆した船の船長さん、乗客より先に逃げちゃったとか。でもね、それをみんな責めてますけど、私、なんとなく、その船長に同情するというか、う〜ん、自分も船長だったら逃げてたかも。(笑) まあ、悪いことは悪いことなんでしょうが、しょせんこの世の船はそんなもの、この世の船長はそんなものと思っといたほうがいい。だからこそ、イエスさまの舟に乗るんです。ぜ〜ったい転覆しないから。しかも船長は、最後の一人までも救い上げてくれるから。それどころか、われらが船長は、私たち一人ひとりのために、命投げ出して救い上げてくれたという船長じゃないですか。これはもう、信頼してついて行くしかない。
 この、福音の舟にしっかりと救い上げられた私たちは、この舟を信じて、この舟と共に、航海しようじゃないですか。ただもう乗っかってればだいじょうぶですから。福音に、神の愛に、しっかりと乗っかっていれば。ちゃ〜んと、神の国の港に連れて行ってもらえます。そのイエスにこそ、ついて行こうじゃないですか。

 今日、このミサに私の親しい若き友人が来ておりまして、ご紹介したい。
 あの〜、もしかしたら覚えてるかもしれません。2年前に沖縄に行った時にこの友人と出会った話を、当時したかと思います。沖縄の講演会に行って、前の日に空港近くの温泉ホテルに泊まったんですけど、大浴場がガラガラでね、あんまり人がいない。そこに中学生が一人ポツンとお風呂に入ってて、それがなんだか妙に人懐っこい中学生で、話しかけてくるんですよ。「熱いですね〜」なんて。
 なんか、こういう旅先の出会いっていいなあと思ったし、これも神さまが出会わせたんだとも思うわけで、まあ、いろいろおしゃべりしました。話が弾んで、湯船でのぼせそうになりながら、人生のこと、自分が信じていること、いろんなことを話した。彼は若いのにいろいろ真剣に考えていて、「こういう話をしたかった。こんな話をしてくれる人に会いたかった」とまで言ってくれました。「講演会においでよ」と誘ったけれども、翌日は予定があるとかで、「じゃあ今度、東京に来たらまた会おうね」って言ったら、すぐに、本当に来た。(笑) あれは中学の終わりごろでしたか、この教会に1週間ほど泊まっていきました。
 その彼が、今は高校生になって、高校に入ったはいいけれど、「自分にとって、高校では学ぶことがない」と思ったって言うんですよ。カッコイイでしょ?(笑) 「高校で学ぶことはない。自分が学ぶべきことは、きっと他にある。それが何であるかを探しに旅に出よう」、そう決心して高校休学し、日本全国を旅するって、ギターひとつ抱えて沖縄出てきちゃったんですよ。で、しばらくは大阪の知り合いのところに居たんですけど、いろいろあって居づらくなって、そこも出ていくことになり、こうなったら行く所はあそこしかないと、(笑) つい数日前にここに転がり込んでまいりました。そんなわけで、今このミサに出ています。
 せっかくですから、この場を借りて、君に言いたい。ぼくは君に会ったことを、本当に神さまの摂理だと思っているし、君が、この学校で学ぶことはない、自分が学ぶべき本当のことは他にあると思って出て来たってのも素晴らしい決断だと思うし、そうしてこの教会に来たのもすべて、神の導きだと信じています。まあ、親は心配でしょうが、とりあえず親の許可を得て出て来ているんだし、来年は高校に戻るわけだから、神父的には「よくぞやった」と、そう言いたい。そして、その学ぶべきことが何であるか、君は必ず見つける。・・・と言うか、もう見つけ始めているはず。人が本当に学ぶべきことって何なのか。本当に出合うべきは誰なのか。人々はみんなそれを求めてはいるけれども、この世のことで頭がいっぱいで、なかなかそういう真実に出合えないでいる。
 そんな君に、今日、イエスの声が響き渡ったんですよ。「時は来た」「神の愛を信じなさい」「私について来なさい」。こういう言葉に出合えたなら、もう他に学ぶべきことなんてないんです。「ようこそ。福音の舟へ」と言いたいし、この教会に今後いったいどれくらい居るつもりなのか知りませんが(笑)、ここで、本当に、主に出会った喜びを、しっかりと感じとってほしい。
 思い出すなあ、実を言うとぼくも二十歳(はたち)になるころ、君と同じように家を出て日本一周の旅をしようって、決心したことあったんですよ。神学校に行こうかどうか迷ってたころ。あれは今にして思えば、何か、決心するためのきっかけというか、儀式のようなものが必要だったんだね、きっと。家を出て、いろんな人に出会って、いろんな体験をして、自分の本当の思いを確かめたい。そんな気持ちで、日本全国歩いて回ろうなんて、当時親しかった神学生にそんな思いを打ち明けたり。
 あの〜、恥ずかしい思い出ですけど、そのころの日記には、「よし、行くぞ」って、背中に「日本一周中」とかって書いた旗立てて歩いている自分の姿の絵まで書いてあるんですよ。(笑) ホンットに懐かしいというか、恥ずかしいというか。・・・でも結局は、ほどなくして父親が死んでしまったので、その計画は流れちゃいました。おやじが死んだのは摂理だと思ったし、こうなったらもう日本一周だとか、自分の気持ち確かめるとか、自分のことを言ってる場合じゃない。神のために働こうと、神学校へ飛び込んで行きました。
 でも、あのころ、本当に自分が何であるのかを確かめたい、本当に自分が何に呼び掛けられているのかを知りたいという、その真剣な思いは、すご〜く今の自分にとっても大切な思いだし、だから、君が家を飛び出して来たことを「よくやった」と思うのは、何だか自分を見るようだからです。・・・これは遠まわしに、神学校入れと言っているのではありません。(笑)
 何をするかは好きにしたらいいんだけれども、ただ君は、「自分が何になるのかを見つけるために出てきた」って言ったじゃないですか。そして今のところミュージシャンになりたいとか、俳優にも憧れてるとか言ってたけれど、実をいうと、大切なのは「何になるか」じゃない。「何のために、それになるか」なんですよ。それをみんな分かってない。みんな、「私はこの職業に就きたい」とか、「あの仕事に憧れる」とか、「主婦になりたい」とか、「何になるか」ってことばかり言うけど、そんなもの探しても何が正解かなんて分かりっこない。なぜなら、そんなことに正解はないから。だから結局は「こんなとこかな」で終わっちゃう。
 大切なのは、「何のために、それになるか」。それには、正解がある。君には、それを見つけてほしい。
 その答えは、もう、イエスが、聖書が、このミサが、君に宣言しています。このひと言に出合うために出て来たんだと思って、イエスの宣言を大切に自分の心に宿して、新しい一歩を踏み出してほしい。
・・・「時は来ている。神の愛を信じなさい。そして私について来なさい」。

2012年1月22日(日)録音/1月24日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英