2013年8月18日 年間第20主日
・第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ38・4-6、8-10)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ12・1-4)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ12・49-53)
いつだったか、聖書の勉強会でこの箇所(※1)を読んでおりましたら、ある信者さんが、「いや、イエスさまの預言はすごい」と。「この『しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる』という預言は、わが家において成就しております」・・・と言った方がおられまして。
だけど、そんな話じゃないですね、これ。子どもの育て方がどうとか、お茶碗の洗い方がどうとかで対立しているっていうような「対立」じゃないんですよ。
なんで嫁としゅうとめが対立しているか、なんで親と子が対立しているかっていうと、イエスさまの福音に触れて、それを受け入れて信じている人たちと、受け入れられずにいて、それがために救いを味わえていない人たちの間に決定的な溝ができちゃう、そんな分裂状態のことです。
救われた人たちは、神の愛を信じ、神の国への希望を持って、もっと愛を持って生きていこう、もっと世界を良くしていこうって思うんだけど、イエスにちゃんと出会えず、福音をちゃんと受け入れられないでいる人たちは、どうしても自分のことだけ、あるいは自分の家族だけ、あるいは自分の国だけみたいなことになって、対立がそこに生まれてしまう。
さっき、イエスさまが火のたとえを使いました。
これはすごくいいたとえですね。神さまの愛の炎がもたらされて、私たちの心に信仰の炎が燃え上がったんです。ここにいる人たちはみんなそうですよ。もう火がついている人たちなんです。
洗礼式でもらいましたでしょう? 「キリストの光を受けなさい」って言われて、洗礼のろうそくに灯して渡されたあの火は、聖なる霊の火ですよ。聖霊の炎を、私たちはちゃんともらったし、それは今も私たちの中で燃えております。ですから、今度はそれを、まだ燃えていない人たちにも分けてあげて、燃やしてあげようっていうのが、われわれの宣教です。火をどんどんと広めていくんです。
そもそも神さまは、すべての人を、聖なる炎が燃え上がるようにおつくりになってるわけですから、ある意味、みんなろうそくなんですよ。あとは火をつけるだけという。だれもが、最初っから神さまのろうそくなんですよ、イエスと出会っていようがいまいが。その意味においては、みんなすでに救いの中にあるわけで、ただ、その炎を知らないだけなんです。
私たちは皆共に、神さまの恵みのろうそくとして生まれてきたし、やがては、みんな天上に招き入れられて、そこで天上の炎をともしていただけるんでしょう。しかし大事なことは、この地上において、その炎を先取りして燃やすこと。みんなにその炎を広め、闇に住む民に希望の灯をつけてあげたいというのが、イエスさまの熱~い思いだし、それこそが、キリストの弟子たちの使命です。
だからイエスさまは言うんです。
「わたしは、その火を地上に投ずるために来た。その火が燃え上がったらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、どんなに苦しむことだろう」(cf.ルカ12:49-50)と。
この「洗礼」はもちろん十字架のことですし、実際イエスさまは、十字架上で本当にお苦しみになったわけですけれども、それによって復活の神秘がもたらされ、弟子たちの心に、本当の意味で、火がボン、ボン、ボンッと燃え上がった。弟子たちの心に、復活の主が輝かんばかりの栄光のキリストとして燃え上がったんです。その火を、どんどん、みんなにつけてあげたい。
火っていうものは、これは、誰かにつけたら、こっちが消えちゃうっていうもんじゃないですよね。よく考えてみたら、あれ、面白いですね。いくらつけても、ただ増えるだけですもんね。決して、こっちがその分減っちゃうっていうことがない。つければつけるだけ、増えていく。キリスト教はそうやって、ボン、ボンッと火を分け与えながら、二千年間、ず~っとキリストの光を分け続けてきたんだけれども、まだまだ、その炎がついていない人との間には、はっきりとした違いがある。
みんな同じ、素晴らしい救いのろうそくを頂いているんだけれども、やっぱり、ろうそくというものは、炎をつけるためのものなんであって、確かに、究極的には救われているとはいえ、火のついていないろうそくほど寂しいものはない。ぜひ、つけてあげてくださいよ、と。
炎をつけるのは簡単ですよ。もう、ただ、つければいいんです。何かこう、難しい話じゃない。ろうそくを近づけていって、別のろうそくにつける。すると、もうひとつの火が灯る。
先日、8月15日に、多摩教会でも、聖母被昇天のろうそく行列をやりましたけれども、あれなんかは、意味としては、頂いた洗礼の火を、大切に大切に守って、人生という行列を歩んでいって、天の栄光の世界にまでお届けする。あるいは、誰かまだその火がついていない人の所まで行って、つけてあげる。・・・そういうことなんです、ろうそく行列っていうのは。灯して歩いていくでしょ。
去年のろうそく行列は、細くてちっちゃいろうそくだったから、風でぜんぶ消えちゃったんですよ。ろうそく行列で、ろうそく持ってって、途中で消えちゃうくらい寂しいこと、ないですよね。「私の恵みは、これくらいかしら・・・」みたいなことはないんですけども、寂しいもんですよ。なんとか辿
「これじゃあ、なんだね」と言って、今年は絶対消えないろうそく行列にしようって、典礼係と相談して、専門店街まで行って、調べて、情報を集めて。そうしてついに「耐風ろうそく」っていうのを見つけたんです。
これ、いろんな屋外の現場で使うためのものですけど、芯がすごく太くって、試してみたら、ホントに風でも消えないんです、火が。
「これはいい!」っていうんで、カップにそれを入れて、準備万端整えて、15日にろうそく行列やったら、今度は、燃え過ぎたんです。(笑)灯しているうちにだんだん火が強くなり、しまいには、手で持っているのも熱いし、煙は出て聖堂内が煙たくなるし、みんなでアッチッチって感じで行列して、マリアさまの所にいっぱい並べたら、火事みたいになっちゃって。(※2) ろうそくを並べる台が燃え始めちゃったんですよ。で、慌ててぜんぶ消しちゃったっていう結果に。
去年は弱過ぎた。今年は強過ぎた。来年をお楽しみに。来年はもう、完璧なろうそく行列、やろうじゃないですか。
まあでも、消えちゃうよりは、燃え過ぎるくらいの方が、キリスト教的ですよ。絶対消さないで、届けましょうよ。「あの真っ暗な魂にも明かりを、この冷え切った心にもぬくもりを、なんとか届けよう」、そんな思いで。神さまの愛の炎、聖霊の炎さえ灯ったら、私は、私たちは、何をなくしても、どんな困難に遭っても、恐るるに足りないのですから。
第2朗読のヘブライ人への手紙で言うならば、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(cf.ヘブ12:1-2)・・・これですね。
「信仰の完成者であるイエス」、まあ、そのイエスを見つめがら、私たちも、頂いた信仰の炎をしっかりと灯して、「走り抜こうではありませんか」。・・・人生はろうそく行列です。
聖霊の炎は、消えませんよ、皆さん。いったん灯った炎は、消えたかに見えても、灯っている。ろうそくって、そうでしょ?風が吹くと、「あ、消えちゃった〜」って思うんだけど、風が止むと、実は消えてなくて、また炎が上がるっていうこと、経験したことありますでしょ? 芯の所に、炎がもう見えないんです。でも、風がなくなると、また燃え上がる。
皆さんの魂に灯されたキリストの光も、絶対消えません。消えたと思っても消えていません。これは消えることがない。・・・その炎を、届ける。
アンドレイ・タルコフスキーっていう映画監督(※3)、ご存じですか? 私の大好きな映画監督で、有名な作品がいくつもある。あんまり観た人はいないと思うんですけど。私が一番好きなのは、『ノスタルジア』(※4)っていう映画です。まあちょっと、TSUTAYA(ツタヤ)かなんかに行って、借りてみてくださいよ。アンドレイ・タルコフスキー、当時ソ連(現ロシア)の監督です。
『ノスタルジア』は、80年代の頭、私が神学校入って何年目かくらいだから、82、3年じゃないですかね。大好きなタルコフスキーの新作っていうことで観に行った。
感動しました。美しい。霧とか、水とか、火とか、そういう原初的なものをシンボリックに扱った、詩を見てるような映画です。まあ、彼の作品はどれもストーリーがわかりづらくって、ついつい寝ちゃう人も多い「催眠映画」の類ですけど、まあ、がんばって見てください。
「催眠」のひとつの理由は、長回しなんですよね。ワンカットで、ず~っと、フィルムが切れるまで撮り続けてる。もう、思わずこう、グ~ッと見つめて、画面に引き込まれていくうちに、寝ちゃうっていう。『ノスタルジア』も、冒頭からそうですけど。
ロシアの作家がイタリアに旅行するんですね。トスカーナ地方。そこのある温泉街で、・・・イタリアにもあるんですよ、温泉。日本の温泉とは違って、露天のプールみたいな保養所です。その温泉街で、まあ、村人たちからは狂人と思われている、ひとりの男に出会うんですよ。作家は、なぜかその奇妙な男に惹
中でも、作家が一番興味を持ったのは、「もう世界は滅びている」だか「滅びようとしている」だか、そんな言葉です。作家もまた、現代社会の根っこに潜んでいる滅びの予兆は感じてるわけで、男の言葉を啓示的に受け止めるんですね。ただ、男はこうも言うんです。
「しかし、もしもだれかが、あの枯れた温泉の端から端まで、ろうそくの火を消さずに渡りきることができたら、世界は救われる」
確かに温泉街には、枯れた温泉があって、水の抜けたプールに落ち葉がたまってるようなところですけど、作家の心にその言葉は深く刻まれます。
ところが、やがてその男はローマに出て行って、とある広場で世界を救うための演説をして、そのまま油をかぶって、焼身自殺しちゃうんです。
それを聞いた作家は、男の言葉を思い出す。そして、「俺がやろう!」と決心する。なにしろ、男は最後に「あの作家はろうそく持って、渡ったか」っていう遺言を残していたとかで、ともかく「俺がやらなきゃならない」っていうんで、作家はろうそくに炎を灯して、このプールみたいな温泉を、端から端まで渡ろうとするんです。
だけど、これが、なかなか難しいんですよ。風で、途中で消えちゃう。消えたら、もう一回最初に戻って火をつけて再挑戦する。上着で覆ったり、風に背を向けて後ろ向きに歩いたり、必死に繰り返すんだけど、途中で消えちゃうんです。・・・さあ、果たしてこの作家は、成功するでしょうか。そこは、言っちゃったらね、つまんないでしょ。
この、まさにタルコフスキー節とでもいうべき長回しの画面の中で、ろうそくの炎が消えるか消えないかって、主人公はじ~っと見つめて、観客もそれを息をのんで見つめている、美しいラストシーンです。その後に、非常に美しい本当のラストシーンがあるんですけど、ともかく私はね、魂奪われたように、感動したんですよ。それこそが、われわれ人間のやるべきことだと。
「炎を灯して、渡りきったら世界が救われる」、それは狂人のたわごとじゃない。
そう信じて行動するとき、世界は新しい段階に入る。
私たちの人生って、一体何してるんだろう。食べたり、飲んだり、争ったり、いろいろしているけれども。頂いた信仰の炎を決して消さずに、神さまがお望みの彼岸まで、ず~っと燃やし続けて歩んでいく、そのプロセスこそが、人生の意味、生きる喜びのすべてなんじゃないですか?
その火は、もう灯されているんです、私たちのうちに。
先日、岡山で開かれた中高生大会で講演しましたけど、テーマが「継承」っていうんですよ。
すごいんですよ、これ、聖公会の神戸教区の中高生大会なんですけど、伝統があって、大勢集まって、全国的にも有名なんだそうですよ。もう50年も、続いてるそうです。
行ってみたら、中高生や学生が100人近く集まっていて、リーダーや司祭たちも30人はいたかなあ、大会OBとか、応援する信者さんたちもいて、山あいの研修所がね、熱〜く燃えていました。それを、今年は「継承」っていうテーマで集まって、中高生たちが楽しい合宿をしながら、信仰の研修をやってるんですよ、若い目を輝かせてね。正直、「うらやましい!」と思った。
次の世代に、信仰の炎をちゃんと伝えるっていうこと、これこそ、尊いことですよ。自分の信仰の炎を保っていくことは大切ですし、天の国にまでそれを保っていきたいですけれど、その前にですね、次の世代にもちゃんとその火をともしていかないと。次に、次に、次に。
その大会もちょうど50周年っていうことで、「継承」っていうタイトルにしたそうです。そんな節目のときに、ぜひ記念講演をしていただきたいと頼まれて行ったんですけど、私、「この集まりがどれほど尊いか」っていうお話をしたんですよ。
で、一番最初にね、話の枕に使ったのが、例のサザン・オールスターズの話です。中高生はそういう話をみんなよく聞いてくれるからね。先週、サザンのコンサートに行きたかったっていう話をしましたでしょ。(※5) 「実は今日、サザンのコンサートやってるんです」と。「でも、チケットが当たらなかったんです。もし当たったら、ミサ休んででも行きたい」とか。まさか真に受ける人はいないでしょうが、ともかくこの世にはそれほどに好きでワクワクして待つことがあるけれど、それ以上に、「神の国をワクワクして待とうじゃありませんか」という話です。
ところがですね、これが、岡山に行ったら、迎えに来た聖公会の司祭がですね、車の中で言うんです。「いやあ、神父さん、来週のサザンのコンサート、当たっちゃいました」。(大笑)「神戸のスタジアムで、ちょうど今日の5時半からなんですけどね」って。私が、「実は私、先週の東京のコンサート、はずれちゃって行けなかったんですよ~」って話したら、「いやあ、すいませんね」とか言ってる。
なんで神さまは、カトリックの司祭は外して、聖公会の司祭は当てるのか。(笑)「いいな~。私も行きたいな~」って言ったら、「2枚あるんですけどね、妻と行くんです♪」って言う。もう、ビックリでしょ。聖公会の司祭は、「妻」がいるんですよ。「いいなあ」って言ってたら、「でも、晴佐久神父さんと行くって言ったら、妻が何て言うかなあ。怒るだろうなあ」とか言うんで、申し上げました、「私が奥さまと行くんでもいいんじゃないですか?」。(笑)・・・まあそうもいかず、あきらめましたけど。
・・・っていう出来事があったんで、その話を講演会の一番最初にしました。
内容はもちろん、先週の話と同じです。
「だけど、どれほどサザンのコンサートが、盛り上がって熱く燃えていたとしても、それがどれほど一人ひとりにとって、感動して忘れられない思い出になったとしても、間違いなく
ホントに神の国みたいでしたよ。おそろいの黄色いTシャツ着てね、胸に十字架がプリントしてあって、肩口にはちゃんと、「継承」ってね、刷り込まれたのを、みんなで着て、「信仰の炎を次の世代に」ってことを実際にやっている、その様子はうらやましくもあったし、これがキリスト教だとも思ったし。
多摩教会でもね、今年、中高生キャンプをようやく独自にできましたけれども、いっそう、この「信仰の炎を灯し続ける。伝えていく」ってことをやっていこうじゃないですか。
来週からの無人島キャンプではね、この耐風ろうそくを、山のように持って行くんですよ。同じ物を注文したんです。風に消えないってことがわかったから、風の強い、あの無人島の浜で、日も暮れなずむころのミサで使います。今年は青年たちが25人参加するんですけど、聖体拝領でご聖体を頂いたら、自分の周りに、ろうそくを20本、火を灯して立てるんです。
25人が20本灯すと、500本。島、火事にならないといいですけど、(笑)浜いっぱいに火を灯して、そこで、聖体拝領の歌を歌うんです。
無事に戻って来たら、その映像も皆さんにお見せできると思います。
今日、ご聖体を頂いて、洗礼の時に頂いたキリストの炎がもう一度燃え上がったなら、ぜひ、もう1本灯しに出発いたしましょう。
【 参照 】
※1:「この箇所」
・ ルカによる福音書12章49節〜53節
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※2:ろうそく行列のろうそくの炎 (参考画像:クリックすると大きくご覧いただけます)
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※3:アンドレイ・タルコフスキー
・ Andrei Arsenyevich Tarkovsky (1932年4月4日-1986年12月29日)<映画監督>(露)
→ 詳細(生涯、作品の評価、作品リスト等) :
◎ ウィキペディア(フリー百科事典) → http://goo.gl/dv1yI
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※4:『ノスタルジア』(Nostalghia)
・ 監督: アンドレイ・タルコフスキー / 制作:1983年 <旧ソ伊合作映画>
→ 詳細(キャスト、概要、ストーリー等):
◎ ウィキペディア(フリー百科事典) → http://goo.gl/IPiJDb
→ 個人ブログ紹介 (画像や、予告編の紹介もあり):
◎ 「死ぬ前にこれだけは観ておけ!」 → http://goo.gl/WuoNCB
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※5:「サザンのコンサートに行きたかったっていう話」
・ 2013年8月11日(年間第19主日)説教:「見過ごしたくない」参照
→ http://goo.gl/PkgxHF
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