2013年8月11日 年間第19主日
・第1朗読:知恵の書(知恵18・6-9)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ11・1-2、8-19)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ12・32-48)
【晴佐久神父様 説教】
「あなたがたも用意していなさい」と、イエスさまに言われました。
さあ、じゃあ、どういう「用意」をしていたらいいのか。
「いつも用意をしている」という意味では、晴佐久神父、なかなか結構、達人ですよ。いつもいつも、「今が『そのとき』だ」「今日は特別な日だ」「これは当たり前のできごとじゃない」「そんな今こそが、かけがえのない瞬間だ」っていうことを、いつもいつも、忘れないようにする、という意味でしたらね。・・・それがやっぱり、大事な「用意」でしょうねえ。
木曜日の「おやつの会」で、私の話題が出たそうで。「晴佐久神父さんって、逃げ足速いのよね」って、(笑)みんながそんな話をしてた。そこにちょうど私が、中高生のキャンプから帰ってきて、「ああ、皆さん、どうも〜♪ ようこそ、ようこそ♪♪」って、「おやつの会」に加わったら、すぐにですね、携帯で、緊急地震速報が、ブゥッ、ブゥッ、ブゥッみたいな、けたたましい音で、鳴ったんですよ。先週の木曜日、鳴りましたでしょ? 5時前だったかな。
あれが鳴った瞬間、晴佐久神父だけ、さっさと外に出て行っちゃった。(笑)いや、でも、ちゃんと皆さんには言ったんですよ。「この建物、柱もあんまり太くないんで、大きな地震来たら危ないですから、一応、外に出た方がいいですよ」って。で、さっさと出て行ったら、それ見てみんな笑ってるんですよ。「確かに、逃げ足速い」(笑)って・・・笑ってるばかりで、なかなか出て来ない。大したことないだろうって思ってるんですね。これで、もしも大きな地震が来たら、信徒館がつぶれてみんなが下敷きになるのを、私、腕組んで見ながら、つぶやくわけです。「だから言ったじゃん」って。(笑)
しばらく、外のベンチに座って様子をうかがってたんですけど、ようやく外に出て来た人がいたと思ったら、私の本を出して、「すいません、神父さま、サインしてください」。(笑)大地震来たら、サインも何もないだろうって思いながら、サインしましたけど。
ま、結局は誤報でした。誤報でしたよ、だけど、だからといって、「ああ、また誤報だろう」「どうせこれも誤報だろう」って思っていると、やがて「その日」が来る。
この、「大したことないだろう」「どうせ誤報だろう」って思う、これ、「正常化バイアス」っていうんですね、覚えといてください。東日本大震災で有名になった言葉です。バイアス、偏りですね。「正常化偏向」。なにかとんでもないことが起こっても、「まあ、大丈夫だろう」っていうふうに、いつも通りの方に偏って思いたがる脳の働きのことです。「大したことないだろう」「また誤報だろう」「みんなも騒いでないし、そうそう異常なことは起こらないだろう」と、日常そのまんまであるという思い込みですが、まあ、そうでもないと、安心した気持で生きていけないから、そんな機能が脳にあるのかもしれませんね。
だけど、浜辺で津波眺めてて、海にのまれていく人たちの映像とかありましたよね。「まさかここまで来ないだろう」ってそう思ってた。「正常化バイアス」が働いてたんですね。日常のまんまだろう、と。「正常化バイアス」にとらわれてるのって、結構怖い状態でもあるんです。
ですから、「いつも用意していなさい」っていうのは、やっぱり、私たち信仰者にとっては、とっても大切な、ある意味、「正常化バイアス」との戦いっていうことになります。なにしろ、目に見えない信仰のことですから、用意していない状態って、津波にのまれる以上に危ないことでもある。
「ただの一日じゃないよ」「ただの出会いじゃないよ」「ただの出来事じゃないよ」「ここに、神さまからの特別な呼び掛けとか、素晴らしいチャンスとか、そういうものがあるよ」っていうことを、いつも感じて、それを受け止めようといつも身構えていないと、命よりも大切な最高の恵みが、まったく無駄に通り過ぎてしまうから。
そうなんです。最高の恵みが来てるんです。だから、さっきのたとえは、ちょっと足りないというか、まずかったかもしれない。なぜなら、「用意している」っていうときに、いつ地震が来るか、みたいなのは、「ビクビクした用意」でしょ。だけど、今日の福音書よく読んでみると、恐れてビクビクして待ってるんじゃないですね、これ。「ワクワクして用意していなさい」っていう内容ですよ。
大切な、敬愛するご主人さまのお帰りを、ワクワクしながら待っている僕です。そのご主人が、婚宴を無事終えて、幸せなお気持ちでお帰りになった。僕は「ああ、ご無事で何より。お帰りなさいませ!」と言って、扉を開けます。「遅くまでお疲れさまでした、お待ち申し上げておりました。ご主人さまがお帰りになられてうれしゅうございます。さあ、何なりとお申し付けください、ご主人さまのために、何でもいたします」って、真心から喜んで申し上げる僕。どんなに遅くても目を覚まして、深夜でも明け方まででも待っていてくれるその僕、主人のことを片時も忘れず、いつもいつも思い続けているその僕を、主人はどれほど喜びとしているか。「おまえこそ、いつもありがとう!」っていう感じで、聖書だと、喜びのあまり、主人の方が腰に帯を締めて、僕を食事の席に着かせ、給仕してくれると。最高じゃないですか。こんな素晴らしいことが起こる。
それはでも、ご主人が帰って来るのを「ワクワクして」待っていればこそです。
一昨日でしたか、テレビでサザンオールスターズの特集やりましたでしょ? ご存じですか? サザンオールスターズが復活したっていうんで、特別番組が組まれて。NHKがやったんですよ(※1)。見た方います? ああ、結構いますね。
国民的歌手というかグループで、私、大好きです。すごくおしゃれでね、とってもふしだらでね、そして胸にキューーンとくる、あの何とも言えない甘酸っぱいメロディーとか歌詞とかが、とっても人を幸せにする。で、やっぱり、何やかんやおふざけしているようでいて、すごく歌を愛して、みんなを愛しているっていうのが、よ〜く伝わってくる、あの桑田さんの人柄もあって、聞いてても、見ていても楽しいバンドです。
それが、5年前に、活動を休止しちゃった。その後、食道がんで喉の手術もあったんですよね。いろいろ大変でしたけど、なんと、復活したんですよ。「サザン復活!」って、新聞の号外まで出た。ちょうど、昨日と今日、コンサートやってるんです。私、申し込んだんだけど、当たらなかった。(笑)当たっていたら、昨日の夜のミサは、別の神父を頼んでました。(大笑)いや、ホントに私、行ったと思います。「すいませんっ!!」って言いながら。
サザン、大好きなんです。ですから、一昨日の番組も、涙こぼして見てました。
で、この番組、午後10時からだったんですけど、私、「絶対見るぞ!!」って思ってて。で、今、私のテレビは、設定しておけば、時間になると勝手につくようになってる。そういう機能、あるんですよ。だけど、その設定の仕方が、私はわからない。だから、目覚ましを10時にかけて、テレビの前に置いて、それでいろいろ仕事したりしてて、でも、もちろん、目覚ましが鳴って慌てて、なんてことありえない。だって、もう5分前になったらテレビの前に正座する勢いですから。(笑)
これは、もう、大好きだから、待ってるわけでしょ。「まだ8時か」「まだ9時半か」って。それが「ワクワクして待つ」っていうやつですね。「目覚めて待つ」っていうのは、やっぱり「ビクビクして待つ」はおかしいね。そういう話じゃなさそうだ。
「オレはいつ死ぬんだろう・・・」とかね、ちょうど先週、「今夜お前の命は取り上げられる」っていう福音の話がありましたけども、信仰者が、その「今夜」をビクビクして待っているのはおかしいですよね。だって、ぼくらは、最終的には神の国に生まれていって、それこそまさにイエスさまが給仕してくれる神の国の食卓が待ってるっていう、そんな信仰を持ってるんだから。本質的に言えば、キリスト者たるものは、まさにその日を「ワクワクして」待つべきなんですよ。
もちろん「ワクワクして待つ」、その待ってる間は大変ですよ。大変な道のりだけれど、でも、「ワクワク」があるから、なんてことはないし、なんとでもなる。
うれしい報告。先週、中高生のキャンプをついに実現しました。中高生のキャンプは何年ぶりですかね。相当久しぶりなんですね。「今年は絶対やろう!」って言って、春から準備して、人数は少なかったんですけど、それでも実現させました。
あきるの教会に泊まって、ホントに楽しかった。教会体験できて、幸せでした。参加者もみんな喜んでね、「ああ、やっぱりやるべきだよね〜」と、「無理してでもやるべきだよね〜」と思ったし、リーダーたちも頑張ってくれて、よかったんですけど。
ただ、リーダーが計画した登山っていうのが、なかなかに大変で。最初出かけるときは、「もう、簡単、簡単! 誰でも登れる、すぐだから。ハイキング、ハイキング!」とか言ってんですよ。で、みんな「わ〜い!」とかって言って登り始めた。登山って言っても高尾山なんですけど、高尾山なんて簡単と思ってたら、高尾山にもいろいろな登山ルートがあって、聞けば小仏
でね、リーダーは、「もう、すぐ、すぐ! はい、もうすぐだから」とか「もうここ登ったら、もう後はずーっと平らで」とかって。(笑) 「そうか、助かった〜!」とか思って登って行くわけですけど、その「すぐ」がいつまでたっても来ない。「あと15分!」って言うけど、それから30分たってる。(笑)列の後ろの方はもう疲れ果てて、「もう無理〜!」とか言ってるリーダーや中高生がいて、でも、その企画したリーダーは言い続けるんですね。「もうすぐだよ! すぐすぐ! もうすぐだから」って。
「だまされた」っていうと言葉は悪いですけど、今、本人ここにいるんで。(笑)でもあれはほとんど、「だました」って感じじゃないですかねえ。だって「上行ったら平らだから」って言うのに、上行ったらまた下りてくんです。(笑)「こんなに下りてだいじょうぶかなあ?」と思ったら、その分また次、登ってくんです。(笑)登って下りて、登って下りてっていって、高尾山に行くまで、大変、大変。
あんな登山、ホントに10年ぶりだか、もっとかもしれない。いまだにふくらはぎ、痛いですよ。(大笑)年とると、回復が遅いんですよね。
だけど、そのおかげで、ついに全員、山頂まで行ったし、あれは幸せだよね〜。最高の思い出ですよ。その後もその登山をずっと話題にしてね、「だまされた〜!」とか、「でも山頂まで行けてよかった!」とか。みんなで夜、ろうそく囲んで分かち合いのお祈りとかしたんだけど、「登山大変だったけど、みんなで登れてよかった」とか、そんな話ばっかりで。
「もうすぐ、もうすぐだから」って、あれは、何て言うんだろう、「だます」はやっぱり違うね。・・・「励ます」ですよね。気持ちを弛
いつも目覚めて、用意し続ける。「もうすぐだ!」「天国が待ってるぞ!」「今は確かに大変だ。この上り坂はきつい。もうやめたくなる。でも、もうちょっとだ。一緒にやっていこう!」・・・キリスト教って、そういう感じですね。
さっき、第2朗読、ヘブライ人への手紙で「地上では仮住まい」「天の故郷を目指す」ってありましたでしょう? これですよ。ぼくらはどこ行くあてもなく、何だかボ〜ッと毎日を耐えて寝転がってるんじゃないんです。いいことあっても、「これ、いつか終わっちゃうのか」、悪いことあったら、「これ、いつまで続くんだろう」、そんなことばかり考えて座り込んでるような人生、つまんないでしょう?
天の故郷を目指して、地上は仮住まいだから、一歩一歩、その故郷に向かって、「さあ、もうすぐだ!」「さあ、もうすぐだ!」と、「それは、今日かもしれない」「今夜かもしれない」「いや、もうここに来てるかもしれない」と、そんな思いで歩み続けること、これ、キリスト教ですね。
私は欲深い人間なので、やっぱりそのような、今ここにある救いの恵みを、見損ないたくない。見失いたくない。ともかく絶対、見過ごしたくない。
見過ごしたくないんです。欲深いからね〜。もうそれは、テレビの前で、大好きな番組をじ〜っと待ち構えるように、「神さまの国、もうここに来てるんじゃないか」「この人との出会いにあるんじゃないか」「今日のこのミサがそうなんじゃないか」「暑〜い中、さまざま困難はあるけれども、今、目の前に開けてるんじゃないか」、それを見過ごしちゃう、そんなもったいないこと、できるものか。
もう、番組始まる時間に合わせて目覚まし時計を設定するような思いでね、毎日毎日、ワクワクしながら神の国を待ち望んで、すべての出来事を大切にする。これが、「目覚めて生きる」っていう感じですよ。そういうふうに意地張って身構えてないと、目の前をイエスさまが通ったって気づかないってこと、あるんですよ。・・・なんてこった! こんなにイエスさまを愛して信じて生きてるはずなのに、目の前通っても気がつかなかったら!
先週の土曜日、ここで洗礼式しました。その翌日、お話しましたでしょう?(※2)
もう、「すぐに授けてほしい」って言われて、私そんなことしたことがないんですけど、ものすごく苦しんでいて、精神的な病もあって、家からも出られず、家族の事情もあってね、お金もない。何といっても体調の問題。家から、めったなことじゃ出られない。
それでも洗礼を望んで、必死に出かけて行って、一番近くの教会、といってもそんな近くじゃない、相当遠いんだけれども、教会に行って、「お願いします、洗礼を!」って言っても、「いやぁ、すぐには無理ですよ、講座に通っていただかないと」って言われて断られちゃって、それから、調べていろんな教会にいっぱい電話したんだけど、どこに電話したって、「いや、すぐには洗礼を授けられません」って言われた。
でも、もう彼はね、ある意味、すごく深い信仰あるんですよ。素朴で、とっても謙遜で。ただ、ともかく、今は洗礼を受けて、ホントに神さまとつながって安心したい。精神の病のせいもあって、そのこと思い込んだらもう、そうしないと、つらくてつらくて、苦しくて苦しくて。
マザー・テレサの会に電話したら、「多摩教会に電話してみなさい」。で、私はその電話を取ったわけですが、でもまあ私もね、当然、「そんなに急には、洗礼、授けられませんよ。でもまあ、事情はいろいろですから、相談しましょう。今ちょっと出かけるところなんで、もう一回、ゆっくり電話でお話しましょうね」って言ったら、もう翌日、朝4時起きで、来ちゃったんですよ、直接。「もう二度と来れません」って言って、来ちゃったんですよ。先週お話しした通りです。
私は、そのとき、向かい合って話を聞いて、「イエスさま、来られた」と思いましたよ。
これをお授けしないで帰す、そんなわけにいくものかと。だいたい、よそで「だめ!」って言われたと聞くとね、燃えてくるものもあるし。(笑)夜までの間に臨時入門講座をして、聖堂でお祈りさせて、代父を決めて、洗礼名決めて、復活のろうそく出して、洗礼盤出してね、洗礼式をした。
その彼から今週、もう2通もお手紙いただいて、そして電話もいただいて、彼、ホンットに喜んでます。どれだけ感謝しているか。・・・「多摩教会の皆さんによろしくお伝えください」と。
もう、あの喜びを思ったら、「目覚めていてよかった〜」って、心から思います。こういうことって、いつも身構えていて、絶対見過ごすまいって意地張ってないと、なかなか難しいんですよ。もう、私も、失敗の連続です。ついつい「いや、ちょっとそれは無理です、また今度」ってやっちゃうんです。
いつもいつも、天国の窓を開いて、いつもいつも主を迎えるようなワクワクした目覚めた気持ちで生きていたい。繰り返し体験を重ねて、完全とまで言わないけど、そういう達人になりたい。心からそう思う。
今回も、彼に洗礼を授けながら、ちょっとドキッともしました。下手すると、もう少しでイエスさまを見過ごして、主が通り過ぎちゃうところだった。
主人が帰って来ても、眠りこけていて気づかなかったら、「よく用意してくれていたね。さあ、食卓で食事しなさい」って言ってもらえない。・・・なんと、もったいないこと!
【 参照 】
※1:サザンオールスターズ特別番組
NHK総合 8月9日(金)午後10:00〜11:13
(35周年スペシャル「復活!サザンオールスターズの流儀」)
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※2: 先週の説教、「『今夜』の前に」参照 → http://goo.gl/ndBo0e
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