ホントは白鳥なのに

2012年9月30日年間第26主日
・第1朗読:民数記(民数記11・25-29)
・第2朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ5・1-6)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ9・38-43,45,47-48)

【晴佐久神父様 説教】

 ・・・なんていう聖書の箇所を読むとですね、「私は地獄に行かないだろうか」って、もしかしたら心配する人がいるかもしれませんが、いつもいつもこの説教壇から皆さんに宣言しておりますように、こうしてミサに集まっている方は、全員「セーフ」です。(笑)もちろん、「福音の村」でこの説教を読んでいる方も、だいじょうぶです。みなさん、ご心配なく。ひたすらにそれを信じて、喜んでいただきたい。
 もっとも、私たちはまだまだその喜びというのをちゃんと知らないし、神さまが私たちに永遠なる救いを、もうすでに与えてくださっているということに気づかないでいることの怖さ、悲しさをちゃんと分かってない。多少は気づき始めているにしても、まだまだその救いの喜びを分かっていません。そんな私たちの半端な状態、それはきちんと指摘しなければならないとは思いますけれども、だからといって、「アウト」っていうことはないですよ。アウトなんていうことを神が許すはずがないって信じていただきたい。
 私は、もう会う人会う人みんなに、「あなたはどれほど素晴らしい恵みをいただいているのか、そして、神の子として生まれる前からすでに天国の住民として選ばれ、そのような愛の神に望まれて生まれ、どれほど気高い永遠なる魂をいただいているのか」っていうことを、何とか大勢の人に伝えたいっていう気持ちで語り続けてきましたけれど、そういう強いモチベーションを持っていると、中身はうまく言えなくても伝わるもんなんですよね。
 この説教壇でも今まで一生懸命伝えてきたわけですから、ここにいる皆さんにはちゃんと伝わってると信じます。そろそろですね、こんな説教を何年も聞いた皆さんには、「すでに救われている」という福音を信じる仲間になっていただいて、皆さんもまた、情熱を持って、「救いを求めているあなたは、ホントはすでに救われてるんだから、心配しないで」って、熱く宣言してあげられる側になってくださいね、と言いたい。まあ、それは3年間言い続けたことですけど、また今日も言わせてもらいます。

 2日ほど前に、船橋市の講演会に行ったんですけど、一般の方が集まる講演会だっていうんで、私、ワクワクしながら出かけて行きました。そういう機会、少ないですから。カウンセリングのボランティアの方たちの主催している講演会とかで、疲れてる人、心を病んでる人たちが大勢集まっているようなニュアンスだったんで、「じゃあ、普段福音を聞けない方たちに福音を語ろう。『あなたは確かにつらいでしょうけれど、安心してください、もう救われてるんです』と宣言しよう」。そう思って出かけたわけですよ。
 船橋の駅前の立派なホールでしたけど、思ったより大勢集まっていたのでうれしくなって福音を語ってたんですけど、ふと気が付くと、なんだか見た顔が結構いるんですよ。それは別に構わないんですけど、「あれ? 信者さんもそれなりに来てるのかな?」って、ふと気になって、「すいません、ここにカトリック信者って、何人くらいいるんですかね。手を挙げていただけますか?」って聞いたら、ザーーーッて、7、8割の方が手を挙げたんです。(笑)私もう、ガッッカリしてねえ。(笑)別に、「あんたたちは、もういいよ」とまでは言わないけれど、信者はもう、福音を聞いてるわけですから。自分が聞くというよりはむしろ、まだ聞いてない人を連れて来るべきでしょう。信者がみんな、信者でない人を「晴佐久神父の語る福音をぜひ聞かせたい」っていう熱い思いで連れて来てたら、信者さんは半分以下になるはずですよね。ってことは、どの信者さんも自分だけ来たってことですよ。だって、8割ですよ、手を挙げた人。
 実際、講演会の後も、「○○教会から参りました」「××教会から・・・」ってニコニコしながら挨拶してくださって、それはちっとも悪いことじゃないですけど、信者は毎週福音を聞いて、毎週永遠の命のしるしであるミサに(あずか)っているんだから、もういいでしょう。晴佐久神父の話なんて、いつもおんなじなんだから。25年、まったく同じこと話してきたわけで、ここで私が何言うかなんて、ここに立つ前から分かってるでしょ? 「頼むから、仲間になって、一緒に伝える側になってくださいよ」っていう気持ちが、すごく強くあります。
 福音を知らない人たちに、教えてあげてほしいんです。「自分は醜いアヒルの子だと思っている人たち、あなた、ホントは白鳥なんですよ」と。白鳥であるにもかかわらず、自分は醜いアヒルの子だと思ってるから、恐れるし、喜びがないし、しまいには白鳥に嫉妬するわけでしょ?

 今日の福音書のテーマは、まあ「焼きもち」。ねたみの話ですよね。
 「イエスさまのお名前を勝手に使って活躍して人気を集めてるやつがいるけれど、許せん、イエスさまは俺たちのものだぞ」ってわけです。「イエスはうちのグループの商標登録です」みたいな感覚ね。自分こそが褒められるべきなのに、他人がうまくやって人気が出てると面白くない。「嫉妬」ってやつです。・・・ねたみ。
 で、この、ねたみの心っていうのが、一番コワい。知恵の書に「悪魔のねたみによって死がこの世に入った」っていう言葉がありますけど、怖いですね、「悪魔のねたみ」ですよ。悪魔って、究極のねたみなんです。つまり、自分は悪だって分かってますから、善を生きることができる人間、永遠なる命、どこまでも神さまに愛されてる神の子の存在なんてのが、ねたましくてしょうがない。だから、「神の愛なんて嘘だよ、あんたたち、実はそんなものもらってないんだよ」って、福音のまったく逆を吹き込むんです。そうすると、どうなるかというと、「あっ、私は醜いアヒルの子なのね」「私は裁かれるのね」「私なんかは救われないのね」って思うようになるし、救われているかのような幸せそうな人がねたましくなる。元気にしている人たちがねたましくなる。だから、しまいには互いに足引っ張って、「そんなことやめろ」とか「俺たちに従え」とか、そんな話ばかりになって。
 あれですよ、どこかの政党の総裁選みたいな話。(笑)みんなお互いにケロッとした顔して立派なこと言って、ニコニコ握手なんかしてるけど、実は強烈に嫉妬し合ってる。相手の力、人気をねたんでる。だからいつも、良い選択ができない。
 「ねたみ」こそが、人の世を苦しめ、その人自身を苦しめる。そのねたみの原因は、自分は醜いアヒルの子だと思い込んでるところにある。ホントは白鳥なのに、悪魔に醜いと思い込ま
されている。これが一番コワいことなんですよ。イエスが一緒にいるってだけでもう白鳥なのに、まだ足りないアヒルだって思い込まされる。救われてるのに、「まだ救われてない、救われないかもしれない」と思い込まされる。だから、救われてる人の足を引っ張って「君は救われてないぞ、救われないかもしれないぞ」と言い出す。誰もがすでに、永遠の命、神の子としての遺伝子をちゃ~んといただいてるのに、それにふたをして怯え、救いをねたんでいる状態っていうのが、どれほどもったいないか。

 もちろん、いい嫉妬、ってのもあるんですよ。嫉妬っていうか羨望っていうか、「良いものに憧れて、それをめざして成長する」ってのならいいでしょう。たとえば、先週お話しした通り、今年はシニアの集いを天国的にやりましたけど、実はあれは、ひどく羨ましかったことがあったからです。
 去年、宣教協力体の会議があって調布教会に行ったら、ちょうど「シニアの集い」をやってて、それがすっごくステキだったんですよ。ホールにね、シニアの方がいっぱい座ってて、一人ひとりのテーブルが飾られてて、おいしそうなお弁当が並んでて、神父さんもみんなの中に入ってニコニコしてて、前ではちゃんとした衣装で民謡かなんか歌っててね。みんながホントに幸せそうにしてるのを見ちゃったんですよ。
 去年はほら、多摩教会は、聖堂出口でお弁当配ってね、「どうぞ持ち帰ってお家で食べてください」みたいな感じでしたでしょう。もちろんホールに残って食べてもいいんだけど、別に席が用意してあるわけじゃないし、まあ、「おじゃまだから」ってみんな帰っちゃった。お弁当持って帰って、ひとりで食べるんじゃ、「シニアの集い」って・・・集ってないじゃん!・・・って、私やっぱり、思いましたよ。「集い」ってからには集いましょうよって、今年は早くから計画立てて、たくさん準備して。あの調布教会みたいにやりましょうって憧れてね。
 それで、この前の「シニアの集い」、ホントに良かったでしょう? 天国みたいで。これで調布教会には負けないぞって喜んでたら、なんと、たった今聞いた話ですけど、今年の調布教会の「シニアの集い」は、高齢の方の人数も増えたし、もうああいう「集い」を準備するのは大変だから、お弁当配って終わりにしたって。(笑)えええ~~!?って、びっくりしましたけどね。まっ、よその教会のことをとやかく言いませんけど、今度は、「多摩教会の『シニアの集い』、ホントによかったよ~」って、さりげなく調布の方に言って、嫉妬していただいたらいいかも。(笑)
 ま、こういうねたみっていうのは役に立つかもしれないけれど、私たちが、悪いねたみを持ってるときっていうのは、私たちの中に、越え難いコンプレックスがあるとき。こんな自分は汚れている、こんな自分は幸せになれない、みんなは祝福されてるのに私はほったらかしにされている、そんな思いになってるとき。・・・ホントは違うんですよ。神さまがあなたのことをどれほど、もうホントに大切にしてくださってるかということを、
知らないだけなんです。知ってたら、素晴らしい働きができるんです。そのことはねえ、いくらでも強調しても、し足りない。

 モーセが「みんな預言者になればいい」って、さっき第1朗読で言ってましたけど、これ、ねたんだヨシュアを(さと)してるんですよね。みんなが預言状態になってるのを見て、たぶんヨシュアは、「なんでみんな、モーセ先生のように、立派な預言者みたいなことになってんだろう。なんで私はそうならないんだろう。なれないんだろう」みたいにねたんだんですけど、なんか分かるでしょ? この気持ち。みんなが、立派に働いたり、素晴らしい活躍をしてるときに、「どうせ私にはそんな力が与えられてない」って思っちゃう。・・・でも、違うんです。それが、もう悪魔のわなで、神さまは、あなたを通して、ちゃんと働いてるんです。あなたも素晴らしい働きをしてるんです。それを知って信じたとき、この世の点数とか、この世の評価を超えて、神の国で働ける。
 たったひとりでもいいですよ。この世では大したことはなく見えても、たったひとり船橋の講演会に連れて来たら、もう「天国で得点1万点」みたいな。それはもう、神さまの評価っていうのは、この世の話とぜんぜん違うんですよ。自分はダメだと思ってたら、ねたむばかりで、人を連れてくるなんて考えもしないですけれど。

 第2朗読でヤコブが「金銀はさびつきますよ」と。聖書のこの言い方、さっき朗読を聞きながら思わず笑っちゃったんですけど、過激ですよね。「富んでる人たち、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果てて、金銀もさびる。このさびこそが罪の証しだ」。で、その後、「あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」。・・・終わりの時のために宝を蓄えても、終わっちゃうから、なんにもならないんですよ。
 あれですね、期限切れのクーポン券。「あ~、こんなに集めたのに、有効期限、昨日までだった!」・・・もう何の役にも立たない。あれってホント残念でしょう? 「こんなに一生懸命ためたのに!」・・・まさにそうなんですよ。期限があるんです、この世界は。何を蓄えても、「この世の私」には期限がある。しかも、それがいつかも分かってない。クーポン券なら、ちゃんと「期限は何年何月」って書いてありますけれど、この世での私たちの「期限」って、誰も知らない。にもかかわらず、いったい何をため込んでんだか!って話ですよね。
 ため込んでも、やがてそれは終わりの日に、何の意味もなくなる。
 この「富んでる人たち」っていうのは、コンプレックスの人たちです。自分の中に、永遠なる富があるって、知らない人たちです。だから、人のものをねたんでねたんで、この世で集めてるんですよ。消えちゃうものを。しかし、私たちは、もう永遠の富を持っているっていう信仰ですから、この世に何もためなくっても、構わないんです。この世にためる暇があったら、むしろ天国のポイントを高めるために、自分の持ってるもの使って、「船橋に行きましょうよ」って連れてくみたいなね。
 イエスさまが、「わたしに逆らわない者は、わたしの味方だ」と言い、普遍的な救いの道をちゃんと示して、「たとえ片目になっても、片手になってでも、あなた方は神の国を得なさい。永遠の命に目覚めなさい」と言う。もうこの世のもの、片目なんて大事じゃない。片手なんて大事じゃない。それ以上に大事なものがあるから、失っても構わない。その、絶対に失えないもの、永遠なる神の国を、もうすでに頂いてるっていうことに目覚めたとき、あなたたちは変わる。・・・真の安心。永遠への希望。

 先週、神学生合宿の話をしましたでしょう。合宿の翌日の日曜日、ミサにひとりのベトナム人の神学生が来ました。彼はその後の入門講座にも出て、証しをしてくれました。自分が日本に来た理由とかね。聞いて、みんな感動しましたよ。
 彼は、ベトナムで神学生だったんですよね。司祭になりたいと夢見てベトナムの神学校に入ったんですけど、日本のとある小さな教区の司教さんが、友達のベトナムの司教さんに会いに行って、「うちの教区はホントに司祭が足りない。長いこと教区の司祭が生まれていない。このままでは立ち行かない。つきましては、・・・誰かくれない?」(笑)・・・ってまあ、そういうようなことを言ったわけです。向こうはね、カトリック信者大勢いますし、神学生も大勢いるんですよ。若い神学生がね。
 で、そのベトナムの司教さんは、「それなら、彼だ」ってことで、「君、ちょっと」って彼を呼んで、「ぜひ日本に行って、日本の司祭になり、日本で働いてくれないか」。本人は夢にも思ってなかったから、「ええっ?」って思った。「日本ですか?」って。でも、自分の司教さんから言われて、日本の司教さんにも「ぜひ頼む」って言われて、もちろん「ちょっと考えさせてくれ」って言いましたけど、そこが彼のカリスマなんでしょう、「行きます」と決心してくれた。
 と言っても「行きます」って言った時は、彼はベトナム語は当たり前ですけど、英語もフランス語もしゃべれる賢い子なんで、日本に行っても何とかなるだろうって思ってたみたいです。それが、来てみたら、なんと日本という国は日本語以外通じない(笑)。もうビックリですけど、しょうがないから日本語学校に通うわけですね。日本の神学校、日本語検定通らないと、入学できないんですよ。それで、地方の教区から単身都会に出て、そこで日本語学校で、1年勉強、2年勉強。でも日本語難しくてなかなかうまくいかない。検定試験に、落ちて、落ちて。彼は「もう無理だ」と。ホントにつらくって、「もうだめだ」と落ち込んだ。
 その上、日本の食事も合わないし、体調も悪くなって、ベトナムも恋しくなる。地元ではね、同級生の神学生がどんどんと進んでいって、自分はできない日本語を必死になってやってる。それで、ついに心折れて、日本の司教さんにね、「帰らせてください」って言ったんですよ。司教さん、なんて言ったか。
 「そうか。だけど、もしここで『もう無理』って言って逃げてしまったら、これから君は、神父になって生涯教会のために働いていく上で、大きな損失だ。人生において『もう無理』っていうことはこれから何度もある。その『もう無理』っていうときに乗り越えてこそ、召命を生きるキリスト者、神の教会の司祭として役に立つんだ。ここであきらめたら、これからもあきらめる人生になる。君のためにも言う、ここで乗り越えてくれ」と。まあ、そういう趣旨のことをおっしゃって。さすがに司教さん、もちろん自分の教区で働いてほしいから踏みとどまってくれって頼むっていう本音はあるけれども、それと同時に「あきらめるのは君のためにもよくない。神の招きを信じてやっていこうよ」と励ましてくれて、彼は「分かりました、信じます」って、さらに1年頑張って、ついに検定を通って、ようやく「日本カトリック神学院」に入って、今2年目です。
 でも、勉強は難しいし、なかなかいろいろ大変。故郷恋しやっていうのもあるでしょう。そんなこの夏、神学生の黙想会に晴佐久神父さんが来てくれて、「司祭がどれほど素晴らしい仕事か。どんな自分でもいい、自分を通してキリストが働くと信じて、シンプルに、まっすぐに、『神は愛だ』『あなたは救われている』『永遠なる魂を持っている』と宣言すると、多くの実りがあって、たくさんの人が救いの喜びで顔輝かせてくれますよ。信じてください。恐れないでください」・・・1週間ず~っと、そういうお話をしてくれて、彼はホンットに喜んだんですよ。聞いてる彼の顔を見ればわかりましたよ。ホントに良く聞いてくれました。
 それで、黙想会終わった時に、「どうしても晴佐久神父さんの教会に行って、神父さんの教会で神父さんが福音を語ってる姿を見たい。入門講座を見たい」。そう言って、先週の日曜に来て、ミサに出てたし、皆さんに紹介してお祈りしてもらったし、入門講座にも出てもらったら、そこで、自分のそんな身の上話をしてくれたんです。私はよく知らなかったから、ビックリして、「そうだったか」と。よくぞ日本に来てくれた。ありがとう!
 日本ではキリスト教の真実がなかなか伝わりにくいっていうようなことも言ってましたけど、私は太鼓判を押したい。彼ならできる。大勢の日本人に救いの喜びを伝えることができる。ベトナムの司教さんがなぜ彼を選んで「君、行きなさい」って言ったのか、その理由が分かる気がする。・・・だいじょうぶだ。恐れるな!

 彼の叙階式、私、行きますよ。4年後ですかねえ。そうして、彼は日本の司祭として働いてくれるんですよ。それは神のわざ。だから、何にもいらないんです。才能がなくっても、どこの国であっても、どれほどキリスト教徒が少なくても、日本語があまりうまくならなくっても、そんなこと、関係ないんですよ。400年前のフランシスコ・ザビエルなんか、日本語たどたどしくって、ろくにしゃべれもしないけど、海渡って、命がけで来てくれた。それだけで、われわれ日本人は、黙って手を合わせたわけでしょ。
 彼のためにね、ぜひお祈りしてください。きっと素晴らしい働きをしてくれる。
 彼が折れそうになったとき、「自分は選ばれてない、良いものを持ってない」って思ったんだよね、きっと。「みんなは頑張ってやってるな~、みんな才能があっていいな、俺は何もできてないな~」って思ったときに、恐れが忍び込んできて、負けそうになる。ねたみの心が起こって、自分の中の素晴らしいものが見えなくなる。そんなときが勝負どころなんでしょう。悪魔のささやきに打ち勝って、「私のうちに神は働いている。神に選ばれたんだから、何も足りないものがない。金も銀も流暢な日本語もいらないから、ただ天の父よ、あなたが働いてください」と、そう信じたときに、その人はひとりの司祭として働き始められるということです。
 皆さんも一緒。忘れないでくださいね。ひとりのキリスト者として生きていくことができるのは、「私の中に、誰にも負けない神の恵みがちゃんとある!」と信じられたときです。

2012年9月29日 (土) 録音/10月6日掲載
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