2012年9月23日年間第25主日
・第1朗読:知恵の書(知恵2・12、17-20)
・第2朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ3・16〜4・3)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ9・30-37)
【晴佐久神父様 説教】
ラジオ局のレコーダーが説教台にないですね、今日。これ、珍しいですね。録音の担当者いらしてないってことですね? ・・・ってことは、放送なし。これは気楽ですよ♪(笑)言い間違いありの、しゃべり放題。そんな土曜夜のミサの説教に似てくるんですよね、こういうときは。
じゃあまず、先週のミサ後の「シニアの集い」の、あのうれしかったひとときの話からにしましょうか。
皆さんはほとんど出席できませんでしたからね。本当に、天国みたいな「シニアの集い」でしたよ。ぜひ見てほしかった。信徒館ホールが狭くて入りきれなかったから、しょうがなかったですけれど、1階ホールと2階会議室の両方合わせて、テーブル9台に、シニアの方がそれぞれ座って、全部で60人くらいでしたか。
1階と2階を一度に使うのは初めてだったんで、どうなることかと思ってましたけど、それぞれのテーブルがそれこそ和気あいあい、なかなか普段お話できない同士も親しくしゃべっててね。子どもたちの歌もかわいかったし、沖縄民謡なんてのも出てきて、なんか、小さな天国でした。
ホントに、「教会っていいところだな~」って思うのは、ああいうひとときですね。準備も大変でしたし、さまざまな工夫も必要ではありましたけれども、教会家族として当然のことをしたまでです。シニアの方たちが、長い人生を神に祝福されて生きてこられたこと、ホントにこれは恵みですよと、若い家族も一緒になって喜んでひとときを過ごす。まさしく「家族」ということです。また来年も、一層楽しくやりましょうね。どんな形であれ、良く準備して、工夫して。あの~、狭いって言うんだったら、建て直しちゃいましょうか。(笑)パ~ッとね。
あっ、でも、お弁当届かなかったんですよ。あれにはびっくりしました。某有名デパートのお弁当、配達を頼んであったのに、作るのが間に合わなかったとかで時間に届かなかったんですよ。あるんですね、そんなこと。その上、渋滞だかなんだかで、もう開始時間に間に合わないっていうんで、キャンセルしたんです。・・・しょうがないです。それが分かったの、ミサ中なんですよ。私、ミサを司式しながら変だなと思ったのは、誰かがサ~ッと聖堂に入ってきて、教会委員長の耳元で何か言うと、委員長が慌てて立ち上がって出てったんです。何があったんだろうって、祭壇の上で気になったんですけど、それだったんですね~。
でも、エライですよ。すぐに若い子たちが、「弁当なしじゃ話にならない」って、一斉に駅のデパートのお弁当屋さんに飛んでいって、おいしそうなお弁当を65食かき集めてきたんですよ。だから、ミサ終わったときにはもうちゃんとお弁当が用意されていて。
まあそういうのも、いい思い出になるエピソードというか。若い子たちがシニアの方々に奉仕できたっていう、私たち「家族の喜び」っていうことじゃないですかね。65食の弁当揃えるって大変でしたでしょう、きっと。その辺の手軽な弁当ってわけにいきませんから。でも、それがまた、おいしかったんですよ。実は、キャンセルした弁当も後で届いて、よろしかったらって置いていかれたので食べてみたら、慌てて買ってきた方がずっとおいしかった。(笑)よかったですねえ、皆さん。そういうもんですよ。ていねいに準備して、素朴に祈っていれば、すべてはうまくいくんです。
だから、本当を言えば、たとえ弁当届かなくってもですね、そういう時は古いだけ買ってきて私のところに持ってきてくれたら、天に祈って2つの弁当を祝別したんですけどね。弟子たちがそれを配るとみ~んなに行きわたって(笑)、全員が食べて満腹したんじゃないですかねえ。だって、結局われわれが信じてるのは、そういう単純なことですから。何があろうとも、神さまの祝福、神さまの恵みはちゃんとみんなに行きわたるって。
・・・なんにしても、幸せなひとときでした。
今日イエスさまがね、「子どもを受け入れるものは神を受け入れる」って言ってますでしょ。で、「子どもを受け入れる」っていうのは、弱さ、無力さっていうのもあるけど、まずは子どものような素直さ、素朴さ、一番は「単純さ」かな、そういうものが、やっぱり「神を受け入れる」ことになるんだと思う。大人になると、なんだか複雑になっちゃって、今日の福音書みたいに、誰が一番偉いかなんて話になっちゃって。そういう大人の論理じゃなくって、子どものような素直さ、純粋さっていうのが、やっぱり神さまを受け入れるにあたって必要ですよ。確かに幼稚ではあるけれども、子どものような感動、感激、驚き。子どものように「え!?」って目を輝かせるような、「ありがとう!」って飛びついていくような素直さ。それ、やっぱり、神さまとつながっていくための大切な接点だと思う。
大人になると警戒しますでしょ。考えますでしょ。で、自分の経験・・・といってもまったくささやかな経験にすぎないんですけど、それに照らして、「そんなわけないな」とかいろいろこう、考えるんですよ。イエスさまに「三日目に復活することになっている」なんて言われても、「なんのこっちゃ~」って考えこむ。わからないのに、弟子たちは恐れて尋ねもしない。疑っておびえて、思考停止。子どもだったら、「え!ホント? じゃあ三日後に待ってるね!」って感じじゃないですか。ちゃんと「今」を生きているから。
大人って、なんでしょうね。みんな「ちゃんと大人になれ」って言われますけど、何になるんでしょうね、これ。そうして皆さん一応「大人」になりましたけど。いったい何になったんですか。いいんですかね、それで。
子どもをだますドッキリ番組ってのをつい先日テレビで見ましたけど、これがまあ、ホント、かわいいんですよ。人間じゃない物がしゃべるって言うドッキリで、子どものいる家に、マイクとスピーカーを仕掛けておくんですね。お母さんはもちろんグルなんですけど、たとえばお家で飼ってるカメの水槽に、カメがしゃべってるようにスピーカーが仕込んであるんです。カメラも仕掛けてあるから、外から子どもの様子が見えるし、子どもの声もちゃんとマイクで聞こえる。別室では声優さんみたいなのがカメの声を出して会話できるようにしておく。で、お母さんが「じゃあ、いい子にしてるのよ~」とかって出てっちゃう。子どもがひとりになってしばらくすると、カメがね、「カメ吉」って名前でしたけど、そのカメ吉がね、「ヒロシくん!」とかって話し始めるんですよ。
「ヒロシくん、ボクだよ」
「えっ?」・・・って振り向く。
「カメ吉だよ」
すると、なんだろう??・・・って寄って行って、ちゃんと会話を始めるんです。
これは、子どもはこういうことを信じるかっていう実験なんですけど、これが、素直に信じるんですよねえ。幼稚園生くらいだと。
小学生になると「何だよ、これ」っていう感じになって仕掛けを探し始めるし、中高生ぐらいだと「どこのドッキリ番組?」って、周りを探すでしょうし、大人になると「バカなことするな!」って叱り始めるんでしょうけど。(笑)
幼稚園生、いいですねえ。カメ吉とお話。たとえばね、カメ吉が「ヒロシくん、嫌いな食べ物は何?」って聞くと「トマト」って答える。「じゃあ、トマトが食べられるようになろうよ。友達のボクのお願いだよ。ね、トマトを食べて!」・・・ヒロシくん、冷蔵庫からトマト持ってきてね、カメ吉に「さあ、がんばって食べようよ」とか何度も言われて、しばらくはウ~ンってトマト見てたけど、そのうちしぶしぶパクッて食べて、でも、カメ吉に見えないように後ろを向いて、口からそっと出してる。(笑)かわいかったよ。カメ吉とヒロシくん、ホントに友達になってる。・・・いいですねえ、ああいう素直さ・・・!
あとね、幼稚園に置いてある大きなクマのぬいぐるがしゃべるってのもやってました。5人の子どもたちが園室で遊んでると、クマのぬいぐるみが、「みんな、ボクだよ、クマのぬいぐるみだよ」ってしゃべりだすんですよ。「テディ・ベアだよ」とかなんとか言えばいいのに、「クマのぬいぐるみだよ」ってのもどうかと思いましたけど、ともあれ、子どもたちはみんなワッと集まってきて、「わあ、かわいい!しゃべってる!」って盛り上がる。先生もグルですから、クマは、そこにいる子どもたちの名前をちゃんと呼んだりして、すっかり仲良くなっちゃうんですね。
で、クマは言うんです。「ボクがしゃべれること、先生には絶対内緒だよ、いいね。もし、そんなことバレたら、『しゃべるクマなんて気持ち悪い!』って捨てられちゃうからね。お願いだよ、黙っててよ。約束だよ」。
子どもたちは、「うん、わかった、わかった。やくそくする」。
そこへグルの先生が入ってきて、「今、なんか、声が聞こえなかった~?」って言うと、子どもたち、「なんでもないよ、なんでもないよ」って言ってるんだけど、年少さんが「クマがね~、おしゃべりするのぉ」って。(笑)年長さんがあわてて、「ダメッ!!そんなことないよ。せんせい、ちがうの!」とか言って。(笑)いや~、かわいかった!! ああいうのは、ホントに、幼稚園生ならではですね。
だけどあれって、大きくなって「いや~、こりゃなんか、仕掛けがあるんだろう」とか、「バカなことするな」とか「だましたな」とかって言うのと、どっちが幸せですかねえ。正しいこととか、論理的なこととか、なんか、そんなものを求めて大人になったはずが、何も信じられないで、いっつも不安で、ちっとも楽しくないとしたら、何になったんでしょうねえ、大人って。カメとしゃべれた方が、よっぽど幸せなんじゃないですか。
「だまされた」って言うけど、その時信じて楽しく会話してワクワクした、その時間はもう永遠なることでしょ? そうなってくると「真実って何だろう」って気がしませんか?
あの時恋人と幸せだった。で、飽きてきたら、もう別れて終わり。・・・そんなこと繰り返しているうちに、「愛し合うなんて、どのみち幻だ」みたいになるとしたら、こんな寂しい話ないですよ。あの時ホントに夢中になって愛した一瞬、これは永遠でしょう?
大人になるって、客観的になって、論理的になって、そして、一番大事なこと、本当の喜びから離れてしまうってことだとしたら・・・。
シニアの皆さんはね、どちらかというとそんな大人をくぐり抜けて、もう1回、子どもの素晴らしさを生き始めてるってことじゃないですかねえ。
私も最近、年のせいか、だんだん複雑なことがイヤになってきたんですよ。忍耐力がなくなるというか、集中力もなくなるというか、シンプルなものが良くなってきたんです。でもそれ、良いことじゃないですか。単純なことの価値が分かってくる。「神は愛だ」「主は復活した」・・・もうそれでいいじゃないか。そんな単純なことっていうのが、最近すごくうれしくなってきて、「ああ、私も次第に霊的にシニアになってきたな~」っていう感じ。信じることって、そういう単純さ、幼稚園生のようにまっすぐに、「は~い!」って信じる純粋さへの招きだっていうイメージ、ないでしょうかねえ。
イエスさまが、「わたしは殺されるけど、三日目に復活する」って言っても、弟子たちは受け入れることができず、「それなんのこと?」って分からず、分からないことって怖いので、なんだかビビっちゃって質問もできず、とりあえずは聞き流すという大人の対応してますけど、これが子どもだったら、「は~い!」と言って、「じゃあ、三日目に待ってるね」と言って、そしてホントに三日目に復活の主と出会って、「わ~い!よかったね」って言う。それこそ、神の国の始まりでしょう。
カメがしゃべったって、それは人間が仕込んだことだけど、イエスさまの復活は、これは神がなさっていることだから、何よりも確かな現実です。私たちは、その現実を信じます。すべての人に永遠なる魂が与えられていて、それが本当のことだっていうことを、私たちキリスト者はイエスの復活で知り、自らの永遠性を信じたんですよ。現代人は、「いや~、永遠なる魂なんてあるものか。死ねばそれまでだよ」って疑う大人の対応をついついしてしまいがちですけど、私たちは、心の真ん中に、子どものように「は~い!」って信じる気持ちを持って、「私たちもまた復活するんだ」という希望に励まされます。
皆さん、復活信じてますか? 永遠なる魂が宿ってるということ、すべての人に宿ってるんだということ、私たちはイエスによってそれを知らされ、イエスの復活で信じた幸せな仲間だということ、それを皆さん、受け入れてますか?
子どものように単純に生きましょう。複雑なことはちょっと、力がないですね。シンプルなのがいい。
先週一週間、富士の裾野の黙想の家で「神学生黙想会」というのやって、昨日帰ってきたところですけど、神学生達にもそんな話を一週間してきました。
「シンプルにいこう」と。福音を信じること。まっすぐに語ること。「あなたはもう救われている」と宣言すること。・・・それで十分だから。単純に、素朴に、やっていこうよと。
10人の仲間たちでしたけどね、神学生に話すのは、ホントに私、うれしい。神学生たちのこれからの働きを思うと。中には助祭もいましたからねえ。来年もう、司祭に叙階されるでしょ? 回り回って、いつか多摩教会の主任司祭として来るかもしれない。素朴にそう思いますよ。彼らを応援することは、そのまま未来の教会を支えること。
ちょっとこう、こういう時代ですし、勉強、勉強で自信をなくしたりもしますし、神学生は本当に力を必要としているので、ぜひ、彼らのために祈ってほしいと思う。彼らがホントに、素朴に素直にまっすぐに、復活の信仰を、生涯語り続けることができるようにって、皆さんに祈ってもらいたいと思う。
その10人の仲間のひとりが、「晴佐久神父さんの教会に行ってみたい。神父さんの教会のミサに出てみたい。神父さんの日曜日の入門講座にもぜひ出たい」ってことで、今日来てます。一番後ろに座っています。ベトナムから日本の教会で働くために来ている20代の神学生です。私はもう、ホントに心から君に感謝したいし、君を励ましたいし、君が生涯、「主は復活された」と、「私たちはみんな永遠なる魂を持っている」と、そう宣言してくれるように、心から祈りたい。
いろいろと大変なこともあるだろうし、日本語の勉強も、ホントに大変でしょう。5年前から一生懸命日本語を勉強したみたいですけれど、日本に来てくれてありがとう。「もう帰りたくなったこともあった」って言ってましたけど、日本人の99%は信者じゃないので、ぜひその人たちに、「主は復活された!」「みんな永遠なる魂を持ってるんだ」、そう教えてあげていただきたい。君の働きによって救われる人、永遠の命に目覚めて、神さまに本当に心から感謝する人、そういう人が大勢現れますよ。その働きすべてが、神さまの喜びとなりますよ。
今日、神学生、助祭のために、ぜひお祈りをいただきたい。皆さんの祈りが必要です。その祈りに支えられて、君も叙階の秘跡を受けて、ホントに素直に、素朴に、神さまの子どもとして歩んでいっていただきたい。
君のために、今日のこのミサを捧げます。
Copyright(C)晴佐久昌英