かわいそうだね・・・

2012年7月22日年間第16主日
・第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ23・1-6)
・第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ2・13-18)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ6・30-34)

【晴佐久神父様 説教】

 先週、コルベ神父さまのお話とかしたじゃないですか。「アウシュビッツに行ってね、ナチスのヒトラーの恐ろしい悪も、すごく身近に自分のこととして感じた。しかし同時に、あの身代わりになって命捧げた聖者コルベ神父さまの善もすごく身近に感じて、自分のことのように思えた。善と悪はいつも私たちのうちにあって、すごく身近だけれども、必ず善が勝つから、いつも自分の心を振り返りましょう」みたいな話。「そのために、1日10回位、悪に打ち勝って善を生きようっていうチャンスがあるから、『今日は7コルベ、3ヒトラーだったな』とか『今日は10ヒトラーだったな』とか振り返りましょう」っていうようなお話だったと思いますが。
 そうしたらですね、ミサ後の軽食サービスの時に、同じテーブルで一緒に昼食を食べていたひとりの女性が、そこにいたみんなにユニークな信仰告白をしてくださって・・・。
「神父さま、今日のお話はホントに身に染みました。あの綿谷りささんの、芥川賞を取った小説に『蹴りたい背中』っていうタイトルの小説があったけれども、実は今朝、ミサに来る前、主人の背中を蹴りたかったんです。でも、ミサに来て神父さんの話を聞いて、ああ、私は10ヒトラーだったなあと、帰ったら1コルベしようかと、そう思えた」。
 ・・・いい気付きじゃないですか。で、本当に、帰って1コルベだったかどうか、今そこに本人がおられるので、後で聞いてみようと思いますけれども。(笑)
 で、私、その時申し上げました。
 「あなたが今日帰って1コルベをする。それは素晴らしいことだ。なぜなら、とってもハードル高いことだから。コルベ神父さまなんかは、素晴らしい方だから、身代わりになって命を捧げるのも、ある意味自然なことでもあった。何といっても聖人ですからねえ。だいたい、子どもの時に聖母が現れて、殉教と純潔の冠を差し出して、『どちらにしますか』って言われて、彼は『両方ください』って言った。そんな子ども時代から始まって、アウシュビッツの、あの闇の中で光となって、他人の身代わりとなって殺された。そんな聖人が1コルベするのは、彼にとってはある意味とても自然なことだった。しかし、あなたがいつも一緒にいるご主人に優しくするのは、すごくハードルの高いことだ。だからもしも、ホントに1コルベできたら、ご主人に対する「憐れみ」を少しでもそこに持てたら、それは天国においては、ホントに得点高いことだ。それこそ、コルベ神父さまの犠牲に勝るとも劣らない善だ。私たちは毎日毎日そんなふうに、小さな戦いの中で、神の憐れみによって、善を選ぶことができる。それをやっていきましょうよ」と。
 皆さんのことでもありますよね。1日10回のチャレンジ。どうですか、たとえば昨日はどうでしたか。「7コルベ、3ヒトラー」? あるいは「3コルベ、7ヒトラー」? どうだったんでしょう。ちょっとの我慢。あるいはちょっとの犠牲。それは、神さまの憐れみに気づいていれば誰でもできることだし、神さまの憐れみにちゃんと気づいていなければ、やっぱりすごくハードルが高いことだと思う。難しいことだと思う。

 今日イエスさまが「飼い主のいない羊のような有様を深〜く憐れみ」って憐れんでおられますけれども、この「深〜く憐れみ」っていうのは、これ、神さまの憐れみのことですよ。この憐れみが私たちの中に、いま満ち満ちております。イエスさまと共にある私たちの中にね。
 福音書の中の、この大勢の人たちがイエスさまを追っかけて、先回りして、岸辺でイエスさまを今や遅しと待ちかまえている風景を思い起こしてください。病気の人もいる。子どもを抱えた人もいる。その病人を連れてきた人もいる。心を病んでいる人もいる。ものすごい不運に見舞われて苦しんでいる人もいる。そしてみんな貧しい。おなか空かせて、(ほこり)まみれになって、汗かきかき湖を走って半周して、イエスさまを先回りして、必死なまなざしで待っている。その群衆を見た時、イエスさまは深く憐れまれます。
 この「深く憐れむ」っていう原文の言葉のニュアンスを一番近い日本語に訳するなら、たぶん「胸が張り裂けそうなほどかわいそうに思う」っていうのが近いと思います。胸が張り裂けそうなほどに、「どうしてもこの人を救ってあげたい、この人たちを癒やしてあげたい」と、そんな思いで、イエスさまが神の憐れみそのものとなって、私たちを憐れんでくださった。今日の聖書が描いているのは、その姿です。
 「飼い主のいない羊のように」って聖書は伝えていますけれど、私たちには「飼い主のいない羊」がどれほど哀れかってこと、あまり分からない。だからたぶん、あの〜、野良猫を想像したら、ちょっと近いかもしれない。野良猫です。飼い主がいなくって、やせ細っていて、傷ついていて、目やにみたいのが付いてたり、足引きずったりしてるじゃないですか。そんなやせ細った泥まみれの野良猫を想像していただいたらいい。皆さんだって「ああ、かわいそうだな。なんとかしてあげたいな」って思うじゃないですか。
 それが、野良猫どころじゃない、たくさんの神の子たちが傷ついて、おなか空かせて、救いを求めて、必死な思いでイエスさまの方ずっと見つめているんです。そのまなざしを感じて、イエスさまの中に「胸が張り裂けそうな」憐れみが溢れてくる。・・・これがキリスト教のすべてですよ。ここからキリスト教が始まってます。この憐れみから。この憐れみが感じられるかどうか。それによって私たちも「1コルベ」が可能になる。皆さん今日、自分の中に神の憐れみが満ち満ちていることを感じてくださいね。

 何日か前にテレビ番組の『クローズアップ現代』でヒッグス粒子のことやってましたけど、ちょっとビックリしたっていうか、感動したっていうか。ヒッグス粒子発見されたニュース、ご存じですよね。原子の中に陽子とか電子とかあって、さらにもっと細かく、素粒子っていうのがあって、全部で17の素粒子があるはずだけれども、17個目がどうしても見つからない。で、約50年前にヒッグス博士が「17個目がある」と言って予言して、それを50年間、人類は探し求めてきました。それぞれの素粒子は質量を決めたり、いろいろな働きを決めたりしているんだけれども、その16個の素粒子の質量とか働きとかを更に定める、根源的な素粒子が必ずあるはずだというヒッグス博士の予言があって、みんなそれを「神の粒子」と呼んだ。
 見つかったんですよ、それが。つい先日。まあ、人間もすごいですよね。スイス・ジュネーブ郊外の地下に全周27キロのドーナツ型のトンネルを掘って、その中の実験装置で陽子を右回りと左回りに走らせ、互いに思いっきり正面衝突させて、何千兆度っていう温度の状態をつくり出すんです。そんなふうに陽子と陽子を500兆回ぶつけると、そのうちヒッグス粒子が生み出されるのは500回くらい。・・・という仮設のもとでぶつけ続けたんですが、ついにこの「神の粒子」を見つけた、と。で、見つけてみたらビックリ。これが今までの科学では、何ひとつこう、説明つかないような、不思議な素粒子だった。だからそれを、これからさらに研究していくわけです。
 なんだかだんだん人間が神の創造のわざの秘密に近づいているかのような、不思議な気がしますけど、驚いたのは、このヒッグス粒子、私たちの身の回りにいっぱいあるんですよ。検出できないだけ。どれくらいあると思いますか? 50年も見つからなかったんだから、地球に1個あるか2個あるかみたいな珍しい粒子かと思いきや、私たちの身の回りの空間すべてに詰まってるんです。どれくらいあるかっていうと、1立方センチって、角砂糖くらいの大きさですけど、その中に10の50乗詰まってるんですって。10の50乗って、10の後にゼロを50個並べるんですよ。角砂糖の大きさにヒッグス粒子がそれだけ詰まってる。宇宙全体なら、いったいいくつあるのかっていう話ですよねえ。恐るべしというか何というか、ともかくその一つひとつが、「神の粒子」としてこの世界に働いているって・・・もはや宗教的ですよね、そうなってくると。
 かつて偉大な科学者であり、偉大な神学者でもあるカトリック司祭、テイヤール・ド・シャルダンが、「原子と原子が引き合うのも愛だ」って言いましたけれど、彼が今生きていたら、「ヒッグス粒子の働きも神の憐れみだ」って絶対言ったと思う。神の憐れみは全宇宙に満ち満ちていて、すべての人のすべての働きに働きかけていて、「ああ、かわいそう! かわいそう!」って、ちゃ〜んと見守ってくださっている。
 それまでヒッグス粒子を検出できなかったように、かつて私たちも、なかなか神の愛を検出できないでいた。神の憐れみをちゃんと感じられないでいた。でもついに、神さまがそれを感じられるように分かるようにって、イエスさまを与えてくださった。そのイエスさまによって、私たちはもう簡単に、あのコルベ神父がそうだったように、神の憐れみを深く深く感じられるし、私たちもこの「神の粒子」ならぬ「神の憐れみ」の働きによって、ほんの「1コルベ」でも「ゼロコンマ1ミリの憐れみ」でも、隣人(となりびと)にかけてあげることができるようになった。私たち、それを信じます。憐れむべき人、誰かっていうなら、全員そうでしょう。ここに集まってるみんな、お互いに憐れみ合うべき存在じゃないですか。
 いじめで自殺しちゃったっていうかわいそうな中学生の話がありましたけど、楽しいはずの中学校生活が、仲良かったはずの友達からいじめられて、口の中に鳥の死骸を詰め込まれたり、蜂食わされたり、せっかくの楽しい運動会のさなかに鉄棒にくくりつけられて殴られたり、金ゆすりとられて、万引きしろって強要されて、もう生きていくことができない。そして、それを見て見ぬふりをする人たち・・・。「なんてかわいそうなんだ!」って思いませんか? 先生であれ、友達であれ、かけらでも憐れみの心があったら。「なんてかわいそうなんだろう!」って。・・・でもそんな憐れみの心を邪魔する悪霊の力が、私たちを縛っている。そんな中でひとかけらの憐れみでも持てたら、そこに神の国が立ち現れる。そうして神の国が完成に向かっていく。だから私たちは毎日でも、ホント、言っちゃえば「毎日10ヒトラー」の私たちが「1コルベ」でもいい「0.1コルベ」でもいい、大切にしていけば。そのために、イエスさまが必要なんです。
 さっきパウロが、第2朗読で「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊した」・・・そう言ってたじゃないですか。「ご主人の背中を蹴りたい」・・・まあ、その気持ちは痛いほどよく分かります。夫っていうのは、だいたいそういうもんですよね。「蹴られて当然」とは言わない。(笑)しかし、「蹴りたくなることがある」。それは痛いほどよく分かります。しかし同時に、そういう私も蹴られてしょうがないような存在だということも、同じく痛いほどよく分かるべきだし、そんな二つのものを一つにするのがキリストなんですよ。キリストの憐れみなんですよ。あの深〜い憐れみを、この私も自分のものとして、「平和の福音を告げ知らせる」ことができたら、「キリストによって私たち両方のものが一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができる」と、さっきそう読まれました。私たち、バラバラですから。なぜバラバラかというと、憐れみがないからバラバラなんです。ちょっとでも「ああ、かわいそうだなあ」と思えば・・・。

 先日の夜電話がきて、開口一番、「洗礼をもうお返ししたい」っていう。女性の方でしたけれども、話を聞いたら、まあ子どもの頃から虐待を受けていたりとか、教会でも冷たくされたりとか、精神病を病んでいてちっとも治らないし、神父さんに相談したら「イエスさまの十字架だと思って背負いなさい」と言われて余計に苦しくなったとか、ともかくそんな話を聞いてると、まあ、かわいそうで、かわいそうで。
 私、話聞きながら、口癖なんですけどね、「かわいそうだね・・・」って言ったんですよ。そしたら彼女が急に口ごもって、「私、『かわいそう』って生まれて初めて言われた」って言うんです。「親にも言われたことがない」って。だから私余計にかわいそうになりました。かわいそうなものは、かわいそうで、他に言いようもないから「かわいそう」って言うわけですけど・・・。私、その方に、「私が『かわいそう』っていうのは、私の気持ちでもあるけれど、その源は神さまの気持ちなんだよ」って言いました。「神さまがあなたのことを本っ当にかわいそうに思っていて、『なんとかしてあげたい!』って熱〜い親心を持ってちゃんと見守っているし、必要な愛をちゃ〜んと注いでくださっているし、あなたがそれに気付けば、あなたの中に本当の喜びがちゃんと溢れてくる。だから、誰も言ってくれなくとも、まずは神さまの『かわいそう!』に気付いてくださいね」と。
 「洗礼を返上したい」って言うのも、本意じゃないですよね。私はこう言いました、「返上したいような洗礼だったら返上してもいいですよ。返したくなるような洗礼なんか、本物の洗礼じゃないですから。しかし、神の憐れみによる洗礼を受けたのならば、誰だって絶対返したくないはず。あなたもそういう洗礼を受けてるんだって気付いてください」。
 他にも福音をいっぱいお話ししましたけど、何度も、「初めて聞きました」とか「初めて言われました」っておっしゃってたんで、ホントに福音を聞くチャンスが少なかったんだと思う。でも、たくさん福音を聞いて、最後には「ありがとうございました」って落ち着きましたし、「今日は安心して寝てくださいね」と言ったら、「はい」と言ってくださった。
 今日ここで、私はイエスさまの言葉として、神の憐れみが皆さんに、ちゃんと及んでいるということをお話しておりますから、この言葉を聞いている皆さんも、「私は神の憐れみのうちにある」ということに目覚めて、安らぎを取り戻していただきたい。私たちは苦しむために生まれてきたんじゃない。神の憐れみの中で、本当に喜んで、癒やされて、そして救いの、救いの(・ ・ ・ )安心を受けるために生まれてきました。それを頂いてください。

 今日、ポーランドのお土産で、イエジ・ポピエウシュコ神父さんのカードをお配りしますので、どうぞお持ち帰りください。ポーランドでは知らぬ人のいない聖なる司祭です。1984年に共産主義者によって殺された殉教者です。2年前に福者に列せられました。
 このポピエウシュコ神父さん、共産党の時代に福音を語り続けて、当局から(にら)まれました。素晴らしいお説教をなさる方だったんですけど、危険視されたんでしょう。拉致されて、縛られて、車のトランクに放り込まれて、そのまんま川に沈められました。ポーランドでは知らぬ人のいない神父ですけど、「日本では誰も知らないです」って言ったら、すごくポーランドの人が残念がっていたので、私、カードいっぱい買ってきましたんで、お持ち帰りください。
 彼の教会にお墓があって、お参りしましたけれど、教会の入り口に大きく掲げられていた言葉があります。彼がよく言っていた言葉だそうです。各国語で掲げられていました。
 ローマ人への手紙の12章の21節です。「悪に負けてはなりません。善をもって悪に打ち勝ちなさい」。・・・善をもって悪に打ち勝ちなさい。

Fr.JerzyPopieluszko
福者イエジ・ポピエウシュコ神父

2012年7月22日 (日) 録音/7月27日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英