病院に潜入したスパイ

2015年5月3日復活節第5主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録9・26-31)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・18-24)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ15・1-8)

【晴佐久神父様 説教】

 5連休の二日目となりました。いつもより若干、人が少ないように見えますが、どこかへお出掛けなんでしょうか。どこぞの観光地の神社仏閣などをお訪ねしてるんじゃないでしょうね。(笑)
 でもね、どんな休暇よりも、どこの観光地よりも、こうしてカトリック多摩教会の聖なるミサに(あずか)ってですね、神さまから豊かな恵みを受ける、これ以上のリフレッシュはないですよ。ミサに集うわれわれは、毎週日曜に、5連休をはるかに超える力をもらってるようなもんです。信者の皆さんは、すごく得してると思う。このミサで、今まさに神さまが私たちに注いでくださってる大きな恵みに、心を開きましょう。それがもう、何にも増して、最高のリフレッシュですから。
 普段、私たちは、何らかのストレスをため込んでいるわけですけど、ストレスの原因って、普通にはよそからやってくるように思いますよね。なにか外界にイヤなことが起こって、自分の内なる安心が(おびや)かされるって。でも、実はその「イヤなこと」って、それ自体はただの出来事なんです。本来、良くも悪くもない。ただ、その出来事を悪いことと受け止め、そう思い込んでイヤな気持ちになる「私の心」に問題があるんですよね。・・・分かります? 「ただの出来事」をストレスに変えているのは、私自身なんです。
 その証拠に、同じ出来事に出合っても、ある人は何でもないただの出来事と受け止め、ある人はとても受け入れがたいショックな出来事と受け止める。あるいは、同じ出来事でも、あるときは平気だったのに、あるときは耐えられない。
 たとえ誰かから何か言われたって、「ああそうですか、あなたはそうお考えなわけですね。どうぞご自由に」って受け流して、5分後には忘れちゃえばストレスにならない。でもみんな、言われたくないことを言われたり、自分でも嫌いな自分のある部分を指摘されたりすると、もう、過剰反応しちゃって、ストレスになるわけでしょ。みんな、わざわざ、ストレスを自らつくり出してるんです。
 じゃあ、どうすればイヤな出来事を受け流し、過剰反応しないでいられるか。
 自分の中に、外部のどんな出来事にも左右されない、神の恵みを保っていればいい。
 その恵みだけに、反応してればいい。
 この世のつまらん言葉で何を言われても、この世の一時的な力に何をされても、永遠完全なる神の恵みがしっかり受け止められていれば、周りがどうであろうと、ぜんぜんストレスにならないんです。
 そう考えると、「いい環境に出かけて行ってリフレッシュします」っていうリフレッシュよりも、この、ミサというリフレッシュの方が、ずっと価値がある。だってこれは、「まずは私の中に神の恵みをしっかりと受け止めて、それだけを信じることで、どんなに周囲が悪い環境であろうとも、爽やかに過ごせる」っていう霊的なリフレッシュですから。
 ・・・これ、ストレスを生み出さない生き方として、完璧ですよ。
 何も時間とお金をかけて、わざわざ「いい環境」に行かなくてもいいんじゃないですか。
 もちろん、現実の環境は、相変わらずイヤな家族だったり、(笑) 相変わらずイヤな職場だったりするわけですけど、そんなことはどうでもいい。それがこの世ってもんなんだから。変えようったって変わらないし、逃げ出そうったって逃げられないし。そんな「相変わらず」の中にありながらも、「自らのうちに絶対なる神の恵みを受けてそれだけに反応する」というリフレッシュさえちゃんとしてればいい。 
 どこかに出かけるのも悪いことじゃないけど、まずはどこにいようとも、「今、ここで」、神の恵みを受け止めます。そのためにも、ひたすらにミサを信じて、ミサに集まりましょう。毎週日曜日、聖なるミサで、天国直結のリフレッシュをもらってください。

 ・・・なんて言いながら、私は昨日、連休初日にお芝居を見に行ったんですけどね。(笑)
 まあ、リフレッシュというよりは、舞台を観るのは私のライフワークみたいなもんですけども。30年前から見続けている『オンディーヌ』(※1)っていう劇をまたまた見てきました。今回は、浅利慶太(※2)の新演出ってことで。
 実は昨日、私、浅利さんとおしゃべりしましたよ。浅利さんも、もう82歳。「30年以上前からずっと見続けてます。ぼくはこのオンディーヌで演劇好きになったようなもので、恩があるんです」って言ったら、「今度のやつは、すご~くリラックスして演出したんですよ。分かりやすくしたつもりですよ」とか言ってましたけど、確かによりシンプルになって、すっきりしててよかったと思う。・・・もっとも、緊張感は少し薄れたかな。でも、その分舞台を身近に感じたし、テーマも生々しく感じられて、すごく面白かった。
 あの舞台のテーマは、純粋な水の精が不純な人間界に来て、純粋を受け入れきれない不純なる世界との間に、いろんなドラマが起こるっていう、まあ、そういう話なんですけど。
 水の精のオンディーヌは、人間の騎士ハンスに恋をして、二人は結ばれるわけですが、ハンスは騎士ですから、騎士夫人として宮廷に迎え入れられるわけです。だけど、純粋であるがゆえにいろいろ騒動が起こるんですよね。たとえばオンディーヌはお愛想なんて、絶対言えないわけですよ。で、宮廷の教育係の人からね、「騎士夫人としての礼儀を勉強してもらいたい。中でも王様の前に出るときには、さまざまな決まりがある」とか、いろいろ教育を受けるんです。「特に、王様の鼻のイボについては、絶対にそれについて話しちゃいけません」 って言うのにね、オンディーヌ、王様の前に出ると、「まあ! なんてきれいなイボ!」って。(笑) 「海の深いところにいるカメのイボみたい!」って、まあ、これじゃあね、なかなか、この不純な人間界を生きていくのは大変。・・・まっ、もっともね、王様はこのオンディーヌのことを、「面白い娘だ」ってね、気に入っちゃったりもするんですけど。

 さて、純粋な水の精と、不純な人間界の緊張関係、これはもう、言うまでもなく、誰の中にもある、わが心の内なる純粋さと不純さの話ですよね。
 人は本来神の子として純粋な存在であるはずなのに、不純なこの世の中で生まれ育って、すべての人が程度はともかく不純なわけです。純粋な愛に憧れながらも、保身と利己主義という不純さを抱えている。これはもう、すべての人がそうです。
 ・・・そんな中、心の問題で苦しむ人って、結局は自分の不純さに苦しんでるんですね。「私は汚れている」「私には意味がない」「私なんかいないほうがいい」・・・。
 しかしですね、この世においては最初っからですよ、最初っから(・ ・ ・ ・ ・)、どのみち私たちは不純な者なんですね。良いも悪いもない、単純に事実としてそうです。だから、私は不純だ、みんなも不純だという事実を、100パーセント、何の掛け値もなしに受け入れるところから始めるべきじゃないですか。そうできたら、とっても楽だし、気持ちいいんじゃないかなと思うんですよ。
 「私は不純」
 それが事実。・・・そういう意味では「不純」なんていう言い方が、そもそもおかしいのかもね。完全に純粋な人なんかいないんだから。単純に「これが私」ってことですよ。事実として汚れているし、悪いこともするし、誰も知らないところではずるいこともするし、さまざまなことで人に迷惑をかけ、それがために叱られたり責められたり、もういろいろありますけど、それが私。・・・それが何か? 誰に何を言われようとも、これが「私」です。他の私はいません。…それが何か?
 ところがですね、そんな不純な私に、純粋なるものが流れ込んでくるんですね。そして、純粋なるものへの憧れが生まれる。やはり人間には、どうしても必要なものなんですよ、純粋って。
 で、この「純粋なるもの」っていうのは、不純な私たち自身は生み出せないんですよ。ビタミンCみたいにね。あれは人間の体内では作れないから、外から取らなきゃならないでしょう? 真の純粋は、外から流れ込んでくるもの。
 だって、真の「純粋さ」っていうのは、それはもう神のみが純粋なんだから、キリストだけが純粋なんだから、まさにその「聖なる純粋さ」を、私たちは取り入れなきゃならないんですよ。出発点としては、不純で結構。わざわざ責めるようなことじゃない。でもそこに、「純粋さ」がやってくる。
 リフレッシュとかいうならば、まずは私の中に、この純粋さが流れ込んでくることでしょう。
 「こんなに汚れた私だけれど、なんと、純粋なるものが、この私に流れ込んでくる。ああ、ありがたい。ああ、うれしい。ああ、安心だ」・・・これが私、真の「リフレッシュ」だと思うんですよね。
 まず、基本、「私は不純だ」と、ここから始めてください。信仰宣言(※3)の最初に、毎回言ってもいいくらいですよ。「天地の創造主、私は不純です」。(笑) まあ、もっとも、回心の祈り(※4)なんか、そうですよね。「罪深い私のために、神に祈ってください」「私は思い、言葉、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」・・・。「来週こそ犯すまい」って思ったって、翌週もまた「犯しました」って言うわけでしょ、毎週。
 モラルの話じゃない。事実の話。当たり前の話です。不純ベースなんです。もう、それが私。ただ、そんな私のうちに、純粋なるものが流れ込んで来る・・・。
 純粋なオンディーヌがね、不純なる人間の世界に来ると、初めはみんな戸惑うんですけど、でもみんなその価値、その清らかさに()かれたりもするんですね。王様のお妃さまなんかは、オンディーヌと語り合った末に、すっかりオンディーヌを気に入って、当惑しながらも感動するんですね。「人間は透明なものを恐れるのよ」って。
 だけど、私たちは、イエスの透明さ、福音の純粋さ、神の愛の汚れのなさに感動し、カケラでもいいからそれが欲しいと憧れて洗礼を受けたわけでしょう。これほどに不純だけれども、だからこそ、それほどの純粋さを迎え入れたときの喜び、感動、安心、癒やし、それはもう、かけがえのないこと。ミサなんて、本当に純粋な世界です。どんどんもらってくださいね、神の純粋さを。

 今日の、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝」(cf.ヨハネ15:5)っていう話(※5)は、まあ、そういうことだろうと思いますよ。
 私たちはみんな枝なわけですけど、枝はそれ自体では生きていけないんですね、幹につながっていないと。それこそ、純粋なる水が入ってこないんです。
 「木」っていうのは、浸透圧だかなんだかで、純粋な水と養分しか吸い込まないんですよね。不純な砂とか泥とかは、根がシャットアウトする。そうして、木の中に、純粋な水が音立てて、トクトクと流れていて、それが枝に及んで、ぶどうの実が実るわけですよね。だから、ぶどうの実の中には、純粋な水がいっぱい、みずみずしく含まれている。
 あの実は、ぶどうの枝が作り出したんじゃない。幹から流れてきた水が作ったもんです。その水がなければ育たないし、味も生まれない。この私たちは、生きていくことすらできない。
 私たちが生かされているということ、キリストと出会えたという事実は、こんな不純な私だけども、純粋な神さまの恵みがちゃんと来てること、そのものなんです。もう、こんな話を聴いてる今も、純粋なる命の水が私のうちに流れ込んできている。トクトクトク・・・と音を立てて。私の中に、神の愛が流れ込んできている。それを知ったとき、「ああ、不純な私でも、まったくだいじょうぶなんだ」「不純な私だからこそ、神さまがこうして純粋なる水を送ってくださってるんだ」という、大きな安心が生まれます。

 先週お話した(※6)、入門講座に来た方の話がありましたでしょう。
 「私は母親から、『あんたなんか生まれてこない方がよかったのよ』って言われて傷ついて苦しんできた」っていう方に、私が、「ホントの親は神さまなんだし、神さまは、『あなたを生んでよかった。あなたこそが、わたしの子どもだ。愛してるんだ』って言ってくださってるんだから、この世の親の仮の言葉、不完全な言葉よりもまず、真の親のね、言葉を聴いてほしい」ってね、話をした。
 まあ、今日の流れで言うなら、「不純な言葉ではなく、イエスから流れ来る純粋な言葉を聴け」ってことになるんでしょうが、その彼女ね、先週、その説教を聴いてたんですね。で、昨日、私に、「すごくうれしかった」って、お礼を言ってくださいました。
 実は私、・・・まあ、事実とはいえ、お母さまのことを悪者みたいに話したりしたわけで、ちょっと申し訳ない気持ちがありましたから、本人が喜んでくれてるので安心しました。「ありがとうございます! 私の話が『福音の村』に載るなんて!」って(笑)。まあ、実名は出ないわけだし、似た話は多いから一つの例としてお話ししても問題ないとは思うんですけど、全国、全世界に流れるわけですから、気は使います。でも、「もう、ホントに記念になりました! うれしくて、うれしくて・・・」って(笑)言ってたから、まあよかったかなと。
 こういう前置きをするのはね、今日、このミサに出ている、私の大切な友人の話をしたいって思っているからなんですけど。
 あなたが「みんなに話してくれてもいいよ」って言うからお話するんですけど、教会の近くの精神科の専門病院に入院している私の若い友人が、このミサに来ております。このミサに。
 友人と言っても、つい最近友人になったばかりですけど、私、あなたがこうしてミサに来てくれることは、ホントにうれしい。
 っていうのは、以前から、私はあの病院を知っておりましたし、こんな近くに大きな精神科の病院があるのに、そこの入院患者さんとこの教会のつながりがないのはおかしい、とってももったいないことだって思っていたからです。だって、そこに入院している多くの方は、それこそ、「自分は汚れている」「自分は無意味だ」って思って苦しんでるから。
 だいたい、心の病になる方は、
 「自分は汚れている」
 「自分なんかは救われない」
 「自分なんかは愛されるはずがない」
 「こんな自分は生きてちゃいけないんだ」・・・そんなふうに思ってる人が多い。
 でも、考えてみたら、私たちもまた、病的とまでは言わないまでも、みんなちょっとはそういうふうに思ってるんですよ。
 「こんな不純な自分はイヤだ。もっと純粋な存在でありたい」
 ・・・みんなそう思ってる。ちっとも純粋じゃない自分っていうものを、だから、実はみんな嫌いなんですね。人はみんな、自分が嫌いなんだと思う。そんな中、特に悪い環境で生きてきた人たちが、自分を嫌いになりすぎて、自分を責め過ぎて、病んでいく。
 そんなふうに苦しんでいる人たちが、すぐ近くの病院に大勢いて、で、すぐ下の教会では、「そんなあなたを、神は愛している」「そんなあなたに、純粋なる愛が注がれてるんだ」っていう福音が語られてるわけだから、「それこそ、ぶどうの木のように、教会と病院、つながってほしいなあ・・・」って思ってたんですね。
 そうしたら、なんと先月、当教会の青年会のメンバーがひとり、その病院に入院したんですよ。もう2年間うつで苦しんでるんですけど、だいぶ良くなってきたところでちょっと頑張りすぎて、疲れ果てて、本人が「苦しいから、入院して休みたい」っていうことで、1週間ほど入院した。近くですから、私も毎日面会に行きましたけど、閉鎖病棟しかないので、カギを開けてもらって入る所です。少しは休めたらしく、退院してからは、「この谷を越えたら、元気になれるんじゃないか」っていうところまで回復してきてます。
 で、この彼が、なんだか病院ではえらく人気者でですね、(笑) 友達なんかいっぱいつくっちゃって、面会に行くと紹介されるんですよ。今日来ているのは、その一人です。彼が、教会に招待したんですね。こうなると、病院に潜入したスパイみたいなもんですよ。(笑) 私が面会に行くと、「いい友だちができた、紹介するね」って言ってね、「これがお世話になってる神父さん。すぐ近くなんだ、今度、君もおいでよ」ってやるわけです。
 で、スパイに連れられて教会に来て、実は私、彼ともう何度か会いました。外出許可とって来てくれるんです。で、これがまた、いいやつなんですよ。・・・目の前にいるのにね、言うのは照れくさいですけど、(笑) ホントに、気が合うというか、・・・いいやつなんですよ。でも、うつでね、苦しんでる。もっとも、彼ももうすぐ退院できそうですけど。
 ちなみに、精神科の病院に入院中だとか、心の病の病名とかを、こういうところで言うのはどうかと思うかもしれませんけど、私は、それが普通に言える教会っていうのを、ぜひ目指したい。「私、胃潰瘍(いかいよう)になったので、どこそこの病院に入院しました」って、普通に言いあうでしょ。ところが、心の病の話になると、世の中には、差別、偏見、いろいろある。けれども、脳の病気、本当に苦しいです。そして、ちゃんと治ります。いい環境があれば余計に。
 だから、この教会ではね、普通にそういう話をしますし、そのような心の病で苦しんでいる人のために、ここではいろんな集まりもしていますし、ぜひ、近くのその病院からも誰かをお招きしたいと常々思っておりましたので、入院してる人が来てくれて、ホントにうれしかったんです。

 そんな君から、先週いろいろな話を聞いて、とっても感動したあの話はね、ここでどうしてもお話しておきたい。
 彼がね、子どものころ、ご両親がさまざまな問題を抱えていて、なかなか大変な暮らしをしていたわけですが、おうちでご飯を食べられないことが多かったんですって。そんなときに、すぐ近くに住んでいたカトリック信者のおばあちゃんが、不憫(ふびん)に思ってしょっちゅうご飯を食べさせてくれたんですって。・・・だから、そもそもカトリックとはご縁があるんですよね。
 実はそのおばあちゃん、息子さんを亡くして、身寄りもなく独り暮らしだったんですね。だから、彼のことを、わが子みたいに思ったんじゃないですか? だからこそご飯食べさせたわけですし、それどころか、彼が中学生になってから、学校に行けなくなったのを見かねて、お金を出して塾に通わせて、中学を卒業させたんですって。おかげで彼は高校に入ることができた。まあ、ホントに恩人ですよ。・・・いや、このカトリックのおばあちゃん、偉いですよね。
 このおばあちゃんは、もう亡くなったそうですけれど、その後、彼はうつになって、すごく苦しみました。それで入院してるわけですが、もっとも、もうだいぶよくなって、「もうすぐ退院」っていうところまできたんですよね。今日は外出許可を取って、このミサに来てくれました。
 そこで、私はあなたに、どうしても言いたいことがある。あなたは、うつで苦しむ中、死にたくなることもあるし、実際に死のうとしたこともあるわけだけど、ホントに苦しくって、「こんな自分は生きててもしょうがない」なんて思うとき、思い出してほしいんです、そのおばあちゃんのこと。実はね、おばあちゃん、生きてるんですよ。おばあちゃん、死んでないんですよ。
 「みんな、死を越えて、永遠の命を生きてる」、これが、カトリック教会の信仰です。
 ・・・おばあちゃん、今も「生きてます」。生きていた時以上に、あなたのことを愛して、見守って、そして、ちゃんと救ってくれます。間違いなく。
 ミサの時間は、天と地がつながってるときですから、ここにおばあちゃんいますよ。そして、ミサに出ているあなたを、今、どれだけ喜んでるか。そして、もしもあなたが、「もう、こんな自分は嫌いだ。こんな汚れた自分なんか、いない方がいい」なんて思うとしたら、どれだけ、おばあちゃん、悲しむか。
 それを思ったら、もうそれこそ、このミサで、神さまがあなたに、おばあちゃんを通して、イエスさまを通して、流し込んでくれている純粋な神の愛を、ちゃんと受け止めてください。それをいっぱいもらって、元気になってください。もうすぐ退院するわけだし、そうしたら、毎週、来てください。5連休以上のリフレッシュがありますから、ぜひ来てください。
 ・・・「来てください」っていうか、実は彼、この前来た時に、「来年、洗礼を受けたい」って言ってくれたんです、先週。先週、教会に泊まったんですね。「もう門限で帰んなきゃなんない。4時までに病院に帰んなきゃなんない」って言うから、「もっとお話ししよう。外泊許可もらえばいい」ってことで、外泊許可をもらって、泊まったんです。それでいっぱいお話をして、そのときに「来年、洗礼を受けたい」って言ってくれた。
 ホントにうれしかったですよ。でも、一番喜んでいるのは、間違いなくおばあちゃんです。
 洗礼を受けたら、イエスさまとしっかりつながってください。それこそ、「純粋なるもの」が、いくらでも入ってきますよ。あなたがどれだけ不純でも構わないんです。むしろ不純な方が入ってくる。
 第2朗読(※7)にあったように、「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(一ヨハネ3:20)・・・そう書いてあるでしょ?
 「心に責められることがあっても、神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだ」(cf.一ヨハネ3:20)
 私たちが汚れているなんていうことは、神さまは、先刻、万斛(ばんこく)承知なんです。ぜ~んぶ知ったうえで、純粋なるものを、い~っぱい注いでくださいます。洗礼のとき、あなたには、いつもの倍くらい水をかけてあげますから、(笑) 来年の洗礼式、楽しみにしてください。
 あなたはもうね、天国のおばあちゃんの祈りによって守られていますし、素晴らしい働きを、これからしますよ。現に、今座ってる席のお隣は、病院のお友だちですね。
 「こんにちは、初めまして ^^」
 あなたが今日、入院中の友達を連れて来るって先に聞いていたんで、お隣の方が、来られることは知っていたし、待っていたんですよ。あなたも、安心して、ここにまたいらしてくださいね。この教会は、神さまがお集めになっている教会ですから、あなたも病院に帰ったら、どんどん宣伝して、(笑) さらに別の友達も連れて来ていただければ。
 あなたもスパイに任命したい。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:『オンディーヌ』
◎『オンディーヌ』(Ondine)
 フランスの劇作家、ジャン・ジロドゥ作の戯曲。1939年、パリのアテネ座初演。
 水の妖精オンディーヌと、人間の騎士ハンスとの愛を描いた悲恋物語。全3幕。
 劇団四季では、創立以来、約500回も上演されてきた。
 劇団四季の創立者のひとりであり、60年以上、ほぼ全ての作品の演出を担当してきた浅利慶太氏が昨年(2014年)劇団のトップを退き、「浅利演出事務所」を設立。今年、その第一弾の公演として選ばれたのが、この『オンディーヌ』。劇団四季は、自由劇場を提供し、協力している。
 浅利氏は、若い世代の観客を考え、台本を大幅に削り、3時間を超える上演時間を、休憩2回を入れて2時間40分にまで短縮。四季のときは、大がかりなセットが用いられていたが、かなりシンプルに改められた。
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【参考】
浅利慶太 演出『オンディーヌ』 (オフィシャルホームページ)
・ 「【更新】浅利慶太プロデュース公演・第一弾『オンディーヌ』 いよいよ発売開始!」(劇団四季)
・ 『オンディーヌ・ダイアリー』(アメブロ「浅利慶太プロデュース」)
・ 「浅利慶太演出『オンディーヌ』開幕レポート!」(AllAbout 「おすすめ舞台・公演」)
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【あらすじ:〔注〕ネタバレ
 オンディーヌは水の妖精。永遠に15歳の姿のまま。湖畔に住む漁師夫妻と共に暮らしていた。
 ある日、オンディーヌは騎士ハンスと出会い、二人は愛し合うようになる。
 しかし、水界には厳しいおきてがあり、オンディーヌは、水界の王と、ある約束をさせられるのだった。それは、「人間を愛し、結ばれても、もし相手が他の女性に心変わりしたら、その男の命は失われ、同時に、オンディーヌの記憶からも消されてしまう」というもの。
 それでもオンディーヌは、彼と結婚し、共に宮廷で暮らすようになる。ただ、純粋なゆえに、自由奔放で無邪気な彼女は、宮廷では不作法でしかなく、次第にハンスは昔の婚約者ベルタに気持ちが移っていく。
 オンディーヌは、ハンスの心を知っても、水界の掟よって、彼を死なせたくない一心から、自分がハンスを裏切ったように見せかけて姿を消す。
 半年の後、ハンスとベルタの結婚式のその日、オンディーヌは捕らえられ、夫を裏切ったかどで裁判にかけられる。オンディーヌは自分が裏切ったと主張するが、純粋な彼女は、最後まで嘘はつけない。オンディーヌを裏切ったハンスは命を奪われ、その傍らには記憶を失ったオンディーヌが。
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※2:「浅利慶太」
◎浅利慶太 (1933年3月16日-)
 演出家、実業家。1953年、創立者の一人として劇団四季を結成。70年代から海外ミュージカルの翻訳上演をスタートさせ、83年「キャッツ」初演のロングラン公演を成功させた。
 劇団の運営・管理に当たる四季株式会社の代表取締役社長・会長・芸術総監督をつとめたが、昨年(2014年)6月、81歳で社長を退任。「浅利演出事務所」を設立し、劇団四季とは別に、一人の舞台人として、独自の演劇活動を開始した。
(参考)
・ 「浅利慶太」(ウィキペディア)
・ 「劇団四季の浅利慶太氏が81歳社長退任」(日刊スポーツ〈2014年6月26日〉記事) ほか
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※3:「信仰宣言」(既出:詳細〈参照※12〉他)
 使徒の時代から、教会は固有の信仰箇条をまとめ、基準となる一定の言葉で表明し、伝えてきた。信徒が宣言する、このまとめを、「信仰宣言」(クレド)と呼んでいる。
 「信仰宣言」は、すべての主日と祭日に、ミサ中、説教の後、「洗礼式の信仰宣言」「使徒信条(しとしんじょう)」「ニケア・コンスタンチノープル信条」の、いずれかの形式で唱えられている。
 以下は、「使徒信条」。

***「使徒信条」***

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、
陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠のいのちを信じます。アーメン。

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※4:「回心の祈り」
 カトリックのミサは、1.開祭 2.ことばの典礼 3.感謝の典礼 4.閉祭 の順に進められる。
 ミサの導入部に当たる「1.開祭」はさらに、①入祭の歌、②あいさつ、
回心への招きと祈り、④あわれみの賛歌、⑤栄光の賛歌、⑥集会祈願から成る。
 ①~③までの流れを簡単に説明すると以下のとおり。
①入祭の歌: 司祭や助祭、奉仕者が入祭の歌、あるいは、入祭唱の朗唱と共に聖堂に入堂し、祭壇に表敬した後、司祭は会衆と共に十字架のしるしをし、
②あいさつ:その後、あいさつをして、主の現存を示す。このあいさつと、会衆の応答は、共に集まった教会の神秘を表す。
回心への招きと祈り:その後、司祭は、会衆を回心に招き、「回心の祈り」を勧める。
 会衆は、しばらく沈黙のうちに内省し、共に、共通の形式をもって、「回心の祈り」を唱える。(以下はもっとも多く使われている第一形式の「回心の祈り」)

***「回心の祈り」(第一形式)***

司祭: 全能の神と、
会衆: 兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。

 そして、司祭は罪のゆるしを宣言する。(しかし、ゆるしの秘跡の効果を持つものではない)
(参考)
・ 2006年『ともにささげるミサ-ミサ式次第 会衆用-改訂版』オリエンス宗教研究所
・ 「ミサについて」(カトリック東京大司教区>ようこそカトリック教会へ)
・ 「ミサの式次第-開祭の儀」(ウィキペディア)など
・ 2004年カトリック中央協議会「ローマ・ミサ典礼書の総則<暫定版>(PDFファイル)」p21 「回心の祈り」など
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※5:「今日の、『わたしはぶどうの木、あなたがたは枝』(cf.ヨハネ15:5)っていう話」
本日、2015年5月3日〈復活節第5主日〉の福音朗読箇所は、以下のとおり。
 ヨハネによる福音書 15章1~8節
  〈小見出し:「イエスはまことのぶどうの木」(1~17節)からの抜粋〉
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※6:「先週お話した・・・」
先週の説教「あそこに行けばピタリと治る」(「福音の村」2015年4月26日)の後半、下から3段落目をお読みください。
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※7:「第2朗読」
本日、2015年5月3日〈復活節第5主日〉の第2朗読箇所は、以下のとおり。
 ヨハネの手紙一 3章18~24節
  〈小見出し:「互いに愛し合いなさい」(3章18節)、「神への信頼」(3章19~24節)〉。
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2015年5月3日 (日) 録音/2015年5月10日掲載
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