ずっと一緒にいようね

2013年6月23日 年間第12主日
・ 第1朗読:ゼカリヤの預言(ゼカリヤ12・10-11、13・1)
・ 第二朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ3・26-29)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ9・18-24)

【晴佐久神父様 説教】

 今日も、福音を語りましょう。皆さん、福音を必要としていますから。
 ひとりで悩んでいてはいけません。こんな素晴らしい仲間がいっぱいいるんだから。週に一度はミサにやって来て、こうして祈り合って、共に豊かな恵みをいただきます。

 さっき、ミサの前に「どうしてご聖体をいただかなきゃならないの?」って質問した子どもがいましたが、いっぱいお勉強して、ついこの前初聖体を受けたばっかりだというのに、もう迷いが生じている。(笑)・・・教えて差し上げましょう。
 君のお母さんは、毎日ちゃんとご飯を作って食べさせてくれるでしょ? 君のことを愛しているからです。神さまも、おんなじ。神さまがいつも最高のご飯を、元気のもとを、神さまの愛そのものを、ご聖体として「さあ、ご飯よ〜♪」って与えてくださるんだから、子どもたちはみんな「は〜い♪」と言って集まって、食卓に着くんです。
 毎週一度の、神さまのご飯、食べそこなったら、おなかすきますよ。しっかり食べて、元気になって、神さまの愛の中で、「本当にぼくは愛されている! 幸せだ! みんな一緒だ! 神さまとつながっているから、みんな家族だ!」っていう気持ちで、また一週間過ごします。
 来週も食べに来てくださいよ。迷わず、食べに来てください。
 それでいうなら大人だってね、「今日、なんでミサに行かなきゃならないのかなあ」なんて思うことがチラリとあるかもしれない。でも、こうして、来てみればわかるでしょ? これはまさに、神さまが集めたんです。みんな愛されてます。家族なんです。ひとりで悩んでいてはいけません。悩みっていうものは、すべて個人的なんです、実はね。
 神さまはちゃんとそれがわかっているから、こうして集めて、キリストにおいてひとつにしてくださいます。私たちは一緒にいなくてはなりません。

 昨日、「日本カトリック映画賞」の授賞式兼上映会があって、「(とな)る人」(※1)っていう素晴らしい映画に賞を差し上げました。授賞式で、私が顧問司祭として授賞理由を述べ、それから上映会があり、その後で、監督さんと、その映画の舞台となった児童養護施設の当時の施設長さんと、私との3人で鼎談(ていだん)をしました。
 「SIGNIS JAPAN(シグニス ジャパン)」(※2)という小さなチームですから、バタバタしたイベントでしたけども。
 そもそも、表彰状がなかったんですよ。「あ、忘れて来た〜!」って。(笑)「ああ、もうどうしよ〜?」ってことで、何も渡さないわけにいかないから、直前にコピー用紙もらってきて、マジックで「表彰状」って書いた。「裏に、にじむねえ」(笑)とか言いながら。
 いよいよブーッてブザーが鳴って、さあ始まるっていう15秒前に、ようやく舞台袖に、届いたんです。表彰状が。「間に合った〜!!」って汗かきかき。(笑)
 まあ、でもいい集まりで、監督さんも、その元施設長さんも喜んでくれました。

 映画で扱われているのは、埼玉県の加須市(かぞし)っていう所にある「光の子どもの家」(※3)というキリスト教系児童養護施設です。
 ほとんど虐待にあった子どもたちで、親とは一緒に暮らせない子どもたちの施設です。
 ただですねえ、普通の施設だったら、職員が次々交代するわけですけれど、ここは、子どもをこそ中心にしよう、みんな家族だという考え方なので、職員が数名の子どもと一緒に暮らすんです。(泣いている赤ちゃんを連れて聖堂を出て行こうとするお母さんに)あっ、子ども連れて出てかなくていいですよ〜。ご心配なく。うちの教会は、ミサ中に子どもが泣こうがわめこうが叫ぼうが(笑)、みんな家族なんだから、赤ちゃんもいて当然だよっていう方針ですから。
 まさにこの、「家族だから当然だ」っていう感覚、この施設もまったくそうなんです。そして、だからこそ子どもが育つ。赤ちゃんが泣いたからと言って、「うるさい、出てけっ!」っていう親がいたら、そんなの家族じゃない。
 この施設は、たとえば三交代の職員なんていうんじゃ、子どもたちのためにならないっていうんで、「責任担当制」っていって、担当の職員が、ず〜っと数名の子どもを担当するんです。親代わりというか、ときに親以上。施設自体も、敷地内に一軒一軒の家みたいな造りで、まあ、廊下で繋がってるんですけど、数名ずつ分かれてそこで暮らしていて、職員が一緒に寝てるんですよ。すごいでしょ? なかなか大変だと思うんだけれど、そこの施設長さんが、「家族なんだから当然だろう」と。
 「自分がこの施設を始めた頃は、多くの施設が、利用者でもうけている商売みたいな感じになってた。そうじゃないはずだ。一番の中心は、子どもたち。子どもたちにとって一番よい環境をつくるためにこそ、私たち職員がいる。施設長や職員が威張っているような施設は、もはや『家』じゃない」
 そんなビジョンで、素晴らしい施設を作り上げてきた。
 そんな施設に感動したこの監督さんが、この施設に通い詰め、時には一緒に泊まり込んだりしながら、8年かけて撮り上げた、そういう作品です。
 「隣る人」っていうタイトル、これはこの施設長さんの造語です。
 「隣人になりなさい」っていうイエスさまの教えのままに、「『隣る人』になろう」と。平たく言うと、「いつも一緒に、隣りにいる人になろう」と、それを実践している施設。
 職員たちもそのことをもう、叩き込まれているというか、誇りに思っているというか、一人ひとりの子どもとずっと一緒にいて、その子どもの気持ちに寄り添って、時間をかけて、育ててるんですよ。
 ひとりの職員なんかは、自分が担当した子どもが大きくなって、留学したいって夢を持ったとき、自分でお金出してるんですよ、留学の費用。これ、親以上じゃないですか、もう。「あんたなんか、どうせ続かないんだから、やめときなさい!」とか言ってね、反対したりする親もいるわけでしょ?

 私、この映画観て、すごくこの施設に感動した。これって、ぼくが憧れてやまない教会のあり方みたいだなって。私たち多摩教会でも、いつも「家族になろうよ」って、呼び掛けてまいりましたし、私たちはキリストの家族であるっていうことを誇りに思う教会として、成長してるところですよね。
 実際、先週の納骨式なんか、身寄りのないお二人を「教会の家族だから当然でしょう」って、教会として納骨したわけでしょ。二人とも孤独死でしたし、死後の発見でしたし、身寄りがなかった。だから、「私たちが家族だから」と、私たちが葬儀ミサを出し、私たちがお骨を預かって、このたび、私たちの教会墓地に納骨したんです。墓地までバスを仕立てて、教会から30人で行って、みんなで納骨式をしました。
 それぞれのお友達も来てくださったんですけど、私たち教会が遺族ですから、私たちが接待するわけです。納骨の後、式にいらした方に、お弁当を出してお振る舞いしたんですよ。墓地の教会のホールでね。
 それは、変わったこととか、珍しいことではないはず。「私たち家族だから当然でしょ」っていう、そのセンスがあるかないかです。神様が結んでくれたんだから、私たちは一緒にいる。「お店の人がお客さんをもてなす」みたいなよそよそしい関係じゃなくって、「お母さんがうちの子にご飯を出す」みたいな、当たり前の関係です。そこには条件なんかないし、取引の関係も別にない。でも、最高のつながりがそこにある。・・・互いに「隣る人」となっている家族。

 児童養護施設でもそんなことが可能だっていうのは、まあ、この施設長さん、もちろんクリスチャンだからでもあるんですけどね。素晴らしい施設で子どもたちが本当に笑顔でいる様子を見て、励まされるし、私は羨ましいなあというか、ちょっと・・・嫉妬?・・・(笑)を感じてですね、もっともっと、私たち教会こそが、こうなっていこうよと。
 み〜んな独りぼっちで悩んでいるじゃないですか。こうして日曜日集まってきても、実は一人ひとり、心の中に悩みや不安を抱えてるわけでしょ。でも「家族」なんだから、もっともっと、お互いに察し合って、その思いを聴き合って、本当に神さまが結んでくれたっていう喜びをね、分かち合う。・・・憧れますよ、そういう「家族」に。

 二週間前に入門講座に来たひとりの青年がいるんですけど、母親を亡くしてから、精神的に不安定になり、病院に通院して安定剤を飲んでいるんですね。で、お薬が少しずつ増えていて、それが不安だと。
 聞けば、お医者さんに心の苦しみを訴えても、話をちゃんと聞いてくれないし、「やっぱりお母さんを亡くしたつらさから抜け出せません」って言うたびに、お医者さんは「それじゃあ、お薬強くしましょうね」って言うんですって。それでもう、家の中でもフラフラで、冷蔵庫につかまらないと立てないとか。
 私、薬の専門家じゃないから簡単には言えないけど、なんか変だな〜って。私だって母を亡くしたとき、結構落ち込みましたし、だれだって苦しいですよね。だからこそ、私たちは福音を信じて、秘跡と祈りに支えられて、乗り越えてきたわけでしょう。
 ですから私は、その彼にね、「薬も大事だけど、まず福音を聴いてくれ」と言いました。「福音をいっぱい聴いて、教会の仲間と仲良くなって、少しずつ癒やされていけば、きっとお薬も減っていくから、信じてここに通って、福音を聴き続けてください」って。
 すると彼が「病気でも洗礼を受けられますか?」って聞くんですよ。ヘンなこと聞くなと思って「もちろんです」って言ったら、ホントにもう、泣かんばかりに喜んで、「実は、教会をいくつか回ってきたんですけど、『今、精神病院に通ってます、お薬飲んでいます』って言うと、どこでも『それじゃあ、洗礼は無理です。今は不安定で、正しい判断や勉強ができないから、治ってからにしましょう』って言われたんです」。
 これ、考えられます? ビックリでしょ? 洗礼は、神から授かるものですよね。救いのしるしとして。むしろ、病気の人ほど必要なんじゃないですか。そもそも正しい判断って、何ですか。「治った」ってだれが判断するんですか。
 私は「神の愛を信じて、洗礼を受けましょう。この教会は、あなたのための教会です。洗礼を受けて、安心して、神さまとちゃんとつながっていたら、気持ちも明るくなるし、病気だって、きっと良くなりますよ」って言ったら、彼、ほんとに喜びましたよ。
 私たち、神が結んだ「家族」なんです。「病気が治ったら家族になりましょう」なんて変でしょ? 病気のときほど、いっそう家族になるべきじゃないですか? 病気の家族ほど、いっそう看病するんじゃないですか? 洗礼って、そういう家族になること。信仰って、そういう家族のつながりの中でこそ育つもの。
 彼、おとといの入門講座、二回目ですけど、来て、言うんですよ。「神父さま、よくなってきました!」(笑)だから「じゃあ、少しお薬減らしてみたらどうですか?」って言ったら、「実はもう、少し減らして、様子をみてるところです」って。そしてこう言った。
 「もう、この金曜日が、待ち遠しくて、待ち遠しくて、たまらなかった」。
 こっちが泣きそうでしたよ。皆さんね、そんなふうになかなか言ってくれないじゃないですか。(笑)だから「とってもうれしいよ。なかなかそういう言葉聞けないから」って言ったら、別の女の子が、「私も、いつもそう思ってます!」って。(笑)
 「教会に来るのが待ち遠しくて、待ち遠しくて、たまらなかった」。・・・うれしいねえ。
 それが「家族」でしょ。家に帰るのが待ち遠しい。つら〜い現実の中で、家族のみんなに会って、親の愛に包まれて、本当にくつろいで、ホッとして、どんな自分でもだいじょうぶだって思えるとき。

 「隣る人」の施設長さんが、いつも言うことがあるんですよ。
 「よく、血は水よりも濃しっていうけど、私は、血よりも濃い水があると信じている」
 カッコイイね。・・・「血よりも濃い水」。
 そうですよ。血縁なんてね、ひとつの「文化」だし、よく調べたらDNAが違いましたなんて話だってあるし。血縁幻想みたいなのって、結構強烈にあるんじゃないですか? 血がつながってるから、ああしなきゃならないとか、こうでなきゃならないとか。そういうのを越えて、神が結んだ家族だからっていうことでつながる、「血よりも濃い水」。
 この「血よりも濃い水」って、まさに洗礼の水ですよね。
 洗礼の水によって、私たちはキリストの家族になった。もう、血縁を超えたんです。血縁の家族も素晴らしいけど、教会はその血縁の家族よりも格下で、血縁を補完する場所なんかじゃない。むしろ、血縁を超えて、もっと素晴らしい「血よりも濃い水」で結ばれた仲間。それを信じたとき、血で苦しんでいる人は、救われるんですよ。
 血縁はすべてじゃない。完全でもない。絶対でもない。しかし、洗礼による恵みは、完全で、絶対で、永遠です。

 なんか、「隣る人」の施設もね、そういう香りがするんです。「家族で苦しんでる子どもたちのために、疑似家族をつくりました」っていうんじゃなくって、むしろ、普通の家庭以上の家庭を目指している。「隣る人」という愛情によって、本当のつながりを持ち、生きる力を、喜びを、生み出していく。・・・それこそが、実は「教会」じゃないですかねえ。
 教会の喜びって、そういうところにあるべきでしょう。だからこそ、私たち、ここに週に一度集まって来るんじゃないですか?
 昨夜のミサにも、今年洗礼を受けた、精神的に不安定な青年が来てましたけど、最近またつらくって苦しい中、ミサに来てくれました。ミサの後で話を聞いて、励ましましたけど、後で友人にメールしたそうです。
 「ミサに出たら元気になったよ。ミサってスゴイかも」
 そりゃそうでしょう。ミサにおいてはみんな、お互いに「隣る人」だから、「一緒にいようよ」って言っている仲間だから、何よりもイエスさまとつながっている家族なんだから、何があったって、神様が結んでくださってるからだいじょうぶなんです。

 「隣る人」の主人公は、「むっちゃん」っていう女の子ですが、親と暮らせずに、とってもつらい思いをしてますし、孤独を抱えているわけです。責任担当制ということで、親代わりというか、親以上をやっているのが、「マリコさん」っていう職員です。このマリコさんが、先ほどの留学費用を出したっていう人なんですけど、そのマリコさんが、いっつもむっちゃんの世話して、かわいがっているわけですけど、映画では最後にお誕生会のシーンがありました。ケーキのろうそく消したりして、スピーチもあって。
 そのスピーチで、施設長さんがむっちゃんに、「むっちゃん、ずっとそばにいるからね」って言うんですよ。・・・「ずっとそばにいるからね」
 続いて、マリコさんがね、スピーチをして、「どんなむっちゃんでも大好き! ず〜っと一緒にいようね」って言うんですよ。
 映画観てください。そのシーン。感動しますよ。
 「どんなむっちゃんでも大好き! ず〜っと一緒にいようね」
 こんな言葉、言われたことあります?
 「ずっとそばにいるよ」
 「どんな神父さまでも大好き!」(大笑)
 「ず〜っと一緒にいようね」(笑)
 こんなうれしい言葉ないじゃないですか。聞いたことありますか?
 恋人同士は言ったりしますけどね。「そばにいるからね」とか、「ずっと一緒だよ」とか、3カ月位の間(笑)。私たちも信じる仲間こそ、言い合うべきですよ。教会家族として。「何があっても、ずっと一緒だよ」って。
 さっき第2朗読でパウロが言ってたのもそういうことでしょう。私たちは、洗礼によって、「ず〜っと一緒」の仲なんだって。
 「私たちは、信仰により、キリストに結ばれて神の子だ」
 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているんだ。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女も、精神病も健康も、関係ない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだ」って。
 これですよ。・・・「洗礼を受けてキリストに結ばれている家族」

 福音書では、ペトロがイエスさまに信仰告白しましたでしょう?
 「あなたがメシア、救い主です」
 この「救い主」って何ですか? 私たちを救う方じゃないですか。孤独で、つらくて、悩んでいる、この私たちを救ってくれる主なんでしょう?
 どうやって救ってくれるんですか? 「薬」ですか? そうじゃない。人間の正しい判断に寄るんですか? それも違う。
 イエスさまが「隣る人」になってくださることによって。一緒にいてくださることで。
 イエスさまが私たちに言ってくださったんです。
 「ず〜っとそばにいるよ」
 「どんなあなたでも愛してるよ。ず〜っと一緒にいようね」
 ・・・それで私たちは救われた。だから「救い主」なんですよ。そんなみ言葉に励まされて、私たちは生きていけるんじゃないですか。
 イエスの別名は、インマヌエル。「神は私たちと共にいる」っていう意味です。
 マタイ福音書のイエスの最後の言葉は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」・・・これが救い主です。
 この救い主とつながっていれば、すべての人ともつながっていられる。


【 参照 】

※1:「隣る人」オフィシャルサイト
「隣る人」 →  http://www.tonaru-hito.com/

※2:SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)オフィシャルサイト
「SIGNIS JAPAN」 →  http://signis-japan.org/

※3:「光の子どもの家」オフィシャルサイト
「 光の子どもの家 」 →  http://goo.gl/HrGIJ


2013年6月23日 (日) 録音/2013年6月26日掲載
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