まだ会っていない大勢の家族

【カトリック上野教会】

2018年3月11日 四旬節第4主日
・ 第1朗読:歴代誌(歴代誌下36・14-16、19-23)
・ 第2朗読:第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ2・4-10)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ3・14-21)

【晴佐久神父様 説教】

 皆さんは、このバラ色の祭服、見たことがありますか? 四旬節の第4主日に着る習わしになっているんですよ。あと、待降節の第3主日ね。どちらも、本来は紫ですから、準備のとき、節制のとき、犠牲を捧げるときを表す色なんですけど、そんな準備の日々に、あんまり自分を責め過ぎたり、犠牲を払い過ぎたりしないように、本来の目的である「喜びに向かう」ということを忘れないようにするために、こうしてバラ色の祭服を着て、「喜びを忘れていませんか?」って示すんですね。・・・ああ、写真撮ってますね、(笑) どうぞ、いいですよ。(笑) きれいでしょう? この色で、喜びを思い出させる。それで、「喜びの主日」とも呼ばれています。(※1)
 私たち誰もが、確かに十字架を背負っています。でも、それは復活に向かっているんです。十字架で終わっちゃうなんて、もう、キリスト教じゃありません。十字架が復活につながっているから、われわれは十字架を背負う。あらゆる試練、困難、それは、やがて復活の栄光をもたらすものだという、その信仰の本質を、この四旬節中も思い起こすんですね。で、明るいバラ色を用いて、復活祭を先取りする。フライング・復活祭みたいな感じ。復活祭の喜びを少~し味わって、希望を新たにする。・・・そういうことです。
 この祭服、聖公会の司教さまが貸してくださっているんです。私、病の方のために、「いやしのミサ」っていうのを市ヶ谷の修道院でやってますでしょ(※2)。ちょうど、去年の待降節第3主日の前の日に、そのいやしのミサがあって、司教さま、そこに来られてたんですね。私、そこで、このバラ色の祭服の話を紹介して、「でも、私はまだ一度も着たことがないんですけどね」って、ふと口走ったんです。
 そしたら、その翌日、朝のミサが始まる前に、その司教さまが自らご自分の祭服を持って来られて、「どうぞ、今日、これをお使いください」って言ってくださったんですよ。私、そういう熱い思いに感動するたちなんで、すごくうれしかった。で、それはすぐにお返ししたんですけど、司教さまがまた先週いらして、「これをどうぞ、四旬節第4主日にお使いください」って貸してくださった。・・・ということで、これを今日着ているわけですが、・・・これ、そろそろ返さなくてもいいんじゃないかな~って、(笑) そんなわけにいきませんね。
 あの司教さま、「喜びの主日」と呼ばれている、この日の大切さ、あるいは、その日に喜びを形にして表して、みんなで希望を新たにする、そういうキリスト教の役割、そういうものを、ホントによく分かっていらっしゃる方なんですね。だから、ぜひ、この神父に、そのような祭服でみんなを励ましてもらいたい、喜びの主日の心を広めたいっていう、そういう熱い思いがおありなんですよ。・・・とてもうれしいことです。
 だから皆さん、このバラ色の祭服を見ただけで希望が新たにされるっていう、そんな気持ちで、このミサを捧げましょう。みんな、いろんな困難を抱えてるわけですけど、「この苦しみは、復活につながってるんだ」って思い出しましょう。それを忘れちゃったら、もうキリスト教じゃない。そして、キリストを知らない大勢の人が苦しんでますから、その人たちにも、このバラ色の希望をお見せしようじゃないですか。それがキリスト教の本質です。

 そんな四旬節第4主日、今年は3.11に当たったんですね。東日本大震災から7年目です。3月11日、私たちには特別な数字です。あの日、どこで何をしていたか、そういう話をしたら、もう、みんなね、必ず覚えていて、話してくれる。
 その後も暗かったですね。放射能が降ってくるんじゃないかとかいうのもありましたしね、まだ何が起きてるのか分からなかったとき。雨に当たっちゃだめだとか、部屋に目張りして換気扇は回すなとか、そんな話もありました。計画停電っていうのもあったしね。この辺はどうだったんですか? 多摩地区は、ありましたよ。ガソリンがないっていうんで、ガソリンスタンドに向かう車の列がずら~っと、多摩教会の前の道路にもできておりました。・・・社会不安、・・・そんな日々でした。
 みんなが不安に思っていたあのとき、「今こそ、キリスト教の真価が問われるとき。本領発揮だ! 今こそ希望を新たにする時だ」っていう、そんな気持ちをすごく強く持ったことを、よ~く覚えています。
 それで、3.11の数日後に原稿を書いて、すぐに教会報に載せて、みんなに配ったんですね。タイトルは、「地は震えても、天は揺るがない」(※3)。地震って、地が(ふる)えるって書くわけですけど、あのとき、地が震えて、心も震えたんです。震えて、希望が失われ、不安が膨らむ。・・・そんな、地が震え、心が震えているときに、でも、天は揺るがない、と。・・・キリスト者の本質は、やっぱりそこですね。
 「何が揺れようと、何が流されようと、われわれは、すべて永遠のいのちに向かっている尊い存在なんだ。神は私たちを愛しておられるんだから、こんな十字架のときこそ、復活への希望と、救われた喜びを新たにしよう」
 あのころ、よく、入門講座や説教で、熱を込めてそんなお話しをしたのを覚えています。
 そして、延々と、行かない所はないというくらい、被災地を回りました。毎月、泊りがけで出掛けてました。で、私はどこに行っても感動した。どこでも、教会が頑張ってるんですよ。どの教会も、ベースキャンプになり、ボランティアがあふれ、神父さんが司祭館の中にみんなを泊めて。キリストの教会って素晴らしいなと、今こそ、ここでこそ、キリスト教の意味が発揮されてるんだなと、よく、そう思った。被災地のある信者さんが言ってました、「震災前は、高齢化が進んでいて、年配の方が数名の教会だったのに、今は若い人たちが大勢来てくれて、教会が生き返ったようです」って。
 私はその後、釜石に縁があって、おもに応援するようになって、今年も12月に、釜石市民クリスマスがあって、私がお話しいたします。ぜひ、みんなで出掛けて行って、せっかくだから地元に泊まって、仮設の商店街とかで、いっぱい買い物してくださいよ。
 どこに行ってもね、キリストの教会の働きを目の当たりにするのは、私はちょっと誇らしかったです。当初は多くのボランティア団体が詰め掛けていたんですけど、やがて、一つ去り、二つ去りしていっても、最後に残っているのが教会なんです。・・・特にカリタスは、ホントに素晴らしい働きをしています。・・・カリタスジャパンね(※4)。地元の人たちからは、「カリタスさん」って呼ばれて親しまれているんですよ、「カリタスさんなら信頼できる」「カリタスさんには協力したい」って。菊地大司教さん、東京の大司教になりましたけれども、カリタスの司教さんでもあるんですよ。あのころ現地でお会いしたこともあります。
 その菊地司教さんですけど、全世界の難民キャンプとか、大きな災害の現場とか、さまざまな現場を回っておられるんですね。先日の司祭集会でも、そのお話をしてくださいました。難民キャンプの、銃弾が頭の上を飛び交うような所で身を伏せて生き延びたとか、そんな話をされるんでびっくりですけど。あるいは、大きな地震の後に、現地に入って救援をしたりするんですね。
 だけど、どこでもおんなじようなことを言われるそうです、「みんな、当初は助けてくれるけど、だんだんと去っていって、そして、そのうち話題にもならなくなって、私たちは世界から忘れられてしまった」と。・・・そう言われるんですって。
 どこの被災地でもおんなじことを言われるんで、司教さまの言い方ですけど、「あっ、また出た!」って。・・・「またその言葉が出た」と。3.11の後も、まったく同じことを現地で言われたそうです、「私たちは、もう忘れ去られしまった」って。
 もちろん、司教さまは、「いいや、私たちは、決して忘れていない」って、そうおっしゃるでしょうし、そのように寄り添っておられるわけですけど、私たちも、忘れていないよってことを実際に形でお見せすることが大事ですし、「それが本当のキリスト者ですよね」みたいに、司祭たちに語り掛けてくださいました。
 そのときに、イザヤ書の49章を引用なさったんです(※5)。皆さんも聞いたことがあるはずですよ。「神は決して忘れない」っていうところですね。イザヤ書の49章、苦難の中でね、みんなが神さまに文句を言うわけですよ。「神さまは、私をもう見捨てられた。私のことを忘れ去られてしまった」って。そうすると、神さまが答えるんですね。
 「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないだろうか。たとえ、女たちが忘れでも、わたしは決してあなたを忘れない。見よ、わたしは自らの手のひらに、あなたを刻みつける」(cf.イザヤ49:15-16)
 美しい預言の書ですね。
 神さまが、私たちのことを「わが子」と呼び、しかも「絶対に忘れないわが子」として、自分の手のひらに刻みつけている、と。たとえ、この世の母親が忘れることがあっても、永遠なる天の親は、絶対に忘れない、と。
 その愛を、イエス・キリストは表してくださったし、そのことをキリストの教会は表すんですね、「あなたたちを忘れないよ、忘れていないよ」と。それが、キリスト教でしょう。つらいときに、「神さま、私を忘れないでくださいね」って言うのは、それは当然なんだけれども、「もう忘れられた」って言う人に、「いいや、神さまは忘れてないよ」って伝えてあげるのが、キリスト教の本質なんです。

 先週、話しましたよね、シンポジウムの話(※6)。仏教と神道とイスラム教とキリスト教のシンポジウムがあったって話をしましたけど、そのときに、仏教の僧侶がですね、教皇フランシスコにお会いしたっていう話を始めたんですよ。・・・うらやましかったです。(笑) 先日、諸宗教の集いに、日本の仏教の代表のような立場で出席した折に、教皇フランシスコに質問をしたんですって。
 「日本では世俗化が極まって、宗教離れが激しい。無神論とか無宗教が当たり前で、宗教の役割なんてもうないとみんな思っている。お寺の檀家も減っているし、神社の氏子も減っているし、教会の信者も減っている。今の時代に、宗教の存在する意味は何なのか」と、そんなようなことを質問したんですね。
 すると、教皇フランシスコが答えたそうです、「宗教の意味は大いにあるけれど、それが伝わらないのは、伝えていないからだ。神父は教会の外に出ていかなければならない。そして人々に、聖書の言葉を使わずに語りかけるべきだ」と、おおよそ、そういうことを、おっしゃったんですって。
 まあ、教皇フランシスコと、そうしてやり取りしたっていうのを聞いて、壇上で、「え~!? 教皇さまとしゃべったんですか? うらやましい!」って、つい口走っちゃいましたけど、ともかく、教皇さまの言いたいことは、はっきりしてます。司祭にせよ、信者にせよ、外に、人々の中に出て行け、と。
 もちろん、聖堂の中でみんな仲良く祈るのもいいですけど、でも、「私たちは、もう忘れ去られた」と思っている人たちが、被災地に、あるいは、この上野教会のすぐ周りにも大勢いるのに、われわれが、ここでいくら賛美歌を歌っても、いくら神の愛を語っても、ご覧のとおりの厚いコンクリートの壁に阻まれて、外には聞こえません。つらい思いをして救いを求めている人が、教会の前を通り過ぎて行っちゃうんだったら、仲間が増えるわけないじゃないですか。コンクリートの中の人は、当然、どんどん減ってくわけです。神父が、キリスト者が、外に出掛けて行って、「神は、あなたを決して忘れない。あなたを手のひらに刻みつけてるんだ」と教えてあげないと。みんなで出掛けて行って、イザヤ書49章を教えてあげましょうよ。
 私もせっせと出掛けて行きますから、ぜひぜひ皆さんもね、出掛けましょう。それも、聖書の言葉を、ただ伝えるんじゃなくって、その言葉を自分の言葉で、自分の体験と信仰で語ること。相手の現実や心の内を考えながら、相手に分かるように、届くように、相手が本当に救われるように語り掛ける。「聖書の言葉をただそのまま伝えるのではない」って、今の教皇さまらしい発言ですし、菊地司教さまがおっしゃっていることと一緒ですし、私もぜひ見習いたいと思う。
 聖書の言葉は、確かに素晴らしいですよ。今日もイエスさまが、神さまの言葉を語っているわけですね。「神が、その独り子を与えるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためだ」(cf.ヨハネ3:16) (※7)
 これなんか、ホントに、すべての人を救う聖なる言葉ですけれど、確かに、一般の人に向かってこれをこのまんま言っても、なかなかねえ・・・。首をかしげて、「はい? 何のことですか?」って言われちゃいますよ、このまんまだとね。これをなんとか、普通の言葉で伝える工夫が必要だと。・・・まあ、そうですねえ、私だったら、何て言うでしょうかね。たぶん、やっぱり、「家族」のイメージで語り掛けるんじゃないでしょうかね。
 まずは、神さまは、あなたのホントの親なんだということ。で、「独り子」っていうのは、これ、「最も大切な特別なわが子」っていう意味でしょうけど、「それを与えるほどに世を愛された」っていうのは、つまり、その一番大切なわが子を与えるほどに、あなたを愛しているってことですよ、と。それは、この私にしてみれば、「独り子イエスよりも、この私を愛してる」っていう意味ですよ、と。・・・そうなりますでしょ? でも、これ、すごいことじゃないですか? 神さまにとって、イエスはもちろん大事です。大事なんだけど、晴佐久昌英も大事です。で、じゃあ、どっちか捨てなければならないんだったら、「イエスを捨てる」って言うんです。神は、イエスよりも私の方を愛している。神がそれほどに、人類の一人ひとりを愛して、守って、救っているっていう、それを表すしるしが、イエスさまなんですね。あなたが、それほどに愛されていることを信じることこそが、永遠の命を生きていることになるんですよ、と。
 私だったら、まあ、そんなようなことをあれこれと語り掛けると思いますが、それはもう、この個所、よくよく読めばちゃんと書いてあることですし、それを自分の喜びとして受け止め、自分の言葉として語り掛ける。難しい学問で説明するようなことじゃない。
 「神さまは、その独り子を与えるほどに、世を愛された」
 ・・・しかも、「信じるものが一人も滅びない」ためです。・・・ありがたいね、「一人も滅びないで」ってことは、「全員」ですよ、これ。百人いたら百人、億人いたら億人、もう、「全員」、「永遠の命を得るため」に、神さまご自身が働いている。その神を信じたら、どんな十字架も、どんな災害も、どんな病も恐るるに足らずっていう、この福音をね、神さまの「家族」として、大切にいたします。
 血縁の家族も大事ですけど、われわれ教会は大きな家族ですし、そして、このコンクリートの壁の向こうに、まだ会っていない真の家族がいっぱいいるんですよ。そんな家族に会いたいって思いません? この世では「はじめまして」かもしれないけど、本来会うべき家族に、ようやく会えたっていうことですね。そのしるしとしての教会です。

 この前、井出神父さんが亡くなりましたけど、・・・ご存じですか、井出神父さま(※8)。東京教区の御重鎮ですね。91歳で亡くなったのかな。都内の各教会を、主任司祭としてずっと回って、司牧一本。それぞれの教会に、神父さまにお世話になった方がいるわけで、葬儀ミサでは、泣いている方も多くおられました。とても面倒見のいい神父さまで、信者たちも、家族同然に思ってる方が多いんじゃないでしょうか。
 ご葬儀のときって、最後に数名の人が(ひつぎ)を持って出棺しますよね。・・・あれ、普通は誰が持つんですか? ご家族や親戚の若い男性、甥御(おいご)さんとか、お孫さんとか、そんな血縁の方が棺を持つんですよね。そして、行列の先頭を、家族の代表として、喪主にあたる方が遺影を持って進むわけです。大抵は、奥さまとか、ご長男とかが持つわけですね。
 では、東京教区司祭の葬儀ミサ、今回は井出神父さまの葬儀ミサで、出棺の時に、棺は誰が持つと思いますか? ご存じですか? ・・・当然、司祭たちが持ちます。若手の司祭たちが、両側で棺を持つわけですよ。じゃあ、その先頭を、誰が遺影を持って歩くと思います? ・・・司教さまです。菊地大司教さま。・・・家族なんですよ。私たち、家族なんです。それを、世に示してるんです。血縁を超えた、キリストの家族だということを。私たちは、本当に神さまによって結ばれている家族だ、法律上の家族でも、生物学上の家族でもない、「霊的な」家族なんだ、と。
 神父さまのご遺体を、孫のような若い司祭たちがみんなで持って、先頭を、家族代表として司教さまが遺影を持って歩かれる。とても感動しますし、それこそ世に示すべき、真の家族の姿ですね。かつて、高山右近が、とても貧しい領民が亡くなったとき、その棺を、お殿様でありながら、家族として担いだ。それでみんな、「ああ、キリスト教は本物だ」と思ったっていうのを思い出します。
 さあ、復活祭も間近です。私たちも、希望を伝えるために、出掛けて行きましょう。まだ会っていない大勢の家族が、私たちを待っております。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「皆さんは、このバラ色の祭服、見たことがありますか?・・・・・」
S1-Gaudete S3-Gaudete (画像は、
 2017年12月17日
 待降節第3主日、
 浅草教会にて)

 司祭が祭儀(ミサ)のときに着用する祭服の色や、祭壇の掛布の色などは、定められた典礼暦に従って、何色を用いるかが定められている。その典礼色は、おもに、(神の栄光・喜びなど)(愛・殉教など)(回心・節制・死者のためなど)(希望・歩みの堅実さなど)等で、固有の意味を持っている。
 バラ色は「喜び」を表し、この説教当日のような復活祭前の「四旬節第4主日」と、主の降誕(クリスマス)の前の「待降節第3主日」に用いることができる。  (文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく:「四旬節第4主日」)===
 主の復活(イースター)の前にあたる四旬節は、「復活の祭儀を準備するとき」(『典礼暦年に関する一般原則』27)
 「回心、準備、節制、忍耐」の、この償いの期間のなかで、第4主日は「喜び(歓喜)の主日」(Laetare Sunday)と呼ばれるが、このレターレ(喜び・歓喜)は、砂漠の中で、オアシスを発見したような喜びを表している。
 「救い主の復活」という荘厳なときが近づく喜びが表現され、典礼色も、通常、四旬節で使う紫色ではなく、バラ色を使うことができる。
 ミサの始まりの「入祭唱」も、「神の民よ、喜べ(Laetare, Jerusalem) (cf.イザヤ66:10) で始まる言葉が選ばれている。(文中へ戻る
===(さらに、もうちょっと詳しく:「待降節第3主日」)===
 主の降誕(クリスマス)の前にあたる待降節は、「愛と喜びに包まれた待望の時」(『典礼暦年に関する一般原則』39)
 特に、その第3主日は「喜びの主日」(「ガウデーテの主日」Gaudete Sunday)と呼ばれるが、このガウデーテ(喜び)は、救い主が、もうすぐそこまで来ておられるという、待ちきれないような喜びを表している。
 典礼色も、通常、待降節で使う紫色ではなく、バラ色を使うことができる。
 ミサの始まりの「入祭唱」も、「主にあっていつも喜べ(Gaudete in Domino semper)。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)の言葉が選ばれ、聖書の朗読箇所も、救い主到来の喜びが近づいていることを告げている。
(参考)
・ 「昨日の四旬節第4主日のミサ聖祭では、祭服がばら色でした」(「聖母の騎士」facebook)
・ 『典礼暦年に関する一般原則』(日本カトリック典礼委員会編、カトリック中央協議会、2004)
・ 「C年 待降節第3主日」(ラウダーテ)〔現在B年ですが、C年が、より参考になりました〕
・ 「典礼の色」(キリスト教豆知識:ラウダーテ)
・ 「祭服の色について [PDF] p.73、346[=308](『ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版) 』 カトリック中央協議会、2004/4/8)など
・・・< 文中へ戻る

※2:「私、病の方のために、『いやしのミサ』っていうのを市ヶ谷の修道院でやってますでしょ」
◎いやしのためのミサ「おかえりミサ」 「福音の村」別ページでもご案内
 どなたでも参加可能。ただ、特に、事情があって教会に行けない方、体や心の病などで癒やしを必要とする方、キリスト教に興味のある未受洗の方などを主な対象として、癒やしの恵みを祈り求めている。
 急なお休みも考えられるので、ご参加の際は、念のため、下記にご確認の上、お出かけください。
・ 日 時: 原則、毎月第三土曜日、16時から
・ 場 所: 援助修道会 聖堂  [援助修道会 HP]
・ 住 所: 東京都新宿区市谷田町2-24  [Google地図]
 (JR「市ヶ谷駅」徒歩10分/地下鉄南北線・有楽町線「市ヶ谷駅」5番出口 徒歩5分)
・ 電 話: 03-3269-2405 (問い合わせは17時まで)
・ メール: auxijapon@live.jp (件名に「おかえりミサ問い合わせ」と入れてください)
・・・< 文中へ戻る

※3:「3.11の数日後に原稿を書いて、すぐに教会報に載せて、みんなに配ったんですね。タイトルは、『地は震えても、天は揺るがない』」
(参考)
・ 「地は震えても、天は揺るがない」(カトリック多摩教会『多摩カトリックニューズ』2011年3月号、主任司祭巻頭言)
・・・< 文中へ戻る

※4:「特にカリタスは、ホントに素晴らしい働きをしています。・・・カリタスジャパンね」
◎カリタスジャパン
 本部をバチカンに置き、165か国に加盟国を持つ、国際カリタスに加盟している日本の組織。
 日本では、カトリック中央協議会の内部委員会となっている。
 日本のカトリック教会として、国際カリタスをはじめとする国際機関と連携しつつ、国内外への援助活動、救援金などの募金活動、弱い立場に置かれた人々への啓発活動などを行っている。
 現在、菊地功東京教区大司教(カリタスアジア総裁)が、責任司教となっている。
(参考)
・ 「カリタスジャパン」(オフィシャルサイト)
・ 「カリタスジャパン」(Facebook)  (文中へ戻る
===(もうちょっと参考)===
◎カリタス釜石
 岩手県釜石市。3.11をきっかけに設立。震災直後から、がれき撤去やボランティアの受け入れ、仮設住宅の見守り訪問など、地域に密着し、被災者の方々に寄り添って支援を続けてきた。
 2013年3月には、釜石市からNPO法人(特定非営利活動法人)に、さらに、2017年3月には、認定NPO法人(認定特定非営利活動法人)として承認され、同敷地内や仮設住宅での傾聴を中心とするサロン活動、近隣住民を主な対象とするオープンスペースの提供、見守り支援活動など、地域社会の中でさまざまに活動している。
(参考)
・ 「カリタス釜石」(オフィシャルサイト)
・ 「カリタス釜石」(Facebook)
・ 「カリタス釜石」(Youtubeチャンネル)
・ 「カリタス釜石」(Google +)
・・・< 文中へ戻る

※5:「そのときに、イザヤ書の49章を引用なさったんです」
===(聖書参考個所)===
 
シオンは言う。主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。 見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。 (イザヤ49:14-16/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

※6:「先週、話しましたよね、シンポジウムの話」
 2018年2月27日(火)に行われたシンポジウムで、タイトルは「第14回BDKシンポジウム『宗教の未来を話そう』」。
 前週の説教、「神は本音を知っている」(2018/3/4説教)をお読みください。上から3段落目(>この辺からです。
・・・< 文中へ戻る

※7:「今日もイエスさまが、神さまの言葉を語っているわけですね。『神が、その独り子を与えるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためだ』 (cf.ヨハネ3:16)
この日、2018年3月11日(四旬節第4主日)の福音朗読箇所より。
 ヨハネによる福音(ヨハネによる福音書)3章14~21節
  〈小見出し:「イエスとニコデモ」から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 (ヨハネ3:16/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

※8:「この前、井出神父さんが亡くなりましたけど、・・・ご存じですか、井出神父さま」
◎アシジのフランシスコ 井出雄太郎神父さま (1926年9月生~2018年3月4日帰天、享年91歳)
 カトリック東京教区司祭。通夜が3月7日午後6時から、葬儀ミサが3月8日午後1時から、カテドラル関口教会で行われた。
 1954年、土井大司教さまから叙階。蒲田教会、麻布教会、高円寺教会、成城教会、本郷教会などの主任司祭を歴任された。また、『ギリシア・トルコの遺跡を訪ねて』『受難劇鑑賞の旅』『スケッチ集』『スペイン巡礼の路』『聖地を巡る旅』『夢を追った神父の一生』など、著書も多数。
(参考)
・ 「訃報 アシジのアシジのフランシスコ井手雄太郎神父2018/4/9(「東京教区ニュース 第351号」カトリック東京大司教区)
・ 「【訃報】東京教区司祭、アシジのフランシスコ井手雄太郎神父2018/3/6(聖パウロ修道会)
・ 「司祭の帰天@東京教区2018/3/5(司教の日記)
・・・< 文中へ戻る

2018年3月11日(日) 録音/2018年4月10日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英