神さまの招待

【カトリック本所教会】

2017年10月15日 年間第28主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ25・6-10a)
・ 第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ4・12-14、19-20)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ22・1-14、または22・1-10)

【晴佐久神父様 説教】

 もう3回目ですか、4回目ですか(※1)? 本所教会に来てミサを捧げるのも、回を重ねると、なんだか「自分の教会」っていう気持ちになってきます。皆さんもこのミサを、「自分たちのミサ」っていう気持ちで捧げていただきたい。ミサは私たちのためにあるんだし、そのミサに、私たちは神から特別に招かれているんですから。・・・「神の招き」、それに気づくことが、今日のミサのテーマです。
 「招待される」とか「招かれる」とか、うれしいですよねえ。今の世の中、排除されることが多い世の中ですから。まごころ込めて、ちゃんと準備して、「さあ、どうぞ」って招くっていうのは、これ、特別な喜びです。とりわけ、神さまの招待こそは、特別な希望です。

 おととい、昨日と札幌に行ってきました。札幌の円山(まるやま)教会(※2)が80周年だったんですね。で、「記念の講演をしてください」っていうことで、頼まれて行ってまいりました。
 それが、札幌駅降りるときに、はたと、ローマンカラーをしてくるのを忘れたのに気づいたんです。ローマンカラーをつける黒いシャツは着てるんだけど、白いカラーをつけてなかった。まあ、カラーが付いていてもいなくても、別に話が変わるわけじゃないんですけど、何ていうか、みんなすごくありがたがってくれるんですよ。(笑) 「最近の神父さんはあまりカラーをしなくなったのに、晴佐久神父さまはしてくださってる」とか。本人よりもカラーの方が大事なんじゃないかっていうくらい。(笑) まあ、でも、やっぱり恥ずかしいので、駅前の画材や文具を売ってるお店で、プラスチックの白い板とはさみを買って、(笑) チョキチョキとカラーを切り抜いて、首にはめて、講演会しました。
 おかげでね、やっぱり、効果あるんですね。(笑) すごくいい天気だったんですよ、札幌。爽やかで気持ちよかったんで、講演会が始まる前に教会の周りを散歩してたんですけど、カラー、目立ちますでしょ。通りすがりに、一人の女性がローマンカラーをじ~っと見て、「神父さまですか?」って声を掛けてきたので、「ええ、晴佐久神父です」って答えたら、そういえば、円山教会の前を通りかかったときに、写真入りの大きなポスターが貼ってあって、晴佐久神父さんが来てお話をする、そういうポスターを見かけた、と。で、自分はカトリック信者なんだけども、わけあって、ずっと教会に行っていなかった、と。でも、今日は偶然こうしてお会いできて、うれしい、と。だから、これから聴きに行きますと、そう言ってくれました。
 だから私も、「それじゃあ、今日は、あなたのためにお話ししますよ」って言ったら、「実は最近、なんだか世の中が争いごとばっかりで、ミサイルは飛んで来るし、とても不安だ」って言う。だから、「じゃあ今日は、希望の話をしましょう」って、たくさん希望のお話をしてきました。「そんなあなたのために」っていう、これが教会の招待ですね。神の招きです。ローマンカラーひとつだって、「ここに神父がおりますよ!」「福音、語りますよ!」「声、掛けてください!」「私はあなたを救えます!」っていうしるしなんですよ。神さまの招待、それを目に見えるしるしとして表す。これが教会です。隠れてたら意味がない。

 円山教会は、実は私にとっては聖地なんです。私の母が洗礼を受けた教会なんですね。私にとっては、ある意味、原点です。おかげさまで、私も神父になったりしてるわけですから。
 円山教会を、80年前に始めたのはアウグスチノ神父さまです(※3)。この神父さんはオーストリア人なんですけど、高校生のときに宗教の先生から、「日本は、世界で最も宣教の難しい国だ。誰かそこに行って、宣教しないか」と言われて、アウグスチノ君は、「じゃあ、ぼくが行く!」って思ったんですね。そして、実際に神学校に入り、神父になった。大変お説教がお上手で、若い人たちに人気があったそうですけど、教区司祭だったんで、なかなか日本に行く許可が下りなかったんですね。
 それで、フランシスコ会にわざわざ入り直して、日本語を勉強して、日本に向かったんです。高校生のときの思いに忠実だったんですね。「一人でも二人でもいいから、日本で洗礼を授けたい」、そう思ったそうです。愚直というか、まっすぐな信念を持ったアウグスチノ神父さん、札幌に派遣され、故国に手紙を書きまくって資金を集め、円山教会をお始めになった。
 私の母は、その円山教会が始まって10年くらいたったとき、女学生のときに、この教会をのぞきに来ました。「私もキリスト教を知りたい」「何か心の支えになるものがほしい」、そういう気持ちで、まずは、いろんな教会を回ろうと思ってたんですね。やっぱり、どの教会がいいか、いろいろお試ししたいじゃないですか。札幌にも、さまざまな教会があったし。で、まずのぞいたのが、学校の近くのカトリック円山教会でしたけど、最初にのぞいた所で、アウグスチノ神父さんにつかまっちゃったんです。母も言っておりました、「毎週来なさい!って言われて、怖くて通ったの」って。(笑)
 まあ、脅かすつもりはなかったでしょう。ただ、日本語がね、あまりお上手でないので、「マイシュウ、キナサイッ!」とか言ったんじゃないですかねえ。お上手だったら、「ぜひ、毎週おいでください」って言ったところでしょうけども。で、やがて、「センレイ、ウケナサイッ!」って言われて、断れずに受けたって言ってましたけど、でも、私の母は、そのときのことを、繰り返し話してくれました。「アウグスチノ神父さま、あまり日本語がお上手じゃなくて、何をおっしゃってるか分からないことも多かったけれど、私、神父さまの澄んだ目を見て、『この人はうそをつかない』って、そう思った。だから私、信じて洗礼を受けたのよ」。・・・そう言ってましたよ、「この人はうそをつかない」って。
 故国を離れてね、「一人でも二人でも洗礼を授けたい。日本の地で神の愛を伝えたい!」っていう、その熱い思いはね、瞳からあふれ出るんですよ。母は、それを見た。・・・教会の招きですね。
 招かれてるんです、私たち。神さまから。神さまは、私たちを招待しています。救いたいんです。ご自分の愛に、気付いてほしいんです。みんなに幸せになってもらいたい。みんなに仲良くしてもらいたい。みんなに永遠のいのちへの希望をもって、「今日」という日を、感謝と喜びをもって生きてもらいたい。だから、イエスさまを送り、キリストの教会をつくり、アウグスチノ神父を送って、私の母に洗礼を授けた。神は、ともかく、招き続けているんです。・・・まさに、「おかげさま」ですよ。
 だって、神父さまが「キナサイッ!」って言ってくれたおかげで、母は洗礼を受け、同じく札幌で洗礼を受けた父と出会って、信仰深い家庭をつくり、子どもに幼児洗礼を授け、そんな家庭の中で育って、「ぼくも神父になる!」って晴佐久少年は司祭を志し、そうして、今日ここに来て、皆さんの前に立ってるわけですよ。
 皆さんもそうでしょ? 招かれて、招待されて、そして今、ここにいる。神さまのお招きです。・・・一人ひとりですよ、・・・一人ひとり。

 さっきのイエスさまのたとえ(※4)、その中心のメッセージは、たぶん、最後のとこでしょうね。
 「『見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで家来たちは通りに出て行き、見かけた人は、」・・・ここがうれしいですよね、「善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」(cf.マタイ22:9途中-10/太字強調引用者)
 皆さんも、よかったねえ、「悪人でありながらも」招いてもらえたわけでしょ。皆さん悪人でしょう? 違いますか? 「私は善人だ」って言う人が、一番悪人です。(笑) いいですねえ、悪人も呼んでくれる。でも、この世は違うじゃないですか。悪人は排除。善人が褒められる。だけど、「どこに善人がいるの?」って話ですよね。私もずいぶん大勢の人に会ってきたけど、「善人」なんて、会ったことがないです。みんな、どこかしら、ちょっと悪人。・・・でしょ? まあ、「善人のふりが上手な人」っていうのはいっぱいいますけど。神の前では、みんな悪人。で、ちょっと善人。ともかく善人も悪人も、誰でも、「み~んな招く」っていう、これは福音ですね。・・・福音です。
 ぼくらは、「善人にならなきゃ救われない」って思わなくていいんです。むしろ問題なのは、悪人も招いてくださる神さまの、その招きに心を開かないことなんですよ。「私みたいな悪人はダメでしょ・・・」って思い込んだり、「あんな悪人はダメだろう」って裁いたりしてるようでは、神の「だれでも呼んできなさい」っていう、その熱~い招待が分かってないってことですから。これが分かんないと、今、ここで救われてるっていう喜びもないし、あんなやつは追い出せっていう排除になるし。
 実際、このたとえ話の「婚宴を拒否する人たち」っていうのは、そういう人たちですよね。「一人は畑に、一人は商売に出かけ」 (マタイ22:5) って・・・。よく考えてみたら、王様の王子の婚宴ですよ。どれほど素晴らしい喜びの宴か、想像すれば分かりそうなもんなのに、それより畑が大事だ、それより商売が大事だって言ってるって話です。このたとえが言いたいのは、「あなたたち、畑や商売を大事にしてるけど、そんなもの比べものにならないほど、素晴らしい宴に招かれているんだよ。神の招きこそが、最高の価値があるんだよ。その優先順位を間違えないように」ってこと。
 「あなたを愛してるよ」
 「あなたを抱きしめるよ」
 「あなたを永遠のいのちに招いてるよ」
 「あなたは本当の幸いに与れるよ」
 こういう神さまからの招待に、恐れだったり、争いだったり、この世の畑の話、商売の話だったりで、心を閉ざして招きに応えなかったら、なんてもったいないことか。
 「今日は特別に、神に招待されてるってことに気づいてくださいね」って言ったのは、そういうことです。やっぱり教会はね、そういう「お招き」をする所なので、それをちゃんとしるしに表さなきゃいけない。

 先週、楽しかったのは、「まんまカフェ」(※5)のピクニックですけど、これは育児支援でね、育児で苦しんでいるお母さん方に一緒ごはんをして希望を与える、「仲間がいるよ」って励ます集いです。お知り合いで、子育てで悩んでいるとか、家庭のことで苦しんでるけど誰にも話せないとか、今、希望を必要としている、元気を取り戻したいっていうお母さんがいたら、ぜひ、上野教会で「まんまカフェ」っていうのをやってますから、お誘いくださいね。木曜日の昼間、一緒ごはんを食べて、みんなでおしゃべりをする集まりです。
 そんな集いの宣伝もかねて、年に二度ほど上野公園に出掛けてくんですね。そこでシートを敷いて、「一緒ごはんで子育て支援 まんまカフェ」っていうでっかいのぼりを立ててます。・・・あれ、許可取ってないし、たぶん、違法です。(笑)そののぼりの下にシート敷いて、風船を浮かせる。私、スタッフに、「浮く風船だけは、毎回用意してください」って言ってあるんですよ。だから、いっぱい風船が浮いてる。風船が浮いてると、子どもが寄ってくる。子どもが寄ってくると、お母さんが、後ろから付いてくる。で、そのお母さんに、ビラを渡す。あのビラまきも、たぶん違法です。(笑)
 で、シートの上にはおむすびとおかずを並べて、お茶とお菓子も並べてるんで、「どうぞ、どうぞ。座ってってください」ってやると、座ってく方もいるんですよね。そこでおしゃべりをして、「ぜひ、いらしてくださいね。これ、毎週教会でやってるんですよ」って言うと、みんなね、結構興味を示してくれます。有名な修道院のクッキーとか置いとくと、「あっ、これ、食べたことある! おいしいのよね~」とかってなるでしょ。スタッフ一同、ニコニコしながら、「どうぞ、どうぞ😊」って勧めて。クッキー1個で仲間が一人増えれば安いもんだって感じで、(笑) 「どうぞ、どうぞ😄」って。
 あと、隣のシートにいたお母さん二人、子どもを一人あやしてたんだけど、この二人はおしゃべりしたいのね、ともかく。だけど子どもにも、手がかかる。それで、「お子さん、預かりましょうか?」って声を掛けたら、「あら、いいんですか~?」なんて言ってね、で、子どもを人質に取って。(笑) この二人、ビールとワインを飲みながら、その後、2時間。(笑) ほとんど子どもの方を振り向かずに、二人でしゃべりまくってました。(笑) その子、ぼくもあやしましたけど、返す時に、しっかりチラシも渡しました。
 そんなふうに、上野公園で、風船浮かせて、いろんな人を招いて、・・・何してるんですか、これ。・・・「招待」してるんです。小さなピクニックだけど、天国の入り口です。その向こうに、王の婚宴、神の国の(うたげ)が待ってるんですよ。その宴を見せないと。教会は、そういうしるしだから。「あなたもどうぞ、誰でもどうぞ」という、ご招待だから。

 先月始めた「うぐいす食堂」なんか、ホームレスの方と一緒ごはんをする集いですから、ちゃんと招待状があるんですよ。まさしく「招待」です。「何月何日、上野教会の『うぐいす食堂』に、ぜひいらしてください」って。で、「○○様」って書く欄がある。そこにお名前を書いて、お渡しするんです。それも、通りすがりに、急に渡すんじゃない。会うたびに声を掛け、「寒いですね。これ、いかがですか?」って、あったかいペットボトルのお茶を渡したりしながら、信頼関係をつくって、それから、「よろしかったら、いらしてください」って言って、招待状を渡す。排除されてばかりの現実の中で、「招待なんて、されたことがありません」っていう方たちでしょうけど、恐る恐る来てみると、ちゃんと招待した人がいて、招き入れられ、一緒の食卓で、こころづくしの手作り料理を一緒にいただく。
 おいしいんですよ~。前菜があって、食前酒まで出るんだから。次が「本日のスープ」、そしてメイン料理。フランス料理のシェフをやってる人が手伝ってくれていて、先日は「煮込みハンバーグ、マッシュポテト添え」。おいしかったですよ。最後に「季節のフルーツと焼き菓子」。で、スタッフが来て、「コーヒーにしますか、紅茶にしますか」って。・・・なんて素晴らしい宴!・・・でしょ?
 喜んでくれましたよ。涙こぼしてた方もいました。「こんな招待、受けたことない!」って。でも、これ、特に変わったことをしてるんじゃない。当然のつとめです。神の国のしるしなんだから。まだ足りないくらいでしょう。だって、神さまからの本物の招待は、こんなもんじゃない。これはほんの入り口であって、「ぜひ、あなたをお迎えしたい神の国がある」という本番への、ご招待です。

 こういう集いを「一緒ごはん」と呼んで、その一緒ごはんする仲間を「福音家族」って呼んでるんですけど、これ、他にもいろんなのを始めてるんですよ。それで、年に一度は、み~んなそろって一緒ごはんしようってことで、先週の体育の日に、上野教会で「福音家族集会」っていうのをやりました。80人くらい集まってましたけど、いろんな「福音家族」が集まって、紹介し合い、一緒ごはんしました。
 いいことがあった。その日、まったくそのことを知らずに、たまたま教会を訪ねてきたという人が来たんですね。この方は、何十年か前、カトリックの学校に通っていて、その後ずっと教会が気になっていたけれど、最近いろいろあったんで、救いを求めて教会に来てみたんですって。そしたら、入り口にデカデカと、「第一回 福音家族集会」って貼ってあるんで、「なんだろう・・・」ってのぞいてたんです。
 私、みんなでバタバタとミサの準備をしてたんですけど、入り口に見知らぬ人が立ってるんで、声を掛けたら、たまたま来たって言うんで、摂理を感じて、「あなたこそ、神さまが招いてくださった、福音家族です。これからミサがあるから、ぜひご一緒しましょう」ってお招きしたら、参加してくれたんですね。で、説教のとき、私、客いじりの名人なんで、(笑) 「今日、神さまが新しい家族を招いてくださいました。みんなでお迎えしましょう」って紹介して、みんなで拍手してお迎えしました。ミサの後では、一緒ごはんを食べて、居合わせた人たちともおしゃべりしてたんですけど、なんと、その三日後の入門講座にも来られたんですよ。入門講座も一つの福音家族なんで、家族として歓迎したんですけど、そうしたら、帰り際に、「来年の洗礼式は何日ですか?」って聞いたんです。私ね、「4月1日ですよ」って答えながら、心の中で、「よっしゃー!」って思いましたねえ。(笑)

 ・・・お招きすること。教会の本質です。大会の最中、慌ただしくしていても、もしも、ぽつんと立ってる人を見つけたら、「あなたも福音家族ですよ」ってお招きすること。それが、教会です。
 その方も、たぶん、血縁の家族のことでお悩みだったりしてるんじゃないですか? だから、血縁を超えたつながりを、無意識に求めてるんじゃないですか? 実際、皆さんね、あんまり血縁の家族とか、絶対視しない方がいいですよ。血縁も大事ですけど、案外不完全だし、実はそれは、福音家族への準備段階にすぎないんです。教会という福音家族こそが、本当のセイフティーネットとして、お互いに支え合う真の家族として、完全な天の婚宴の入り口なんだってことを、もっと、みんなに知ってほしい。「もっともっと、一緒ごはんして、福音家族になりましょう」と、私はそう呼び掛けております。ぜひ、応援してください。
 その、集会にたまたま来た方、入門講座に来て、つくづくとおっしゃってましたよ。
 「私、今まで、ぜんぜん分かってなかった。こういうのが、教会だったんですね」と。
 そのような喜びの出発点を与えてくださった神さまに、心から感謝します。神さま、ありがとう、アウグスチノ神父さまを日本へ招いてくれて。アウグスチノ神父さま、ありがとう、母を招いてくれて。おかげで晴佐久神父、先週、福音家族にもう一人、招くことができました。ありがとうございます。「だれでも呼んで来い」という神さまのお招きに、協力できました。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「もう3回目ですか、4回目ですか?」
 現在、晴佐久神父は、カトリック浅草教会とカトリック上野教会の主任司祭なので、通常は、この二つの教会を司牧し、ミサを司式しているが、カトリック本所教会は、上記二つの教会と共に「下町宣教協力体」に属していることから、時々訪れて交流し、共にミサを捧げている。
 晴佐久神父が、2016年春に上記の教会に着任してから、本所教会の主日のミサは3回目となる。
(参考)
 カトリック本所教会で行った最初の説教(「神の国ファイターズ」/「福音の村」:2016/10/2)に、以下のご紹介をしていますので、ご興味のある方はご覧ください。
・ 「下町宣教協力体」について
・ 「本所教会」について(注: 2017年11月現在の主任司祭は、イグナチオ・デ・ロヨラ 渡邉泰男神父さまです)
・ 「26聖人教会」(本所教会の歴史)について
===
 ちなみに、2回目の説教は下記のとおり。
・ 「教会家族に救われました」(「福音の村」:2017/4/30説教)
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※2:「札幌の円山教会」
カトリック円山教会  (以下の情報は、2017年11月現在)
=今年で献堂80周年を迎える(献堂:1937年/昭和12年)=
住所: 〒064-0824 札幌市中央区北4条西23丁目2-10 Google map
教会堂名: 日本26聖人殉教者
主任司祭: ケン・スレイマン神父
主日ミサ: 日曜 10時
週日のミサや、講座のご案内など、詳細は、>カトリック円山教会 HP」へ。
電話: 011-631-4215
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※3:「円山教会を、80年前に始めたのはアウグスチノ神父さまです」
 カトリック円山教会は、1934年(昭和9年)、キノルド司教(札幌教区初代教区長)が現在地に教会建設用地を購入したことに始まる。建築に先立ち、翌1935年(昭和10年)、北11条教会の主任司祭だったアウグスチノ・ティシュリンゲル神父が近所の借家に日曜学校を開設して、宣教がスタートした。
 1937年(昭和12年)12月5日には献堂式が行われ、1956年(昭和31年)まで、アウグスチノ神父が主任司祭を務めた。(当時の信徒数は120名)
 現在、主任司祭は12代目のケン・スレイマン神父となり、2017年(平成29年)、 献堂80周年を迎え、信徒数は約900名となった。
(参考)
・ 「沿革・歴代主任司祭」(「カトリック円山教会」HP)
・ 『カトリック円山教会 献堂80周年記念誌』(BCCKS Inc.)
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※4:「さっきのイエスさまのたとえ」
この日、2017年10月15日(年間第28主日)の福音朗読箇所。
 マタイによる福音(マタイによる福音書)22章1~14節、または22章1~10節)
  〈小見出し:「婚宴」のたとえ〉
===(該当箇所のあらすじと聖書参考箇所/マタイ22:1~10)===
 ある王が王子のために婚宴を催し、家来たちに招待客を呼びにやったが、人々は行こうとしなかった。そこで、別の家来たちを使いに出して、改めて、丁寧に招いた。それでも無視して、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は、王の使いに乱暴して殺してしまった。王は怒り、その人たちを滅ぼして、町も焼き払った。
 次に、王は、「
町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と使いを出した。
そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。(マタイ22:10/赤字引用者)
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※5:「まんまカフェ」
 「まんまカフェ」は、カトリック上野教会(@台東区下谷1-5-9)で2016年11月末にスタートした、ママと子どもの広場。孤立しがちなお母さんのための子育て支援が目的で、毎週木曜日の12時から集まり、一緒にごはんを食べたり、おしゃべりしたり、互いに相談し合ったり、ピクニックに行ったり、和気あいあいと交流を図っている。
 ☆「まんまカフェ」では、独自のブログやツイッター、フェイスブックなどもあり、間口も広く、敷居も低いので、ぜひ気軽にお声をお掛けください。無料で、参加の申し込みも不要です☆
(参考)
・ 「まんまカフェ」(ブログ)
・ 「まんまカフェ」(ツイッター)
・ 「まんまカフェ」(フェイスブック)
・ 「カトリック浅草教会・カトリック上野教会」(ホームページ)
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2017年10月15日(日) 録音/2017年11月16日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英