【カトリック上野教会】
2017年10月1日 年間第26主日
・ 第1朗読:エゼキエルの預言(エゼキエル18・25-28)
・ 第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・1-11、または2・1-5)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ21・28-32)
【晴佐久神父様 説教】
さっき、ミサが始まるとき、祭壇に向かって歩いてきて、去年の今ごろの説教を思い出しました。ちょうど同じ季節になったってことだと思うんですけど、祭壇の上のステンドグラスに、金色の光が差し込んでとても美しいっていう話ね(※1)。今日も、ご覧のとおり黄金色に輝いて、今の季節、空気も澄んでますし、日の光が特別に光って、希望の色に見えるんですよ。この祭壇のはるか高み、ぼくらが祈りを捧げるそのかなたには、それこそ天国が見えるっていうような希望の色。
・・・希望が必要です。希望がなければ、誰ひとり歩いていけない。
「運慶展」、ご覧になりましたか(※2)? せっかく上野教会なんですから、ぜひご覧になったらいいですよ。 「運慶展」、行った人! 国立博物館。・・・えっ? 誰もいないの? ・・・あっ、一人いた。結構みんな行ってるのかな~と思ったんですけど。「運慶」、生で一挙に見れるんですよ。今までで一番多く集まってますし。・・・ご存じですよね、日本最高峰の仏師ですよ(※3)。鎌倉時代、新時代の、ダイナミックな
私、仏像を見るの好きですから、全国、いろいろ見て回りましたけども、やっぱり、運慶のセンスはピカ一ですよね。ただ、今回やっぱり、見ててつくづく思ったのは、彼の彫った御仏の、あの人間味は、実にキリスト教的だっていうことです。たとえば、不動明王であるとか、大日如来像であるとか、仏なのにまるで生きているようで、超越と現実を併せ持ってるんです。菩薩像も、あれはやっぱりご覧になったらいいと思いますよ。興福寺の
菩薩っていうのは、実在の人物です。キリスト教でいえば聖人ですね。無著と世親、これ、兄弟で、4世紀だか5世紀だかの菩薩ですけれど、世親は、浄土論をものした人です。・・・まあ、大乗仏教の基礎をきちんと固めた神学者ですね、カトリックでいえば。・・・アウグスティヌスみたいな感じですかね。菩薩って、仏と人、つまり聖と俗を結ぶ存在ですから、とってもキリスト教的というか、俗なる人間の内にこそ聖性が宿るっていう存在で、運慶はそういう精神性を、抜群のセンスで芸術にまで高めたんです。
大乗仏教は、ご存じですよね、「みんな救われるよ」と、「罪びとこそ救われるよ」という。その原点としての浄土論をもとにして、やがては浄土宗、浄土真宗が生まれる。そのような信仰のもと、運慶は世親菩薩を彫ってるわけですけれど、この世親菩薩がね、いいんですよ。・・・もう、忙しかったら、ほかは観なくてもいいです。行列も大変だし。ダーッと行って、世親菩薩だけでも見上げて帰ってきてくださいよ。
・・・だって、泣いておられるんですよ。間違いなく泣いてるんですよ。ハロゲンライトの当たり具合もあるんでしょうけど、でも、見れば分かります。眉間にしわ寄せて、目に涙ためて、じ~っと遠くを見つめておられるんです。あれこそが、大乗仏教の心でしょう。「あわれみ」なんですね。・・・生きとし生ける者への悲愛、あわれみの心。もちろんそれは、御仏のあわれみの心が、そのような聖人においてあふれてくるっていうことですけど、それこそ、イエスのあわれみの心を見れば、神さまがどれほど私たちをあわれんでおられるかが分かるっていうのと同じことですね。秘跡的とでも言いましょうか。目に、今にもポロッとこぼれ落ちそうなほどに、涙をためてらっしゃる。
あの瞳は、水晶なんですね。
その涙こそは、宗教の本質です。要するに、神さまは、・・・まあ、御仏でも何でもいいんですけど、「私たちのことを、涙溢れるほどに愛しておられます」と、「私たちのことを、真心から救ってくださっています」と。だけど、人間の方がそれを受け入れないで、勝手に苦しんでるんですよ。今日の福音書のたとえでいうなら(※5)、「いやです」 (マタイ21:29) っていうって感じで。だからこそ、その苦しんでいる、何も分かっていないわが子を、なんとか救ってあげたいと、目に満々と涙を浮かべておられる神。あふれんばかりのあわれみの心で、ともかく、なんとかしようという親心ですね。これこそは、宗教の本質です。
だから、われわれに最も必要なことは、その愛に「気づく」ってことですねえ。・・・気づかなきゃならない。だって、もうここに、神の愛はあるんです。でも、われわれは、それに気づかない。だから、今日の聖書の言葉でいうなら、「考え直して」 (マタイ21:29) 、神の愛に目覚めていくこと。・・・これが、回心っていうことですよね。それが、宗教っていうことでしょう。御仏は慈悲をもって、その目覚めを、本当にお優しく、永遠の愛をもって、寛容に、忍耐強く待ち続け、導き続けておられるし、そしてやがては必ず、すべての人を、みもとに招き寄せてくださる。それこそは、信じる者の希望です。
希望っていうなら、このたび「希望の党」っていうのが突然できまして、ニュースで、党首なる人が、「うちの党はこういう党です」って会見してるのを見たんですけどね、私、びっくりしましたよ。だって、「寛容な改革保守です」って言ってたから。「寛容な改革保守」って、ザ・カトリックでしょう? 思わず、「あんた、カトリックか!?」って、テレビに突っ込みましたよ。
「保守」っていうのは、決して変わらない真理、一番大事なものを、忍耐強く、伝統の中で、大切に守り抜いていくことですよね。その点、「革命」なんていうのは、一時的なものだし、いい加減なものです。また別の革命にとって変わっちゃうわけだし。「保守」っていうのは、キリスト教的にいうなら、決して変わらない神の愛と、すべての人を救うキリストのあわれみという、その本質を保守するってことでしょう。それはもう、絶対に変わらない。そこからぶれてはいけない。
でも、それが5年たつと濁り始め、10年たつと硬直化し、20年たつと原理主義に変容し・・・みたいになりがちなので、常に真の保守に立ち返るために、回心し続け、改革し続けなきゃならない。第二バチカン公会議なんか、真の保守に立ち返るための改革だったわけでしょう。保守の本質は「神の愛」であり、改革も「人への愛」のためになす。その保守と改革を、神の「寛容」に信頼し、「寛容」をもって成し遂げていこうという、それこそが、カトリックの神髄です。「希望の党」が、どのようなつもりでそう言ってるのか知りませんが、実行できるんですかね。ただ言うだけなら、誰でもできる。(笑)
カトリック教会は、まさしく、「寛容な改革保守」です。それを実行してきましたし、やり遂げなければなりません。絶対に曲げられない神の愛の本質を守り抜き、しかし、常に人への愛のために改革をし続け、そしてそれらを、寛容の精神をもって忍耐強く成し遂げていく。それこそが、われわれにとっての希望ですね。その意味では、ぼくらは、まあ、希望の「党」ではなく、希望の「道」? 希望の「家族」? みたいなもんです。え~、これ、選挙運動じゃないですよ。(笑)どこかの党を褒めたりけなしたりしてるわけじゃない。ただね、このたびの選挙において、私の脳裏によぎる格言は、「同じ穴の
まあ、どっちもどっち。ぼくらこそは、まさしく、「寛容な改革保守」の本家です。ここに、本物の希望があります。
イエスさまがこのたとえ話をしたのは、律法学者たちに向かってですけれど、この律法学者たちっていうのは、まあ、「不寛容な保守」ってやつですかねえ。祭司長や民の長老たちという、「不寛容な保守」に向かって、イエスさまは、こんなたとえ話をしたわけです。
神さまが、「ぶどう園に行きなさい」って言ってるんだから、「はい」って言って働こうよ、と。もっとも、お兄さんの方がついつい、「いやです」って言っちゃうってのは、これはよく分かります。やっぱり、人間、楽したいとか、損したくないとか、そういう本音がありますから、働くのはめんどくさいなあ、疲れるなあ、なんで俺だけ・・・って思う。
でも、神さまの方にしてみたら、実はその働きこそがわが子にとっての一番の喜びだし、働いたら働いただけ、素晴らしい充実感とか、かけがえのない出会いとか、実りのおいしさとか、それこそ、この世に私が生まれてきた意味に至るまで、みんな頂ける。それを神さまは分かってるから、「ちょっとしんどいけれど、おまえの真の幸せのためだから、ぶどう園で働くんだよ」と、まあ、教育してるわけですよね。
その点、お兄さん、正直ですよ。「やだよ~」って言うわけ。ぼくらとよく似てる。だけど、イエスさまのこのたとえのキーワードは、「考え直して」 (マタイ21:29) です。「でも、パパがああ言うんだから、きっといいことがあるんだろう」と、「みんなをホントに愛してあわれんで導いてくださってる神さまなんだから、この試練も引き受けよう」と、考え直す。そういう、なんていうんでしょう、神さまの寛容の中で、神の愛に目覚めるという本質だけは保守して、日々、考え直して改革する。これが、信仰のかたちです。
常に回心すること。本音ではイヤなんだけど、そこから逃げていたら何も生まれないから、やっぱり、自分を変えて、少しずつでもチャレンジして、「じゃあ、ともかく30分だけでも働いてみようか」って考え直す。これが、イエスさまの招いておられる境地だと思う。
弟の方は、「は~い! 行きま~す!」なんてね、まあ調子いいことを言うわけですよ。党首の記者会見みたいなもんですね。(笑) いいことばかり言う。でも、実際にはやらない。・・・実は、この選挙の投票日の10月22日、私の誕生日なんですよ。60歳になる。還暦の誕生日に、さて、どんな希望が現れるのか。とくと
イエスさまのたとえって非常に分かりやすいし、身につまされることも多いです。私たちも考え直しましょうね。もう、いい子ぶって、うわべだけ信者みたいな顔してるんじゃなくって、このお兄さんみたいに、正直に、自分の弱さとか
昨日、「うぐいす食堂」、ついに開店しました。ご寄付くださった皆さん、ホントにご協力ありがとうございました。
「うぐいす食堂」っていうのは、月に一回、上野教会のホールで開かれる食堂で、招待制のホームレス支援です。おもに路上生活者の方を念頭に置いてますけど、家はあっても一人ぼっちでさみしく食べてる人も念頭に置いてます。「食べ物を提供するだけじゃなくて、一緒に食べる家族を提供する」。これが、私たちのチャレンジです。
・・・「一緒に食べる」
炊き出しって、尊い奉仕ですけど、なかなか、ゆっくり食べるって感じじゃないことが多いですから、ちゃんと食卓に座っていただいて、家族的な雰囲気の中で、おしゃべりしながらみんなで一緒にご飯を食べたいなって。スタッフも隣に座って、おんなじご飯を食べるんです。それを繰り返すうちに、だんだん親しくなって、家族のようになっていく。小さなチャレンジだけど、ないよかマシだと思う。私、以前から、そういう食卓をやりたかったんですよ。
「招待制」っていうのは、招待券があるんですけど、それを路上生活の方とかに、「ぜひいらしてください」って渡すんです。もちろん、ただポンと渡すんじゃない。いつも挨拶したりして、信頼関係をつくってから、「一緒にご飯食べましょう、お待ちしてますよ」って渡すんです。もっとも、なかなか皆さん、排除される経験が多いので、警戒していて、空振りになるケースも多いんですね。私もお招きした方が来てくれるかな~と思って待ってたんですけど、昨日来てくれたんで、すごくうれしかった。
なかなかステキなお食事なんですよ。まず、ちゃんとテーブルクロスがかかって、ランチョンマットが置いてあるんです。だって、お招きしたら、テーブルクロス、ランチョンマット、置いたりもするじゃないですか、普通に。普通のことをしたいんです。で、座ると、まず食前酒が出る。昨日は手作りの梅酒をね、ほんの一口ですけど。そして、前菜が、「季節の温野菜とゆで卵の手作りマヨネーズ添え」。それを下げたら、「本日のスープ」が出る。手作りコーンスープでした。それを飲み終わったら、メインの「煮込みハンバーグ、マッシュポテト添え」と、パン。キノコのデミグラスソースみたいのがかかってましたけど、フランス料理のシェフが手伝いに来てくれて、ハンバーグを焼いてくれたんで、おいしかったですよ~。で、食べ終わったら、最後に、「季節のフルーツとお菓子」。梨とゴールデンキウイに、手作りのゼリーとクッキーも添えて。で、スタッフが聞きに来るんです、「紅茶にしますか、コーヒーにしますか?」って。最高でしょ?(笑)
これくらいやると、やっぱり、1時間以上座っててくれますから、おしゃべりもはずみますよ。
私が呼んだホームレスの方の話、聞いててホントに面白かった。なにしろ、教会通なんですよ。あらゆる教会、回ってますから。私のところにも、かつて訪ねて来られたので、それ以来ささやかな援助をしたり、食べる物をお分けしたりしながら、だんだん親しくなっていった方です。最初に会った時に言ったんですよ、「援助してもいいけど、一度きりならいやです。また来てくれて、やがて友達になるんだったらいいですよ」って。そしたら、「友達になります」って言うから、それ以来のおつきあいで、だから、今回も来てくれてうれしかったわけです。
で、その教会通の方が私に聞くんですね。いろんな教会を回るけど、神父によって対応がぜんぜん違うのはどうしてかって。「神学校では、統一した方針を教えないんですか?」って。(笑) だから、お答えしました。「統一した方針までは教えてないけど、聖書は教えてるし、その聖書には貧しい人を助けましょうって書いてありますよ」って。
その方がね、ある神父さんにこう言われたって言うんです。
「あなたねえ、世界にはもっと困ってる人がいるんだよ。難民キャンプの人は、どれほど困っているか。それを考えたら、今の日本で生きているあなたなんか、幸せなんだよ」って。 で、「教会は祈るところですから」って戸を閉められた、と。それでね、彼、こう言うんですよ、
「たぶん、その神父さんのところに、難民キャンプの人が援助を求めて来たら、『あなたねえ、世界にはもっと困ってる人がいるんだよ。アフリカの貧しい子どもたちは餓死してるんだから』って言うんじゃないかなあ」って。
・・・なかなか、考えさせられますでしょ。
私、こうして友人が増えていくのが、ホントに楽しいですし、これ、友達だったら、・・・さらに言えば、家族だったら、ごく普通に助け合うじゃないですか。私、しぶしぶとか、掟だからとかじゃなくて、「だいじょうぶ?」ってこっちから駆け寄る気持ちになりたいんですよ。・・・たとえ最初は嫌々でも、考え直してぶどう園に行っているうちに、「おっ、ぶどう園、結構いいじゃないか」と、「知らなかった、これ、ホントに楽しい仕事だ。ここで仲間にも会える。家族が生まれる、天国、もうここに来てるよ」と、そう思えるような自然な人間関係に憧れます。
昨日は笑いが絶えない、ホントに楽しい夕べでした。うれし涙を流してた人もいた。ほんのひと時ですけれど、これから毎月やっていくのが楽しみでしょうがない。来月のメニューも、もうスタッフで話し合ってるんですよ。ぜひ、応援してくださいね。応援っていっても、スタッフはもうそれなりにいるので、お祈りをはじめ、有形無形の応援をお願いしたい。でも、一番の応援は、皆さんも、自分の現場で、ちょっとチャレンジしてみるっていうことじゃないですかね~。私のやってることなんて、どれもおままごとみたいなことにすぎませんけど、小さなモデルにはなってると思うので、皆さんも皆さんなりに、何かちょっとチャレンジしてほしい。「考え直して」、出かけてほしいのです。
今日の『聖書と典礼』に、教皇さまの言葉が紹介されてますね(※6)。 「テレビで難民たちのニュースを見るとお金を送ったりはするのに、自分の家の扉の所に貧しい人が来て物乞いをすると、事情が変わる」と。・・・鋭い指摘ですね。身近な出会いだと、個人として関わらなきゃならなくなるからです。でも、その「個人として関わる」というところに、大きな恵みがある。考え直して関わって、神さまからのあふれんばかりのあわれみの心、それが、自分を通して一滴でも流れ出たときに、「ああ、神さまと結ばれてるんだ!」って感じられる。
その喜び、そこで味わう安心感、そこに、希望が生まれる。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「・・・去年の今ごろの説教を思い出しました。(中略)金色の光が差し込んでとても美しいっていう話ね」
(参考)
・ 「聖堂の鍵、開いています」(「福音の村」2016/10/2説教:最初の段落から)
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※2:「『運慶展』、ご覧になりましたか?」
「興福寺中金堂再建記念特別展『運慶』」 のこと。
日本を代表する仏師、運慶の作品を、ゆかりある興福寺をはじめ、各地から名品を集めて、その作風の樹立から次代の継承までをたどる。
会期: 2017年9月26日(火)~11月26日(日)
会場: 東京国立博物館[平成館](東京国立博物館ウェブサイト)
交通: JR「上野駅」公園口、「鶯谷駅」南口より徒歩10分
東京メトロ(銀座線・日比谷線)「上野駅」/(千代田線)「根津駅」より徒歩15分
京成電鉄「京成上野駅」より徒歩15分 (交通・料金・開館時間)
休館: 月曜日(ただし10月9日=月・祝=は開館)
時間: 9:30~17:00 金・土・11/2(木)は21:00まで開館。(入館は開館の30分前まで)
チケット: 「公式オンラインチケット 購入ページ」(手数料無料・自宅発券・スマホ入場が選べる)
混雑状況: 「運慶展〈混雑状況〉」(Twitter @unkei2017komi )
===
そのほか、詳細は、以下をご覧ください。
(参考)
・ 「特別展「運慶」公式サイト」
・ 「興福寺中金堂再建記念特別展『運慶』」(東京国立博物館)
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※3:「ご存じですよね、日本最高峰の仏師ですよ」
◎運慶 (生年不詳~1223年)
日本の仏教美術において、最も著名な仏師。
運慶が生きたのは、平安時代から鎌倉時代にかけての激動の時代。貴族に変わり、武家が台頭していくこの時期に、勇ましい顔立ち、躍動感、力強さなどから、深い精神性までを巧みに表し、また、目には水晶でできた玉眼を使うなど、リアリティーのある仏像を数々生み出した。
時代に翻弄された人々が、現世から脱し、極楽往生を願った時代、リアリティーのある仏像は、仏の実在、さらには極楽浄土のリアリティーともつながって、人々に歓迎された。
(参考)
・ 「興福寺に関するトピックス」(朝日新聞デジタル)
・ 「運慶」(ウィキペディア)
・ 「法相宗大本山 興福寺」
・ ※2(参考)と同じ
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※4:「興福寺の無著菩薩と世親菩薩の二体ね、おっきいやつ」
左が無著菩薩、右が世親菩薩
名称: 木造無著菩薩立像 木造世親菩薩立像
時代: 鎌倉時代・1208年前後
作者: 運慶 (実際には運慶の指導のもと、無著像は運助、世親像は運賀が担当したと考えられている)
材質・技法: 寄木造、カツラ材彩色、玉眼嵌入 (かんにゅう)
寸法: 木造無著菩薩立像(194.7cm)、木造世親菩薩立像(191.6cm)
所蔵: 興福寺(奈良県)/安置場所:興福寺北円堂
国宝指定: 2躯で1件の国宝(1951年6月9日指定)
特記事項:
無著と世親は5世紀(4世紀の表記もあり)インドの兄弟僧で、大乗仏教の「唯識 (ゆいしき) 」(注)を大成し、後の仏教思想に大きな影響を与えた。
無著が長男、世親が次男で、老年と壮年に作り分けられている。
双方とも重厚な存在感があり、容貌は無著の「静」、世親の「動」と対照的で、精神的な深みを加えている。写実彫刻の世界的な傑作とされる。
==
(注)「唯識 (ゆいしき) 」:一切の物事はそれを認識する心の現れだとする考え方
(参考)公式ホームページ他、
・ 「木造無著・世親立像」(法相宗大本山 興福寺)
・ 「【国宝仏像】無著・世親立像(運慶作)【興福寺北円堂】の解説と写真」(日本美術鑑賞倶楽部)
・ 「国宝彫刻の一覧」(ウィキペディア)
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※5:「今日の福音書のたとえでいうなら」
この日、2017年10月1日(年間第26主日)の福音朗読箇所。
マタイによる福音書21章28~32節
〈小見出し:「二人の息子」のたとえ〉
===(「たとえ」の部分)===
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」(マタイ21:28-31途中/赤字・マーカー引用者)
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※6:「今日の『聖書と典礼』に、教皇さまの言葉が紹介されてますね」
この日に会衆に配られた『聖書と典礼』のコラム、「たった一人の難民に向き合う」より。
===(『聖書と典礼』から抜粋)===
「(メディアは苦しんでいる人々を頻繁に報道するが)私たちは困窮している人々を避け、遠ざかるという習慣に陥る」(2016年10月19日の教皇一般謁見講話)。
遠い国の難民の惨状を報道で見て、心を痛める私たちにできることといえば献金ぐらいです。教皇フランシスコも、献金は「人の苦しみを軽減するために貢献できる」重要な行為だと言います。しかし、それも「自宅の玄関で貧しい人が物乞いをしたりすれば状況は全く異なってくる」と教皇は指摘します。そのとき、「もはや(遠い国の悲惨な)映像ではなく、私たちが個人的に彼らにかかわることになる」と(同講話)。
(『聖書と典礼』〈年間第26主日A年 2017.10.1〉、「たった一人の難民に向き合う」(p.7)より抜粋、オリエンス宗教研究所/赤字引用者)
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