あなたは門

【カトリック上野教会】

2017年5月7日 復活節第4主日
・ 第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・14a、36-41)
・ 第2朗読:使徒ペトロの手紙(一ペトロ2・20b-25)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ10・1-10)

【晴佐久神父様 説教】

 ゴールデンウィーク、どんなふうにお過ごしでしたか?
 私、もしかしたら、今日ここにいなかったかもしれないんですよ。奄美の加計呂麻島(かけろまじま)に行ってたんですけどね、天候が荒れて荒れて。こっちはそうでもなかったみたいですけど、雨や風や大変でしたし、金曜日に帰ってくるはずが、飛行機が濃霧で降りてこなかった。で、一便欠航するとですね、振り替えがあるわけじゃなく、ただ「欠航」なんです。特に、LCC(Low-Cost Carrier :格安航空券)で行きましたから、もう、臨時便も出さず、ただ欠航しちゃう。
 じゃあ、どうやって帰るのかっていっても、ゴールデンウィークの帰り便ですから、すべて満席なんですよ。その日も、翌日も、東京に戻ってくる飛行機が、ぜんぶ満席。これじゃ、主日ミサに戻れないじゃないですか
 ・・・一瞬、「戻れないのもイイナ」って。(笑) でも、そうもいかない。昨日は、夜6時からの「福音カフェ(※1)」という学生たちの集まりもあったんで、帰らなきゃいけない。あれやこれや画策して、なんとか伊丹行きが取れたんで、その日は空港近くで一泊して、翌日大阪の伊丹に飛んで、空港からタクシーを飛ばして新大阪に行って、満員の新幹線の自由席になんとか乗り込んで、東京駅に着いたのが、もう5時過ぎでしたかねえ・・・。そこからまたタクシー飛ばして浅草教会に戻って、必要な資料を持って上野に着いたら、学生たちが、もう何人か教会の前で待ってたんで、慌ててドアの鍵を開けて、なんとか「福音カフェ」を始めた、と。
 まあ、学生たちは、それで当然だと思っているけれど、私としてはね、やっぱり、どれほど大変だったかっていうことを言いたいんですよね。言わなければカッコいいのにね、(笑) 「戻ってくるの大変だったんだよぉ~😩、君たちのために頑張ったんだよ」って。・・・でも、間に合ったおかげで、昨夜はいい集まりが持てました。

 昨日は、ホントにいい「福音カフェ」だった。
 昨日は初参加の学生がいました。以前からの知り合いの学生ですけど、最近会ってなかったんで、ゆっくり話すのは何年ぶりか。どうしても、学生たちや、晴佐久神父さんに会いたいということで、来てくれました。というのは、彼の中に、どうしても語りたいテーマがあって、それを聴いてほしいっていうことだったんですね。で、それを、みんなの前で、もうホントにしゃべりまくってました。
 彼の中に、閉鎖的な教会に対する不満があるんですよ。まるで律法主義のような現場で、この数年、どれほど嫌な思い、不条理な思いをしたか、その苦しい思いや怒りを語りまくって。・・・まあ、たまってたんですね。そういう意味では、聴いてくれる仲間がいるって、ホントにいいことですよ。「だから今日は、本当に福音を聴きたくて、ここに来たんです」って言うんで、私も、いっぱい福音を語りましたし、学生たちみんなでそれを共有できたし、「福音カフェ、始めてよかったな。いい集まりになってきたな~」って思えました。
 え~、悩んでる学生、救いを求めている学生、どうぞ、第一土曜日午後6時から上野教会、第三土曜日午後6時から浅草教会です。福音を分かち合いたい学生ならどなたでも。
 そんなわけで、昨日はつくづく、「無理して帰ってきてよかったな」って思いました。実は、「もう、福音カフェは休みにしちゃおうかな・・・」って、一瞬思ったんですよね。今日のこのミサに間に合えばいいかなって。でも、「なんとかしよう!」って意地張ったら間に合った。それこそ、私が鍵を開けて、みんなを招き入れることができた。その扉を開けないと、何も始まらない。私の責任、重大ですよ。私が鍵を開けると天国が始まるのに、開けないと何も始まらない。その語りまくった彼だって、せっかく来ても、扉は閉まってる、神父もいないじゃ、がっかりして帰るしかない。・・・鍵持ってる者の責任、おっきいですよね~。
 教皇フランシスコが、教会の門を開けとけ、扉を開けとけってね、繰り返し言ってますけど、言うまでもなく、それは、鍵を預かってる者に向かって言ってるわけでしょう。もちろん、ただの鍵の話じゃない。人々を招き入れる使命を預かっているキリスト者の責任です。たとえば、そもそも、「福音カフェ」を始めること自体、「門を開いた」っていうことですし、閉鎖的で内向きな教会のままで何も始めないこと自体が、「門を閉ざしたまま」ってことでしょう。

 「わたしは門だ」って、イエスさまが、そう言います(ヨハネ10:9)(※2)
 「わたしは羊の門だ。
 わたしを通って、
 羊は神の国に入る。
 真の喜びを知る。
 救いを味わう。
 信仰の仲間たちに出会う。」(cf.ヨハネ10:7-9)
 ・・・この門は重要です。
 しかも、イエスは「門」ですけれど、今や、イエスと一つになっているキリスト者たち、すなわち、私もあなたも、「門」なんです。自分が門をくぐるだけじゃなく、「私も門だ」っていう感覚がないと。「イエスが門であるならば、私もイエスと一つになって、門になれるんだ」っていう、そんな感覚ね。
 皆さんは、イエスさまという門をくぐって、救いの牧場に入りました。「ああ、よかった、よかった」って、それはいいんだけど、もうそろそろ、「私も門だ」っていうことを知ってほしいですよ。あなたという門を開けたら、どれほどの救いが、救いの現実が、そこに実現するかということを知ってほしいですよ。だって、それを知ってたら、だれだって当然、開けるわけですから。
 たとえば、震災直後とかにね、家の前に、「水をください!」っていう人がいて、自分の家には水がいっぱいあったら、「どうぞ、どうぞ!」ってね、扉を開けますでしょ。人として当然の事じゃないですか。「いや、ぶっそうだから締めとこう」とか、それこそ、のどが渇いた子どもが外で泣き叫んでいても、「自分で何とかしたらいい」って門を閉ざしたままなら、人としてどうかってことになる。
 開ければ、みんなが助かる、素晴らしいことが始まるって分かっていたら、開けるはずなんですよ。閉鎖的な教会にしても、自分が門だって感じない、開けようって思えないのは、「開けたら素晴らしいことが起こる」っていうことを、単に知らないだけなんです。だから、それを少しずつ知っていきましょうよと呼びかけたいですね。門を開けるのって、別に難しい話じゃない。開きゃいいだけ。特に立派なことしなくてもいい。ともかく開ければ、そこを通ってだれかが入ってきて、何か素晴らしいことが起こる。
 まずは、「私もまた、キリストの門だ」っていう自覚をね、大切にしたいと思う。

 今回、奄美に行ったのは、「福音家族」合宿のためです。5年前でしたか、加計呂麻島に、福音的な家族づくりのための合宿所をつくりました(※3)。20人くらい泊まれます。「今回のゴールデンウィーク、福音家族をやりましょう」って呼びかけたら、16人集まった。メンバーには、お互いを知らない人もいる。信者じゃない人もいる。今年洗礼を受けた人も、3人いた。「神さまが集めた仲間で、助け合いましょう」っていう、まあ、福音家族の特訓って感じですね。ですから、出かける1週間前に、その家族で集まって、「今年のゴールデンウィークは、このメンバーが家族ですよ!」って、お互いに紹介し合って、名前を覚えて、お祈りしました。
 その中の二人が、合宿所で「婚約式」をやったんですよ。婚約式って、皆さん、出たことあります? なかなかいいもんですよ。
 「結婚式」ではない。・・・結婚式は、もう神の前での誓いですから、解消できません。両方が信者なら、秘跡ですからね(※4)、ちょうど洗礼が取り消せないのと一緒です。神さまが結んだものを、人が分けることはできません (cf.マタイ19:6、マルコ10:9) (※5)
 だから、婚約式はね、そういう結婚の約束をする、それがいかに重要なことか、いかに素晴らしいことかを理解したうえで、よい準備を始めましょうっていう式になるわけです。それこそ、お互いが門になってね、お互いに門を開いてね、お互いを通して神さまに出会えるような、そんな尊いパートナーとなるんだっていうことを真剣に考えながら、結婚を前提とした準備を始めましょうっていう、そういう約束をする。だから、やっぱり婚約式も、ちゃんとやったほうがいいんじゃないですか。
 ただ、そうはいっても、まだ結婚式じゃないんで、たとえば、「婚約式ミサをやっちゃいけない」とか、そういうルールがあるんです。ミサとつなげると秘跡になっちゃうからね。婚約は破棄できますから。
 だから、「結婚したいんです」っていう二人が相談に来たとき、一応申し上げるんですよ。「ホントにいいんですか。取り消せませんよ」ってね。冗談で、「婚約式にしておけば、いつでも別れられますよ」(笑)って言うと、皆さん、「いやいや、結婚式でお願いします・・・」って言うんですけど。でも、一生のことですし、まずは婚約式ってのも、いいんじゃないですか。

 今回の婚約式には、彼らをよく知っている仲間たちも参加してましたし、それこそ「家族」に囲まれた、温かい式になりました。美しい海の見えるテラスで、潮風に吹かれながら、二人並んでね、「これから、二人よく話し合って、よい準備を始めます」って約束しました。親しい友人がね、感動して涙ぐんだりして、いい式でしたよ。
 婚約した彼は、私のところに、数年前突然現れて、「キリスト教のことを学びたい」って言うんですね。その理由が、「最近、彼女ができた」と。相手は韓国人ですけど、日本で出会って付き合い始めたそうで、その彼女がカトリック信者だったんですね。・・・韓国、カトリック、多いでしょ? もちろんご両親もカトリックで、熱心な一家なんですね。それを知って、彼は、「愛する彼女の信仰をもっと知りたい、信仰の話ができるようになりたい、できれば洗礼を受けたいって思った」って言うんですよ。
 私、ちょっとね、感動したっていうか、いいですよね、そういうの。本当に愛してるから、その相手の一番大切なこと、信じていることを知りたい。できれば、同じ信仰を持ちたい。その、熱い思い。・・・「愛」ってことですよね~。今、「うちのダンナも、そう言ってくれればよかったのに・・・」って思ってる人、いるんじゃないですか?
 私は、その彼に「教会は家族だ」っていう話をしましたし、「恋愛、結婚、それは、単なるこの世のつながりだけのことじゃない。神さまに結ばれた、神さまの家族になっていくことなんだ」っていう話をし、彼はそれに感動して、教会の青年たちとも親しくなり、次の復活祭に洗礼を受けました。
 これで、晴れて、彼女と二人ともカトリック信者となり、その彼女も、教会に来るようになった。だから、その二人が、「婚約式をしたい」って言いだしたときはね、すごくうれしかったし、この二人の婚約式を仲間たちでやろうって思いました。で、彼にとっては、加計呂麻の合宿所は、それまでも福音家族を体験した、すごく大切な合宿所でもあるので、「そこに、どうしても、彼女を連れて行きたい」と、「彼女にも、この信じる家族の喜びを味わってもらいたい」と、そういう思いで、「合宿所で婚約式をしたい」と、まあ、そういう彼の熱い思いもあって、今回の式になりました。
 婚約式のあとで、彼女がスピーチしてくれたんです。感動しました。
 「私は、韓国を出てくるときは、まさか日本人と結婚することになるなんて、夢にも思っていなかった。まして、彼と付き合いだしたとき、彼が洗礼を受けるなんて、夢にも思っていなかった。そして、その彼と、こんなに素晴らしい、家族のような仲間たちと共に婚約式ができるなんて、ホントに夢にも思っていなかった。すべては、神さまのご計画と思うと、私は本当にうれしい」
 神さまのご計画を実現させるのが、福音家族です。
 「イエスさまは門だ」っていう話を、今日も読みましたけれども、そして私たちは、その門を入った者なんですけれども、その門って、どこにあるんですか?
 婚約した彼にとっては、彼女が「門」なんですよ。その門を通って、イエスさまに会えたんです。
また、彼女にとって、その彼も「門」になってるんですね。その門を通って、福音の家族に会えたんだから。私は、「ああ、いいパートナーだな~」と思ったし、でも、お互い、そういうことなんじゃないですか、キリスト者って。
 私も「門」になっているし、あなたも「門」であるべきだし、みんなも「門」になっていくんだし、だから、もっと自覚しなくっちゃならないはず。だって、いくら「門」っていっても、「ここが門だ」って分かんないと入れないじゃないですか。「開いてるよ」って知らせないと、入ってこないじゃないですか。キリスト者はみんな、そういう「門」としての役割を持ってると思いますよ。

 ペトロの説教を、ちょっと見ていただきたいんですけれど、・・・第1朗読(※6)ですね。
 ペトロはね、イエスという「門」をくぐって、まさに、キリストの弟子になった。いや、弟子どころか、復活の主と会って、イエスと一つになった。だから、ペトロのなすべきことは、「自分も門になる」っていうことです。・・・なので、黙っちゃいられない。奥まった部屋に閉じこもってはいられない。「門」なんだから。
 で、ペトロは、同じ思いの11人と共に、その家から「出てきて」「声を張り上げて」、「み~んな知ってくれ~!」と話し出す(※7)。彼の口は、このとき、「門」です。彼の行いは、「門」です。
 その門を通って、「三千人ほどが仲間に加わった」って、ここに書いてある(使徒2:41)。キリストの教会が始まった。福音家族の出発点ですよね。その三千人が、それぞれまた門になって、それぞれもう三千人集めたら、もうそれで、何人だ?・・・計算できない・・・。(笑) まあ、三千掛ける三千人、仲間に加わるわけですよ。すごいことでしょ? そうして、今、キリスト信者は20億人くらいいるわけですけれども、これ、そのうちの誰かがさらに門にならないと、この後一人も入れない。
 ペトロが、「悔い改めなさい」って言ってますでしょ (使徒2:38) (※8)。「どうすりゃいいんですか?」って人々に聞かれたら、「悔い改めなさい」って。この「悔い改め」っていうのは、「神さまの愛に目覚めなさい」ですよ。「この私は、本当に神さまに愛されてるんだ。神の子なんだっていうことに目覚めなさい」ってことです。
 そして、「イエス・キリストの名によって洗礼を受け」 (使徒2:38) って、これはもう、「私は、『神さまの愛』という洗礼を受けてるんだということに気づく」っていう、そういうことですよ。洗礼を受けて、救われるんじゃない。「救われている」と気づいて、洗礼を受けるんです。
 そうして、「罪を赦していただきなさい」 (使徒2:38) 。神を知らない、あの闇の世界から、神の愛を信じる家族の素晴らしさに出会っているという、それがもう、罪のゆるしです。ペトロは、そのようなことを自分が体験しているので、「あなたたちも、この門を入ってきてくれ!」って声を張り上げてる。「これを、皆さん、信じてくれ!」と。
 「あなたも救われてますよ」「この門を入ってきてください」「安心してください。私が共にいます」と、「あなた」という門を開いていただければ、三千人、仲間が加わるんです。

 第2朗読(※9)でいうなら、「あなたがたは羊のようにさまよってましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」 (一ペト2:25)
 今、「羊のようにさまよって」いる人、いっぱいいますよ。「魂の牧者」のところに、ちゃんと、みんなを呼び寄せなければ。これは、教会の扉を開くのも大事ですけれども、まずは、「あなた」という門を開かないと。そこを通して、いっぱいの人がね、入ってきます。

 先ほどお話しした、昨日の「福音カフェ」でしゃべりまくっていた青年、実は、昨日、とても偉かったんです。晴佐久神父のとこで福音を聴きたいと思って来たわけですけれど、自分が聞くだけじゃなく、ぜひ聞かせたいという人を連れて来たんです。
 連れて来たのは、大学1年生の女性ですけど、彼女は、東京の大学に出てきて、一人暮らしでさみしくて、どこか教会に行ってみたいと思って、たまたま彼の教会のミサに行ってみたんですね。信者じゃないんですけど、キリスト教にとても興味があった。で、たまたま、彼のすぐ後ろに座ったんです。まあ、彼にしてみたら、見知らぬ女の子が、すぐ後ろに座ってたわけですけど、彼は、ミサが終わると同時に、後ろをバッと振り向いて、彼女に、「ここ、初めてだよね?」って声を掛けた。それが縁で友達になり、彼は、ぜひ彼女を「福音カフェ」に連れて行きたいっていうことで、昨日、連れて来たんですよ。
 彼女は昨日、学生の仲間たちと知り合って、本当に喜んでたし、私、その彼女に、福音を語りました。そして、「福音の勉強をしましょう!」って、お誘いしました。
 今日の聖書で、「私は門」っていう箇所を読んでて、つくづく思うのは、門の素晴らしさです。
 後ろ振り向いて、「初めてだよね?」って、・・・すごいでしょ。
 その一瞬なんです。天国の門が開く瞬間、・・・なんて美しい瞬間だろう。
 皆さん、今、自分の隣に誰がいるか、すぐ後ろに誰がいるか、気づいてますか?
 いつも、ちょっと気にして、「初めてだよね?」って声を掛けてあげてくださいね。
 ・・・その瞬間、あなたは門になる。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「福音カフェ」(既出)
 スタートして1年ほどになる学生の集い。共に福音を語り合い、一緒にごはんを食べる、家庭的な集まりです。
 まだ模索中のところもありますが、キリスト教に関心があり、福音的なつながりを求めている学生であれば、どなたでも大歓迎。信者か否か、元気か否かなどは問いません。
 原則、
毎月第1、第3土曜日の18時から集まっています。
 場所は、
第1土曜日が『カトリック上野教会』Googleマップ
    第3土曜日が『カトリック浅草教会』Googleマップです。
 お休みだったり、場所が変わったりということもありますので、ご注意ください。
(参考)
・ 「『福音カフェ』のご案内」(「福音の村」サイト内)
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※2:「『わたしは門だ』って、イエスさまが、そう言います(ヨハネ10:9)
この日、2017年5月7日(復活節第4主日)の福音朗読箇所から。
 ヨハネによる福音10章1~10節
  〈小見出し:「羊の囲い」のたとえ10章1~6節、「イエスは良い羊飼い」7~21章から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 」 (ヨハネ10:7/赤字引用者)
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、を出入りして牧草を見つける。 」(ヨハネ10:9/赤字引用者)
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※3:「5年前でしたか、加計呂麻島に、福音的な家族づくりのための合宿所をつくりました」 (既出)

(参考)
・ 「ぼく、残るよ」(「福音の村」2015/8/30説教:【参照】※1
・ 場所の詳細・広域地図>「Google マップ」・「国土地理院地図
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※4:「両方が信者なら、秘跡ですからね」
◎ 「秘跡」
・ 諸秘跡はキリストによって制定され、教会にゆだねられた、恵みを実際にもたらす
感覚的しるしです。これによって神のいのちが私たちに豊かに注がれます。秘跡は7つあります。すなわち、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚です。(『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』#224、カトリック中央協議会、2010年/赤字引用者)
*****
◎ 「両方が信者なら、秘跡」
・ 結婚の秘跡ですが、カトリック教会で挙式をすれば、
秘跡になるのかといえば、そうではなく、新郎新婦が信者である場合に限られています。聖書はこう書いています。「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」(エフェ5・30)。洗礼の秘跡によって信徒は、イエス・キリストと深く一致し、キリストの神秘的な体の部分となります。その結合は、信者同志の結婚に際して、新郎新婦を解くことのできない絆によって結ぶことによって開花します。「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』(エフェ5・31)、この神秘は偉大です」(「結婚の秘跡について」/赤字引用者<聖パウロ修道会)
・ カトリック信者同士の結婚式は「
ミサによる結婚式」、カトリック信者が信者でない相手と結婚する場合はことばの祭儀による結婚式」が行われる。
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※5:「神さまが結んだものを、人が分けることはできません (cf.マタイ19:6、マルコ10:9)
・ 「イエスは、創造主が当初に望まれた男女の結合の本来の意味を明確に教えられました。すなわち、モーセが妻を離縁する許可を与えたのは、人間の心のかたくなさゆえの譲歩でした。男女の結婚による結合は不解消です。それは神ご自身が夫婦を結び合わせたからです。『
神が結び合わせてくださったものを、人は話してはならない (マタイ19:6) (『カトリック教会のカテキズム』#1614/赤字引用者、カトリック中央協議会、2002年)
(参考)
・ 「結婚の秘跡」(『カトリック教会のカテキズム』#1601~#1666、カトリック中央協議会、2002年)
・ 「結婚の秘跡」(『カトリック教会のカテキズム 要約』#337~#350、カトリック中央協議会、2010年)
・ 「結婚の秘跡」(『YOUCAT』#260~#271、カトリック中央協議会、2013)
・ 「福音書のことば ⑦神の結びを、人は離してはならない(上智大学教授:雨宮 慧、ききて:草柳隆三/2010/10/17「こころの時代」NHK教育テレビ<「心の時代へようこそ」)
・ 「結婚の秘跡について」(聖パウロ修道会)
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※6:「第1朗読」
この日、2017年5月7日(復活節第4主日)の第1朗読の箇所は、以下のとおり。
 使徒たちの宣教(使徒言行録)2章14a、36~41節
  〈小見出し:「ペトロの説教」2章14~47節から抜粋〉
*****
 五旬祭の日(聖霊降臨の出来事が起こった日)、聖霊に満たされた弟子たちを代表してペトロが集まった人々に語った説教の結びのことばと、それに対する人々の反応を伝える箇所。 (『聖書と典礼』〈復活節第4主日A年 2017.5.7〉、p.2、オリエンス宗教研究所)
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※7:「ペトロは、同じ思いの11人と共に、(中略)と話し出す」
===(聖書参考箇所)===
〔五旬祭の日、〕ペトロは11人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 (使徒2:14/赤字引用者)
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※8:「ペトロが、『悔い改めなさい』って言ってますでしょ (使徒2:38)
===(聖書参考箇所)===
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 (使徒2:37~38/赤字引用者)
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※9:「第2朗読」
この日、2017年5月7日(復活節第4主日)の第2朗読の箇所は、以下のとおり。
 使徒ペトロの手紙(ペトロの手紙一)2章20b~25節
  〈小見出し:「ペトロの説教」2章14~47節から抜粋〉
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2017年5月7日(日) 録音/2017年5月31日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英