あそこに行けばピタリと治る

2015年4月26日復活節第4主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録4・8-12)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・1-2)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ10・11-18)

【晴佐久神父様 説教】

 素晴らしい三つの朗読を聞きました(※1)。 ・・・励まされます。特に、私、第2朗読のヨハネの手紙が大好きで、とっても励まされる。
 実は昨日の夜のミサでは、この第2朗読が2度読まれたんですよ。第1朗読の人が、第2朗読を読んじゃった。(笑) もっとも、その人のせいじゃなくって、侍者がわざわざ、「はい、ここをお読みください」っていうふうに、第2朗読の箇所を指さしちゃったんです。まあ、でもこれ、何度読んだって構わないっていうくらい、いいところなんですよ。
 「わたしたちは、
今すでに神の子である。そして、御子(みこ)が現れるとき、御子に似た者になる」(cf.一ヨハ3:2/強調引用者)
 これです。この「
すでに」そうだけれども、「さらに」こうなるっていう信仰です。
 こんないい話はない。こんなぜいたくな話はない。これこそキリスト教の本質ですよ。私の説教では、いつもそこを強調しますでしょう。
 「あなたがたはもう
すでに、救われてますよ。そしてさらに、救いの完成の日が待ってますよ」
 ・・・これは、福音です。ただつらい現実をじっと我慢するだけとか、ただこれからの日々を心配するとかっていう話じゃない。「あなたがたはもう
すでに神の子なんです。で、さらに、完全なる神の子になります」っていう、この「すでに」と「さらに」にしっかり守られた状態っていうのがね、ぜいたく極まりないというか、だれよりもキリスト者こそが気づいている、最高の福音感覚でしょうね。

 絶対、いいたとえじゃないと思うんですけど、今の私の脇腹の状態がそうなんです。(笑)
 もう神父の脇腹の話(※2)なんか、聞きたくないでしょうけれど、報告の義務もありますから、(笑) 一応ご報告すると、これが驚くべきことに、4月の21日に、ピタリと治まった。(え~!?)
・・・いえ、でも、正確に言うと、その日から劇的によくなり始めたってことですけど。今日あたりはもうほとんど気にならないかな、みたいな感じ。だから、「ピタリと」って言えるかどうかは分からないけど、でもその日から確実によくなりました。
 たとえば、山登りしてて、ず~っとつらい上り坂だけど、やがて山頂広場に出ますよね。平らになる。「着いた~!」っていう、あの状態です。「山頂広場に出ました、本当はまだ山頂の一番高い標識の所ではないけど、明らかに楽になって、もう着いたも同然」っていう、まさに、あれ。
 ・・・恐るべし、カリスマ医師。(笑) 4月21日、ホントにその日からでした。
 サクラにたとえるなら、「開花宣言」って状態ね。まだ、満開じゃない。けど、一輪も咲いてなかった時とはぜんぜん違う。そして、いったん咲き始めたら、もう花がつぼみに戻ることはないでしょ。 あとは満開を待つばかり。
 それまでひと月、いろいろ忍耐してたんですよ。体、自由に動かせないし、車を運転しても痛いし、寝返り打つのも一苦労だと、気も滅入(めい)るというか、何かやってても、ついついそのことが気にかかっちゃって、本気も元気も出ない・・・みたいな感じだったです。
 先日の聖金曜日なんか、ちょうど一番痛いころだったのに、入堂の後、祭壇前にひれ伏す儀式がありましたでしょ。・・・あれ、突っ伏した時、ホントに痛かったんですよ。 ちょうどイエスさまがお亡くなりになった日で、脇腹突き刺されたってありますけど(cf.ヨハネ19:34)、もう、それ、まさに身をもって体験しましたって感じ。あのころを考えると、「まだ完全ではないにせよ、劇的によくなった♪」ってワクワクする、この感じっていうのは、ホントに気持ちいいですよね。
 この、「もうすでにその段階に入りました」っていう喜びね、これが、皆さんの信じている新約の喜びなんです。この喜びには、さらに、完成形があるんです。真の満開の日が。しかもそれは、想像以上の満開になる。たとえば桜の木全体がパッと透明になって、天上の桜として咲き誇る、みたいな。それはもう、単にこの世で「桜が満開」なんていうレベルじゃない。この世では想像もつかないような、「御子に似た者となる」(一ヨハ3:2)天の栄光の世界に、私たちは入ります。
 お医者さまに「4月21日」って言われた時に思わず笑ったことを、なんだか申し訳なく思ってるんですよ。でもあの時、はっきりそう言われて、すごくうれしかった。骨が折れてるかもとか、内臓は傷ついてないだろうなとか心配してたのが、「だいじょうぶ、3週間痛むけど、21日にはピタリと治る」って言われて、本当にホッとしたんです。
 ああいうカリスマ医師のようになりたいですねえ。悩んでる人が相談に来てね、「神父さま、真っ暗闇です。とってもつらいです。信仰も失いそうです」って言ったら、「だいじょうぶ! 5月21日にピタリと元気になる」(笑)とかってね~、やりたいなあ。

 もっとも、日にち言わないなら、もうやってるようなもんですね。日にちなんかは言わずに、「いつか必ず完成する」っていうのが、福音のいい所です。だからこそ、今日という日を、希望を持って生きていける。・・・「すでに」そして「いつか」「必ず」完成する。「すでに」始まっていて、「さらに」完成する、その間の時間なんですね。イエス・キリストが復活して、それを信じた私たちキリスト者が生きているこの人生の期間は、そういう時間。実は、信じていない人たちもみんな、「すでにさらに」なんだけれど、みんなはそれを知らない。
 だからこそ、ペトロなんかは、・・・これ、第1朗読ですけど、声を大にしてね、「もう主は復活した。あなたたちは、この復活したイエス・キリストによって救われるんだ。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、与えられていない」って言う(cf.使徒4:10~12)
 これはもう、ペトロにしてみたら、黙っていられないんですね。到底黙っていられない。「イエス・キリストの名前」、これをすべての人に知らせたい。・・・「神が復活させたあの、イエス・キリストの名」(cf.使徒4:10)、その恵みによって私たちは
すでに救われているし、さらに、それが完成させられていくという事実。ペトロなんかは、イエスと共にいったん死んで、真っ暗闇を体験してるわけですから、「主の復活によって救われた」っていう、この喜び、その事実を、黙っていられるはずがない。
 「私たちは
すでに神の子だ。それを知って信じて、さらに、真の神の子になる日を待ち望もう。あなたたちは今、そのような救いの状態にあるんだ」ってことは、もうこれ、言い続けるしかないわけです。取り調べを受けている最中だろうが、何も恐れずに語り続けます。
 「『イエス・キリスト』、この名前、このお方を、あなたたちみんなが知るべきです。神はこのお方を復活させて、あなたたちはもう
すでに、このイエス・キリストに救われてます。そしてさらに、いつの日か、万物が新しくなるその時に、救いが完成するのです」って、そういう内容の福音を言い続ける。
 今日、多摩市議会の選挙ですけど、昨日まで選挙カー、うるさかったですね。地方選挙ってのは、なんともうるさいですね。国政選挙だとそれほどでもないですけども、市議会選挙なんかだと、細い道、津々浦々まで、選挙カーが入り込んできて。あれ、やってることは、ともかく、その名前を書いてもらいたいから、連呼するわけですね。名前をず~っと言い続ける。
 あのモチベーションですよ、ペトロは。いや、あれどころじゃない、「イエス・キリスト」っていう名前は、永遠の命に関わるわけですから。選挙カーで連呼する名前がホントにわれわれを救ってくれるかっていうと、アヤシイもんですけど、ペトロにしてみたら、この「イエス・キリスト」の名前こそは、全人類を、全歴史を救うわけですから、もう、連呼ですよ。
 「イエス・キリスト! イエス・キリスト!! どうぞイエス・キリストをよろしくお願い申し上げま~す!!」って、(笑)、これ、われわれも宣伝カーでね、言って回ってもいいくらいでしょ。
 「イエス・キリストは、皆さんを必ずや、必ずや、神の国にお連れすることをお約束申し上げます!(笑)イエス・キリスト! イエス・キリスト!!・・・・」って、二千年間、もうまさに宣伝カーのように、キリストの教会は、この名を連呼をし続けているんです。われわれも、それをお手伝いしないと。みんな、この名を知らずに苦しんでるから。

 今日のこの福音書で読まれた、そのイエス・キリストですけれども、イエス・キリストのお約束ですと、「一人の羊飼いに導かれて、みんな一つの群れになる」(cf.ヨハネ10:16)。・・・その日が来るんですよ。夢のようですね。こんなバラバラな世の中、憎しみ合って、殺し合っているような世の中が、「一人の羊飼いに導かれて、みんな一つの群れになる」。今の状況を見たら、そんなこと無理だろうって思うかもしれないけど、私たちは信じます。逆に言うと、その一つの群れにできるお方をこそ、われわれは、救い主として信じます。イエス・キリストが確かにそういうお方だってことを、まさにイエスが、私たち羊のために進んで命を捨てるキリストだからこそ、信じられる。
 「イエス」っていうのは、この世のイエスですね。
すでに神の子であるイエスです。私たちのために生まれ、私たちと出会い、私たちのためにいのちを捧げてくれた神の子です。「キリスト」っていうのは、まさに、そのイエスが、さらに、復活の主としてすべての人の救い主となり、天の父とひとつとなり、天の国の完成形となったキリストです。・・・「イエス・キリスト」っていう名前自体が、「すでに」と「さらに」の合体なんですよ。分かります?
 イエスこそがキリストです。「イエス」は、この世のイエス。それは復活の主、「キリスト」として、今も私たちを救っている。そして完成の日には、そのイエス・キリストに似た者に、私たちはなる。
 「イエス・キリスト! イエス・キリスト!!」って連呼するっていうのは、「
すでに」私たちはもう、イエスと共にあり、「さらに」キリストと一つになっていく。・・・こういう信仰ですね。
 「この名」、・・・この名前を信じるっていうことは、ただカタカナ7文字を信じるのでなく、「
すでに」と「さらに」を信じるっていうことでもあり、これに私たちは救われるんです。励まされる。今日どんなイヤなことあがっても、それはやがて喜びの完成形に向かっているんだ、と。

 今週から入門講座(※3)が始まりましたけど、すでに新しい方も来てくれていて、私は、この救いを連呼するわけです。
 「あなたたちは、もう
すでに、救われてるんだ、安心してほしい」・・・そう、連呼いたします。
 「そして、やがて完成の日がくる。だいじょうぶだ。共にそれを待ち望もう。信じよう。全面的に信じよう」・・・そう連呼いたします。
 入門講座って、そういう福音に出会うときです。
 おととい、隣の教会の牧師先生が来ましたけど、・・・あの、いつもお話ししてる隣の教会の話(※4)ですけど、そこの牧師先生が、月に一度来るでしょ。で、今回、「多摩教会のまねをして、4月から入門講座を始めました」って言うんです。逆にビックリしました、「なかったんですか!」って。
 さらにビックリしたのは、入門講座のない教会のほうが多いんですって、プロテスタントの教会では。カトリックでもないとこありますけど、常設の入門講座がない教会なんて、私は、はっきり申し上げますけど、教会とは呼べないと思う。・・・ありえない。常設の入門講座がない教会なんて、そのうちその教会自体が消えますよ。・・・無くなります。
 現に、牧師先生、言ってました。「この多摩ニュータウン通り沿いに、たくさんのプロテスタントの教会があったけど、最近減り始めました」と。まあ、教会を畳む所が出てきたって言うんですね。これからはもう、劇的に、そういう傾向は出てくると思う。私は全く実感がないですけど、カトリック教会でも、高齢化が進み、若い人がいないっていう教会が増えているそうです。かく言う多摩教会だって、「多摩ニュータウンは人口流入でどんどん信者も増えました」なんて言ってたのは、かつての栄光の時代の話で、それにしたって多くは転入者で増えてたわけでしょう。入門講座をちゃんとやらずに、増えるわけがない。講座をていねいにやらないで、どうやって仲間を増やすんでしょう。入門講座を常設していない教会は、間違いなく消えていく教会ですね。
 その点、隣の教会は偉いですよ。もう、そこに気づいて、「多摩教会のようにやっていきたい」と言って学んで、・・・って学ぶどころか、入門講座のチラシを見せてくれたんですけど、・・・そっくりなんですよ!(大笑) 多摩教会と。招きの言葉なんて、まんま、パクリ。(笑) 一言一句変わらずみたいな感じ。プロテスタントでは一般に「求道者クラス」って言うらしいですけど、そこも「入門講座」にして、「土曜日の午前10時半から」なんていうのもそっくり。しかもこっちが復活祭休暇なんていって、始めたのが今週からでしょ。それを向こうは、2週間早く始めて。(笑) で、「もうすでに6人来た♪」って言ってね、すっごく喜んでた。それは、その教会にとって、驚くべき出来事なんですね。「常設の入門講座を始めたら、そのクラスに6人も新しい人が来た」ってことが。
 まあ、うちの入門講座は、金、土、日と週3回もやってるわけですし、新しい人が来るのは当たり前って思ってますけど、お隣では当たり前じゃないんですね。・・・あんまり喜んでるんで、なんかちょっと悔しいような・・・(笑)。うちも、もう2週間早く始めていれば、その6人はもしかしたら(笑)・・・なんて、取り合うつもりはありません(笑)。その6人が救われればいいわけですからね。多摩教会の影響で始まった講座で救われれば、こっちもうれしいわけですし。
 でもこの先生、偉いでしょう? 真似して始めるって、なかなかできることじゃないです。そうして、教会の本質に気づいて、それをちゃんと始めるっていう、ああいう先生とは、私、すごく気が合うし、気持ちがいいですね、お話してても。
 「チラシ、うちの教会にも貼りますよ」って、1枚もらいました。・・・いいでしょう? 隣の教会の入門講座のチラシが貼ってある教会。(笑) カッコよくないですか? 私、いいと思います。選ぶ権利ありますからね。こういう競争って、大事でしょう。
 ただ、お隣さん、さあ、ここからが大変ですよ。その6人を真の救いに目覚めさせられるか。受洗にまで導けるか。それはもう、その講座が真の福音を語っているかどうかにかかっている。まさに、「すでにあなたは救われている!」「いつか必ず永遠の喜びが待っている」っていうこの福音を語って語って語りまくり、その救いを現実の出来事として証しし続け、聞いた本人がホントにそれを自分のこととして受け入れ、イエス・キリストの名による救いの喜びに目覚めさせるっていうのは、なかなか大変なことではありますよ。その辺はもう、お手並み拝見、(笑)って感じですけれど。
 ちなみにうちは、今週始まった入門講座に、昨日と一昨日で、新しく来た人が「9人」!(笑)、おります。今日もこのあとありますから、初めての方がいたら、プラスアルファですね。そこはもう、「うちは何人でしたよ ^^」って、お隣にお知らせしようと思ってます。(笑) 彼、「福音の村」を読んでますし。

 この9人に、もうすでに私は福音を語りまくりました。9人それぞれ、福音を求めていますから。いろんな方が来られました。たとえばある方は、皆の前で話してくれました。
 「私は、母親がクリスチャンだったんだけれど、自分は違います」と。だけどその親からね、「あんたなんか生まない方がよかった」っていうようなことを言われたって。
 そういうことを言っちゃう親っていうのが、時々います。「あなたなんか生まれてこない方がよかったのよ」とか。まあ、親が絶対口にしてはいけない言葉ですね。だって、子どもにとって、ある意味、親は全宇宙であり、そこから否定されたようなもので、面と向かってそんなことを言われたら、弱い子どもはとてもじゃないけど生きていけませんから。
 その方はホントに傷つきましたし、苦しみましたし、しかもその言葉がクリスチャンの口から出たっていうことで、「もう教会なんか、金輪際関わるもんか」と思ってたそうです。
 でも、そんな苦しみの中で、最近はいろいろと良い出会いもあり、多摩教会の入門講座になら行ってみようかと思い、今日初めて来ましたっていう方がおられたんですよ。
 だから私はもう、福音を語りました。即座にね。
 「確かにあなたの親はそう言ったかもしれないけど、でもそれは、実は、本当の親じゃないんです」と。
 「あなたの本当の親は、あなたを天地創造の始めから準備していた方。あなたの生まれる前からあなたの存在を望んでいた方。そして、あなたにどうしてもいてほしいと、心から願ってあなたを生んだ方。それがホントの親であって、イエスはその方を、『天の父』と呼んだ。まずは、他の誰よりも、その親の言葉を聴かなければならない。
 天の父は、なにか特別なお考えがあって、あなたのお母さんに、愛するわが子を預けた。わが子を、この世の親に授けた。だから、この世に生まれて来たときは、確かにそのお母さんが親かもしれないけど、それは仮の親に過ぎない。・・・もちろん、仮の親が悪いって言ってるんじゃない。仮の親がいなければ生まれてこないから、その親は、それはもう、尊いおつとめをしたわけだし、その後も(めし)食わせたり、教育したりもするけれど、それも、成人させるまでの話。
 そんな『仮の親』の言葉は、絶対じゃない。その言葉ですべてが終わるわけでもない。そもそもこの世は不完全であり、すべての仮の親は不完全なんだから、その言葉も不完全なのは仕方がないこと。あなたは、本当の親の、完全なる言葉を聴かなくちゃいけない。それを、この入門講座でお話しする。天の父の言葉を聴いて信じて、まことの親の愛を、ここで体験してほしい。
 あなたは
すでに、もう神の子なんだ。そしてこれから、真の神の子になるんだ。
 それまでの間は、まだいろいろ嫌な言葉も聞くかもしれないけど、もう、そんなものは、大した言葉じゃない。かつてのお母さんの言葉だって、変な話、聞き間違いっていうことだってあるし、言い間違いってことすらある。本人が言ったことも忘れてるような、いい加減な言葉だったかもしれないし、病的な混乱状態で口走ったのかもしれない。この世の言葉っていうのは、そういうふうに、不完全なもの。
 しかし、この世にも、完全な言葉がある。それは、天の父が、溢れるほどの愛で語りかけてくれた言葉。イエス・キリストを通して、この私に語りかけてくれた言葉。
 『お前を生んで良かった。お前を愛しているよ』と。
 それを聴いてほしい。あなたが、この入門講座で聴くべき言葉は、その言葉だ」
 ・・・そう、お話ししました。こういう入門講座に出合えたらね、その人のうちにもう、「
すでに」と「さらに」っていう世界が始まるわけでしょ。

 昨日は、引きこもりの娘さんも来てました。
 お母さんが連れて来たんですね。「娘が『行く』って言ってくれて、ホントにうれしかった」って言って、お母さん、本当に喜んでてね。娘さん、勇気を振り絞って、出てきたんですよ。とてもチャーミングで、物静かな娘さんでしたけど、私はもちろん、福音を語りまくりました。
 「もう、あなたはすでに、ここに来ただけで救われてますよ。ここは、あなたの家と一緒です。あなたの家以上に、『あなたの家』です。神さまが親で、あなたは神の子。だから、ここにいていい。どこよりも安心な、あなたの家です。
 ここでは、『ああでなきゃならない』とか、『こうしちゃいけない』とか、そういうことが一切ない。あなたそのままでいい。素晴らしい仲間、神が出合わせてくれて、イエスさまによって結ばれた、信じる家族の尊い家です。緊張しないですむ、あなたの家なんです。
 実は、今住んでるあなたの部屋から、目には見えない長~い廊下が、ず~っとこの教会まで続いていて、ここもあなたの家の一部なんだっていうふうに思ってほしい。わが家から離れて、ドキドキしながらやってくるっていう話じゃなくって、いつものようにわが家の中でのんびりして、気が向いたらこっちの部屋にも来てくれればいい。ここもあなたの部屋なんだから。ぜひ、また来てほしいな」
 そんな風に話してたら、・・・その娘さん、ぽろりと涙、こぼしたんですよ。
 「入門講座」っていう恵みの場は、ホントにそういう苦しんでる人たちが、「救いは
すでにもう始まっている」っていう喜びを知るとこだし、「救いの完成はさらにここからなんだ」っていう希望を持つところだし、そのようなところにこそ、「イエス・キリスト」の名前が燦然(さんぜん)と輝いている。

 昨日来られたもう一人の方は、逆に、娘さんがすでに毎週多摩教会に通ってるっていう方でした。
 その娘さんが家に帰ってくると、「今日もホントにミサに出てよかった」「一週間、つらい思いで過ごしたけれど、ミサのおかげで元気になれた」って、毎週そう言うもんだから、そんなにいいものなのかって、ついにお母さんもミサに来ちゃった、そして入門講座にも出てみたって、そういうことらしい。
 その娘さんの言い方によると、「ホントにもう、疲れ果てて教会に来るんだけれども、入祭の歌が始まり、聖書が読まれ、神父さまのお話を聞いてると、全身の細胞が喜びで沸き立つようだ」、そう言うんですって。・・・いいですねえ、これ。救いって、頭で理解することじゃないですからね。全身全霊で体験するわけですから。神の愛の中で、「全身の細胞が喜びで沸き立つ」って。
 今日のミサの始めに、「一週間、お疲れさまでした」って、ごあいさつしましたけど、今日、ふとそう言ったのは、それを聞いたからです。1週間いろいろあったけど、そんなことは大したことじゃない。今、
すでに私たちは愛されてて、さらに完成していくっていう、この恵みに目覚めて、「全身の細胞が沸き立つ」ようだったら、最高じゃないですか。
 どうぞ皆さん、「私も毎週そのような体験をしている。福音に生かされている。だいじょうぶ、あそこに行ったらいいよ」ってね、だれにでも勧めてあげてください。スピーカー付けて「福音カー」出せとまでは言わないけれども、それくらいの情熱はあっていいんじゃないですか? みんなに言って回ってくださいよ。「カトリック多摩教会に行けば、ピタリと治る」ってね。(笑)
 私だって、こうやって治ったら、ついつい、みんなに勧めますからね。もしも痛い思いしてる人がいれば、「あそこいいよ、あそこに行ったら?」ってことになるでしょ。
 どうぞ、皆さん、自信を持って、隣の教会に絶対負けないように、(大笑) 「あそこに行けばピタリと治る!」と言い続けてください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「素晴らしい三つの朗読を聞きました」
本日、2015年4月26日〈復活節第4主日〉の朗読は以下の三つ。
 ①第1朗読:使徒言行録4章・8~12節
   〈小見出し:「ペトロとヨハネ、議会で取り調べを受ける」(4章1~22節)からの抜粋〉
 ②第2朗読:ヨハネの手紙一・3章・1~2節
   〈小見出し:「神の子たち」(2章28節~3章10節)からの抜粋〉
 ③福音朗読:ヨハネによる福音書・10章11~18節
   〈小見出し:「イエスは良い羊飼い」(10章7~21節)からの抜粋〉
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※2:「神父の脇腹の話」既出
 晴佐久神父は、3月の末、階段を踏み外して脇腹を打撲。痛みがひどくて病院へ。整形外科のカリスマ医師に、「(ぶつけたのが31日なら)、4月の20日の夜まで痛いです。21日の朝から、ピタリと治る」と診断された。
 しかし、先週(19日)の夕の時点では、「まだ痛くて、その日までに治るとは思えない」と説教の冒頭、報告していた。
 ことの顛末は、「復活の二十六つ子」(「福音の村」2015/4/12/説教)の説教中盤(5段落目)を、先週(19日)の報告は、〈「天上での宴の始まり」(「福音の村」2015/4/19説教)〉、説教冒頭をお読みください。
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※3:「入門講座」
 カトリック多摩教会の入門講座には、金曜日クラス(19時~20時半)、土曜日クラス(10時半~12時)、日曜日クラス(12時~13時)の三つのクラスがあります。(祭日は休講。夏休み、冬休みなどもあります)
 内容は同じですので、ご都合のよい曜日、時間を選んでおいでください。いつからでも参加できますし、事前の申し込み、その後の出欠連絡なども必要ありません。自由な気持ちでお越しいただけます。どうぞお気軽にいらしてください。講師は、多摩教会主任司祭の晴佐久昌英(はれさく・まさひで)神父です。(無料)
 2015年の大まかな予定は、以下のとおりです。
春期 > 4月24日(金)~7月19日(日)・・・5月1日~3日は休講・・・
休講 ) 7月20日(月)~9月4日(金)
秋期 > 9月12日(土)~12月20日(日)
冬期 > 1月8日(金)~3月19日(土)〈予定〉
―――――【ご案内】―――――
★「ようこそ、入門講座へ」(カトリック多摩教会ホームページ)
★「入門係らくがき帳」(入門講座のブログ)
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※4:「いつもお話ししてる隣の教会の話」
 「隣の教会」のプロテスタントの牧師先生は、今年(2015年)の1月、多摩教会に初めてやって来られた。
 アメリカで神学の博士号も取り、牧師をなさっていたが、晴佐久神父の書籍などの影響もあり、「自分も、もう一度日本で宣教しよう」と帰国。偶然、隣の教会で司牧している晴佐久神父を、機を見て訪ねてくださった。その後、月に一度は対話の機会を持たれるようになった。
(参考)
・ 「かわいいね~、いい子だね~」(「福音の村」2015/1/11説教)
   >>>説教中盤(上から5段落目 この辺のちょっと上からです)
・ 「神の賜物のソファー」(「福音の村」2015/3/15説教)
   >>>説教中盤(上から5段落目 この辺のちょっと上からです)
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2015年4月26日 (日) 録音/2015年5月1日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英