「福音宣言」と「認識の転回」

2015年5月17日主の昇天
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録1・1-11)
・第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ4・1-13)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ16・15-20)

【晴佐久神父様 説教】

 復活なさったイエスさまの、昇天なさる直前のひと言を、もう一度繰り返します(※1)
 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を()べ伝えなさい」(マルコ16:15)
 「あなたは救われた」という福音を「全世界のすべての人」に伝えなさいという、このイエスさまの命令(・ ・)に従っているとき、私たちの内に大きな喜びがあります。安心があります。救いがあります。

 私の親しい神学生から今朝メールが届いたんですけど、今日の日曜日に、奉仕に行ってる教会で、信者さんの前で、自分の召命について語るんですって。その教会では初めてらしく、「緊張する〜」って言ってました。だから私、緊張しないコツを教えました。
 「福音を語れば緊張しないよ」と。
 人前で話すときって、自分のことを意識するから緊張するんですよね。・・・こんな内容でいいんだろうか、みんなにどう思われるだろうか、失敗しないだろうか。でも、「福音を語る」んだったら、これはもう最高の内容ですし、みんな喜ぶに決まってるし、そもそも神の言葉ですから「失敗」ということがない。だから、緊張がない。これがコツですね。
 私も、もう30年近く人前で語ってるわけですけど、もちろん多少固くなったり気後れしたりすることはあるにしても、・・・結構、もともとが緊張しいですからね、でも、こんなふうに長年確信をもってしゃべり続けてこられたのは、「福音を」語っているからです。自分の考えを語ってるんじゃないから、緊張する必要がない。緊張どころか、福音を語っているときに、みんな救われるし、自分も救われるわけで、語っている私のうちには、むしろ喜びがあり、安心がある。
 福音の一番の素晴らしさは、この「安心」でしょう。人は、この福音を語り、聴くときにこそ、真に安心できるのです。
 「全世界のすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)とありますが、これ、逆に言えば、「すべての造られたものは、福音を聴くために造られている」と、そういうことなんですよ。
 だから、すべての造られたものに、私たちは福音を語り続けます。「もう神の国が来ている」「あなたは救われた」という喜びと安心の世界に、みんなを招きます。
 ですから、「信じて洗礼を受ける者は救われる。信じない者は滅びの宣告を受ける」(cf.マルコ16:16)っていう言葉も、これ、そのような福音の本質を前提として聞かなければなりません。ちょっと勘違いされやすいので、ちゃんとお話しておきますけど、「信じて洗礼を受ける者は救われる」って、これ、何を信じるんですか?
 ・・・言うまでもなく「福音を」信じるんですよね。
 じゃあ「福音」って何ですか?
 「主キリストによって、あなたは救われた」っていう喜びの知らせですね。
 これを信じる者は、「ああ、そうか。私はもう救われてるんだ」と安心する。
 今日は「主の昇天」のお祝い日ですけど、「イエスさまの十字架と復活によって、やがて私たちもイエスさまが昇られた天の国に招き入れられるんだ。それはもう始まっているんだ」と、それを信じるから、救いの喜びに満たされるわけですね。洗礼っていうのは、そのしるしです。救われたと信じた人のしるしとして洗礼を受け、救いの喜びを確かなものとする。
 だから、「信じない者は滅びの宣告を受ける」って、ここが勘違いされやすいんですけど、これは「キリスト教徒にならないと滅びるぞ」とか「この教派の洗礼受けないと地獄に行くぞ」とか、そんな脅しじゃない。「『あなたは救われた』っていう福音を信じない」っていうことは、これはもう必然的に「『私は救われていない』って信じる」ってことなんですよ。論理的に言ってそうなる。簡単な話でしょ。・・・分かります?
 「私は救われた」って信じないっていうことは、イコール、「私は救われてない」っていう宣告を、自分で自分にしてるってことです。・・・「滅びの宣告を受ける」(マルコ16:16)っていうことは、そういうことです。だって、他にだれが宣告するんですか。滅びの宣告をする神なんて、もはや神じゃない。神とはそんなものだという宣告を、自分で自分にしてるだけのことです。
 だから、福音を語んなきゃならないんです。
 「滅びの宣告」のようなことが、もう、今のこの世に満ち満ちておりますから。それはもう、いつの時代でも「滅びの宣告」は流行(は や)るんですね。今の日本も、カルト教団化してるというか、原理主義化してるというか、「これを信じないと災いが起こる」「もはや救いはない」みたいな、なんか暗〜い気配に覆われてます。そういう中で私たちは、福音を聴き、福音を語り、福音を信じます。

 今週のカトリック新聞に、「カルト教団の被害が拡大」っていう内容の記事が載ってました(※2)
 カルト教団の特徴は、「これを信じないと滅びる」「救われる人はごく一部」というような極端な主張にあります。だから「この教団に入らないと滅びるぞ」って言うわけで、福音どころか、まさに「滅びの宣告」(マルコ16:16)なんですよ。救いに入るためには、「これをしなければならない」「これをしてはならない」「これだけ金を出さなければならない」と、まあ、そういうことを言うわけですよね。
 で、今、韓国でこのカルト教団が流行っていて、特に、既存の教会に入り込んで信者を惑わす被害が続出しているということで、日本でもこれに対応するために、「日本基督教異端相談所」(※3)っていうのができたんですね。そこの所長さんが、カトリック新聞で紹介されてました。
 その所長さんのお話によると、狙われやすい人っていうのがあって、まず、「牧師や神父と仲の悪い人」。(笑) どうぞ皆さん、仲良くしてくださいね ^^。(笑) そして、「牧師や神父の説教がつまらんと思っている人」「その教会に不満のある人」、などなどです(※4)。つまり、「不満」があるんですよ、・・・不満が。カルトは、そこにつけ込んで、連れ出してっちゃうんですね。
 その連れ出す方法っていうのが、怖いんです。その教会に潜入して、素晴らしい、立派な信者になってくんですって。中には教会委員長にまで上り詰めて、信頼を得て、大勢そのまま引き抜いていっちゃう。・・・うちの教会委員長はだいじょうぶですよ。(笑) なぜなら、これ、潜入して「3年から10年かけて」ってありましたから。うちの教会委員長、もっとず〜っと長いんで。(笑)
 もう一つの方法が、入り込んできて、あらぬうわさを振りまいて信者を分裂させ、牧師を追い出して、そのまま「乗っ取る」んですって。怖いですよね。で、この所長さん、そういう被害を防ぐためにどうしたらいいかっていうのを、はっきりと言ってました。それは、
 「『自分はイエス・キリストによって、すでに救われている』という信仰の確信を、一人ひとりが持つことだ」と、
 そうありましたよ。これ、もうまさに、この説教壇で、常に、私、主張してきたことですね。「私はすでにイエスに救われている」という確信を、一人ひとりが持ってたら、現実には多少不満があったって、もうそんなことはどうでもいいんですよ。だって、もう救われてるんだから。
 救われるために、「こんな牧師は追い出そう」とか、救われるために、「こんな教会は離れよう」とか、なんか、そういう「救われるために」っていう必要がない。だって、もう救われてるんだから。
 不満とか恐れがあるから、つけ込まれるんです。その意味では、わがカトリック多摩教会の皆さんはだいじょうぶですね? 「私は救われてる」っていうことを、確信してくださいよ。滅びの宣告を信じてはいけません。信じるべきは、福音です。確信を持ってください。私たちは、すでに救われています。それに気づくこと、目覚めること、これによって、教会全体が本物になっていくし、そこに人々もまた集まってくる。

 第1朗読(※5)で、復活のイエスさまが、40日間にわたって現れて何を話したかっていうと、3節、
 「神の国について話された」(使徒1:3)と、
 そう言ってますでしょ。復活の主が40日間、せっせと弟子たちに、いったい何を話したんだろうっていうと、「神の国について」話してたんですね。
 「神の国は、これほど素晴らしい」
 「神の国を、神さまは必ず完成してくださる」
 「そして、その神の国は、わたしと共に、あなたたちの内に、すでにもう来ている」
 「私の死と復活によって、神の国は始まった。すべての人はもう、神の国の住人なんだ。それをみんなに教えなさい」
 ・・・そう話したんじゃないですか。
 復活したイエスさまは、神の国の福音を、弟子たちに徹底して語ったんです。だから、その継続として、今も、私たちの教会はひたすらに神の国の福音を語り続けているわけです。
 私たちはもはや、神の国の住人です。不安や不満から解放されましょうよ。・・・もちろん、完全にってわけにはいかないかもしれません。不安や不満がチョッとあるのはしょうがない。だって現実に目の前の神父は、ダメな神父だったりするわけでしょ。ついつい不満を持つのは分かります。どんな神父も完全ではありませんから、どうぞ不満を持ってくださっても結構です。でも、それと、「神の国はもう来ている」「私は救われてる」って、関係ないことじゃないですか。あなたにどんなに不安があっても、不満があっても、それと「主イエスによって神の国は始まっている。あなたはすでに救いの内にある」という事実は、まったく関係がない。
 さっきミサの直前にも、香部屋で、侍者の子が不満を言ってたんですよ。「あ〜、最悪! あ〜、最悪!」って。(笑) 「何が最悪なの?」って聞いたら、「もう、宿題多すぎて寝不足っ! 最悪! 最悪!」(笑) ・・・ご覧の二人のうちの、どっちが言ったかは言いませんけど。(大笑)
 だけどね、君に言いたいんです。そんな、「宿題」だとか、「寝不足」だとか、そんな不満、・・・そんなものは、実は君の人生にとっては、もう、ど〜でもいいことなんです。君はもう、救われてるんです。(笑) ・・・安心してください。神の国が完成したら、「宿題」、ありませんから。(大笑)
 この世で、どんな「最悪」なことがあっても、神の国はそれをものともしない「最高の喜び」なんですよ。人は簡単に「最悪、最悪!」って言うけど、それはまあ、その時その人にとっては「最悪」かも知れないけど、でもそんなの、実はちっとも「最悪」じゃないんです。「私はもう神の国に救われてる」って信じていないから、それが「最悪」になっちゃってるだけ。 
 ついつい「最悪」って思っちゃう。そりゃあそうだ。分かりますよ、目に見えるこの世しか信じてないんだから。・・・でも、真実は、そうじゃない。「神の国はもう始まっている」っていう信仰さえあれば、世界はまったく、ガラリと変わって見えるっていう、そこをね、ぜひ分かってほしいんです。

 『Ministry(ミニストリー)(※6)っていう雑誌があって、これ、「奉仕職」っていう意味で、おもに牧師先生がたが読んでいる季刊誌なんですけど、先週出たその雑誌に、私の説教が紹介されてんですよ(※7)
 7、8ページにわたって、今年の1月25日だったかな、その主日の説教が、ほぼ全文載っていて、そこにまあ、線は引いてあるわ、四角で囲ってあるわ、網掛けで番号まで付いていて、それこそ聖書の注解みたいに、テキストの上下に、「ここはこういう意味がある」とか、「こういう特徴がある」とかって、ず〜っと注が付いてるんですよ(※8)。で、これがねえ、実に面白かったです。
 私、自分の説教がやり玉に挙がるって聞いて、なんだかな〜って一瞬思たんですけど、読んでみて、感心した。「やり玉」どころかとっても好意的に評価してくれていて、話した本人にとっても、すごく面白かったんですよ。なるほど、ぼくは、そんなふうに意義深いことをしゃべってるんだって。(笑) やっぱり、第三者が分析するっていうのは、自分だけで考えてるのとは違って、新鮮というか、勉強になりますよ。僕はあんまりそういうのって興味ない方だったんですけど、自分のこととなると、なるほどって感心もしたし、励まされたし、分析っていうのも大事なんだなって思わされました。

 うれしかったのは、きっちりと「福音宣言」について分析してるところです。
 分析してるのは有名な牧師先生ですけど、「この晴佐久という説教者は、いま、日本で最も注目すべき説教者の一人である」とかなんとか書いてあって、・・・(*´∀`*)エへへ、って感じですが、(大笑) その説教の一番の特徴は、「宣言にある」と。
 普通の説教は、まあ、プロテスタントでは特にそうなんでしょう、初めに導入があって、展開があって、最後に結論があって、神の言葉はその最後で語られるっていうふうになってるんだそうです。私は、そういう順序だった話し方っていうのは、まず無理なんで、おおよその構成は考えてはいるものの、もう常にその場その場でひらめくままに語っちゃうんですね。まあ、そういう語り方しかできないから、そうせざるを得ないだけですけど、そのおかげで、その場その場でひらめく福音をためらわずに語りまくれるわけです。だから、「この晴佐久説教は、最初っから最後まで、幾度でも「神の国は来た」「もうだいじょうぶだ」って、〈福音宣言〉が繰り返されてる」って言うんです。(『Ministry』本文注⑤)
 で、この分析では、説教の中の「福音宣言」の部分を□(四角)で囲ってあるんですね。その、□で囲ってあるところを見て、自分でもびっくりした。ホントに、4、5行置きに、ここも〈福音宣言〉、これも〈福音宣言〉・・・って、ず〜っと続いてるんですよ。「神の国は来た」「もう安心してほしい」・・・。
 まあ、自分が瞬発系でそういう話し方しかできないっていうのもあるけれど、やっぱり、目の前の人に語ろうと思ったら、そうならざるを得ないんですよね。だって、さまざまな問題を抱えている人が目の前に大勢いるわけですし、みんな福音を聞きたくて、本当に、食い入るようにこっち見てるわけでしょう。福音をもったいぶって最後までとっておきなんて、できませんよ。第一、「導入」「展開」・・・なんてやってると、みんな寝ちゃうし。(笑) いや、ホントにそうなんです。私、30年間こうやって、手元の原稿ではなく、皆さんの顔見てしゃべってますから、すぐに分かる。あ、聴いてないなって。(笑) ・・・それはもう、全員分かります、聴いてない人は。でもそれは、聴いてない方のせいじゃない。語ってる方が目の前の相手に届く福音を語れてないだけです。だから、聴いてない人が一人でもいると、私、「福音宣言」始めるんですよ。
 「ここに、今、神さまが働いてます。あなた、今、そこに座ってるでしょ? それは、福音を求めているあなたに神が語りかけるために、ここへ神さまが導いたんですよ。そうして今、現実にミサが始まってるじゃないですか。そうしてあなたは福音を聞いている。ここがもう、神の国の始まりなんです」
 その人を見つめながらそう語りかけると、顔上げますもんね。(笑)やっぱり、イエスさまもそうだったと思うよ。町から村へ、時に何千人って人に福音、語りまくったわけでしょ。一期一会の人もいるはず。「この町は去ってかなきゃならない。ここにはもう一生来れないだろう。あなたにこれだけは言っておきたい」、そう思ったら、「あなたはもう救われている!」って連発するしかないじゃないですか。きっとそうだったと思う。難しい話を長々としていなかったはず。

 あと、私の説教の特徴として、「認識の転回」ってことも言われてた(『Ministry』本文注⑯)
 カール・バルト(※9)っていう、有名な神学者がいるんですけど、「カール・バルトの神学がもたらした重要な点は、認識の転回にあり、晴佐久説教は、まさにそれをしている」っていうようなことが説明してあるんです。
 どういうことかっていうと、普通はね、皆さんこの世を生きていて、自分の経験とか、社会の常識とか、論理的なものの考え方とか、そういうことを前提にして聖書を読むでしょう? 「この言葉は、今の常識から考えたらどういう意味だろう」とか、「神の国は来たとか、主は復活したとか書いてあるけど、本当だろうか」とか・・・。いつも自分が慣れ親しんでいる、自分の脳ミソの世界から、聖書を読む。・・・でもそれじゃ、聖書なんか読めっこない。だって、人を救うのは、私の(・ ・)理解だの私の(・ ・)納得だのじゃなく、神の(・ ・)み心であり、神の(・ ・)言葉なんだから。
 救いに目覚めたかったら、まず、神の言葉を受け入れて、聖書の言葉の中に身を沈めて、そこから世界を眺めなくっちゃ。神のみ言葉は、もう、全面的に救いの言葉なんだから、その中に入って、そこから現実を眺めるんです。
 「聖書がちゃんとこう宣言してくれているから、
 イエスさまがちゃんとこう約束してくれたから、
 天の父はこんなにも私たちを愛して語りかけてくれたんだから、
 ・・・この出来事は、きっとこういう意味があるのだろう」
 そう眺める。分かります? これ、普通のものの見方と、まったく逆でしょ。でも、だから救われるんじゃないですか。
 僕なんかは、もう、そういう見方をしないと、とてもじゃないけど生きていけないというか、不安でしょうがないから、もう、自分の考えなんかより、はるかにみ言葉の方を信頼してます。・・・だって、この世界はいいかげんだし、なんかゆらゆら揺れてるし、そんな方に足を置いてね、聖書読もうつったって、なんだか、いつまでも不安なままというか。時々は、ちょっと理解できた気になっても、足元はまだゆらゆら揺れてるまんま。・・・そんな感じがある。
 だけど、聖書の世界、神さまのみ言葉の方に足場を置いちゃえば。・・・そっちはもう盤石(ばんじゃく)ですからね、そこから、ゆらゆらしている世界の方を見ていれば、
 「でも、こんな試練にもこんな恵みがあるんじゃないか」
 「でも、こんな人間だって絶対救われるんだよね」
 「でも、こんな悪いものだって、きっと良いものに変えられるに違いない」
 そう思える。なぜなら、自分はもう、盤石の方に乗っかってるから、どんなにありえなさそうなことでも、平気なんです。
 人生って、ある意味、その両方に足を乗っけているようなもんでしょう? この世を生きながら、神の国を生きてる私たちって。でも、どっちかっていうと、神さまの世界の方にしっかり重心を置いておいて、ゆらゆらしている、液状化しているこの世界の方からは、すぐに片足を上げられるようにしておくんですよ。反対に、この世のゆらゆらしている方に足場を置いて聖書の世界を見ようっていったって、ゆらゆら揺れちゃってて、まともに見られっこないんです。
 それこそ、もう全面的に神の国の方に足場を置いちゃって、つまり「認識の転回」をして、で、そうすれば、この世の方の片足はいつでも上げられますよね、だって、固い方に重心乗っかってんだから。イヤな体験しても、この世の側の足を少〜し上げて、重みをちょっと減らして、「まったく、これも困ったもんだね」って、チョイチョイと、つついてみる。(笑) そんな感じでいいんですよ。この世を生きている以上、まったく足を上げちゃうわけにはいきませんが、でもやがては、両足とも、神の国の方に行くわけですし。
 ・・・大切なことは、「もうすでに、あなたは救われている」っていう側に、しっかりと重心をかけて生きる。

 パウロの言葉なんか、まったく神の側からの言葉ですよね。第2朗読(※10)で、さっき読まれました。きれいだね、6節とか。6節、もう一回読みましょう。
 「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(エフェソ4:6)
 素晴らしい。そんな神さまにね、私たちは、望まれて生まれ、愛されて生きていて、そして、その神さまの国がもう始まっているとイエスは宣言したんです。
 安心してください、
 あなたたち、すべての上に、神さまはおられます。
 あなたたち、すべてを通して働いています。
 あなたたち、すべての内に、もう、神さま、おられます。
 ・・・盤石ですよ。
 だからもう、この世のことはほどほど(・ ・ ・ ・)にって、そういうことでしょう。

 この雑誌の、「説教鑑賞」っていうコーナーに、すごく私、励まされた気もする。ちゃんと読んでくれていたし、そして、「福音宣言」と「認識の転回」を、今必要としている多くの教会に、しっかりと紹介してくれていて。
 まあ、もっともその回は、「福音漬けにしましょう」っていうタイトルの回(※11)で、「一にも福音、二にも福音、ともかく福音だ、スピードラーニングみたいに、みんなを福音漬けにしましょう」みたいな内容の説教、覚えてますでしょ、皆さん。スピードラーニングの話をしたときの、あの日の説教が載ってるんです。「福音漬けにしましょう」って言ったときの。
 だけどね、解説で、「この『福音漬け』とは、『福神漬け』と語呂を合わせたユーモアである」って、(笑)そう書いてある(『Ministry』本文注⑱)。さらさらそんな気持ちなかったのに。(笑) 面白いですよね、こういう解釈って。「ともかく英語漬けにしましょう」みたいな感じでね、「みんな福音漬けにしちゃいましょう」とかって口走っただけなんですけど・・・。
 イエスさまが実際に語った言葉っていうのも、そんなふうにいろいろと解釈されるわけですけど、まあ、ご愛嬌です。たぶん、福音において大事なのは中身よりもモチベーションなんです。それさえね、ちゃんと伝われば、中味もちゃんと読めますから。とにかく、イエスさまは、もうみんなに、「あなたは救われた!」って言いたい、それだけです。

 今日も、ここに、心に闇を抱えたり、つらい思いをしてる方たちが、大勢来られてますけれども、安心してください。あなたは救われています。神はそう宣言しています。
 私の本当に親しい、大切な友人も、今、うつで苦しんでます。私は、彼がこの2年間、ず〜っと闇を抱えて生きてきて、ホントに苦しんでいる姿を、毎日のように目の当たりにしてきました。不安発作で死にたいほどに苦しい夜を、いくつ、共に乗り越えてきたことか。彼はね、恐ろしい悪夢を毎日のように見てね、それがず〜っと続いてる。それが、どれほど恐ろしくつらい夜か分かりますか。なんとか抜け出してほしいと祈り続けてきましたけど、このところ少しづつ抜け出しつつあるんです。そして、なんと、数日前に、彼が、「今朝、久しぶりにいい夢見た」って言ったんですよ。私、なんかこう、思わず涙こぼしました。・・・もうすぐなんです、もうすぐ。神の約束が実現する日。
 彼は今、私が信頼する、カトリック信者の精神科医にかかってるんですけど、そのお医者さんも、「最後の段階に入った」って言ってくれたんです。本人も、実感としてそれは分かってる。最後の苦しい山を越えてるわけですけど、それが、今までにはない、不思議な感覚になってるんですね。
 というのは、彼は実は幼いころからず〜っと闇を抱えていたんですけど、そうするとそれを乗り越えていくときに、最後、自分がいったん「(くう)」にならなきゃならないんですね。ちょうど、バグったパソコンをいったんリセットするっていうか、再起動するために電源落としちゃうみたいな。でも、いったん落としちゃうって、それ、ものすごい恐怖でしょ。今まで体験したことのない「空」の体験。その恐怖を乗り越えられずに、ず〜っとその先に行けずにいる人たちも少なくないんです。
 それこそ、たとえそれが本物でなくとも、自分が今まで信じて慣れ親しんできた世界から、神の世界へ、「認識の転回」をする瞬間。新しい世界に飛び込むときの恐怖。「この恐怖は、今までのどんな恐れよりも怖い」って、本人も言ってました。でも、必ず越えられる。必ずいける。「あなたは救われた」っていう福音を信じてほしい。

 私たち、みんなで、その「認識の転回」をしましょうよ。キリスト者は、つながってますから。この共同体が、「もう、神の国はここに来ている」っていう全面的な確信を持ち、そっちの方に重心をしっかり置いたときに、その祈りが、そのリアルな実感が、多くの人たちの勇気となり、救いとなって、この世界はホントに神の国に変わる。・・・間違いないことです。
 今日一日でもいい。全面的に神の国を信頼して、心一つにして、「この世界を救えるんだ」という誇りを持って、祈っていただきたい。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:本日、2015年5月17日〈主の昇天(祭日)〉の福音朗読箇所は、以下のとおり。
 マルコによる福音書 16章15〜20節
  〈小見出し:「弟子たちを派遣する」「天に上げられる」から抜粋〉
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※2:「今週のカトリック新聞に、『カルト教団の被害が拡大』っていう内容の記事が載ってました」
 「カルト『新天地』被害拡大」「異端カルト対策セミナー 韓国の牧師が注意を喚起」(カトリック新聞 2015年5月17日第4290号4面)
(参考)
・ 同種記事:「韓国カルト教団の実態-東京でセミナー
   (「カトリック新聞」オンライン2013年4月19日掲載)
・ 同種記事:「日本も対策急げ-教会乗っ取る異端『新天地』
   (「クリスチャン新聞」2010年6月6日号)
・ 同種話題:「あなたはすでに救われている
   (「福音の村」2012年9月16日説教、説教中盤上から6段落目参照)
・ 「新天地イエス教証しの幕屋聖殿(新天地)」(ウィキペディア)
・ 「新天地」(宗教団体、霊感商法などの被害リンク集まとめ@Wiki)
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※3:「日本基督教異端相談所」
 2010年11月開設。所長は張清益(チャン・チョンイク)牧師。
 韓国発祥の異端の被害に遭っている日本の教会に、「韓国人としてできることはないか」と考え、本国の異端専門家と連携して相談窓口を開設。救出活動を続けている。
 被害の相談は、日本基督教異端相談所の帳牧師(℡070-5468-2674)まで。
(参考)
・ 「韓国発の新異端勢力「新天地」に対策窓口-日本キリスト教異端相談所 開設
   (「クリスチャン新聞」2010年11月22日号)
・ 「カルト『新天地』被害拡大」「異端カルト対策セミナー 韓国の牧師が注意を喚起」
   (カトリック新聞 2015年5月17日第4290号4面)
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※4:(カルト教団の勧誘の標的になりやすいクリスチャン)
① 牧師と仲の悪い人、②教会献金で困難を抱えている人、③礼拝で牧師の説教がつまらないと思っている人、④教会への不満がある人、⑤「聖書を勉強しましょう」と言われればすぐに付いていく人 (「カトリック新聞」同上記事による)
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※5:「第1朗読」
本日、2015年5月17日〈主の昇天(祭日)〉の第1朗読箇所は、以下のとおり。
 使徒言行録1章1〜11節
  〈小見出し:「はしがき」「約束の聖霊」「イエス、天に上げられる」〉
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※6:『Ministry』っていう雑誌
 超教派的展望を持つキリスト新聞社が出版している季刊誌。特に、次世代の教会を担う牧師たちの「友」になるようにと創刊された。本年(2015年)春、創刊6周年を迎えたとのこと。
 「社会やキリスト教会の諸課題を取材・検証・解説」「牧師のスキルアップや教会運営に役立つ『実践神学』のシリーズや連載」「違いを超えて議論できる『広場』の提供」「次代のために開かれたコーナー」などの内容となっている。
 1冊1,620円(税込)(今季号には、神学講座のDVD1枚も付いていました)

(参考)
・ 『Ministry(ミニストリー)』(ホームページ)
内容:「季刊誌Ministry」(最新刊、既刊の紹介)、「季刊誌Ministryとは」(その特色と推薦文)、
   「取扱い書店」(北海道から沖縄までの取扱い書店リスト)等。

・ 「キリスト新聞社」(ホームページ)
内容:「キリスト新聞の歴史」「最近のトップニュース」「今週号のキリスト新聞の内容紹介」等。
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※7:「先週出たその雑誌に、私の説教が紹介されてんですよ」
 2015年5月、『Ministry』(25号)の「説教鑑賞」のコーナーに、晴佐久神父の本年1月25日(年間第3主日)の説教、「福音漬けにしましょう」が紹介された。
 Ministry25号
 ☆『Ministry』最新刊(25号)の内容詳細は、こちら >「『Ministry』最新号の詳細」 
 ☆収録された説教は、こちら >「福音漬けにしましょう」(「福音の村」2015年1月25日説教)
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☆【ご案内】☆
 「福音の村」でも、
先着15名様(おひとり1冊のみ)にお分けすることができます。
 通常、1冊 1,620円(税込)のところ、
1冊 1,500円(期間限定)〈税・送料込み・郵便事故補償なし〉です。
 メールで、「福音の村」宛(fukuin25@yahoo.co.jp)に、下記の必要事項を明記してお申し込みください。後ほど、折り返し、お振り込み先等を連絡させていただきます。
 ①お名前(ふりがな付)
 ②ご住所
 ③ご連絡先電話番号
 ④メールアドレス(携帯の場合は、相互にメールが届かないことがあるので、ご注意ください)
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※8:「7、8ページにわたって(中略)ず〜っと注が付いてるんですよ」
 以下は、『Ministry』、該当ページ(一部)の様子です。
 (キリスト新聞社の許可を得て転載)
  〈↓クリックして、拡大表示でご覧ください〉 中央の説教本文の欄は、□(四角)で囲ってあったり、線が引いてあったり、注の番号が付いていたり、また、別ページには、網かけがしてあったりしています。上下の欄は、この記事の筆者、平野克己(ひらの・かつき)氏〔デューク大学客員研究員、日本基督教団・代田教会牧師〕の注、解説等です。
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☆『Ministry』本文注⑤

⑤「福音の世界が始まった! もうだいじょうぶだ、安心しろ!」「もうここに救いは実現した」
 ここにも、晴佐久神父の説教の特徴が表れています。
 彼は説教とは、〈福音宣言〉であるとしますが、まさしくその言葉通りに、福音の宣言を説教中に幾度も繰り返します。
 いま日本で行われている説教の大部分では、導入・展開・結部という3部構成で説教を構成し、〈福音宣言〉にあたる〈神の御名による言葉〉--主はこう言われる、というように、テキストを通して神が語られている事柄を取り次ぐ言葉--を、説教の〈結部〉に配置することが普通です。そして、説教の最後に来る〈神の御名による言葉〉を目ざして説教の言葉のひとつひとつを積み重ねていく。それが、通常の説教作成方法です。
 しかし、晴佐久神父の説教は違います。
 説教の冒頭から、幾度も、幾度も、「福音の世界が始まった」「もうだいじょうぶだ」「安心しろ」と、〈福音宣言〉を繰り返します。
 そのことがよくわかるように、〈福音宣言〉が語られる部分を□で囲んでいます。説教のあちらこちらに、〈福音宣言〉が出てくることがおわかりになるでしょう。

 (『Ministry』5月号「説教鑑賞(24)」平野克己氏著 p.48より/「キリスト新聞社」の許可を得て転載)
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☆『Ministry』本文注⑯

⑯「だけど、天に生まれていった今は、そんな生みの苦しみを、『ぜんぶ忘れちゃってる』んです。それほどの喜びがある」
 衝撃的とさえ言える、福音の言葉です。
 ここで語られているのは、「神の国は、もう始まっています」ということから、私たちの世界を解釈し直すことです。
 病気でつらい思いをし、苦しみと試練の中で一生を終える。しかし、そのような生涯に対して、「そんな日がホントに来ると思ったら、まあ、この世の苦しみなんて、大したもんじゃないというか」、とさえ語ります。 
 ある人は、プロテスタントの神学者カールバルトの神学がもたらした重要な点は、〈認識の転回〉にあると言いました。私たちの世界の常識を前提としながら、聖書を解釈するのではありません。逆に、聖書が語ることを前提としながら、私たちの世界の常識を疑うのです。
 晴佐久神父がしていることは、それとよく似ています。
 この世界は、主イエス・キリストが到来し、神の国を開始してくださった世界です。神の子が十字架にかかり、復活された世界です。その喜びの知らせの中で、私たちが認識し直す時に新しく見えてくる世界を、ここで神父は語ってみせています。

 (『Ministry』5月号「説教鑑賞(24)」平野克己氏著 p.52より/「キリスト新聞社」の許可を得て転載)
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※9:「カール・バルト」
◎カール・バルト(Karl Barth,1886-1968)
  スイスのプロテスタント神学者。バーゼルに生まれる。ベルン、ベルリンなどで神学を学び、ジュネーブの副牧師を経て1911年からの10年間の牧師時代に「赤い牧師」として労働問題に取り組む。第1次世界大戦を支持するかつての神学教授らに失望し、自由主義神学と決別。ブルームハルト父子の<神の国>使信の決定的影響下、『ロマ書』執筆。以後40年にわたり、神学教師。その間、1934年、告白教会の指導者としてナチ政府により罷免。1935‐1962年はバーゼルで教鞭をとる。
 戦中は「反ユダヤ主義は聖霊に対する罪である」として、スイスで亡命ユダヤ人救援活動に従事。戦後の東西冷戦下では、主著『教会教義学』の中心部「和解論」を講義しつつ、西側陣営の核武装に反対声明。晩年の10年は刑務所で説教するなど、極めて実践的「神学的実存」を生きた。その著書は、膨大、多方面にわたる。欧米のみならず、日本の教会、神学にも多大の影響を与え続けている。
(参考)
・ 「バルト」(2008年『岩波 キリスト教辞典』岩波書店)
・ 「カール・バルト」(ウィキペディア) など
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※10:「第2朗読」
本日、2015年5月17日〈主の昇天(祭日)〉の第2朗読箇所は、以下のとおり。
 使徒パウロのエフェソの教会への手紙4章1〜13節、または4章1〜7節、11〜13節。
  〈小見出し:「キリストの体は一つ」からの抜粋〉
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※11:「『福音漬けにしましょう』っていうタイトルの回」
 >>> 「福音漬けにしましょう」(「福音の村」2015年1月25日説教)
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☆『Ministry』本文注⑱

⑱「ちなみに、『教会』の定義って、言うなれば『神の国のしるし』ですから。『教会を見れば、神の国が確かに来ているのが分かる』っていう話ですから。だからそういう集まりをするわけですね」
 この説教を支えているのは、教会に対する徹底的な信頼です。教会こそ、神の国のしるし、「神の国、ここにあり」と思わせてくれる場所、神の国が始まっていることを見ることのできる場所です。「ずっとここにいたい」「帰りたくない」と言える場所、そのようにして、まことの神の国を指し示している場所なのです。
 説教にとって最も大切なことのひとつは、〈誠実さ〉であり〈確信〉です。
 しかし、私たち説教者は、そして、私たち信仰者は、自分の識見に対して誠実であり、その識見に確信を置くことがあまりにも多いのです。ですから、私たちの説教において、〈認識の転回〉が起こることはまれです。
 それに対してこの説教者は、主イエス・キリストの言葉に対して誠実であり、主イエス・キリストご自身の中に自分の確信を置きながら言葉を紡いでいます。
 そうして、「福音漬け」というほどまでに-「福神漬け」と語呂を合わせたユーモアです-、神の国が始まっていることを、主イエス・キリストと共に〈宣言〉し続けるのです。
 「時は満ち、神の国は始まった。あなたは救われた。心を開いて、この福音を信じよう!」
 説教のはじめに語られた言葉を繰り返すことで、言葉が閉じられます。
 そうして、〈福音宣言〉を教会全体で繰り返す神の民が、主イエス・キリストご自身の言葉によって、つくられていくのです。

 (『Ministry』5月号「説教鑑賞(24)」平野克己氏著 p.53より/「キリスト新聞社」の許可を得て転載)
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2015年5月17日 (日) 録音/2015年5月24日掲載
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