2015年3月29日受難の主日(枝の主日)
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ50・4-7)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
・福音朗読:マルコによる主イエス・キリストの受難(マルコ15・1-39)
【晴佐久神父様 説教】
2015年の聖週間(※1)が始まりました。
カトリック教会の典礼の
・・・これが私たちの聖週間。一年の典礼の暦の中の、頂点となる一週間。
頂点に矢印がある。
神さまがお始めになって、神さまが完成する。そういう、創造のプロセスというか、・・・大いなる「流れ」というか、私はいつも単純に「矢印」って言っちゃうんですけど。幾何学に「ベクトル」っていう言葉がありますね。方向がある。そっちに向かってるんです。そういう矢印が、われわれの信仰の頂点にあるんですよ。
聖週間は、それを表しています。面白いですよね。こう、とがった頂点だと、なんかそれだけって感じですけど、そうじゃなく、山のてっぺんに矢印が乗っかってるような感じです。
・・・その矢印は、復活に向かってます。私たちの信仰の基本です。これはもう、元に戻らない。受難を過ぎ越して、復活がある。聖木、聖金、そして復活徹夜祭と、特にこの三日間は強烈な矢印として頂点で輝くわけですけれど、これは、決して逆にならない。・・・「復活祭の後に聖金曜日がある」なんてこと、ありえない。方向は、明確です。
まず、闇がある。そして、光がある。まず、試練がある。そして、喜びの日がある。それは絶対に逆じゃない。そして、進んでったら、元に戻らない。矢印っていうのは、返しの付いた
まず死があって、その後に、
これはもう、神さまが、そうお定めになった矢印であって、変えられない。誰も反対できない。私たちは、その神の創造のみ
美しい聖週間。・・・皆さん、神さまに向かってるんですよ。毎年毎年、この聖週間を、私たちはそのように、ただ後ろを振り向くんじゃなくて、「これから与えられる」、「今から誕生する」っていう、わくわくする喜びを持って、過ごします。
特に洗礼志願者は、もうあと一週間ですが、よい準備をしてきました。
あるいは、よい準備をできないままかもしれない。でも、そんな人間の準備なんて、どうでもいいんです。もう、復活は始まっています。この聖週間は止まりません。復活祭が必ず来ます。・・・皆さん、まだ体験してないでしょ、ほんとうの復活祭。(洗礼を準備していても、やっぱり自分は苦しいままだ、本当は救われないんじゃないか)って思って、不安を抱えている志願者がいるのを、私は知ってます。昨日泣いていた方が、今日もこのミサにおられます。でも、もう止まらないんです、神さまの業は。
あなたは
そのことを表してるんです、聖週間、そして洗礼式は。洗礼の水をかけられた日からもう、100パーセント天国が来るとは言いませんよ。まだまだ、人生という準備期間は続いていきますけど、やがて必ず100パーセントの救いの日が来る。突然のように、思いも寄らぬかたちで。救いの恵みはこれからも与えられ続けて、やがて、どんな想像も超えたかたちで、私たちは、その日、復活の栄光に入っていきます。・・・まあ、それについてはどんな想像をしても無駄でしょう。神さまのみ業が行われていること、天に向かう矢印を生きていることを、幼子のように信頼して、委ねる。・・・それだけですね。
先週の、聖劇ミュージカル(※3)のDVD上映会、見ていただけましたか? 感動しましたでしょう? ハンカチ、用意しといてよかったでしょう? あれは私、いい芝居になったと思いますよ。本番もよかったですけど、DVDに編集すると、見やすくなって、歌もよく聞こえて。
あの聖劇なんかは、まさに、作者として言わせてもらえば、その「矢印」のことを表現してるんですね。確かに試練はある。しかし、すべての試練は、復活に向かう聖なる矢印を表している。
主人公の健太くんは、お母さんとケンカして、自分が一番大切にしていた、教会学校の聖劇に出たいっていう思いを否定され、道を閉ざされて、(自分は愛されてないんだ。自分なんか嫌われてるんだ。もう生きる道はない)、そう思い込んで家出をしちゃう。まあ、彼にとっては、「人生最初の」というか、大変な試練です。行く当てもない。で、教会に恐る恐るやって来ると、ちょうど聖劇をしてる最中。
(ああ、ぼくも出たいなあ。でも、出ることができない)
・・・そんな、救いようのない現実から、健太は救われます。
で、どうして健太が救われたかっていうのは、これ、見た人はお分かりでしょう? いい脚本ですよね♪(笑) 思いも寄らぬところから、助けがやって来る。もうダメだと思っているところへ、突然友達が現れる、あるいは、お母さんが現れる。つまり、助けは、思いも寄らぬところからやって来るんです。いつだって、神さまの
悲しくて死にたくなっちゃった健太は、(さあそろそろ、「健太、お前も聖劇出ろよ」って、手を引っ張ってくれる友達が来るぞ)なんて、夢にも思ってない。お母さんのこともね。・・・何のことか分からなかったら、ぜひ、DVDをお求めくださって、(笑)見ていただければと思いますが(※4)。
このね〜、「助けは思いも寄らぬところから来る」っていうのが、いいんじゃないですか? だって、どんな想像も超えてるわけだから、希望があるじゃないですか。今どれほど試練があって、もう無理だと思っていても、そんな自分の思いと関係ない、「思いも寄らぬところ」から、助けが来るんだから、「何を思っても無駄」というか、「全く思いも寄らぬこと」に希望を置けばいいんです。
だから、希望をもって、助けを信じて、一歩踏み出す。・・・これが大事ですよね。今回の聖劇でいうなら、「勇気をもって教会に入っていく」とか、「つらいこと、哀しいことを思い切ってイエスさまに訴える」とか、「友達に『来いよ』と誘われて、一歩、ステージに踏み出していく」とか。
何かそういう、「一歩を踏み出す」、「始める」っていうことをね、この「聖なる矢印」は応援してくれてますし、私たちも、聖週間、神さまが偉大な業を始めてるんですから、安心して信頼して、一歩踏み出しましょう。
あの聖劇でも、最後は、「やったるで〜音頭」が出てきましたでしょ。
(歌う)「やったるで〜♪ やったるで〜♪ 信じて愛してやってくで〜♪」っていうね。
あの歌なんかは、まさにそういう歌なんですよ。
(歌う)「♪ 始めるときは何だかこわい。失敗したらどうしよう。いじわる悪魔がささやくよ。きみには無理だ。できっこないよ。どうせみんなの笑いもの〜♪ そこへイエスさま現れて、だいじょうぶ〜、うまくいくよ〜♪ わたしが共にいる〜♪」
・・・でしたっけ?(笑) あれ、歌詞、忘れちゃった。(笑) まあ、そんなような感じですよねえ。で、「♪アソーレ ソレソレソレソレ、やったるで〜、やったるで〜・・・♪」
「始めるときは何だかこわい」、これ、みんなそうです。なぜなら、その先を知らないからです。知ってたら、誰でもやりますよ。
「知らない」、「こわい」、・・・でも始める。
これが人間の一番すごいところ。カッコいいところ。神のお望みであるところ。何かがそこに始まるんです。始めなかったら始まらないものが、始めたから始まる。・・・いいですねえ。
「失敗したらどうしよう」、確かにそう思う。でも、失敗して、いったい何を失うんだろう。何も失ってないんですよね、失敗しても。何も失わない。「始めた」っていうことは、神の創造の業に協力したってことだし、その尊い事実は永遠に残ります。成功か失敗かなんて、第一、人が決めることでもないですよね。私が失敗と思っていても、大きな目で見たら、成功だったなんてこといっぱいあるし、神さまは成功も失敗も用いて、ちゃんと歴史を「大成功」に導いておられるんだから。われわれは、もう成功とか失敗とか言いっこなしで、「信じて、始める」。「聖なる矢印」をのみ信じて、一歩踏み出す。
たとえどんなに試練があっても、思わぬところからやってくる救い、癒し、助け、ゆるし、そういうものに支えられながら、復活祭に向かって、永遠の復活に向かって、私たちは歩んでいく。
洗礼志願者が、この一週間、絶対に疑っちゃいけないのは、そこです。ある意味、洗礼を受けるっていうのも、確かにちょっと怖いことでもあります。その先のこと、何も知らない。しかし、悪魔がやって来て、「君には無理だ。できっこないよ。どうせみんなの笑いもの」って言っても、イエスさまは、
「だいじょうぶ。わたしが共にいる」と、
「わたしがあなたの苦しみもちゃんと分かっていて、あなたの今の試練の状況もぜんぶ知っているうえで、『だいじょうぶだ』」と、
そう保証する。それを信じて、一歩踏み出す。そして救いが訪れる。
「思わぬところから」、・・・「あなたのすべての想像を超えた、思わぬところから」、この希望が現れるんですよ。
健太君を演じた主役の子がね、先週のミサで侍者(※5)してたんですよ。
私が福音書を朗読していると、すぐ横に立ちながら、しゃっくりを始めたんです。ヒック、ヒックって。(笑) おかしくって、笑うの我慢しながら読んでたんですけど、これがず〜っと止まらない。ミサ中、すぐ後ろで聞こえるんですよ。ヒック、ヒックってね。(笑)
奉献文のところで、ご聖体を高く掲げて鈴が鳴りますでしょ。その後、深々と頭を下げるじゃないですか。私はいつも、深〜く頭を下げます。会衆側からは見えなくなるまで、祭壇の下に頭を下げますけど、その時、後ろで、ヒック、ヒックって、(笑) 声がする。もうホントにかわいそうになっちゃって、頭を下げきったところで、ちらりと振り向いたら、目が合ったので、私が、「ワッ!」って脅かしたんですよ。(笑) これ、皆さんの側からは見えないから分かんなかったと思いますけど、そしたら、「ぅわぁ!(゚◇゚;)」ってビックリした顔して、(笑) ・・・止まったんです。(笑)
これ、彼は、絶対、想像してなかったと思いますよ。どんな想像も超えたとことから、救いがやってくる。・・・それを言いたかっただけですけど。(笑) でも実際、われわれ、絶対想像してないんです。偉大なる神の救いの業なんていうものは、ど〜んな想像も当たらない。ま・さ・か、神父がお辞儀しながら後ろ向いて、「ワッ!」と脅かさないだろうって思ってる。でも、神さまがなさっておられる救いの業って、そんなの遥かに超えて、もはや、私たちの貧しい頭での、どんな考えも及ばない。
過去を振り向きゃ、分かりますでしょう。今はね、もうそれを体験したあとだから、(ああ、こんなすごいことが自分の人生に起こったなあ)とか、(あんなことがあって、ほんとうに良かったなあ)とかって思うけれど、それが起こる以前に、それ、想像してました? ぜんぜん想像もしてなかったでしょう? 思わぬところから、思わぬ救いの手が差し伸べられたり、思わぬ不思議が重なって、確率でいうと、0.00001パーセントのようなことがいっぱい重なって、私たちは生きて来られたはず。
皆さん、もう少しそれを信頼して、もう少し謙遜になって、「もうダメだ」とあきらめず、「こんなもんだ」と決めつけず、神さまは、ぼくらのど〜んな思いも超えた「思わぬ救い」を与えてくれると信じて、もう一歩だけ、踏み出してください。
先月新しく発足した青年会、それこそ、「新しい一歩」を始めた青年会の、第1回の合宿を、先週いたしました。1泊2日でね。私も付き合いましたけど、うれしかったですよ。やっぱり、「始まる」って、いいことですね。
今どき、日本のカトリック教会で、「青年会を始める」なんていう話、珍しいんじゃないですか? あんまり聞いたことない。「青年会がなくなった」っていう話ならいっぱいあると思いますが。でも、今、多摩教会で実際に始まってるんです。奇跡的といってもいいと思うけれど、やっぱり神さまが、一人ひとりを、この教会に集めてこられたんでしょう。
二十数名のメンバーを見ると、8割くらいは私が洗礼授けたか、転会式で迎えたっていうメンバーなんですよ。その一人ひとりがどんな闇を抱えて、どんな大変な思いをして、どうしてここにいるかっていうことを、私、全員分知ってるんですよね。だから、余計にうれしかったです。
だから、多摩教会の青年会は、よくあるような、ただ「楽しくやろうぜ」っていうだけの集まりとは、ちょっと違ってる。本当に「教会」なんです。メンバーはみ〜んな、さまざまな闇をくぐって来たし、今も抱えてます。でも今、教会に集まってきて、「こんなに信頼できる仲間と一緒にいるんだ」っていう安心感の中で、互いに自分の闇を正直に分かち合っているんですよ。その景色はね、まさに復活へのプロセスを感じさせて、とてもいい景色なんです。
温泉旅行だったんですけど、楽しかったですよ、熱海に行ってね。「大野屋(※6)」ってご存じですか? 昭和の香りのする大きなホテルです。夕食バイキングで有名な宿ね。安いんですよ、ともかく。・・・でも、みんなで過ごせばどんな宿でも楽しい。メンバーは最近洗礼を受けたり、これからだったりですから、教会体験っていうのがあんまりないんですね。だから、こういう同年代で、こうして合宿するなんて初めてだって喜んでるメンバーが何人もいて、(ああ、よくぞ青年会、始めてくれた)って思いました。
この青年会、ぜんぶ自分たちで始めたんですよ。これがまた、いいですよね。(あれはきっと、晴佐久神父が頑張ってつくったんだろう)って思うとしたら、大間違いです。経験で分かってますから。神父主導で、「さあ、みんな、集まって青年会やれ」って言っても、長続きしないって。けれども、自分たちでやろうって言い出したなら、これは本物ですね。長続きする。
もちろん、神父的には、(そういう集まりが生まれたら、夢のようだな〜)と思いながら、若い世代を一人また一人と教会に受け入れて、互いに出会わせて見守ってきたわけですけれど、そうやってちゃんと集めて、みんなが触れ合える機会をつくり続けていれば、自然発生するもんですね。
実際、先週のその旅行に参加した青年の中に、3人も、新受洗者がいるんですよ。まあ、ああなると、新婚旅行ですね。「熱海」っていうお土地柄かもしれないけど。(笑) キリストに出会って、教会に結ばれて、新婚旅行っていうか、洗礼旅行っていうか、まあ、彼らは幸せですよ。夜遅くまで一室にみんなで集まって、おしゃべりして、みんなで一緒にお風呂に入って。「ローマ風呂」っていう大きなお風呂があってね。「神父さん、思ったよりおなか出てるね〜」とか、(笑)言われたので、「ここに聖霊が詰まってるんだよ♪」って、(笑)お話したり。・・・裸の付き合いってやつですね。一生忘れないでしょう、みんな。
神さまが、一人ひとり集めてきて、今、神の国に連れていこうとしてるんです。みんな、救いのプロセスを生きているんです。この「矢印」は、絶対に元に戻らない。神さまがなさってることだから。反対しても抵抗しても無駄。(やっぱり俺なんか・・・)とか、何思ってもいいですよ。文句でも愚痴でも、何言ったっていい。そんなこと、神さまはぜんぜん、物ともしないんですよね。
イエスさまが、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」って叫びました(マルコ15:34)。
「神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味ですね。
昨日の入門講座で、「最後の質問です!」って言って、ここを質問した人がいました。
「どうしても、この叫びの意味が分からない。なぜ、全能のキリストがこんなこと言うのか・・・イエスさまは神さまなのに、『なぜ見捨てたんですか〜!』って、その思いが分からない」と。
それはイエスがどう思ったかとか、人間側の考えだけで頭がいっぱいになってるから、理解できないんです。これは、救いのプロセスの矢印の一部分として見ないと、分からない。
イエスが、「なぜわたしを見捨てたのか〜!」って、これ、全人類の叫びと一緒でしょ? 全人類の叫びなんです。でもイエスは、一歩踏み出して十字架に向かい、すべての闇を背負って十字架にかかり、そして人間の闇の底の底の絶望さえも味わって、「なぜだ〜! なぜなんだ〜!!」って叫ぶ。・・・素晴らしいじゃないですか。だって、叫んでるんだもん、全人類は。「なぜだ〜!」って。それをイエスはまさに代表して、神に叫んでるんです。
でもこれ、プロセスだから、叫んで終わりじゃない。これで終わってないんですよ。この叫びに対する、神さまの応えがあったんです。私たちが信じてるのは、そこです。
「わたしは見捨てない」
その、神の応えを、われわれは「復活」と呼んでますけれども、それは今も起こり続けているし、これからも起こり続けるし、もはや決して元には戻りません。
あらゆる闇は、光に向かっているから、「闇」っていうんです。
光に向かっていない闇なんか、「闇」とは呼べない。それは、ただの「無」です。
「闇」っていうのは、光の欠けている状態であり、すべての闇は光に向かってるんです。
・・・すべては復活に向かっています。聖なる矢印なんです。
その福音を信じてください。
今日から1週間、そんな信仰をこそしっかりと祈って、洗礼式への準備をしていただきたい。
【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)
※1:「聖週間」(既出)
受難の主日(枝の主日)から始まる復活祭直前の1週間。「受難週」「聖週」とも呼ばれる。
受難と死を通して復活の栄光を受けたキリストの
キリストの死と復活は週の初めの日である日曜日ごとに記念されていたが、2〜3世紀には、1年に1度、復活祭の前晩から始まる復活徹夜祭でも祝われるようになった。やがて、復活徹夜祭に洗礼を受けることが一般化し、そのための直前の準備として1週間の断食を守る実践が起こった。
エルサレムはキリストの受難と使徒復活の地であることから、できる限り聖書の記述に忠実に従って、キリストの受難と死と復活の出来事にゆかりの場所にその出来事が起きたとされる時刻に集まり、ふさわしい聖書朗読、祈願、聖歌などによる典礼が行われた。
特に木曜日の晩から始まる3日間は盛大に祝われ、これは後に「聖なる過越の3日間」と呼ばれ、教会暦でも最も重要な3日間となった。
聖週間中の特徴的な典礼としては、
受難の主日に行われるイエスのエルサレム入場の記念(枝の行列)と受難朗読、
聖木曜日(復活祭直前の木曜日)の晩に行われる最後の晩餐の記念(聖体の制定、洗足式)、
聖金曜日に行われる主の受難の典礼(受難朗読、十字架の礼拝)、
聖土曜日の晩(教会暦上はすでに翌日の復活の主日)に行われる復活徹夜祭の典礼(光の祭儀、天地創造からキリストの復活に至る救いの歴史の聖書朗読、洗礼式)などがある。
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(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「典礼解説 過越の聖なる三日間」(カトリック中央協議会)
・ 「教会カレンダー(2015年4月)」(ラウダーテ) 他
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☆ 2015年 聖週間から復活祭までの日程 ☆
受難の主日(枝の主日) : 3月29日(日)
聖木曜日 : 4月2日(木)
聖金曜日 : 4月3日(金)
聖土曜日(復活徹夜祭) : 4月4日(土)
復活祭(復活の主日) : 4月5日(日)
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※2:「返しの付いた
「銛」は、大型の魚あるいはクジラなど大型の水生動物の漁で使われる長い槍のような漁具。
「返し」というのは、銛の先と逆の方向にとがった部分で、刺さると抜けないようになっている。
(画像はクリックすると大きく表示されます)
(参考)
・ 「銛」(ウィキペディア)
・ 「釣り針」(ウィキペディア)
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※3:「聖劇ミュージカル」
カトリック多摩教会で、昨年(2014年)12月23日に行われた、「祈りと聖劇の夕べ」の劇。
オリジナルのミュージカルで、出演は多摩教会の子どもとおとな。教会オルガニストが全曲を作曲し、晴佐久神父の脚本と詞、さらに、演出家、照明、舞台監督、撮影担当まで呼んでつくられた。当日は大盛況で、満員御礼。
(詳しくは、そのときの様子が詳しく語られている説教、「クリスマスの奇跡」(2014年12月24日)をお読みください。上から3段落目からです)
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このたび、その劇を撮影、記録した記念のDVDが作られ、教会で上映会が行われた。
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※4:「DVDをお求めくださって、見ていただければと思いますが」
「福音の村」では、先着10名様(おひとり1枚のみ)にお分けすることができます。
***** おかげさまで、先着10名様分は終了しました。ありがとうございました *****
ただ、「何とか入手したい」というご希望もあり、若干の追加をいたしました。
通常より、お届けまで少しお日にちは頂戴しますが、ご希望でしたらお早目にお知らせください。
やはり、おひとり1枚のみで、お願いいたします。(2015/04/07)
(画像はクリックすると大きく表示されます)
1枚、1,140円 (定形外郵便送料込み・郵便事故補償なし)です。
メールで、「福音の村」宛(fukuin25@yahoo.co.jp)に、下記の必要事項を明記してお申し込みください。
後ほど、折り返し、お振り込み先等を連絡させていただきます。
①お名前(ふりがな付)
②ご住所
③ご連絡先電話番号
④メールアドレス(携帯の場合は、相互にメールが届かないことがあるので、ご注意ください)
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※5:「侍者」(既出)
ミサや他の典礼祭儀において、特に祭壇の周囲で司式司祭を補佐する。
通常、アルパ(体全体を包む長い白衣)を着用し、司式司祭や他の奉仕者と共に入退堂する。主な役割としては、典礼書、十字架、ろうそく、パンとぶどう酒、水、香炉などを運ぶこと、福音朗読のときに司祭、あるいは助祭に付き添うこと、祭壇の準備を手伝うことなどがある。
従来、少年が務めることが多いが、年齢に特に規定はない。また、男性が務めることが慣例であったが、近年では女性が務めることもある。
(参考)
・ 「侍者」(2008年『岩波キリスト教辞典』岩波書店)
・ 「侍者とは何をする人ですか」(カトリック大阪教区 典礼委員会) など
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※6:「大野屋」
静岡県。熱海駅前からバスで約10分の立地。熱海最大のローマ風呂やバイキングがアピールポイント。
(参考)
・ 「ホテル大野屋」
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