「その夜」の優先順位

【カトリック上野教会】

2017年6月11日 三位一体の主日
・ 第1朗読: 出エジプト記(出エジプト34・4b-6、8-9)
・ 第2朗読: 使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント13・11-13)
・ 福音朗読: ヨハネによる福音(ヨハネ3・16-18)

【晴佐久神父様 説教】

 先週、バルト三国に行ってまいりました。還暦記念の巡礼旅行です(※1)
 巡礼では初めてっていう体験もしましたよ。今まで、世界中でミサを捧げてきましたけれど、今回、リトアニアの聖堂で香部屋に入ったら、係の神父さんが、「司祭証明書を見せろ」って。私、そんなもの持って歩いてませんから、真顔で、「神父です! 私、神父なんです!」って。(笑)

 皆さん、「バルト三国(※2)」って分かります? バルト海に面している三つの国です。バルト海って、南はドイツ、ポーランド。で、北は、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー。で、東側はロシアかと思いきや、そこに三つの小さな国が海沿いに並んでるんです。南から、リトアニア、ラトビア、エストニア。この三つの国は、かつては地図にも載ってなかった。それぞれちゃんとした独立国なのに、ソ連に占領されていたんですね。でも、1991年に独立を回復しました。この三つの国を、いつかぜひ訪ねたいな~と思っていた理由も、その歴史に関わってます。それは、独立のきっかけともなった、有名な平和的デモ、「人間の鎖(※3)」の現場だからですね。この三つの国を、ぜひお訪ねしたいと思った大きな理由の一つです。
 三つとも、小さな国ですよ。地理で言うと、リトアニアの首都ビリニュスから、北のエストニアの首都タリンまで、だいたい600キロ。真ん中がラトビアで、リガっていう大きな街があるんですけど、この三つの国が、距離的に言えば、だいたい、大阪、名古屋、東京みたいな感じで並んでる。
 それらが、小さな国とはいえ、ちゃんと、それぞれの歴史、民俗、言語を持ってます。あの付近はみんなロシア語でもしゃべってるのかと思いきや、それぞれの国の言葉があるんですね。今回、バスの運転手さんはエストニア人で、日本語ガイドさんはリトアニア人。この二人が英語で話してるんで、なんでわざわざ英語で話すんですかって聞いたら、お互い言葉が通じないんですって。三つの国とも、それぞれの文化、民俗、言語を持った国なんです。にもかかわらず、長く大国に支配されていたし、ちょうど今から100年前に独立国になったのに、第二次世界大戦のときにはソ連に併合されました。
 それ以降、この三つの国では、反体制派は殺され、罪もない人たちがシベリア送りにされるなど、さまざまな悲劇、苦難の歴史を、歩んできたわけですね。でも、どうしても独立を回復したいという熱い思いは当然あるわけで、それが実現したのが、ついこの前といっていいんじゃないですか、1991年です。
 その独立のきっかけとなったのが、平和的デモ、世にいう「バルトの道」といわれる人間の鎖です。南はリトアニアの首都ビリニュスから、ラトビアの首都リガを経て、北はエストニアの首都タリンまでの600キロを、それぞれの国民がみんな、一列に並んで手をつないだ。200万人ですよ。・・・600キロ200万人。1989年の8月23日、それぞれの町や村に、それぞれの地区が割り当てられて、バスや車でみんなそこに行って、手をつないだ。200万人。朝のラジオ放送の呼び掛けと共に始まり、午後7時に、ついに実現いたしました。
 この平和デモのおかげで、こういう三つの国が独立を願って命懸けでデモをしてるんだっていうことが、全世界に知れ渡りました。それまでは、この三国のことをほとんどの皆さんが知らなかったと思うんですね。でも、このデモが全世界に報道され、それがはずみとなって独立を回復し、ほどなくソ連は崩壊いたしました。
 独立の重要なきっかけとなったこのデモ、弾圧を恐れずに人々が立ち上がった非常に美しいデモとして、今も語り継がれております。バルト三国の人々は、それを誇りに思ってるんですね。リトアニア人のガイドさんも、エストニア人のガイドさんも、誇らしげにその話をしていました。
 私たち巡礼団は、その起点となったリトアニアのビリニュスのカトリックの大聖堂を訪問しました。正面玄関の前に、「ここから並び始めた」っていう、記念碑のプレートが埋め込まれているんですけどね(※4)、そこからずっとバスを走らせて、最後は、「ここまで並びました」っていう、エストニアのタリンの、丘の上の有名な塔を訪ねました(※5)。途中、ず~っとバスが森の中の一本道を、何時間も走ってくんだけど、「ここがすべて、一列の人でつながったんです」ってね、ガイドさんが言ってました。
 「200万人、600キロ」。考えてみてください。東京から大阪を越えて、神戸の辺りですかね、600キロ。新幹線で3時間。それが一列につながったんですよ。国民の、それこそ半分近くが出てきたんじゃないですかねえ。
 これはもちろん、ソ連の軍事弾圧があるんじゃないかっていう恐れの中でなされたデモです。でも、結果的には、ソ連は手を出せませんでした。人々が手を握って一列になっているその時、みんな、ホントに一つの理想に向かって、自由という、博愛という、人間らしい価値に向かって、みんなが一つになり、恐れを超えて手を握っている時、何か大きな力が働いたんですね。
 手をつなぐ。・・・これはやっぱり、人間ならではの、ホントに美しいしるしだろうと思います。恐れを超えて、一つになり、手をつなぐ。誰かが欠けたら、もうそれは成立しないといっていいような、心が一つになる瞬間です。それは、とてもシンボリックな行為だと思う。人は握手したりしますけど、実際につながって、互いのぬくもりを知ったその瞬間、言葉を超えた、何か大事なものが流れるわけですよね。
 こうしてミサを捧げてるときも、一つになってるっていう、その気持ちが大切ですけれど、私たち、もっともっと多くの人、「今、苦しんでいる人、今、自由を制限されている人、今、圧迫されている人みんなと手をつなごう!」っていう、そういう気持ちを、ミサにおいては特に大切にしたいなと、私はそう感じます。

 今日、「三位一体の主日」ってことですけど、三位一体については、一つのイメージを持っています。それは、神さまから伸びてきた「手」のイメージです。私にとっては、とても大事なイメージなんです。
 三位一体、すなわち、「父と子と聖霊」ですけれど、ひと言で言えば、父からあふれてきた愛、聖霊が、子として私たちに触れてくださるという神秘です。この場合、「私たちに触れる」ってとこが肝心です。「三位一体」って言ったって、ただ三つが、どっかで交わっているって話じゃない。その交わりが、この私、この私たちとつながって、はじめて意味があるわけですよね。
 私には、「手」のイメージがあるんです。神さまが私に伸ばした1本の手。神と、神の手と、神の手に流れている神の愛は一つでしょう? その三位一体の神が、キリストという手でこの私につながったとき、それが救いの現場ですし、私はもう、その手を離さない。
 さっき読まれた聖書で言うならば(※6)、「一人残らず」です。「独り子を信じる者が一人も(・ ・ ・)滅びないで、永遠の命を得るため」 (ヨハネ3:16/強調引用者) 、そのために神は、その独り子をお与えになった。また、「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」 (ヨハネ3:16) 。神ですから、たとえば今ここに100人いるんであれば、その100人一人ひとりに、「あなたを決して滅ぼさない」と手を伸ばして救うことがおできになる。・・・その手がイエス・キリストなんですけど、・・・その手で、私たちに触れてくださったのです。
 触れられたと感じられる、さまざまな機会が、皆さんにもあったはずですね、ここに座っているからには。誰かに誘われたのもまた、神の手のわざの一つですから。今日、ここに座ってる方で、初めてミサに出たときに、前に座っている人が振り向いて声を掛けてくれたのが縁で、教会に通うようになったっていう学生がいるんですよ。そこにおられますけど、昨日の学生の集いにも来て、「私も洗礼受けたい!」って言ってましたけれど。そんなふうに、皆さんにも、声を掛けられた、誘ってもらった、何か1冊の本によって招かれた、・・・何かの瞬間があるはずですよね。神さまが手を伸ばして触れてくださったという。
 神さまは、いろんな折々に、私たちに触れてくださっています。あらゆる現場で。とりわけ、この聖なる教会という、神さまの恵みの現場に導くために、神さまが伸ばした手、その手とつながったときに、私たちは、「あっ! 神は愛だ!」って気づき、私たちの中に、神の霊が流れ込む。
 この「手」のイメージが、私にとって、三位一体の一つのイメージなんです。神と、神の手と、そこを流れる神の愛。手は、神さまと一致しています。勝手に動くなんてことはない。神さまがご自身の愛をもって、手を伸ばす。その手が、私たちをしっかり握ってくれる。神の愛が現実となる。・・・三位一体のイメージです。
 このイメージは、「三位一体って何だろう?」って分からなくなるようなときに、思い出してくださいね。「神」と、「神の手」と、そこに流れる「神の愛」と、それは一つになって働く。・・・何のためかっていうと、「私たちを握るため」なんです。神がその手を離すことはあり得ません。で、神がそうして握ってくださってることに、私たちが気づいたとき、「ああ、私たちは本当に三位一体の愛の交わりのうちにあるんだ」って感じられて、安心する。安心して、私たちもまた、自らの1本の手を差し伸べようと、そういう思いになる。

 リトアニアには「十字架の丘(※7)」っていう所があって、そこには何十万本っていう十字架が立ってましたけれど。・・・ご存じですか、宗教の自由を奪われた人々が、祈りを込めて立て続けた十字架です。かつてソ連は、その十字架を抵抗のシンボルとみなして、何度も何度もブルドーザーで排除したんだけれど、しばらくすると、また1本、2本・・・って十字架が立ち始めて、独立した今はもう、何十万本っていう十字架が立ってます。まさに、「十字架」は、父と子と聖霊の交わりのシンボルですけれども、私には、十字架って、神さまが伸ばして、私たちを握りしめてくれたキリストという手が、「どんなにこの手が痛くても、あなたを離しません!」って言ってるみたいな、そういうイメージがあるんですよ。
 十字架の苦しみ・・・まさに、釘打たれた手は痛い。けれども、神はその痛みを引き受けて、私たちを握り続けている。決して離さない。子供の手を握って歩いてる親が、手が痛いからって、子どもの手をポンと離して、それで子どもが事故に遭いましたって、これじゃあ、愛してることにも、守ってることにもならないでしょ。
 十字架の丘で、私も、大きな十字架を1本、地面にブスッと差してきましたよ。ペンでね、「福音家族」って書いて、立ててまいりました。ぜひ、今度行ったら探してみてください。何十万本も立ってますけど。「福音家族」って、神さまの愛が、すべての人に及んでいることのしるしですけど、神が触れてくださっているから、私たちは本当に家族として結ばれるってことなんです。神が苦しみを背負ってこの手を握ってくださっているんだから、私たちも苦しみの中でお互いに手を握り合おうってってことなんです。苦しみの中で、一列に並んで手を握って、その苦しみを超えていく、癒やしていく、救っていく。・・・そのようなことに、キリストの教会は憧れます。

 リトアニアといえば、杉原千畝(ちうね)さん(※8)の所にも行ってきました。
 そこも、私、どうしても行きたかった所なので、うれしかったです。リトアニアにカウナスっていう所があるんですけども、そこに、かつて日本の領事館があって、そこの領事だった方ですね。ご存じですか、杉原千畝さん。多くのユダヤ人を救ったということで、「東洋のシンドラー」とも呼ばれている外交官ですけれども。
 第二次世界大戦中、リトアニアは、ナチスドイツに支配されていた。そのとき、ユダヤ人が主にポーランドから、救いを求めてリトアニアにやって来ました。ご存じのとおり、当時ユダヤ人はみんな収容所に送られていったわけですけれども、なんとか逃れようと、いろんなルートで海外に脱出しようとした人たちがいた。
 で、その一つの可能性が、リトアニアの日本領事館でビザを発給してもらい、シベリア鉄道で日本に渡って、その日本から、アメリカなどに向かうというルートで、そのため、何百人というユダヤ人が、連日、このカウナスの日本領事館に詰め掛けたんですね、「ビザを発給してくれ」って。
 ところが、日本からは、発給するなというお達しがきた。そこで杉原さんが、悩んだわけです。目の前には、ここでビザを発給しなかったら殺されてしまうような人たちがいる。しかし、日本は、そのときはドイツと協定を結んでいるわけですから、ユダヤ人に加担できないっていうことなんでしょう、「ビザを発給するな」と言ってくる。
 今、その領事館は、「杉原記念館(※9)」になってるんですけど、私、そこで、まあ、いろいろな展示品を、「この机で書いたのか~」とかね、見てたんですけど、そこに一つの手記が展示してあって、その手記の中で、「その夜」のことを読んで、心にぐっとくるものがありました(※10)
 「その夜」というのは、日本からのお達しが届いた夜のことです。彼は、「ものすごく苦しんだ」って言うんですね。で、「考えに考え抜いた」と。「どうしようか」と。で、「おそらく、100人が100人」、・・・彼の言葉ですよ、「100人が100人、このビザは発給しないだろう」と。そんなことをしたら、職を失うわけですから。100人が100人、本国の命令であれば、ビザは出さないだろう、と。しかし、彼は考えに考え抜いて、そして、「苦慮煩悶の末」って、そうありました。「苦慮」っていうのは、ものすごく苦しんで考えることですね、「煩悶」っていうのは、悶えることでしょ。その「苦慮煩悶」の末、一つの結論を得た。それは、「人道、博愛精神第一」。
 ・・・そうなんです。要するにこれ、優先順位の話なんですよ、優先順位。「一番大事なことを、やっぱり一番大事にしよう。それは、人道、博愛精神第一だ」と、彼はそういう結論に達した。で、いったん決心したら、もうあとは恐れることなく、自分の職を()けて、実行あるのみ。
 その翌日から、彼はビザを発給し続けました。手書きのビザなんで、もう、何十枚、何百枚とね、腕が動かなくなるほどに発給し続けた。しかも、ビザには、発給手数料があるわけですけど、それを徴取するのも諦めて、ともかく書き続けた。行列しているユダヤ人に、一枚、また一枚と。やがて、日本に引き上げなくてはならなくなり、しかし、引き上げる最後まで書き続け、しまいには駅のホームでも書き続け、汽車に乗っても書き続け、ビザを書いては窓から渡し、やがて汽車が出て、最後の一枚を渡した、と・・・。
 彼はその後長く、歴史に埋もれてたんですけれど、やがて、救われたユダヤ人が、彼のことを何としても見つけようと活動して、とうとう探し当て、「諸国民の中の正義の人賞」っていう賞を授与しました(※11)
 私は、その手記にあった、「考えに考えたその夜」っていうのが、とても心に残りました。決断した、その瞬間。
 「いや、そうは言っても、本国の命令だし、妻も子もいるし、クビになったら困る。やっぱり、これは無理だ、ごめんなさいって言うしかないか・・・。100人が100人そうするだろうな・・・。でも、でも、自分はやっぱり、それはできない」と、そう決心する瞬間です。
 私、その夜に、やっぱり聖霊が働いたんだって、そう思います。それは、彼がキリスト教徒であるなしの話ではなく、神が人をしっかりと握っている、そこに流れる、神の愛というか、神の働きによって、神が人に与えた「人道、博愛精神」に目覚めたってことです。そのとき、彼は、ごく当然のこととして、自分の手を差し出すわけですね。
 彼がビザを書いた手、人々にそれを渡そうと伸ばしたその手で、6千人助かったって言われてます。6千人の命を助ける手。その手が1枚のビザを汽車から渡すとき、そこで何かがつながるわけでしょ。私、やっぱり、そういうつながりが、三位一体の秘密だと思うんですよ。

 神さまは、私たちに、手を伸ばしておられます。あとは、私たちがその手を握りしめ、私たちも誰かに手を伸ばすのみ。神さまは、私たちを決して離しません。父と子と聖霊の恵みの中で、私たちは、「神から離れる」ということは、あり得ない。あとは、その恵みの中で、私たちも、誰かに手を伸ばす。
 私は、どうだろう。「その夜」、決心できるだろうか。この手を伸ばすことができるだろうか。
 私は、神さまとの交わりをいっそう大切にしながら、私も誰かにそっと手を伸ばして、つながりたい。そのときに、この世界が本当に神の国に変わっていくし、「そうか。私が生まれてきて、私がここに生きているのは、神とつながり、人とつながるためなんだ」と、そういう喜びを、そのつながった瞬間、味わうことができる。

 「リトアニア」「ラトビア」「エストニア」、三つの国を、ぜひ覚えておいてほしいと思います。そこは、今はもう観光地ですけれども、多くの人が「つながる」ということで自由を勝ち取った、シンボルの場所の一つです。
 なにか、最近は、官僚たちの話が、日本でもずいぶん言われてますけれども、いざというとき、まさに「その夜」の優先順位を間違えない。これが、キリスト者です。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「先週、バルト三国に行ってまいりました。還暦記念の巡礼旅行です」
 晴佐久神父は、2017年5月31日(水)から6月8日(木)まで、JTBの企画で、バルト三国の巡礼に同行していた。
 説教本文にもあるように、リトアニア共和国では、首都ビリニュス、杉原千畝氏を記念する「杉原記念館」のあるカウナス、十字架で覆われた祈りの丘のあるシャウレイ、ラトビア共和国の首都リガ、エストニア共和国の首都タリンなどを回った。
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※2:「バルト三国」
Baltic States-s ヨーロッパ北東部のバルト海東側、フィンランドの南に位置する三つの国のこと。北から、エストニア、ラトビア、リトアニア。
 地理的環境から、自立の困難さが常につきまとう歴史だった。
 1939年9月、第二次世界大戦が勃発すると、ソ連は1940年6月にバルト三国に侵攻、これを占領し、8月には併合。構成国とした。
 その陰には、1939年8月、ヒトラーとスターリンの利害関係により成立した「独ソ不可侵条約」がある。これに付属した秘密議定書には、東ヨーロッパをドイツとソ連の勢力圏に分割するという密約が交わされており、バルト三国は、ソ連の構成国とするという内容が含まれていた。
 1945年、ニュルンベルク裁判(ナチス・ドイツによって行われた戦争犯罪や戦犯を裁いた)で、その議定書の存在が明らかになったが、ソ連政府は、長くその存在を否定してきた。
 1985年、ソ連のゴルバチョフ政権がペレストロイカ(改革)を進める中、情報公開や歴史の見直しを迫られ、また、バルト三国では、急激にソ連からの分離独立を要求する声が高まっていった。
 1989年8月23日には、200万人の「人間の鎖」がバルト三国の首都をつなぎ、真相究明を求めた。結果、ソ連は同年末、秘密議定書の存在を認め、また、バルト三国のソ連併合は非合法であったことも認めた。
 1990年にはリトアニアが、1991年にはエストニアとラトビアが独立を宣言した。
(参考)
・ 「バルト三国」(世界史の窓)
・ 「バルト三国を旅行するならこれを読め!」(個人ブログ:「On The Road」)
・ 「バルト三国」(ウィキペディア)
・ 「バルト三国と日本」(外務省) 他
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※3:「人間の鎖」
 「人間の鎖」は、示威運動の一つだが、その中で、最も有名といわれるのが、この1989年のバルト三国の「人間の鎖」。「バルトの道」といわれるデモで行われた。
 「バルトの道」は、独ソ不可侵条約50周年にあたり、秘密議定書の存在を認めることと、ソ連からの分離・独立を求めて行われた政治的デモ。
 1989年8月23日、バルト三国は、このデモで、非暴力の抗議手段として、「人間の鎖」をつくった。この鎖は、南はリトアニアの首都ビリニュスから、ラトビアを通り、北はエストニアの首都タリンまで、200万人といわれる人が手をつなぎ、約600キロメートル以上に渡っていた。
 ソ連は「民主主義的ヒステリー」と断定し、厳しい態度で反応したが、虐げられてきた小国が立ち上がり、支配国の圧政に屈しない決意を表明したことは、連邦諸国のみならず、ロシアでも、また、アメリカをはじめ、世界中の注目を集めることとなり、共感を集めた。
 また、秘密議定書への関心は高まり、情報公開を促し、バルト三国は独立、ソ連にも民主化運動を促した。
 この後すぐ、1989年11月9日にはベルリンの壁が崩壊し、中央、東ヨーロッパの解放が加速していこことになるが、その意味でも、「バルトの道」「人間の鎖」は、第二次世界大戦の影響と冷戦終結の終焉を象徴するデモとなった。
 この「人間の鎖」は、2009年7月30日、ユネスコ世界記憶遺産に登録された。
(参考)
・ 「リトアニアの世界遺産」(駐日リトアニア共和国大使館)
・ 「バルトの道、世界最大の人間の鎖の25年の記念日」(「多文化共生を再考する」)
・ 「バルト三国『人間の鎖』200万人が手をつないで取り戻した自由」(AI-am)
・ 「バルトの道」(ウィキペディア) 他
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※4:「正面玄関の前に、『ここから並び始めた』っていう、記念碑のプレートが埋め込まれているんですけどね」
stebuklas-Slithuania-yoko-S
 ビリニュス大聖堂の前の広場に埋め込まれている。
 リトアニア語で、「STEBUKLA」(Stebuklasは、リトアニア語で「奇跡」を意味する)と刻まれたプレート。
(参考)
・ 「ヴィリニュス」(個人ブログ/「カナジーの物見遊山」)
・ 「人間の鎖の起点 inリトアニア」(個人ブログ/「添乗員の愚痴ばなし」)
・ 「Stebuklas」(トリップアドバイザー) など
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※5:「最後は、『ここまで並びました』っていう、エストニアのタリンの、丘の上の有名な塔を訪ねました」
Pikk_Hermann-S

 エストニアのタリン旧市街にある、トームペア城の西南角に立っており、「のっぽのヘルマン」という愛称で親しまれている。
 (トームペア城は、現在、エストニア国会の議事堂として使用されている)
(参考)
・ 「バルト三国の世界遺産を訪ねて」(シニアネット越谷)
・ 「『のっぽのヘルマン』の手つなぎ」(ピープルズニュース)
・ 「のっぽのヘルマン」(4travel.jp)
・ 「タリン旧市街のトームペア城とのっぽのヘルマン」(個人ブログ/「世界遺産巡り 海外旅行写真集」
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※6:「さっき読まれた聖書で言うならば」
この日、2017年6月11日(三位一体の主日)の福音朗読箇所から。
 ヨハネによる福音(ヨハネによる福音書)3章16~18節
  〈小見出し:「イエスとニコデモ」3章1~21節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 (ヨハネ3:16-17/赤字引用者)
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※7:「十字架の丘」
lithuania-S hill-of-crosses-S
 リトアニア北部の市、シャウレイにある丘で、おびただしい数の十字架が立っており、リトアニア最大の巡礼地として知られている。
 墓ではなく、リトアニアの人々の、ロシアへの非暴力的抵抗を表し、「リトアニアの十字架の手工芸とその象徴」として、2008年、ユネスコの世界無形文化遺産に登録された。
 初めてここに十字架が立てられたのは、1831年のロシアに対する蜂起の後と考えられている。ロシアの圧制で処刑された人たちや、シベリアへ流刑されたリトアニア人たちを悼んだ人々が、一つひとつ持ち寄って建てられた。旧ソ連軍が、何度かブルドーザーで撤去を試みたものの、いつしか再び十字架が集まりはじめ、現在のような数になったといわれている。その数は5万、10万、20万とさまざまに言われるほど数え切れなく、巡礼者や観光客も自由に十字架を建てることができるため、現在も増え続けているという。
(参考)
・ 「十字架の丘」(DTAC リトアニア観光情報局)
・ 「十字架の丘」(ウィキペディア)
・ 「奇妙でも非常に美しい!リトアニアにある十字架の丘に行ってみよう」(compathy)
・ 「鳥肌必至!リトアニアの世界遺産 十字架の丘へ行ってみた」(Fika i Sverige)
・ 「リトアニア共和国の世界遺産『十字架の丘』に行ってみた! 10万以上の十字架が存在」(GOTRIP!)
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※8:「杉原千畝さん」
◎ 杉原 千畝 (すぎはら ちうね)
Sugihara_s 1900年(明治33年)1月1日~1986年(昭和61年)7月31日(満86歳)
 第二次世界大戦中、外交官としてリトアニアのカウナス領事館に赴任していた。ナチス・ドイツの迫害で、ポーランドをはじめとする欧州各地から逃れてきたユダヤ人たちを、命の危機から救うため、1940年7月から8月にかけて、本国からの要請に反して、大量のビザを発給し、6千人以上の避難民を救ったといわれている。そのため、「東洋のシンドラー」(「日本のシンドラー」とも)と呼ばれるようになった。
(参考)
・ 「杉原千畝」(ウィキペディア)
・ 「杉原千畝と『命のビザ』」(アジア歴史資料センター)
・ 「杉原千畝について」(杉原千畝記念館/岐阜県加茂郡)
[PDF]杉原千畝とロシア正教」(岩村太郎 著、2003/恵泉女学園大学リポジトリ) など
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※9:「杉原記念館」
Sugihara-konsulat-S Sugihara Museum
 リトアニア、カナウスにある旧日本領事館で、第二次世界大戦中は、杉原千畝氏が外交官としての任に当たっていた場所。
 ナチス・ドイツによる迫害から、ポーランドに住むユダヤ人を助けるため、亡命に手を貸し、当時のオランダ領事であったヤン・ツバルテンディックと連携して、日本政府の意に反して「命のビザ」とも呼ばれた日本通過ビザの発給を行った。
 領事館だったこの建物は現在、その杉原氏の記念館として一般に公開されている。
(参考)
・ 「杉原記念館」(Kaunas, Lithuania)
・ 「杉原千畝記念館」(DTACリトアニア観光情報局)
・ 「カウナス杉原千畝記念館」(トリップアドバイザー)
・ 「杉原記念館(リトアニア・カウナス) 」(世界遺産を巡る旅) など
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※10:「その手記の中で、『その夜』のことを読んで、心にぐっとくるものがありました」
 この手記は、1978年以降の晩年に、回想して書かれている。全文を読むことができるので、興味のある方はお読みください。
  「人として(晩年の手記)」(杉原千畝記念館)
   ・・・ ジャンプ先で開いたページの、下の方に記載されています。 
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※11:「『諸国民の中の正義の人賞』っていう賞を授与しました」
 「諸国民の中の正義の人」は、ナチス・ドイツによるホロコーストから、自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表す称号で、「正義の異邦人」とも呼ばれる。イスラエル国政府は、その対象者に、「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を授与している。
 1985年1月18日、日本人として初めて、杉原千畝氏が、この「諸国民の中の正義の人」として表彰された。
(参考)
・ 「諸国民の中の正義の人」(ウィキペディア)
・ 「杉原 千畝~自らの心に従った外交官~」(刚学日语)
・ 「杉原千畝」(Yahoo!ジオシティーズ)
・ 「ありがとう、スギハラ!私たちはあなたを忘れない」(杉原千畝と6,000人の命のビザ)
・ 「正義の人(杉原千畝と樋口季一郎) その2」(「ティータイムは歴史話で」)
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2017年6月11日(日) 録音/2017年6月29日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英