【カトリック浅草教会】
2017年5月28日 主の昇天
・ 第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録1・1-11)
・ 第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ1・17-23)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ28・16-20)
【晴佐久神父様 説教】
「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 (マタイ28:20) 。
このイエスさまの言葉に励まされて(※1)、安心して、「一人ぼっちじゃないから、だいじょうぶだ」っていう勇気をね、新たにしましょう。
それも、「あなたがたと共にいる」ですから、私たちみ~んなと一緒にいるイエスさまをイメージします。イエスさまが一緒にいるから、私たちは家族になれる。そういう信仰の家族、「教会家族」として、「私たちは、イエスさまが共にいてくださる特別な家族なんだ」っていう喜びのうちに、また今日一日、またこの一週間、一緒にやっていきましょう。
今、私も、いろんな福音家族のチャレンジを始めてますけど、そうするといろいろと問題が起こったり、これでいいんだろうかって自信が揺らいだり、まあ、いろいろあるわけですけれども。・・・そんなとき、ミサはいいですねえ。こうして信じる仲間たちが集まると、ホントに、ここに主がおられるって信じられるし、特別な家族として共に祈っていることに励まされます。
さっき、ミサの直前、聖堂の入り口で、初めてお会いする学生が挨拶してくれました。・・・先週初めてミサに来たそうですけど、「ネットで知って、やって来ました」っていう早稲田の学生です。あそこに座っている彼です。私、今、早稲田大学で教えてるんで、学部は違うんですけどね、「ぼくの授業も、聴きに来てよ」って勧めたところです。
今日、私の講演会があるんですけど、このあと午後2時から上智大学です(※2)。そこにも彼を誘ったら、「行きます」って言うんで、「じゃあ車で行くから、一緒に行こうよ」って言ったら、「えっ!? いいんですか? こんな私のような無名な者と・・・」(笑) って。
「無名」って、誰であれ、無名なわけないじゃないですか。初めて会った人とでも、神さまが結んでくれてるんだから。・・・それはもう、一人ひとり特別な人なんであって、お互いに「名のある」大切なつながりとして定められてるっていうか、祝福されてるっていうか。たとえこの世で「無名」であっても、神の前に「名のある」私であれば、それで十分なんです。
イエスさまが私たちと共にいるって信じるこの仲間たちは、ホントに、「イエスが共にいてくれる」ということにおいて平等であり、つながっている家族です。今日は、追悼の意向も含めたミサですので、ご遺族の方も来ておられますけれども、「イエスが共にいてくれる」という意味では、天に召された方々ともつながっている家族です。神父、信徒、先輩の信者、新しい信者、そして今日初めて来た人、みんな「名のある」、つながっている人。・・・分け隔てなく、み~んな一つになって、この教会家族を深く深く味わいたいと思います。
最近、入門講座に来始めた一人の青年が、先週の講座で話してくれました。
彼は以前から、ある教会に通ってるんですけど、「教会で叱られた」って言うんですね。「日曜日に、ちゃんと教会に来なさい」って。でも彼は、日曜日に大事な活動をしてるんです。彼の地元が、最近若い人も減って活気がないので、地域活性化のために、仲間たちとイベントをやっていると。コスプレして、いろんなアニメやゲームの登場人物の格好したりする仲間たちだそうですけど、そういうイベントで日曜日は忙しく、なかなか教会に行けないでいたら「叱られた」と。で、こう言われたって言うんですよ。
「コスプレする人たちのところになんか、行っちゃいけない。あの人たちのところに、イエスさまは行きません。彼らは救われない人であって、あなたは救われるために教会に来なさい」
・・・そう言われた、と。まあ、それで悩んで、ネットにそんな悩みを載せたら、この復活祭に洗礼受けたばかりのうちの青年が、たまたまそれを見て、「ぜひうちの入門講座においでよ」と誘ったということなんですけど。
そういう、「救われる人たち」「救われない人たち」みたいな二元論がね、どれほど悲しいか、恐ろしいかっていうことをず~っと語ってきた者として、その彼には、今、講座で、「すべての人を救う神の愛」を語っているところです。
イエスさまは、コスプレしていようがしていまいが、すべての人のところに行きます。日曜日に教会に行けないとか、教会で叱られて悩んでいるとか、むしろ、そういう人のところにこそ真っ先に行きます。イエスさまが行かないとこなんか、この世のどこにもない。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 (マタイ28:20)
そう言うイエスさまにとって「あなたがた」は、すべての「名のある」神の子であるはず。そして本当に、すべての人のところに出かけていく。だからこそ、ここにいる私もあなたもイエスに出会えたんであって、それは、信者か信者でないか関係ない。何教、何宗すら関係ない。神が愛しているすべての人のところに必ず行く。それを「救い主」と呼ぶ。
昇天したイエスさまは、そのように、すべての人と共にいるために昇天したんです(※3)。「天に上げられた」 (使徒1:9,11) っていうことは、「すべての人のうちに来られた」ってことですよ。すべての人の中に、天が開けてるんだから。
今日がミサは二度目っていう早稲田の学生、あなたのもとにも、イエスは来ておられます。そうして主に出会って、主に導かれて、今もいつも共にいるイエスに目覚めるように招かれています。
「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ28:19) っていう言い方を、先ほど、復活の主がなさっていました。「洗礼」っていうのは、本来の意味は「沈める」ですね(※4)。父と子と聖霊そのものの中に、トポン、と沈める。もう、全身全霊が、父と子と聖霊の交わりの中に入っちゃう。まあ、そういうことですね。
じゃあ、「父と子と聖霊の交わり」とは何か。それを知りたい方は、今日もエントランスで、『十字を切る』(※5)という晴佐久神父の名著を売っておりますので、そちらを。(笑)・・・と言うのでは、あんまりですから、ここで簡単にお話しするなら、「父」は神さまでしょ、「聖霊」は神さまからあふれてくる親心でしょ、「子」はその親心を全面的に受けている神の子イエスです。・・・つまり、「家族」ってことです。父と子と聖霊。
父からあふれてきた愛、親心が、子どもを包んでいて、もうその三つは、分かちがたく一つ。父のいない子はいない。子のいない父もいない。親心が結ばなければ、父も子もない。
この、一つに結ばれている、父と子と聖霊の
そのように、「ああ、そうか。私はもう、天の家族の一員なんだ!」って気づいて、本当に喜びに満たされたときこそが、「父と子と聖霊のみ名による洗礼を受けた」っていうことでしょうし、それを言葉としるしで表すのが、実際に水を掛け、洗礼名を授ける「洗礼の秘跡」っていうことなんですね。
イエスさまは、「すべての人をわたしの弟子にして、洗礼を授けなさい」って言ってますけど (cf.マタイ28:19) 、それは、コスプレしてようが何だろうが、「すべての人」でなければならない。イエスの命令ですからね。
かくいう私だって、1年前、ペラール神父さんの誕生日に、リスの着ぐるみ着て乱入しました(※6)。コスプレがダメなら、私のところにも、イエスさまは来てくださらないということになる。そんなはずありません。私が何をしていようとも、何をしていまいとも、私は、父と子と聖霊のみ名のうちに、トポン、と入っています。・・・この安心。
「無名な者」だと思ってるあなただって、そんな安心に招かれているのです。
今、週の半分は上野にいるんですけど、上野はいいですねえ。ちょっと歩いていくと、美術館、コンサートホール、博物館があって、イベントがめじろ押し。先々週は、「茶の湯」の展覧会で利休を観てきましたし(※7)、先週はバベルの塔を観てきました(※8)。大好きな絵なので、実物はもう二度目ですけれど、まじまじ、つくづくと眺めてきました。東京都美術館です。7月2日までやってますから、ぜひ、ご覧になったらいいと思う。
ブリューゲル(※9)の最高傑作ですね。思ったより、ちっちゃい絵なんですよ。70センチ掛ける80センチくらい。でも、その中に細密画のようなバベルの塔(※10)、あのまがまがしき塔が、ドーンと描かれている。上部にまがまがしき黒雲がかかっててね、塔全体に、ちっちゃ~く、つまようじの先で描いたような人々が丁寧に描かれてるんですけど、それがなんと1400人! 奇跡の絵です。
まあ、あの絵の素晴らしさは、やっぱり、人間の本質を描いているからですね。・・・人間の内にある悪しき傾向というか、原罪というか、「神のような者になりたい」という欲望というか、失楽園した人間のうちに秘められている、目には見えないまがまがしきものが、ドカンと、あの一つの塔に凝縮されて描かれてる。
見ると、その負の迫力に圧倒されますよ。「そうだよね。人間って、こういうことするんだよね」って。それは何かこう、原発の建物にも見えてくるし、都市そのものにも見えてくる。「人間って、こういうもの造るよね」って。また、悲しいことに、「こういうのに憧れちゃうんだよね」って。・・・そういうとこ、ありますよね、私たち。巨大な建物を見て、「お~っ!」ってね、「人間って、すごいな。こんなもの造るんだ」ってね。この辺だって、ちょっと行くとスカイツリーなんか建ってて、やっぱり見上げると、「お~っ!」って思うじゃないですか。
でも、なんで、ああいうものを建てるんでしょうね、人間って。何が、そのモチベーションなんだと思います? バベルの塔の話は、創世記11章に載ってますから、後でよく読んでみてください(※11)。こう書いてあります。
「人々は、天にまで届く塔のある町を建て、有名になろうと思った」 (cf.創11:4)
なるほど、それがモチベーションなわけだ。
・・・「有名になろう」
まあ、そんなに悪いことでもなさそうですけどね。若者たちが、「有名になりたい、ビッグになりたい」とかって、10代、20代くらいの若者なら、そう思ってるほうが自然かもしれない。「私は、無名でありたい・・・」なんていう若者、(笑)ちょっと、さみしい気もしますし。まあ、10代、20代、舞い上がっていいんじゃないですか?
でも、さすがに30代、40代になったらね、「有名になろう」なんて意欲も減り、もう50代、60代になったらね、「有名になっちゃったら、なんか、ややこしいよね」(笑)くらいなふうに思うわけですが。そして、信仰者の場合は、こう思うのです、「たとえこの世で有名になったところで・・・」と。
神のみ前に豊かでなければ、何もない。・・・何も。
バベルの塔は、壊れちゃいました。未完成のまま、跡形もなくなった。
そもそも、この世にね、「天まで届く塔を造ろう」って言たって、それは無理だし、「神のような者になろう」って言ったって、それはむなしい企てだし、「有名になろう」って言ったって、それは束の間の「有名」ですよね。今、有名な人でも、十年たったら、百年たったら、千年たったら・・・?
その意味でいうなら、世界で一番有名な人、誰だろう。
・・・イエス・キリストでしょう?
でも、イエス・キリストは、有名になりたかったのか。・・・違う。むしろ、この世の「有名」などからは、まったく自由だった。だって、父と子と聖霊の「み名」に、トポンと、完全に入ってる状態ですから。でも、だからこそ、最も「有名」になったんです。この世で名のある者にならなくても、父と子と聖霊の名前の中に沈んでいれば、それが最高の喜びであり、名誉だという、・・・この自由ですね。
だから、「この世で褒められちゃったら、それまでだよ」って、イエスは言うんです。
「あなた方は今褒められているけれども、褒められちゃったら、この世での報いにすぎないよ」と。父と子と聖霊のみ名の中にある自由、そこにおいてこそ、キリスト者としての誇りとか喜びっていうものを知ってほしい。それはやっぱり、10代、20代のころから、少しずつ気づいていくべきじゃないですか?
早稲田の学生さん、実は、あなたの先輩も、2週間前からここの入門講座に来るようになってるんです。彼は、以前の教会で、私が洗礼を授けました。まあ、中高生のころから、ある種の信念というか、オーラを持ってるようなやつでしたけれども、彼は、英語の教師になりたいっていう夢を持っていて、それが実現しました。アメリカのワシントン大学に留学して、帰ってきてから、もう3年間、英語の教師をしてます。
その彼が、なんで教師をやりたいと思ったかっていうと、単に勉強を教えるんじゃなくて、「生徒たちを幸せにしたい!」っていう熱い思いを持ってるんですね。だから、先日の入門講座でも、みんなの前で、こう証言してくれたんですよ。
「ぼくは、自分のクラスの子どもたち全員、家族だと思ってる」って。
クラスに何十人かいるわけですけど、「出席番号1番が長男で、出席番号の最後は末っ子で、全員兄弟だと思ってる」と。だから、生徒たちも、陰では、彼のことを、「パパ」って呼んで慕ってるんですって。
さらには、ふつう先生たちは、保護者会を恐れてるんだそうで、まあ、クレーム付けられるんじゃないかとか気が重くて、相当なストレスなんですって。だけど彼は、保護者会が楽しみでしょうがないって言う。それは、自分のクラスの愛する子どもたち、つまり自分の「家族」の、血縁上の親はどんな親なのかを知るのが楽しみだし、その親と交わることで、その子供たちともいっそう深く交わることができるから。
彼は、「自分のクラスは家族だ」っていう教育方針を、自分の大切な使命として教員生活を送ってるということで、すごく評判がいいんですね。ホームページ見ると、学校案内にも、彼がドーンと出てますし、キラキラ輝いてます。
だからこそなんですけど、その彼と、夢中になって「福音家族」の話をしていたときに、先週もお話しした「福音教室」の話が始まったんですよ(※12)。学習支援ですね。貧困家庭の子どもたちに、勉強を教えたいという話です。
もちろん彼も忙しいんですけれども、それでも、ボランティアで、「ぜひ、子どもたちに教えてあげたいんだ」っていう、その思いがうれしかった。実はほかにも、あの話のあとで、「ぜひ私も手伝いたい」って言ってくださった方が何人もいるので、実現すると思いますよ。
教会の部屋をお借りしてやりたいなあって思ってますけど、もし、「私もあれを教えたい!」とか、「私はこれが得意だから、子どもたちに伝えたい」とかありましたら、ぜひお申し出くださいね。
私は、子どもたちに、単に「学力」を与えるんじゃなくって、「福音家族」を体験してもらいたいんです。勉強を教えてくれるお兄さんお姉さんたちをはじめ、自分のことを本当に大切に、家族のように思ってくれる人たちとの出会いを与えたいんです。もちろん、それで学力が増せば、それはそれでいいんだけれども、「学力」がホントの幸せを生むかっていうと、決してイコールじゃないですもんね。幸せとイコールっていうんなら、それは、父と子と聖霊の交わりの中に、トポンと沈むことなんだから。
その意味では、儀式としての洗礼を受けなくたって、そのような福音家族に出会ってくれれば、そこに神の国は実現するんじゃないですか。
なんといっても、集まった子どもたちには、当然最後にご飯を出すわけですし、もうまさに、「一緒ごはん」の福音家族。本当を言えば、そっちが本命で、学習支援はそこに招くための入り口なんですけどね。
先週お話しした「福音食堂」(※13)の話も、昨日のミーティングで、ついに責任者も決まり、スタートいたしました。ホームレスの方たちに、食事を提供するプロジェクトですけど、こちらも、単に食事を出すんじゃない。一緒にごはんを食べる人を提供する。・・・ステキでしょう? 先週もその話をしたおかげで、手伝いたいっていう方が申し出てくださって、これは上野教会を会場に、始めることになりました。
上野教会って、実は
みんなで、福音家族を実現していくと、そこに「父と子と聖霊のみ名による交わり」というのが実現するんですね。・・・楽しいですね、キリスト教って。ホントに。それはもう、すでに天に生まれ出ていったあの人、この人たちが味わっている
こういうことをやっていれば、もう、まがまがしき塔なんかいらないんですよ。有名になるための塔なんかいらないんです。私たちの、この集いこそが、その塔なんだから。天にまで届く塔を建てようっていうんなら、目には見えない、愛の塔を建てようじゃないですか。・・・でしょ? 地上では無名でも、天上で有名な塔。
バベルの塔の話の最後は、こうなってます。
神さまが、「こんな勝手なことをさせておいたら、もうだれも止められなくなる。そんな勝手なことをさせないためにも、言葉を通じなくしてしまおう」って言って、それでお互いに言葉が通じなくなって混乱して、塔の建設は終わってしまった、と (cf.創11:5-8) (※14)。
・・・そういうことですね。この神話が何を物語っているかは、明らかです。
「天にまで届く塔を建てよう」「有名になろう」なんて、実を言うと、それはもう非常に自己中心的な思いでしょ? ほかの人のことはどうでもいい。私、あるいは、私たち「だけ」有名になりたい、そういう思いを持っていると、なんと、言葉が通じなくなるっていう話なんですよ。家族だって、お互い自分のことしか考えていなくて、言葉が通じなくなってるバベル家族がいる。教会の中だって、自分のことしか考えなていなくて、言葉が通じなくなってるバベル教会がある。
ぼくらが、父と子と聖霊の交わりの中にトポンと入ってるとき、そこではもはや、お互い言葉もいらないくらい通じ合ってるっていう世界が、そこに実現します。
私たちは、今日、「主の昇天」の日に、父と子と聖霊のみ名による洗礼を、もうすでに受けている者として、心を一つにいたします。そして、このような交わりを必要としている子どもたち、つらい立場にある人たちと福音家族になることに憧れます。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「このイエスさまの言葉に励まされて」
この日、2017年5月28日(「主の昇天」の祭日)の福音朗読箇所から。
マタイによる福音(マタイによる福音書)28章16~20節
〈小見出し:「弟子たちを派遣する」28章16~20節〉
(参考)
今日の、この箇所は、「マタイ福音書」の結びの部分で、十字架にかけられたイエスが復活した後、昇天する場面が描かれている。
===(聖書参考箇所)===
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。 」 (マタイ28:18-20/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る >
※2:「今日、私の講演会があるんですけど、このあと午後2時から上智大学です」
2017年5月28日、上智大学のホームカミングディ=ASF(オール ソフィアンズ フェスティバル)で行われた講演会。毎年一回開催されている。
毎回好評なため、今年は700人収容の、4月にオープンしたばかりの大講堂で開催された。
今年の演題は、”キリシタンの生き方 ‐映画「沈黙」から‐”。
スコセッシ監督から日本の聖職者の感想が聞きたいと求められて送ったメッセージのことや、映画『沈黙』への思い、そして神学論に至るまで、熱を込めて語られた。
(参考)
・ 「晴佐久神父講演会@上智大学」(「福音の村」のお知らせ)
・ 「ASF2017(オールソフィアンズフェスティバル 2017)ご案内」
・ 「『SOPHIANSNOW』No.181 p.7」(デジタルブック-Flash)
・・・< 文中へ戻る >
※3:「昇天したイエスさまは、そのように、すべての人と共にいるために昇天したんです」
この日、2017年5月28日(「主の昇天」の祭日)の第1朗読箇所から。
使徒たちの宣教(使徒言行録)1章1~11節
〈小見出し:「はしがき」1~2節、「約束の聖霊」3~5節、「イエス、天に上げられる」6~11節〉
===(聖書参考箇所)===
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 (使徒1:7-9/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る >
※4:「『父と子と聖霊の名によって洗礼を授け』っていう言い方を・・・『洗礼』っていうのは、本来の意味は『沈める』ですね」
参考までに、この日に会衆に配られた『聖書と典礼』欄外には、「父と子と聖霊の名によって」、および、「聖霊による洗礼」(本日の第1朗読より)について、以下のような注釈がある。
===(『聖書と典礼』欄外)===
・ マタイ28:19 「父と子と聖霊の名によって」
聖書の中で、ここだけに見られる表現。直訳は、「父と子と聖霊の名の中に(沈める)」。洗礼は父と子と聖霊のいのちの中に人々を招き入れるものである。 (『聖書と典礼』 p.6〈主の昇天 A年 2017.5.28〉オリエンス宗教研究所/赤字引用者)
===
・ 使徒言行録1:5 「聖霊による洗礼」
「洗礼」の元の意味は、「沈める、浸す」。聖霊の中に浸されること。 (『聖書と典礼』 p.3より抜粋〈主の昇天 A年 2017.5.28〉オリエンス宗教研究所/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る >
※5:『十字を切る』(既出)
2012年10月発売の、晴佐久神父随筆集。(女子パウロ会)
以前も何度かご紹介しましたので、ご興味のある方は、>こちらをご覧ください。
読んでみたいと思われる方は、Amazonやショップパウリーネ 他、お近くのキリスト教書店などをご利用ください。
===
「特に今、つらい思いを抱えている方、病床にある方、魂の救いを求めている方にこの本が届き、この世に十字の祈りが一つでも増えるならば、何よりの喜びです。」(あとがきより/晴佐久神父)
・・・< 文中へ戻る >
※6:「かくいう私だって、1年前、ペラール神父さんの誕生日に、リスの着ぐるみ着て乱入しました」
ディズニーの「チップ&デール」のチップの着ぐるみを着て乱入。昨年、2016年5月29日のお説教で話された。
(参考)
・ 「道行く人を救いましょう」 (「福音の村」2016/5/29説教)>この辺(3段落目)~
・・・< 文中へ戻る >
※7:「先々週は、『茶の湯』の展覧会で利休を観てきましたし」
2017年4月11日(火)~6月4日(日)までの予定で、特別展「茶の湯」が、東京国立博物館で開催。5月26日(金)現在で、入場者が20万人に達するなど、好評を博している。
(参考)
・ 特別展 「茶の湯」(東京国立博物館)
・ 特別展「茶の湯」(展覧会公式サイト)
・・・< 文中へ戻る >
※8:「先週はバベルの塔を観てきました」
2017年4月18日(火)~7月2日(日)までの予定で、ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展が、東京都美術館で開催。原寸を約300%拡大したブリューゲル「バベルの塔」の複製画や、「バベルの塔」の3DCG動画を見ることもできる。
(参考)
・ ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 (東京都美術館)
・ ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 (特設WEBサイト)
・・・< 文中へ戻る >
※9:「ブリューゲル」
◎ ピーテル・ブリューゲル (1525?-1569)
生年や出生地は、確かなことは分かっていない。生年は、1525~1530年の間と推定されており、出生地は、ブラバント公国(現在のオランダ)のブレダであろうといわれている。
ブリューゲルは、ピーテル・クック・ファン・アールスト(1502-1550)の弟子として画家修業をはじめた。クックは宮廷画家であり、彫刻や建築、タペストリーやステンドグラスのデザインから出版に至るまで幅広く手掛ける一流の画家だった。その後、クックのもとを去り、数年間イタリアで修行。
1555年に帰国し、ヒエロニムス・コック(1518-1570)の版画下絵画家として活躍。同じ頃すでに伝説の巨匠であったヒエロニムス・ボス (1450頃-1516) 風の幻想的で怪異な作品を制作した。
1563年にブリュッセルへ移住してからは農民たちの生活を題材にした作品を数多く描き「農民画家」とも呼ばれた。
(参考)
・ 「ピーテル・ブリューゲル」(ウィキペディア)
・ 「ピーテル・ブリューゲル」(Salvastyle.com)など
・・・< 文中へ戻る >
※10:「細密画のようなバベルの塔」
◎ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』
1568年頃、油彩、板。
ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館所蔵(オランダ ロッテルダム)
細部もリアルに表現されており、当時の建築技法まで正確に描写され、たとえば、壁面は聖書の記述に忠実な材料であることが伺えたり、クレーンのような重機まで、当時のものが描かれたりしている。そのほか、塔を取り巻くいたる所に、さまざまな情景を見ることができる。
(参考)
・ 「見どころ」(特設WEBサイト)
・・・< 文中へ戻る >
※11:「バベルの塔の話は、創世記11章に載ってますから、後でよく読んでみてください」
該当箇所:創世記11章1~9節〈小見出し:「バベルの塔」11章1~9節〉
===(聖書参考箇所)===
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。(創11:4)
・・・< 文中へ戻る >
※12:「先週もお話しした『福音教室』の話が始まったんですよ」
参考箇所は、「カッコいいキリスト者」(「福音の村」2017/5/21説教)の >この辺(大きな段落で下から2段落目)~です。
・・・< 文中へ戻る >
※13:「先週お話しした『福音食堂』」
参考箇所は、「カッコいいキリスト者」(「福音の村」2017/5/21説教)の >この辺(大きな段落で下から3段落目)~です。
・・・< 文中へ戻る >
※14:「それでお互いに言葉が通じなくなって混乱して、塔の建設は終わってしまった、と」
===(聖書参考箇所)===
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 (創世記11:5-8/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る >
Copyright(C)晴佐久昌英