今聞いているあなたに

2012年11月25日 王であるキリスト
・第1朗読:ダニエルの預言(ダニエル7・13-14)
・第2朗読:ヨハネの黙示(黙示録1・5-8)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ18・33b-37)

【晴佐久神父様 説教】

 今日は、先週の講演会のお話から。
 素晴らしい講演会をふたつ、長野県で、木曜、金曜と連続でやってきました。これが、どちらもプロテスタントの教会なんですよ。木曜は長野県の飯田という所のプロテスタントの教会に、近隣の教会の方も集まって講演会をして、翌金曜は諏訪という所で、その地区のプロテスタントの教会の方が集まっての講演会でした。
 私ホントに、最近プロテスタントの教会に行くことが多くなって、だんだんよくわかってくることもあり、通じることもあり、ああ、神さまが結んでくれてるんだなあという感動もあるんです。教会一致運動のことを「エキュメニズム」っていいますけど、私、「歩くエキュメニズム」みたいな感じであちこち回っていて、そんな私のことを、ある若き友人は「はれれ、エキュメンだね」って言うんですよ。(笑)私はイケメンでもないし、イクメンもできませんが、「エキュメン」、いいじゃないですか。「歩くエキュメニズム」ですよ。
 だって、神さまはすべてを一つになさりたいわけですし、教会はもともとイエスにおいて一つだったんだから、それを信じて諸教会を回って福音を語り、涙ながらに福音を聞いている人を前にすると、「ああ、福音においては何も違わないな」って思う。
 かく言う私自身、かつてはプロテスタントのことをよく知りませんでしたから、正直言って偏見もあったわけですよ。知らないってコワいですね。で、あちらはあちらで、「カトリックってこんなもんだ」っていうふうな思い込みがあるわけでしょ。でも、実際に出会って、福音を語り、福音を聞き、共に福音に感動して、福音において一つであれば、何にも違わないっていう、その現実にはすごく学ばされるし、励まされます。
 ですから、「カトリックとプロテスタント、どこが違うんですか?」ってよく聞かれるけど、「福音においては何も違わない」って、いつもそう答えます。それは理屈ではなく、最近の私の実感なんですよ。・・・「福音においては何も違わない」。
 もちろん違いはありますし、そこは丁寧に話し合ったらいいんでしょうけど、まず違いの話から始めるとね、なんだかややっこしい。でも、「神は愛だ。私たちは愛されている」「主イエスによって、私たちはもう救われている」「今日、私たちが主の名によって出会っているこのひと時こそは、天国の始まりだ」なんて、そんな喜びで満たされていれば、そこにあるのは「キリストの教会」であり、そこで「カトリック」とか「プロテスタント」とか言い出してもあまり意味のないこと。

 それにしても、プロテスタントも、よくカトリックの神父を呼びますよねえ。私は頼まれれば喜んで出かけていきますけど、先日も牧師先生に「だけど、よくカトリックの神父を呼びますよねえ」って言ったら、牧師先生が、「でも、よく引き受けますよねえ」って言われて、(笑)まあ確かに最初のうちは、やっぱりすごいアウェー感があって、緊張もあったけど、慣れてくると、この多摩教会で福音を語ってるのと何も違わない。そもそもほとんどの人はキリストに出会い、福音に出会ったんであって、どちらかをわざわざ選んだわけじゃない。
 実際、ある方と講演会の後でお話したんですけど、「私、たまたま近くの教会がプロテスタントの教会だったんで、そこの信者ですけど、たまたま近くがカトリックの教会だったら、カトリック信者だったと思いますよ」って言ってました。そう言われると、私だって、たまたまカトリックの親だったからカトリックなわけで、熱心なプロテスタントの親だったら、今頃どっかの牧師先生になってたかもしれない。それもまた神のみ心なら、そうだったわけでしょ? 「晴佐久牧師」、いいですねえ。妻もいる。(笑)いいじゃないですか。「あなた、今日のミサ、良かったわよ」とか励ましてくれる。(笑)
 カトリック、プロテスタント、もちろんそれぞれの良さがあり、それぞれの問題も抱えている。でも、本質的には「キリストの教会」なんですよ。そういう意味で、本来はいずれも「普遍教会」をめざしているという意味でなら、「カトリック」とは「普遍的」っていう意味ですから、大きな意味ではキリストの教会はみんな「カトリック教会」なんです。

 そういう普遍的な福音を語り、その福音がちゃんと通じている現場には、まさに聖霊が降っている。福音に感動して、みんな涙ながらに聞いてますよ。話しているこっちも胸が詰まって感動する。長野では目の見えない方も来られていたし、足が不自由で車椅子で、しゃべるのも困難っていう方とかね、いろんな方が詰め掛けていて、涙ながらに福音を聞いてるんですよ。
 「ラジオでいつも聞いてます。ぜひナマの声を聴きたかった」ってね、目の見えない方が言ってくださった。「今日はどうしても来たかった。直接お話が聞けてホントにうれしかった。がんばってください」って、体が麻痺している車椅子の方が言ってくださった。それはまさしく、聖霊の働いている現場ですよ。福音自身が働いているんです。私はいつものとおり、な〜んの準備もない。行けば聖霊が語るべきことを教えてくれるって、それだけを信じて立つ。聖霊は、人の心をつなぐ霊ですから。
 「今、私は聖霊に促されて天の話をしてるんだから、この世のことは超越してる」っていう自覚は大切です。この世で何があろうとも、すべては天の恵みのうちにあるって証しする、そういう福音を語っているんだから、この世でのこの私が、言い間違えようと、言葉に詰まろうと、そんなことはどうでもいいんです。私はちゃんと今、天とつながって、聖霊に導かれて、この試練の世を生きる一人ひとりを励ましているっていう、その天への信頼、喜びがあればいい。それを信じて、今実際にそのように語って実際に生きることでみんなとつながろうっていう、それが私の説教とか講演会の特徴なので、そのことにおいては、カトリックもプロテスタントも、ホントに関係ない。福音において一つ。
 今回も、私がそういう思いで話をしていること、そういうつながり方をしているってことを目の当たりにして、「謎が解けた」って言ってくださった牧師先生もいました。
 どういうことかというと、今日もこれ、ここにレコーダーがあるからたぶん録ってるんでしょうけど、ラジオでこの説教を聞いている方がよく、「晴佐久神父の説教って、急に終わる」って言うんですよ。(笑)で、「そんなふうに終わるはずがないから、たぶん編集でカットしてるんだと思ってた。だけどそうじゃないってわかりました」って言ってました。ラジオ局にも「どうしてあそこで切るんですか?」っていう、苦情というか質問というか、来るらしいですよ。
 確かに、皆さんもお気づきか、私の説教って、話していて、急に気が向かなくなったらプイッと終わっちゃうみたいな、(笑)感じで終わるんですよ。でも、それには訳があるんです。私はいつも、天とつながって皆さんに話そうと思う。できれば30分でも1時間でも話したい。とはいえ、時間もあるからそろそろ終わんなきゃなと、やっぱり心では思うわけですけど、それでも、聖霊が「いや、でも先週はあんな素晴らしいことがあったじゃないか。それをみんなで分かち合おう」って思わせてくれれば、その話をする。で、その話が終わったら、普通ならまとめに入るわけで、それなりに話をまとめて終えればいいんだけれども、まとめに入ろうって思うときって、なんか天の思いで話してるんじゃなくって、自分の思い、人間の考えでまとめようとしてるって感覚になる。それがイヤなんです。聖霊は福音を語ったらスッと天に戻ってっちゃうんで、私も「もうこれでいいや」って思って、終わっちゃう。聞いてる方は戸惑って、編集でカットしてるんじゃないかって思うらしく、私もよくそう言われるんですけど、あれは、ホントに終わってるんです。それ以上、自分の思いなど、付け加える必要がないから。

 イエスさまは「わたしはこの世に属していない」「わたしの国はこの世に属していない」、そう言う。じゃあどこに属してるんだっていえば、それは「天」に属してるんです。
 天は純粋で完全ですから、そこに属していれば、不純で不完全なこの世でどうあろうとも別に構わないんですよ。純粋で完全な天に属しているイエスさまにつながっている安心感、信頼感、そういうものがあったら、たとえこの世で、いろんな嫌なことがあります、失敗があります、不純な自分に傷つきます、不完全な自分にイライラします、そういうことがあっても生きていける。そういうことがあるのは当たり前のこと。だって「この世」なんだから。私たちは「この世」だけに属しているならば、決して幸せにはなれない。いつもいら立って、いつもがっかりして、いつも本当の希望を見出せずに不安と恐れのうちに生きるしかない。この世だけに属しているなら。
 イエスさまは、「私の国はこの世に属していない」という。天に属しているんです。天は純粋で完全で永遠で、そこに属している。ここに集まっている私たちは、そのような天につながっているんだから、この世を生きていくことができる、そういう人たちです。不完全なこの世を忍耐できる。不純なこの世を受け入れる。そういうことができるのは、天に属しているという誇り、幸せ、それがあるから。
 講演会の後で、ひとりの牧師先生が私にですね、
 「今日は思いっきり顔を殴られたような気がしました」って言ってました。
 ガーンと。ショックだったんですね。
 「どういうことですか?」って聞いたら、
 「こんな純粋な話聞いたことがない。ああ、純粋っていいなって思えた」そう言った。だから私、
 「でも、そもそも、キリスト教って純粋ですよね? 不純な自分だからこそ、純粋な福音を信じて、純粋に語りたいんです。純粋なキリストにつながってるからこそ、どんな不純な現実があっても、受け入れられる。どんなに自分が不純でも、純粋につながっている喜びがある。それが救いでしょう」とお答えした。
 不純ですよねえ、私たち。「私は純粋です」って言う人がいたら、おそらくその人が一番不純な人ですよ。私は、ホントに自分を不純だと思う。人を見ても「いやはや、実に不純だな」と思う。(笑)だからこそ、純粋なイエスさまを信じるし、純粋なイエスさまが宿ってくれることがもう涙出るほどうれしくなる。「私の国はこの世に属していない」っていうキリストにつながって、私も純粋な天に属してるんだっていう喜び、安心をもって、不純なこの世を生きているんです。
 たぶん、その牧師先生は、今まで一生懸命、「この世で」「人間の業で」純粋であろうとしてたんじゃないですかねえ。でも、そんなこと決してできないわけですから、この世で完全に純粋であるなんてイエスさまにしか許されてないわけですから、それがうまくいかないことが、苦しくって、必死に努力してもなかなか純粋に至れないがために、悩んだり、恐れたり、時には偽善的になって心にもないことを必死に話したり、そんなことがいっぱいあったんだと思う。それは苦しいですよ。
 だけど晴佐久神父がやって来て、心にあることしかしゃべらない。平気で自分は不純だと言い、自分はそう信じてますという福音だけをしゃべる。その他のことを言いそうになると、「でも、これはちょっときれいごとだな」とか、「やっぱり自分にできないことを人にやれっていうのはおかしいな」とか、そんな気持ちになって、そういうことはしゃべらない。
 私は不純です。不純でまともなことはなんにもできず、こんなに弱くって、いっつも恐れたり、迷ったり、争ったりしているけれども、だからこそ、天に属しているキリストとつながっていたい。洗礼を受けた者として、聖体をいただいている者として、天に属している者でありたい。そう心から願うし、皆さんももう、洗礼を受けた以上、聖体を受けた以上、天に属する者なんだから、こんな不純なまま、こんな罪深いままでも、天に属していられるんだという喜びを忘れないでほしい。それこそが聖なるミサの喜びです。

 聖霊の働きにおいて心にわき起こる、そんな熱い思いを一生懸命語っているとき、そこにはもう、カトリックもプロテスタントもない。今日もこのミサには日本キリスト教団の方がおられるし、聖公会の方も来られてますけれど、み〜んな神さまに呼び集められて、福音に感動して、心を一つにして感謝を捧げる、キリストの家族です。
 教会は分裂して、何百年もたちました。一致するのに、また何百年もかかるのかもしれない。でも、私たちが今ここで、聖霊によって心をひとつにできるなら、それはもう、一つになってるんです。
 僕らは何か、違いのこととか、組織のこととか、教義のこととかを強調しすぎなんじゃないですか。もちろん、そこはちゃんと、忍耐強く丁寧に擦り合わせなきゃならないわけですけども、一番大事なのは、心が通じるってことでしょ? 気持ちがつながるってことじゃないですか。その一番大事なことが今まで、足りなかったんじゃないですか。カトリックだろうがプロテスタントだろうが、それこそ、仏教だろうがイスラム教だろうが、気持ちが通じて、「あなたに会えてよかった。お互いに幸せになる道を一緒に生きていこうよ」って、涙ながらに手を握り合うような瞬間があったら、もうそこは、天に属するキリストの国だと、私はそう信じます。そういうことを、夫婦であれ、何であれ、やっていきましょう。

 私をお世話してくださったプロテスタント教会の牧師ご夫妻が、私の前でけんかするんですよ。私もどうしていいかわからず・・・。これ、あのおふたり、ラジオで聞くんでしょうか。どうしようかなって思って、その後の講演会で、お二人のために「天においてつながっている、福音の家族として」みたいな話をしました。仲良くなってほしいな、なんて思ってお話をしたら、おふたりは一番後ろに並んで座ってたんですけど、聞いてるうちにだんだんこう、福音に心打たれて、心通わせているのが、ふっと顔合わせるみたいな気配で分かるんですよ。「なんだよっ(怒)心配して損した」って感じですけど、いいですねえ、夫婦って。講演会の終わるころにはね、ホントに二人揃ってニコニコしてて、「あ〜、よかった」と思ったら、講演会の後で、「実は今日、私たちの婚約記念日で、これから食事に行くんです」だって。「なんだよっ(怒)」って。
 福音によって、私たちはつながっていきます。福音によってのみ。もう、バラバラじゃないですか、今の世の中は。仲良くなってくプロセスは、たった一つだと思う。福音によって心がつながること。それがキリストの道ってことじゃないですか。もう、議論とかね、あの時はああだったのにとか、これからこうなっちゃうんじゃないかとか、そういうことはもうひとまず置いといて、私たちは、今ここで、確かに神に愛されているという福音において共感して、心がつながっていれば、あなたがだれだろうと何教だろうと、そんなことはどぉ〜でもいい。それこそが、イエスさまの周りに罪人が集まり、娼婦が集まり、徴税人がやって来て、障害者もいて、バラバラで、孤独で、見捨てられてる人たちがみんな心をひとつにして、福音に涙流しながら一つに結ばれていたキリストの宴・・・でしょ? そういうことをやりたいなあ。

 そういうことの一つとして、今年のクリスマス、12月25日に、多摩教会で、心を病んでる人、うつ状態でつらい気持ちの人、精神のさまざまな障害、疾患に苦しんでいる人、そういう人たちが集まって一緒に過ごすクリスマス会をやることにしました。
 12月25日の夕方、心の病で苦しい人、希望がない、私はひとりぼっちだ、誰もわかってくれない、そんな思いでいる人に、ぜひ集まっていただきたい。そういう人は、元気な人たちのクリスマス会とかは行きづらいですから、これはつらい人限定の会です。そこで、福音を語りますから、ぜひ聞いてほしい。私は天に属する者として、あなたたちこそ、神さまの福音に(あずか)るべき、神に選ばれた仲間ですと、そう宣言し、福音を語って、みんなで心を一つにしてお祈りして、クリスマス・パーティーをしたい。ささやかな歌のコンサートも用意しますから、お楽しみに。

 あの〜、この説教をラジオを聞いている方、今日はラジオの話なんかをしちゃったんで、ふと、そんな皆さんにも語りかけたいです。こうしてしゃべっていると、これ、何カ月後かに放送されるんだと思いますけど、皆さんにこうしてお話しできること、ホントにうれしい。先週の講演会でも、何人もの方に「いつも聞いております。ラジオの声と一緒ですね」なんて言われながら、そのつながりに感謝したとこなので、今日もこうして話していると、ああ、天につながる者として、天に属する者として、神さまのみ言葉を取り次ぐと、たくさんの幸せがちゃんと実現するんだと信じられるし、そういう信頼、喜びのうちに、こうしてお話できることがホントにうれしい。
 このラジオを通して、今声が届いている「あなた」に、今聞いている「あなた」ですよ、そのあなたに、ホントに、「神さまは、あなたを愛している!」と、今心から、神さまのみ言葉として、伝えたい。
 ・・・まあ、そうしてふいに終わるわけですけど。(笑)

2012年11月25日 (日) 録音/11月28日掲載
Copyright(C) 2011-2014 晴佐久昌英


※ 参考 ※
カトリックとプロテスタントについては、カトリック多摩教会の月間広報誌『多摩カトリックニューズ』の2012年11月号、主任司祭(晴佐久昌英神父)巻頭言「カトリックとプロテスタント」でも触れています。宜しければご一読ください。>>> こちら