【カトリック上野教会】
2017年4月9日受難の主日(枝の主日)
・ 入城の福音:マタイによる福音(マタイ21・1-11)
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ50・4-7)
・ 第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
・ 受難の朗読:マタイによる主イエス・キリストの受難(マタイ27・11-54)
【晴佐久神父様 説教】
助祭さんが、こうして受難の主日(※1)におられると、私はどうしても、自分の助祭叙階式を思い出してしまいます。私の助祭叙階式、31年前ですけれども、司教様のご都合で、その年の受難の主日だったんですよ。小平教会での助祭叙階式でしたけど、大雪の日でね、ホントに「受難の主日」って感じでした。
忘れられないのは、先ほどもやった、受難の朗読(※2)です。朗読の時はまだ叙階前ですから、祭壇前に一人で立ってるわけですね。すると、先ほども皆さんがやったように、会衆が叫ぶ箇所がありますでしょ。私の後ろから、信徒一同が、私に向かって叫ぶんですよ。「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」(笑) ・・・あれは、忘れられない。
「そうだよな~。十字架につけられるんだよな~」って。・・・まあ、助祭とか司祭とかは特別にそうですけど、でも、実は、キリスト者はみんなそう。洗礼によって、「十字架につけろ!」って言う側から、言われる側になったってこと。
でもね、その「十字架」、私はその後ホントに、「背負ってよかったなあ」と、「つけられて、よかったなあ」と、しみじみ思ってます。キリスト者は、とりわけ司祭、助祭は、十字架につけられてるわけですよね、キリストと共に。それは、いろいろと苦しい体験でもあったけど、ホントによかったと、叙階から30年たって、つくづく思う。なぜなら、十字架につけられたから、復活があるからです。十字架につかなきゃ、復活はないんですよ。
さっきの朗読で、「十字架から降りて来い」 (cf.マタイ27:40) とか、「自分で降りろ」とか、イエスさま、さんざん言われてますけど(※3)、これ、降りようと思えば降りられるんですよ、全能の神さまのお働きがあれば。しかし、イエスは降りない。・・・なぜ降りないか。
降りたら、復活がないからです。
全存在、全生命、全人類にとって、一番大事なこと。それは、神さまの世界に生まれ出ていく最高の喜び、復活の栄光、天上の家族に入ること。私たちは、そこに向かってるんであって、その栄光に入れないんであれば、十字架から降りたって意味がない。そういうことなんです。
いくら十字架を見つめていても、実は、何も見えてこない。現に弟子たちは、十字架を見つめて、イエスの死を見て絶望して、自分たちも死んだも同然で、恐れと孤独の闇に落ちていった。十字架だけ見るなら、だれでも、当然そうです。
しかし、ぼくたちキリスト者は、その十字架が「復活」をもたらしたっていうことを、もう知っています。信じています。だからこそ、「十字架を見つめる」っていうことは、同時に、その向こうに「復活の輝きを見る」っていうことですね。
教会が、おどろおどろしい十字架を掲げているのを見て、なんでキリスト教は、こんな暗いシンボルを使うのかってね、よく質問する人がいますけれども、「あなたには、今は見えないかもしれないけれど、この十字架は、復活の輝きに包まれてるんですよ」と、「私たちは、十字架の向こうに、復活の栄光の世界を見てるんですよ」と、まあ、そういうふうに教えてあげたらいいと思う。
だから、私は、お勧めしています。「十字架」っていう三文字熟語に、「復活」も付け加えて、五文字熟語にしたらいいですよって。
「十字架復活」
そんなの聞いたことないっていうかもしれないけど、真実は、そういうことなんです。われわれは、「十字架復活」っていう信仰をもって、あらゆる十字架と向かい合い、あらゆる十字架を背負い、あらゆる十字架の苦しみに対して、復活の信仰を宣言することができる。キリスト教のシンボルは、本当は「十字架」だけじゃなくて、「十字架復活」ってことなんです。
じゃあ、現実の十字架を背負いながら、その復活の栄光への希望、それを、われわれは、どのように体験できるのか。まあ、先週の宿題映画(※4)を、その意味で観ていただいたと言ってもいいくらいですね。
先週、私、「これを観てこないと、来週の説教が分かりませんよ」と、「ぜひ観てきてください。もし、お金がないんだったら、領収書持ってきたら払いますよ」とまで言いました。
宿題にしたのは、『わたしは、ダニエル・ブレイク』っていう、私の尊敬するケン・ローチ監督の映画ですけれども、ご覧になった方は、私が見てほしいと言った意味を分かっていただけたと思う。・・・もちろん、面白おかしい映画ではありません。現に、入門講座でも宿題にしたんですけど、観てきた方で、こう言った方がいました。「いや~、神父さまが薦めてくださったので、どんなに素晴らしい映画かと思って見に行ったんですけど、まあ、確かにいい映画でしたけれども、暗~い気持ちになって帰ってきました」(笑)
・・・まあ、そうでしょうねえ。でもあれは、まさに、「そこに意味がある」ともいえる映画です。
「暗~い気持ちになる」・・・だけど、今の現実の世界は、もう本当に、この映画そのまんまになってるじゃないですか。そして、そのような暗い世界を明るい世界に、つまり、十字架を復活に変えていくことが私たちの使命であり、イエスさまの願いであり、神さまは今、そのように働いておられる。これは確かなこと。だから、まず、「十字架」をしっかり見ないと。十字架から目を背けたら、その向こうの「復活」も見えませんから。
確かに、あの映画は、「十字架」の映画です。しかし、その十字架が復活を秘めていることを、見る人は見る。その意味では、「十字架復活」の映画なんです。
もちろん、現実の「十字架」を「復活」の喜びに変えるのは神ですけれど、神はすでに、キリストの十字架復活によってこの世界を救ったのですし、われわれキリスト者は、キリストと共に十字架を背負い、キリストと共に復活することで、救いのみわざに協力することができますし、そのように召されているんです。そのことを、私たちは今日から始まる、この聖週間(※5)に、特別に、深く心に思い起こさなければなりません。
先週も紹介しましたけど、映画を見てないっていう方のためにお話しすると、主人公のダニエルは、40年間、大工としてまじめに働いた男性ですけど、妻に死なれて一人ぼっちになり、心臓病になって仕事を失い、さまざまな原因で社会保障も受けられなくなる。・・・まあ、そういう設定です。
不運と言えば不運なんですけど、でもそれって、われわれにも起こることですよね。人ごとじゃないと思いますよ。何らかの理由で、一人ぼっちになっちゃう。何らかの理由で、仕事を失う。何らかの理由で、社会保障すら受けられなくなる。・・・そういう可能性、私たちは、持ってると思いますよ。それをね、ただもう本人のせいだって、私、言えないと思う。まあ、自己責任の要素がまったくないとは言わないけれども、本人だけの責任かっていえば、絶対、そんなことないと思う。・・・この日本でも、だれにも起こり得ること。
現代は、運が悪ければ、あっという間に、「生きていくこともできない」っていうところまで追い込まれる、そういう世界になりつつある。これ、事実ですよ。逆にいえば、われわれ、ちょっと運がいいから共に過ごす人がいるだけだし、ちょっと運がいいから仕事とか貯蓄があって、ちょっと運がいいから社会保障も受けたりしているだけなんです。でも、その「ちょっといい運」っていうのは、簡単に「運悪く」に変わっちゃう。
そんなときに、じゃあ、その社会保障をもっと充実させてくれと国家に抗議するっていう道は、確かにあります。ダニエルも、相当抗議してましたよね。だけど、考えてみてください。この、国家という巨大組織の非効率なしくみ。大きすぎて、そう簡単には変わらない。行政はすべて前例主義ですし、保身ばかり考えていて、一人ひとりに細やかに対応する仕組みになってない。それを、「変えろ、もっとよくしろ」って抗議することは、もちろん大切ですし、するべきですけど、現実には、そう言ってるうちに、どんどん状況は悪くなるし、「待ったなし」ですからね、困ってる側にしてみれば。「50年後のもう少しまともな国家を目指して抗議する」って、まあ、精神としては気高いかもしれないけれど、「今日食うものがない」「明日病気が進行する」なんてのは、待ったなしですからねえ。
じゃあ、どうすりゃいいのか。・・・神に頼むのか。でも、ただ「神頼み」するだけでいいのか。あるいは、「神に抗議する」とか。それもまた、なんていうんでしょう、筋違いというか、それこそ非効率というか。
もちろん、神さまにお願いするのは信仰の第一歩ですから、お祈りもしましょう。抗議デモも行きましょう。だけど、一番なすべきことは何であるかというならば、私は、「国家に頼む」、あるいは、「神に祈る」という以前に、「神の子イエスと共に生きる」っていう道があると思う。
・・・「イエスの道」
それがキリスト教であり、教会っていうことじゃないですか? あの映画で、運の悪い者同士こそが、心を通わせ合い、助け合ってる姿って、あれが教会の本質なんじゃないですか?
かつて、旧約の時代、国家に頼んでも人々は踏みにじられ、神に頼んでも一向に事態は変わらない。そんな現実の中に、神の愛の目に見えるしるしであるイエス・キリストが与えられて、具体的に人々を一つに結ぶ「神の国」をお始めになったんですよ。信じ合う家族としての教会をつくって、具体的に助け合うっていうことを始めたんですよ。
「血縁の家族だけに頼っていたら、やがて一人ぼっちになっちゃう。この世の国はあてにできない。一人でただ神に祈るだけじゃあ何も変わらない。さあ、神の子たちで、信じ合い、愛し合う、大~きな家族をつくろうじゃないか。困っているみんなが共に過ごして、一緒に食事をし、互いに助け合う。そんな神の国の先取りのような仲間になろうじゃないか」。イエスさまは、そういうことをやり始めたんですね。
イエスと弟子たちの集まりは、実際にそうでした。いつもイエスと一緒にいて、いつもイエスと一緒にメシを食い、婦人たちも、その集まりに従って、「持っている物を出し合って、奉仕していた」(cf.ルカ8:3)って聖書にそうあります。あれは、ルカの福音書ですね。
イエスさまは、この世界を救うために、新しい、血縁を超えた、福音的な家族をおつくりになったのです。大きすぎる国家では血の通った助け合いは不可能だし、一人ぼっちで祈っていても天からパンが降ってくるわけじゃない。そんな現実の中で、イエスさまは、具体的な救いの家族をお始めになったんです。
実際に、悩んでいる人、病気の人、見捨てられた人、おなかをすかせてる人、・・・みんな、イエスさまのところに集まってきて、そこには喜びがあふれ、パンすらあふれていた。まあ、奇跡物語ですけれども、聖書が言いたいのは、パンが増えたということよりも、そこにつながりが増えた、家族が生まれたということです。「みんな集まって、イエスを囲んで一つになっていると、そこに神の国が現れ始めた」っていうことです。
「これからも、人類が在る限り、このような集まりを続けていけ」っていうのが、イエスさまが言いたいことの中心です。殺される前の日の遺言です。
今週の木曜日、聖木曜日、ぜひ、いらしてくださいね。聖木曜日の、最後の晩餐の記念のミサをしますよ。翌日、イエスさまは殺される、その前夜。
「わたしは明日、もう殺されるけれども、最後にこれだけは言っておきたい。これからも、この仲間で愛し合え。これからも、この仲間で一緒に食事をしろ。バラバラになるな。助け合え」。イエスが伝えたかったのはそういうことですし、それが遺言となって(※6)、そして、イエスは、翌日殺される。
もちろん、弟子たちは、いったん絶望します。だから、バラバラになって、中には故郷に帰ろうということでしょうか、エマオに向かう二人の弟子もいました(ルカ24:13-14,マルコ16:12)。すべては、十字架の悲しみのまま終わっていくかに見えたけれど、なんと、死んだはずのイエスが現れて、この二人の弟子を励まし、導いてくださった。最初は気づかなかったけど、イエスが一緒に食事の席に着き、パンを裂いてくださったとき、「あっ! イエスさまだ!」って気づいたら、イエスは見えなくなる(ルカ24:30-32)。・・・見えなくなっていいんです。もう、この二人はイエスさまと一つになったんだから。
「もう一度、あの家族で集まろう」ってエルサレムにとって返すと、他のみんなも、「主が現れた」と言って集まっていた (ルカ24:33-34) 。
・・・これが、復活じゃないですか? 復活は、単にイエスの復活と言うだけでなく、信じる家族の復活でもあるのです。十字架の死でバラバラになりかけた家族。しかし、神さまは、それをおゆるしにならない。復活の主は、呼びかけます。
「もう一度、ちゃんと集まろう!」
「これからも、一緒にメシを食おう!」
現に、弟子の集いに現れたイエスさまは、みんなの真ん中で食事なさったんですよ。その気持ち、私、よくわかる。「これだぞ」と、「一緒に食べろよ」と、「分け合えよ」と。キリストの教会っていうのは、そういう現場です。
私は、今の日本の教会は、「十字架復活」でいうならば、まだまだ、最初の三文字の十字架止まりになっちゃってるような気もする。イエスさまは復活しているのに、私たちは、まだまだ、その復活の主にちゃんと出会っていないような気がする。それは、現実の教会を見れば、すぐわかる。信者と言いながら、互いに、何を悩んでいるかも知らないし、バラバラに暮らしているし、誰かがおなかをすかせていても、よくわからずにいる。これが家族か? イエスのお始めになった教会か?
同じ教会の中に、ホントに今、運悪く、「一人になっちゃいました」「仕事がなくなっちゃいました」「社会保障もうまく受けられません」、そんな人だっているはずですし、あるいは、そういう人が、こういう教会の集まりになんとか入りたいと、大勢、この教会の周りにも順番待ちしている。・・・それが現実でしょう?
「復活」の教会を、やっていこうじゃないですか。
日本の教会は、今、十字架から復活に向かっているところです。今や、教会は、新しい家族のかたちを示し、それを実践し、神の国のしるしとなって、この日本を救おうとしています。間違いなく、そうです。それをやっていきましょうと、イエスさまは呼びかけている。血縁の家族が崩壊し、地域社会がバラバラになってしまった現代の日本で、教会が目に見える大きな家族をつくって、みんなを幸せにする、そんなチャンスの時代が来ているんですよ。
それこそ、ぼくが子どものころの生涯未婚率って、何パーセントだったか知ってます? 数日前に新聞に載ってました。男性の生涯未婚率ですけど、1970年、1.7パーセントですって。単純計算で60人に一人が生涯独身ってことになるんでしょうか。そんなにみんな、結婚してたんですね。
それが、2015年の、東京の男性の生涯未婚率は、26パーセント。いまや、4人に一人は生涯独身。・・・一人ぼっちなんです。さらにいえば、家族がいたけど、一人ぼっちになっちゃったって人もどんどん増えている。ホントに今、一人ぼっちで生きている人、多いですよ。病気になって仕事ができなくなった人、病気を抱えて就職すらできなかった人も多いですよ。生きていくのも大変になってしまって、でも社会保障を受けられない、受けづらくさせられている人も多いですよ。
そんな現実の中で、なんと教会は、ただ国家を責めるんでもなく、ただ神に祈るんでもなく、現実に、一緒にご飯を分かち合い始めてるんです。さすがにキリストの教会、神の国の目に見えるしるし、復活の主がパンをいっぱい分け合っている、その現場が、ここにあります。
・・・イエスの復活の後、初代教会の信者たちは、家々に集まって、一緒に食事をしていました。私はそれを、「福音家族」と呼んでいます。
復活祭からのち、私も着任して2年目に入ります。いよいよ、本格的に、「福音家族で一緒ごはん」の企画を、さまざまな形で始めてまいりますよ。小さなフードバンク(※7)みたいなこともやっていく計画を始めてます。みんな、持っているご飯を持ち寄って、一緒に食べて、信頼関係をつくって、だれかが困ったら、わが子のように関わる。だれかが一人ぼっちになったら、わが親のように面倒を見る。・・・できるはずです。初代教会がやっていたこと。
キリストの教会が、これから、復活の教会となっていくように、この聖週間、「十字架復活」という恵みのときを過ごしましょう。ぜひ、聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭、この聖堂に集まってください。復活徹夜祭には新受洗者を迎えて、復活祭には一緒に復活の食事をいたしましょう。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)
※1:「受難の主日」
◎受難の主日(枝の主日) 【英:Passion Sunday】
「受難の主日」(枝の主日)は、復活祭の一週間前の日曜日で、主の受難を記念して、ミサが行われる。(この日から復活祭までの一週間は「聖週間」と呼ばれ、教会は最も大切なときを迎える)
カトリック教会のこの日のミサでは、主イエスの「エルサレム入城」と「受難」という二つの出来事を記念する。
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イエスの受難は、過越祭の時期に始まる。過越祭とは、旧約時代、イスラエルの民が、神から遣わされたモーセに導かれて、奴隷状態に置かれていたエジプトから脱出したことを記念する祭りのことで、小羊を屠って焼き、種なしパン(酵母を入れないパン)を食べて、それを祝った。(cf.出12章「主の過越」:特に21節〜27節)
これは、イスラエルの信仰の原点でもあり、この日には多くの民が、神殿のあるエルサレムに集まっていた。イエスも、最後の晩さんと、それに続く受難を前に、弟子たちとともにエルサレムに入城した。
このとき、子ろばに乗ってエルサレムに入るイエスを、群衆がナツメヤシ(シュロ)の枝を手に、賛美しながら迎えた(ヨハネ12:12〜15)ことに因んで、教会は今も、この日に枝を持って行列する式を行い、記念している。(現在、日本のカトリック教会では、ソテツで代用している)
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参考画像 :「キリストのエルサレム入城」ピエトロ・ロレンツェッティ、1320年頃
なお、信徒は、この日、司祭によって祝福されたこの枝を各家庭に持って帰って飾り、翌年の「灰の水曜日」頃に教会に持ち寄って、この枝を燃やして灰を作り、灰の式に用いている。
(参考)
・ 「四旬節:受難の主日(枝の主日)」(四旬節-典礼の特徴<カトリック中央協議会)
・ 「A年 四旬節 受難の主日」(ラウダーテ)
・ 「枝の主日」(ウィキペディア)
・ 「受難の主日」(「岩波キリスト教辞典」岩波書店、2008)
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※2:「受難の朗読」
「受難の朗読」は、特別に、年に2回行われる。〔① 受難の主日(枝の主日)、② 聖金曜日〕
読んで字のごとく、福音書にあるキリストの受難物語を朗読するのだが、より生き生きと再現するため、通常のように、司祭だけが朗読するのではなく、司祭が「キリスト」を、第一朗読者が「語り手」、数人か会衆一同が「群衆」、第二朗読者が「その他の登場人物」など、皆で分担して読む伝統がある。
「聖金曜日」には、毎年、ヨハネによる福音書から読まれるが、復活の主日の直前の日曜日にあたる「受難の主日(枝の主日)」には、3年周期の主日のミサの聖書朗読配分に従って、3年周期で、マタイ、マルコ、ルカのいずれかの福音書から読まれることになっている。(今年はマタイ)
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今年(本日)の受難の朗読箇所(全体)は、以下のとおり。
マタイによる主イエス・キリストの受難(マタイ27章11~54節)
〈小見出し:「ピラトから尋問される」27章11~14節、「死刑の判決を受ける」15~26節、「兵士から侮辱される」27~31節、「十字架につけられる」32~44節、「イエスの死」45~56節〉
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※3:「さっきの朗読で、『十字架から降りて来い』(cf.マタイ27:40) とか、『自分で降りろ』とか、イエスさま、さんざん言われてますけど」
この日、2017年4月9日〔受難の主日(枝の主日)〕の福音朗読(受難の朗読)箇所から。
===(聖書参考箇所)===
① 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 (マタイ27:40/赤字引用者)
② 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 」 (マタイ27:42/赤字引用者)
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※4:「先週の宿題映画」
『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016,英/ケン・ローチ監督)
(参考)
先週(2017年4月2日)、晴佐久神父が「マストムービー」として観るように薦め、「宿題」とした映画。
・ 「一緒にご飯を食べなさい」(「福音の村」2017年4月2日=中~後半=4段落目>この辺~)
・ 上記説教の「参照※10」(内容、予告編などのご紹介)
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※5:「聖週間」
◎聖週間
受難の主日(枝の主日)から始まる復活の主日(復活祭/イースター)直前の1週間。「受難週」「聖週」とも呼ばれる。
〔 2017年の受難の主日(枝の主日)は4月9日(日)、復活祭は4月16日(日) 〕
受難と死を通して復活の栄光を受けたキリストの過越(すぎこし)を記念する典礼が行われる。
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特に木曜日の晩から始まる三日間は「聖なる過越の三日間」と呼ばれ、教会暦で最も重要な三日間になっている。
聖週間中の特徴的な典礼としては、
受難の主日(枝の主日): イエスのエルサレム入場の記念(枝の行列)と受難朗読
===聖なる過越の三日間===
聖木曜日: 最後の晩餐の記念(聖体の制定、洗足式)
聖金曜日: 主の受難の典礼(受難朗読、十字架の礼拝)
聖土曜日の晩(教会暦上はすでに翌日の復活の主日): 復活徹夜祭(復活の聖なる徹夜祭)の典礼(光の祭儀、天地創造からキリストの復活に至る救いの歴史の聖書朗読、洗礼式など)
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※6: 「それが遺言となって」
イエスは、特に、「最後の晩餐」で、数々の「遺言」を残している。
(聖書参考箇所)
・ 「過越の食事をする」「主の晩餐」
マタイ26:17~30、マルコ14:12~26、ルカ22:7~23、
・ 「主の晩餐の制定」
一コリ11:23~26
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※7:「フードバンク」
食品企業の製造工程で発生する規格外品、包装の傷みなどで、まだ食べられるにもかかわらず、廃棄されてしまう食品を引き取り、生活困窮者、福祉施設等に無料で提供する活動。また、その活動を行う団体のこと。
(参考)
・ 「フードバンク」(農林水産省)
・ 「フードバンクとは」(セカンドハーベスト・ジャパン)
・ 「フードバンク」(ウィキペディア)
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