聖霊による洗礼

2015年12月13日 待降節第3主日
・第1朗読:ゼファニヤの預言(ゼファニヤ3・14-17)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ4・4-7)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・10-18)

【晴佐久神父様 説教】

 待降節第3主日、「喜びの主日」(※1)と呼ばれております。
 祭壇脇の待降節のろうそく(・ ・ ・ ・)にも、第3主日のろうそくにピンクのリボンが巻いてあるの、ご覧になれますか? お花も、ピンク色が飾ってあるの、ご覧になれますか(※2)? かつては、司祭の祭服も、ピンク色を使ったこともありました。
 待降節という準備の季節は、かつては禁欲的というかね、自力の修行を強調するというか、そういう行き過ぎがあったので、「本当は、神さまの愛がすべてだ」「神さまこそが、救いをもたらしてくださる」、そのことを忘れないようにしよう、「自分の努力で救われるんじゃない。神さまの恵みで救われるんだ」、そういうことを忘れないようにしようと、そういう意味で、待降節第3主日にその原点に帰るために「喜びの主日」が用意されてるんですね。
 修行とか禁欲とかって、悪いことじゃないけど、結局は「自分でがんばって救われる」っていう話になるでしょ。でも、それはもはやキリスト教じゃない。そこを間違えないようにっていう工夫です。
 今、洗礼を準備している人も多いですけど、そもそも、洗礼だってそうですよ。自分で決心して、自分で努力して、自分で資格を得るような気持だったら、洗礼、ふさわしくないですね、逆に。「神さまが(・ ・ ・ ・)、授けてくださる。神さまが、尽きせぬ恵みで、こんな私に洗礼を授けてくださる。ああ、なんて神さまは素晴らしい方だ! なんてうれしいことだ!」、キリスト教はそれだけでしょう。
 これ、忘れないようにしましょうっていうんで、この第3主日、「喜びの主日」をちゃんと用意してある。四旬節(※3)もそうなんですよ、第3主日に、神の恵みにのみ集中するための「喜びの主日」が用意してある。ですから、今日は特にですね、「ここにもう(・ ・)、神さまの救いがある」という喜びに満たされて、「安心して」いただきたい。・・・安心して。
 教会は、だから、「がんばんなきゃ救われない」というように洗脳されている世間様とは、ぜんぜん違う。多摩教会の聖堂は今、「こんな私でも救われている」という喜びに満たされています。

 本人に許可を得てるんで、今日は大切な一人の友人についてお話いたします。
 昨日教会にやって来た友人がいるんですけど、彼、昨日誕生日だったんですよ。以前、電話がきて、「12月12日、空いてますか?」って聞くんで、「空いてるよ」って答えたら、「じゃあ、ぜひ伺いたい」って。「なんで?」「ぼくの誕生日なんです!」(・・・笑)
 まあ、それはそれで別にいいんですけど、なんで誕生日に教会へ?って正直思っちゃったんです。それで、「いや、別にいいけど、誕生日って普通、友達と祝ったり、恋人と祝ったりするもんじゃないの?」って率直に聞いたら、「いや、誕生日だからこそ、教会で祝ってもらいたい」と。
 ・・・偉いですよね〜。私は感心しました。確かにそうなんですよ、言われてみればね。神から生まれたんですから。すべての人が。だから、どのような絶望に()っても、神が私を喜ばせようとして生んでくれたことが感じられれば、そこに真の希望が生まれるんです。
 で、「じゃあ、何か用意しとくよ、何食べたいの?」って言ったら、「ステーキ!!」(笑) って言うんですよね〜。「以前、神父さんが焼いてくれた、あの大きなステーキが忘れられない」って。・・・そんなデカいの食べさせたかな?って、忘れてましたけど。
 だから昨日、ミサの前にね、慌てて聖蹟桜ヶ丘のスーパーに行って、まあ、忙しい中、お優しい神父さま、おっきなステーキ探して右往左往でしたよ。(笑) 見つけてね、帰って来て、ミサの後それを焼いて、食べさせて、二人っきりの誕生パーティー。・・・でも、おいしかったでしょ? 実は本人、今日このミサに出てます。おいしかったでしょう? やっぱり、「教会」だからね。

 ・・・「教会」。
 教会のおいしさ、教会の喜び、それはかけがえがない。他の所でも、まあ、確かに喜びはいっぱいあるけれども、「教会」っていう所は特別です。じゃあ、何が特別か。私はやっぱり、そこでこそ初めて、聖霊の働きに目覚めることができるからだと思う。喜びの聖霊を味わうことがしやすいからだと思う。もちろん、教会以外でも、聖霊は働いてるんですよ。聖霊っていうのは、もう、どこにでも注いでるんです。「どこにでも」ね。聖蹟桜ヶ丘のスーパーにだって注いでる。
 私、昨日のミサの前、もう、ミサが始まる30分くらい前、まだスーパーにいたんですよ。クリスマスキャロルが流れててね、買い物客でごった返してるじゃないですか。(売り場の男性の声をまねて)「さあ、タイムセール、はじまるよぉ〜!」とかってやってることあるじゃないですか。(笑) そんな雰囲気から、ピュ〜ッと教会に帰って来たら、ミサですよ。入祭の歌が歌われてね、おごそかに、ミサが行われる。
 これ、ギャップがあるかっていうと、普通はあるように思いますよね。モードがぜんぜん違う。でも、私は、同じだと思うんです。どこだって、聖霊は働いてるから。スーパーにも、聖堂にも。ただ、聖跡桜ヶ丘のスーパーで、「今、ここ」に注いでいる聖霊に気づくことは、ホントに難しい。「タイムセール、あと10分!」って言われると、もう、聖霊の働きなんか関係ないですもんね。(笑)
 でも、この聖堂で、共に感謝の祭儀を捧げているとき、ホントに私たち、聖霊を感じるじゃないですか。だからと言って、「聖ヶ丘1の30の2」(多摩教会の住所)にだけ聖霊が注いでいると思ったら、それは間違い。もう、太古の昔より、すべての地の(おもて)に、聖なる霊は注がれているんだから。でも、みんな、それに気づかない。しかし、教会では、それに気づく。・・・これが大事。
 祈ったから来るような聖霊なんて、そんなのケチですよね。惜しみなく、すべての罪びとに、すべての醜い現場に、すべての絶望の闇の底の底にまで、聖なる霊は注がれています。だからこそ、それに目覚めることが、ホントに重要。

 先週ですか、日本武道館で大きなイベントがあったと聞きました。
 アメリカの有名な伝道師がいてね、アメリカでは、とても評判だったんですよ。「テレビ伝道師」ってやつですね。力ある説教をして、「今こそ信じるときだ!」って、みんなに洗礼を勧めるんです。ホールみたいなところで大きな集会を開いて、「さあ、今、主イエス・キリストを信じよう! 信じて受け入れた者は、このステージに集まれ!」って、勧める。で、参加者が意を決してですね、ステージに向かって集まって来る。・・・まあ、そういうような伝道の仕方をしている方。
 今はその息子さんが主にそれをしているそうですけど、今回日本武道館で、大きなそのイベントがあって、全国の様々な教会の方が集まったそうです。満席に近かったみたいですね。
 今のこの世俗化極まった日本の状況ですからね、そのようにキリスト教の伝道を、熱意をもってやるっていうことは、ホントに素晴らしいことです。その日も、「さあ、皆さん!」って招いたら、大勢の人がステージの周りに集まったって聞きました。そういう方たちを、お世話する人たちもいて、ちゃんと、「お近くの教会はここですよ」とかね、勧めたりする。・・・なんだか、私もやってみたいような気もしますけれど。(笑) ただ、「さあ、今こそ、信じるときだ! 信じて救われよう」って、決断を促すっていうのは、ぼくには向いていないですね〜。
 その説教で、「神さまは、ホントにあなたたちを愛している」と言ったそうですが、それは素晴らしいです、事実ですし、福音ですし、私もそう思う。また、「イエスさまこそ、救い主だ」と。それもそうだと思う。・・・なんですけど、「だから、あなたたちが今、それを信じて受け入れれば、救われる」と、そこに至ると、そういう面もあるけれども、そうとだけ言えない面もあるんじゃないかと、私は思う。だって、「決心して信じれば、救われる」っていうことは、「決心して信じなければ、救われない」っていうことになるから。
 私なんかはもう、究極の普遍主義ですから、たかが人間の決心なんかで救いが左右されるなんて、とんでもない傲慢だと思う。たとえ決心して信じなくても、神さまの大いなる救いがちゃんと、深く深く及んでいて、その深く及んでいることに目覚めれば、「この世において」その救いを知る恵みが得られるっていうのが、真実だから。つまり、真の救いをたとえ今知らなくても、真の救いはもう、みんなに来ているんです。
 武道館で、その方が、天国と地獄の話もしたと聞きました。もしそうなら、ホントに天国に行くために、今、決心して、決断して、そして、ステージの所に行かなければ・・・って思わせるっていうのは、決心を促すという意味では有効かもしれない。でも、私が思うのは、そのとき決心できなかった人、あるいは、そういう勇気がない、あるいは、そういう自信がない、自分なんかは、それでもふさわしくないんじゃないかと、どうしても疑ってしまう、そういう、一番弱いタイプの人たちは、ステージの前に駆け寄れず、「だから自分は救われないのかもしれない」という不安をね、感じるんじゃないか。
 ・・・私は、そういう不安を感じる人、恐れを感じる人、そういう人たちを救いたい。だから、まあ、そういう集会で、救われないと思っちゃった人たちの落穂拾いじゃないですけど、そういうことをしたいんですよ。まあ、できれば、今度そういう集まりがあったら、翌日の武道館を私が借りてですね、(笑) 「落ちこぼれ福音集会」でも開いてですね、「皆さん、そこに座ってる皆さん! 『信じられない』その気持ち、よく分かる。『決心できない』その弱さもよく分かる。自分を疑い、自分を責め、自分なんかは・・・と思ってしまう、そんなあなたをこそ、神さまは愛している。皆さんは、そこに座ったままでも、救われます」と、そういう集会をやって、まあ、前日の集会と、私の集会と合わせて、「神の国」と。そういうのがいいんじゃないのかな〜とか思ったりする。
 ホントに完全なるものは、この不安な時代に、決して消えることのない希望を、すべての罪びとを救う愛を、伝えるものでなければ。もしひとり、・・・武道館でひとり、救われない思いの人がいるんであれば、その人を救いに行くのがキリスト教でなければ。・・・私はそう思う。

 先ほど、洗者ヨハネが、「わたしは水で洗礼を授ける。後から来られる方は聖霊で洗礼を授ける」(cf.ルカ3:15-16)、そう言ってました。その、今日読んだところ(※4)の直前、この洗者ヨハネが、かなり厳しいことを言ってるんですよ。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒される」(cf.ルカ3:9)みたいなね。そう言って、悔い改めの洗礼を授けているわけです。それって、ちょっと旧約的というか、ちょっと「武道館」的というか。う〜ん、まあ、それはそれ。悪いとは言えないです。決心を促して、人々を救いたいという熱意が、そこに溢れているし。
 しかし、同時に洗者ヨハネは、「私の後から来られる方は、ホントに優れた方だ。その方は、『聖霊で』洗礼を授けてくださる」(cf.ルカ3:16)と。つまり、そのような旧約的な勧めには、限界があるんです。ヨハネもそのことは重々承知している。だって、もし、悔い改めの洗礼が完全なものなら、イエスさまなんていらないわけですから。
 必要なのは、不完全なる人間の悔い改めによる、「水の洗礼」ではなく、完全な神のいつくしみによる、「聖霊の洗礼」です。
 この「聖霊による洗礼」、これは、すべての人に及びます。聖霊は、世界のはじめから働いていて、もとよりすべての人に注がれていて、とりわけイエス・キリストの救いのみ(わざ)によって、決定的にすべての人に宿ったからです。「すべての神の子は、聖霊による洗礼を受けている」と、そう言ってもいい。
 ただ、それに目覚めている人は、まだまだ少ない。そうして「聖霊による洗礼」を受けてることに目覚めた人が、教会で洗礼を受けたりするわけですけれども、間違えちゃいけないのは、「洗礼を受けたから救われる」んじゃない。「救われていると信じて」洗礼を受けるんです。
 私たちのうちに、「聖霊による洗礼」は、注がれています。そうでなければ、そもそもこの世に私たちは存在しない。実をいえば、聖跡桜ヶ丘のスーパーでも、武道館の一番端っこで不安を抱えている人でも、み〜んな、聖霊による洗礼が、注がれている。・・・主イエスの業は、完璧です。必ずそのような恵みが、何らかのかたちで、その人に及んでいるはずですし、それに気づいたときに、私たちは、まさに、この世にあっても救いの喜びを、深く味わうことができる。「ああ、なんて素晴らしい人生だ!」って、そう思うことができる。
 自分の誕生日にね、教会に行きたいなんていうのは、まさに、ホントに、「自分が誕生してきた、この世界に生まれてきた、この世界に確かに存在している、その素晴らしさ、その恵みに気づく、それこそが一番大事だ」って言ってるわけですよね。
 親しい人たちと、「誕生日、おめでと〜!」なんて言って飲んだくれてても、まあ、それも悪くはないですけれど、やっぱり教会でお祝いしてると、昨日なんかね、君と信仰の話、いっぱいしましたもんね。で、ミサの前に「なんのプレゼントもなくてごめんね。まあ、ミサでご聖体あげるから」って言ったら、「2枚くれ」って言ってましたけど、(笑) 聖霊による洗礼を受けて、ご聖体をいただける、これは大きな恵みですよ。聖霊に目覚めること以上の恵みはないですよ。誕生日はもちろん、・・・どんなときでも、特につらいときこそ、このミサに立ち帰って、聖霊による洗礼を味わうべきですよ。

 今、洗礼シーズンでね、次々と洗礼を決心した人が来て、私、面談しておりますけども、面談していて、やっぱり、ああ、すごいなあ・・・と思うのは、この「聖霊の働き」ですね。
 私、聖霊の働き、分かるんです。本人が、どうして洗礼を受けたいか、うまく言えないときに。それを見て、私、「ああ、これは聖霊による洗礼だ」って、よく分かる。みんな似てるんですよ。「うまく言えない」って言うんですね。「でも、どうしても受けたい」って。
 きちんとね、理性的に信仰を告白し、きちんとね、自分の実存的な力で結論を下して洗礼を受けるなんていうのは、私に言わせれば、「それ、水の洗礼なんじゃないの?」っていう気がしてくる。自力の洗礼だから。洗礼は人が受けるものではありません。神が授けるものです。あんまり立派なことを言わない方がいいですよね、人って。
 「私はもう、この聖霊の導きのうちにあって、自分では、もう逆らうこともできない」、・・・そんな思いで洗礼を受ける。それが、聖霊による洗礼の一番のしるしです。

 つい先日、洗礼面談をした方も、開口一番、こう言ったんですよ。「私、どうして洗礼を受けたいかうまく説明ができない。ただ、自分は優柔不断で、今まで決心しては(くつがえ)し、決心しては忘れちゃってっていうことを繰り返してきたけど、人生で初めて、この『洗礼を受けたい』という気持ちが、もう決して消えないっていうことがよく分かる」って言ったんです。・・・これ、聖霊の働きですよね。
 「さあ、決断して!」なんて言うけど、人間の決断なんて、いい加減じゃないですか。むしろ、人間の決断に頼った方が、アヤシイ。でも、説明できないような、いつの間にか、もう、その洗礼に巻き込まれていくみたいな、それは聖霊の働き。紛うことなき聖霊の働きです。
 だって、その方なんかね、私、話を聴いてて感動したんですけど、2年ほど前に初めて多摩教会に来たとき、「洗礼を受けよう」なんて、まったく思ってなかったんですね。試練の中、救いを求めていろんなスピリチュアルな所を回っている方で、ある人から勧められて、「なんか、多摩教会もパワースポットらしいよ」(笑)みたいな、そんな感じで、来られてるんですよ。で、その方が来られた日が、宮川さんの葬儀の日だったんです(※5)。・・・宮川さん、覚えてますか? 彼女のご葬儀の日に、その方は来られた。葬儀直前の入門講座に来られました。
 宮川さんは、ここでも何度かお話しましたけれど(※6)、しぶしぶ教会に連れて来られた方ですね。お姉さまに、無理やり引っ張って来られた。あまりしつこく誘われたんで、「う〜ん、じゃあ、一度だけ行くから、もう二度と誘わないでくれ」って、そんな感じで来たら、聖霊が働いて、ミサに(あずか)って福音を聞いている間に、もうここが本当に自分の居場所だということに目覚めて、以来、毎週通い、入門講座にも通い、そして、洗礼を受けました。
 真っ暗闇の中にいた方が、お姉さんに、「そんなんじゃあ、ダメだ!」と引っ張って来られて、で、聖霊による洗礼に目覚めて、洗礼を受ける。喜びに満たされて、周りの人に、証しをし続ける。
 ・・・これは、実際にあったことです。その証しがあまりにも素晴らしいので、私はいつも、入門講座で話してもらいました。彼女は短くね、美しい言葉で、「私がどれほどつらかったか、しかし、教会に来たら、聖霊の働きによって私の心はまったく変えられた。今、洗礼を受けてどんなに幸せか。私は心臓病で、もう危ないけれども、今、何の不安もない。ホントに幸せなんだ」と、そう証しして、実際にその心臓病で、すぐ亡くなっちゃった。
 入門講座の人たちは、いつもその証しを聞いていたので、すごく慕っていたということもあり、彼女のご葬儀の直前に入門講座があったので、彼女のご遺影を掲げて入門講座をしていたんですよ。その時に、さっき言っていた方が初めて教会に来られて、ちょうどそのご遺影の前に座ったんです。だから私、「真後ろで、あなたをじっと見ているその方のことをお話しましょう」と言って、その方のお話をした。そうしたら、「ご葬儀ミサにも出てみたい」って言って、そのすぐ後のご葬儀ミサに参列したんです。
 そのご葬儀ミサのときのこと、今でも覚えてる。その方は、祭壇から見て右端の一番後ろの席に座っていた。私は説教で宮川さんのお話をいっぱいして、
 「彼女の証しでどれほど入門講座が支えられたか。今日も、教会に初めて来た方がいる。その方に、この宮川さんの証しを、ちゃんと伝えることができた。こんな素晴らしいことはない」と言い、その方に、「あなたも今日始めて来た日がこの方のご葬儀ミサだったんだから、この方の証しによって、いつか洗礼を受けたらいいんじゃないですか。もし洗礼を受けるんだったら、ぜひ、宮川さんの洗礼名をもらったらいいですよ。・・・マリア・ベルナデッタ」。そういうお話をした。(※7)
 その方は、「でも、その葬儀ミサの時は、洗礼を受けるつもりは1ミリもなかった」そうですけど、その後入門講座に何度も何度も通っているうちに、ついにこのたび、「もう、自分の意志ではなく、二度とこの気持ちは変わらないという、生まれて初めての体験」として、洗礼を希望なさったんです。そして、「私、洗礼名を、マリア・ベルナデッタにします」と、そうおっしゃった。
 私はそれを聞いた瞬間、心の中で宮川さんに、「ありがとう。あなたが手伝ってくださったんですね。聖なる霊の働きに、あなたがどれほど協力したか。それを、皆さんに証ししますよ」と、そうお祈りいたしました。

 聖霊の働き。すべての人を神の国に導く働き。
 ・・・一番弱い人、一番遠い人ほど、聖なる霊が呼び寄せる。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「喜びの主日」
 待降節は、「愛と喜びに包まれた待望の時」(『典礼暦年に関する一般原則』39)
 特に、その第3主日は「喜びの主日」(「ガウデーテの日曜日」Gaudete Sunday)と呼ばれ、救い主が、もうすぐそこまで来ておられるという、待ちきれないような喜びを表している。
 典礼色も、通常、待降節で使う紫色ではなく、バラ色を使うこともできる。
 ミサの始まりの「入祭唱」も、「主にあっていつも喜べ(Gaudete in Domino semper)。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリ4・4-5)の言葉が選ばれ、聖書の朗読箇所も、救い主到来の喜びを告げている。
(参考)
・ 日本カトリック典礼委員会編(2004) 『典礼暦年に関する一般原則』 カトリック中央協議会
・ 「C年 待降節第3主日」(「教会カレンダー」>ラウダーテ
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※2:「第3主日のろうそくにピンクのリボンが巻いてあるの、ご覧になれますか? お花も、ピンク色が飾ってあるの、ご覧になれますか?」
(参考)
この日の「ろうそく」と、「ピンク色のユリやガーベラをメインにした祭壇前のアレンジ」
  

・ バラ色(ピンク色)の祭服-カズラは、>>こちらで、ご覧いただけます。
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※3:「四旬節」
◎四旬節(英:Lent)
 ラテン語で「第40の」意。英語のLentは日が長くなる季節(= 春)を意味するlengthenが変化した語とされる。
 灰の水曜日に始まる復活の主日(春分の日の後の最初の満月の次の日曜日)前の約40日間をさす。復活の主日に洗礼を受ける人々の準備の期間であり、既に洗礼を受けた信者にとっても、回心と償いの期間となる。典礼色は紫を用いる。
 待降節も四旬節も大祝日の準備の期間で、共に典礼色は紫色ということもあり、似ているので、以前は、待降節を、「小四旬節」(待降節は四旬節の40日より短いため「小」)ということがあった。
 しかし、待降節は「愛と喜びに包まれた待望の時」、四旬節は「回心と償いの時」と、その性質は異なる。
(参考)
・ 2008年『岩波キリスト教辞典』 岩波書店
・ 「待降節第三主日-喜びの主日‐」2014/12/14(岡田大司教説教>カトリック東京大司教区
・ 「〔コラム〕待降節」2013/11/30(山本量太郎神父様>東京カテドラル関口教会) ほか
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※4:「今日読んだところ」
2015年12月13日の福音朗読箇所
 ルカによる福音書3章10〜18節
  〈小見出し:「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」(3章1〜20)の抜粋〉
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※5:「その方が来られた日が、宮川さんの葬儀の日だったんです」
(参考)
・ 「あなたはなにもしなくてよい」(2014/4/13説教)
   (最後から2段落目にも、このときの様子が話されている)
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※6:「宮川さんは、ここでも何度かお話しましたけれど」
(参考)
主なものは、以下の説教。
・ 「シャンパンゴールドに輝き出す」(2011/12/11説教)
   (上から4段落目:「ふた月まえにこの教会に初めて来た」と紹介された)
・ 「安らかな心で、何ひとつ心配がない」(2012/7/1説教)
   (説教中盤、下から3段落目:うまくいっていなかったご主人との仲が変わってきた様子や、心臓病の大きな手術に臨む様子を紹介)
・ 「あなたはなにもしなくてよい」(2014/4/13説教)
   (上から4段落目:この説教の六日前に帰天され、改めて彼女と、その信仰を紹介。2012年に、この方が受洗したときの文集から、全文も読み上げている)
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※7:「そういうお話をした」
(参考)
・「あなたはなにもしなくてよい」(2014/4/13説教)
   (最後から2段落目にも、そのときの様子が話されている)
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2015年12月13日 (日) 録音/2015年12月20日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英