【カトリック上野教会】
2017年1月29日 主の公現
・ 第1朗読:ゼファニヤの預言:(ゼファニヤ2・3、3・12-13)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・26-31)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ5・1-12a)
【晴佐久神父様 説教】
今読まれたイエスさまの福音に添って(※1)、今日も私は皆さんに申し上げたいです。
「皆さんは、幸いである!」と。
もちろん、現実には、苦しんでいますよ。悩んでもいます。うまくいかないことも、いっぱいある。争いの絶えないこの世で。でも、私たちは、神の愛を知ってますから、神の国を信じてますから、「
私たちは、みんな幸い。弱ければ弱いほど、「それでも」という、神さまの力を知っていますから。苦しんでいれば苦しんでいるほど、「だからこそ」、神さましか救えないって分かっていますから。私たちはみんな、神さまの前では無力で小さな神の子であり、「しかし」「それでも」「だからこそ」、神さまがみ~んな、み~んな、救ってくださると信じていますから。だから、そんな私たちは、本当に幸い。
イエスさまの周りに集まっていた、そういう、弱い人、無力な人たちに、イエスさまは本当にお優しいまなざしで、「あなたたちは、幸い!」って言っていたと思いますよ。その声を、今日、私たちも聞きとります。
昨日、この聖堂で、デュレック神父さまの追悼ミサをいたしました。
1950年頃ごろですか? この教会創立当初の主任神父さまです。私の、ず~っと前の前任者といいますか。そのデュレック神父さまをはじめ、宣教師方のおかげで、この教会があると言っていいような、恩人の神父さまです。彼らが、敷地内に病院を建て、幼稚園を造り、子どもたちを集めて世話をして、洗礼を授けました。お世話になった当時の子どもたちが立派に育って、亡くなられてから何十年たっても、遠い所からでも集まって来て、毎年追悼ミサをする。どれだけ慕われていたかってことでしょう。そんなミサの司式ができて、私もうれしかったですよ。
このミサにも何人か、昨日出ておられた方がいますけれども。・・・ (その中の一人に) 「お世話になったんですよね? 小中学生だったんでしょ?」・・・「高校生でした」「もう高校生だったの? すっかり大きくなって。・・・いっぱい食べさせてもらったんだもね」(笑)
デュレック神父さまは、日本に来た時は80キロあったのに、体重が半分になっちゃったって。戦後の、本当に貧しい時代でしたよね。自分は40キロも痩せながら、子どもたち、青年たちのために精いっぱい働かれました。いうなれば、その減った40キロをみんなが食べて立派に育ちましたっていうことでしょ。神父様の尊い犠牲のおかげで、上野教会の今があるのです。
遠い国にやって来て、貧しい子どもたちのために精いっぱい働かれて、それはもう大変なこともいっぱいあったでしょうけど、だから体重も半分になっちゃったんでしょうけど、それでも、デュレック神父さまは、「みんな、幸い!」ってね、福音を語り、「みんな神の子なんだ!」ってね、お世話をなさった。
だけどね、考えてみたら、その数年前まで、ホントに血で血を洗うような戦争をしてたわけですからね。パリミッションのデュレック神父さまはフランス人でしょ。フランスは戦勝国で、日本は負けた国ですよね。勝った国の人たちが、「負けて貧しくなったのは自業自得だ」って見捨てるんじゃなくて、はるばるやって来てね、病院を建て、施設を造り、幼稚園を造って、私たちは、お世話になった。これはもう、まさしく、キリスト教の本質です。
神さまがすべてを支配していますし、神さまがちゃんとみんなを育てています。だから、「この世の力を得た者は、幸い」じゃあないんですよ、「神の力を信じた者が、幸い」なんです。「この世で立派な学問を修めた者が、幸い」じゃあないんです。「無学だけれども、神さまの知恵を信じた者が、幸い」なんです。
そういう幸いをね、われわれは信じる、生きる。そして、自分の狭い思いにとらわれることなく、自分の好き嫌いとか、恨みとか傷とか、そういうことでではなく、「み~んな神さまに愛されている神の子なんだ」っていう、そのまなざしをみんなが持ったとき、神の国がそこに現れて、私たちは、ホントに「幸い!」って言い合えるような神の民になる。・・・そういう日を夢見ましょうね。
昨日、土曜日って、いつも、池上さんがいろいろ教えるじゃないですか(※2)。で、昨日の番組ではテロの原因を解説してました。それを聞いてると、なんだかもう、テロを防ぐのは不可能じゃないかって気にさせられるような内容でした。実際に、恨みが恨みを呼び、復讐が復讐を呼ぶ現実を知れば知るほど、テロが終わることはないって思っちゃうかもしれない。でも、ぼくは、イエスさまが教えてくださった神の国の単純な原理を信じていれば、必ず、このテロの世を超えていくことができるっていう希望を持ちます。キリスト者は、そのために働くことができると、そうも信じます。
「SEKAI NO OWARI」(※3)っていうロックバンド、知ってますか? 先週、そのライブコンサートに行ってきました。さいたまスーパーアリーナです。全国5公演しかないんで、チケット取るの大変でしたけど。「タルカス」っていうタイトルのツアーです。・・・「SEKAI NO OWARI」、ご存じでしょう? 略して「セカオワ」って呼ばれてます。3年連続、紅白にも出てますよ。
私、大ファンで、去年もライブに行ったんですけど、今回の方がよかったなあ。テーマがはっきりしていて、それを、ホントにみんなに分かりやすいかたちで見せてくれて。とても共感して、感動しました。ああなるともう、ただのロックコンサートじゃないですね。
そのテーマは、ひと言でいえば、・・・何でしょう、「争いや対立を超えて行こう」っていうようなことです。「『私の考え、私の思い』と、『あなたの考え、あなたの思い』は違う。でも、それをお互いに分かり合い、察し合って、一緒にやってこうよ」っていう、そういうテーマです。
コンサート全体に、ある物語が、ず~っと語られるんです。ボーカルのFukaseが作った寓話なんですけどね。
・・・ある国に王様がいました。その国で、嵐が起こって大勢の子どもたちが建物の下敷きになっちゃった。だけど、王様がすぐに救助しなかったので、子どもたちは死んじゃった。やがて、王様が国民の前に出て来た時、眠そうな顔をしていた。何もしないで寝ていたに違いないと思った国民は怒って、革命が起きて、王様は捕らえられ、ギロチンで首を切られてしまいましたとさ。
そんなお話なんですよ。なんだかこう、お隣の国で、船が転覆して、高校生が大勢亡くなった事件を思い起こさせますけど。あのときも、大統領は何もしなかったって国民は怒ってますが、それを思わせるようなお話で、そのお話が少しずつ語られる間に、ちょうどそれにあったセカオワの曲が次々歌われるという演出です。
ところが、一通りそのお話が終わったところで、「驚愕の15分休憩」っていうのが入ったんですよ。びっくりした。ロックコンサートで、「15分休憩」って・・・。ミュージカルじゃないんだから。しらけちゃうじゃないですか。無粋なことするなあと思ったら、実は、理由があった。いったん間をあけて、後半は、さっきの物語を、別な視点から語り直すんですね。だから、別の語り手が語る。
・・・実は、その王様は、その子どもたちを助けようと、本当に必死に働いていた。でも、さまざまな不運な理由があって、うまくいかなかった。ベストを尽くして寝ずに頑張ったけど、結局助けることができなかった。みんなの前に出てきたときは、徹夜だったから、眠そうな目をして出て来た。でも国民は、王様の真実を知らずに、一方的に裁いて、ギロチンで首を切ってしまいましたとさ。王様は、最後に涙をこぼしましたとさ。
とまあ、同じお話を、別の視点から、後半、語り直したんですよ。
ぼくらも、いつもね、「あいつは悪いやつだ」とか、「こいつさえいなければ」とか、一方的に決めつけて、自分たちの小さな貧しい頭でね、たいして知りもしないのに、みんなで声を合わせて、「あいつのせいだ! やっつけろ!」みたいなことやっちゃうじゃないですか。でも、これがやっぱり、今の時代の一番の恐ろしさだし、神の国から一番遠いあり方なんじゃないですか?
その「タルカス」っていうコンサートですけど、さいたまスーパーアリーナのど真ん中に、直径15メートルくらいあるような、でっかい木が立ってるんです。・・・セットですよ。木の上は葉が茂っていて、スーパーアリーナの天井に届こうかっていうくらい。「よく、こんなもん作るな~」と思いましたけど。まあ、その中から、メンバーの4人が出てきたリするんだけどね。でも、その木、スーパーアリーナのど真ん中にあるから、木の向こう側が見えないんですよ。だから、どこがステージなんだろう、どっちを正面にして歌うんだろうって思ってたら、4人が、木の東西南北に、一人ずつ立って歌うんです。で、1曲ごとに場所を90度変えて、順番に回って歌う。
そうするとですよ、時には、木の向こう側でね、ボーカルが歌ってる。当然見えないんです。もちろん、スピーカーがあるから聞こえますし、吊るしてある画面に映ってますけどね。メンバーが順番に回ってきて、今度はキーボードが回ってきて歌ってる、次の曲はギターの子が来て歌ってる。・・・で、ハタと気づかされる。物事は、見る方向によって、ぜんぜん違うんだなって。
いやでも想像しちゃうわけです。あの木の裏側では、どんなふうに歌ってるんだろう。どんな人たちが、聴いてるんだろう。もちろんボーカルのFukaseが一番人気があるわけだから、彼が向こう側に行ってるときは、「早く回って来てくれないかな~」と思い、「向こう側にいる人たちは幸せだな~」とも思い。
この、一つの現実を、いろ~んな見方で見ていくっていうことの大切さ? それを一目で分からせるステージに感動しました。「自分の見方がすべてじゃないんだ」「自分の正義がすべてじゃないんだ」っていうことを相対的に見る、この広がり。・・・これが、神の国なんじゃないですか。
「ホントの正義は、神しか持っていない。ぼくらの正義は、一面でしかないんだ」「ホントの力は、神しか持っていない。だから、ぼくらの力は、実は無力なんだ」、そういうことを知って、謙遜になり、それによってみんなが結ばれるのがね、神の国の喜び、幸いなんですよ。
コンサートの最後の曲は、「Dragon Night」(ドラゴンナイト)(※4)っていう、私の大好きな曲ですけど、(歌う)「~♪Dragon Night♪Dragon Night♪」って、これ、聞いたこと、あるでしょ? 3年前、「セカオワ」が、紅白に初出場した時に歌った曲です。・・・そこから話すと、盛り上がって長くなるから、(笑) はしょって話しますけど、「Dragon Night」、名曲だと思いますよ。聞いてくださいね。
この歌、ファンタジーのようでいて、非常に明確なメッセージを持ってます。特に、サビの前のメッセージ、「自分が嫌いな人でも、その人なりの理由があるし、自分の正義が誰かを傷つけていることもある」っていうようなメッセージは、それこそが今、一番必要とされているセンスじゃないですか。みんな、それぞれ、神の子なんだから、まず、相手を理解すること、受容することから始めようというセンス。
この視点は、まさに、神の国の視点ですね。自分が嫌いな人でも、神は好きなんだし、その彼も、精いっぱい生きてるんだ。・・・本人なりの限界もあり、さまざまなとらわれもあって、みんなからは嫌われてるかもしれない。でもやっぱり、その人にも一面の真理があり、神の子としての善き性質が、ちゃんと宿ってるわけだから、「好きだ、嫌いだ」ではなく、みんな一緒にやってこうよ。争うのはやめて、休戦して祝杯を挙げようと。
自分は正義だと思っていても、「だけど」、自分の正義が人を傷つけていることもあるかもしれないというそのセンスこそは、神の国のセンスです。
イエスさまの言葉にね、「だけど」っていうのが、よく出てきますでしょ、「しかし」っていうのが。たとえば、
「あなたたちは、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
この「しかし」や「だけど」っていうのが、すっごく大事。「確かに嫌いだよ。
神の国では、みんなが神の子なんだし、ぼくたちはまず、自分の正義とか、自分の憎しみとか、そういうものを超えた世界っていうものに招かれてるんだから、ホントに無力で小さな者になったときに、ようやく、真実なる神の国が見えてくるんですね。
よく、平和運動とかね、戦争責任の追及とかでね、いろんなことが言われますけど、他の国の戦争責任を問うんでも、自分の国の責任を問うんでも、まずは、それを言う人が自らの現実を問うているかどうかが重要です。「戦争責任を問う」ならば、それは同時に、自分が傷つけた妻への責任を問うことであり、自分が排除し、傷つけてきた信者への責任を問うことであり、自分が傷つけてきたあの人、この人、それらの責任を自分に問うことです。それを問わずに、自国の戦争責任も、他国の戦争責任もないですよね。
・・・それこそが、非常に大切なこと。まずは、「私の正義が人を傷つける」ってことに気づくこと。そうして、「神の正義こそが、すべてを治めるんだ」と信じること。そのときに、「あなたがたは、幸い!」っていうね、神の国が現れる。
「Dragon Night」って、なんか、Holy Night(ホーリーナイト/聖なる夜=クリスマス)を思わせますけど、クリスマス休戦を思わせますね。・・・ご存じでしょ。第一次世界大戦だったか、クリスマスには休戦する。それはまさに、「Holy Nightに争ってどうする」っていう話だし、「今宵、聖なる夜、救い主が現れて、神の国がここに現れる。まさにそのとき、私たちは休戦して祝杯を挙げる」、そんな特別なときを、ぼくたちは生きていきたい。・・・そう願います。
デュレック神父さま、本当に尊いお働きをなさいました。
昨日も資料を読んで、へ~と思ったんですけど、「都会の子ども達を、自然に親しませたい」って、鳥取に二千坪の土地を求めて、海の家を造って、子どもたちをみんな連れてって遊ばせたっていうんですね。子どもたちにいっぱい食べさせて、子どもたちを旅に連れ出して・・・。なんか、神の国のために働く人のやることって、気持ちいいですよね。
私も後任者として、神父様にあやかって、上野教会で「まんまカフェ」を始めて、お母さんと子どもたちに、いっぱい食べていただいていますし、奄美の
神の国、これはもう、「自分の正義」なんていうこと、あるいは、「自分の都合」なんていうことを言ってたら、決して実現できない。好き嫌いとか、自分の正義とか、そんなものをはるかに超えた喜びであって、私たちは具体的に神の国を工夫して実現して、共に、「幸い!」って喜び合わなきゃならない。
先週は、浄土真宗のお寺に行って、お話をしてきました。名古屋のね。
そこの住職さんが、「カトリックの神父さんが浄土真宗のお寺に来てお話ししてくださるなんて、ホントにありがたいことです」みたいに言うから、「いや、それを実現させるあなたたち、あなたたちの教えこそ、どれほど普遍主義的で素晴らしいかと、私はホントに感動いたします」ってね、お返事いたしましたけれど。
阿弥陀如来像の前でね、弥陀の本願(※6)の話、神のみ心の話、・・・同じことですけどね、「弥陀の本願」と「神のみ心」、そういう話をしている時は、こよなき幸せです。こっちの正義、あっちの教義、そんなものじゃない、「一つである」っていう喜びね。
ただね、ふと見ると、阿弥陀如来様が、こう、親指と人差し指を輪っかにして、残りの3本を立ててるんですよ。・・・阿弥陀様の手の形(※7)。あれ、これ、どっかで見たことあるなと思って、気づきました。「これ、ドナルド・トランプさんが、よくこういう形の手をしてるな」(※8)と。(笑) だから、「あの方にも、御仏は宿っておられるんですねえ」と、お話ししました。
まあ、ちょっとね、品のない話し方をする方ですけれども。
それに比べて、
みんなのことを思ってるから、「品がある」。
自分のことだけ思っているのを、「品がない」。
これ、分かりやすいから、皆さん、覚えといてくださいね。「『品』って何だろう?」っていうんなら、・・・「横綱の品格」みたいにね、みんなのことを思うのが、「品がある」。自分のことだけ考えるのが、「品がない」。
それで言うなら、最も品があるのは、それこそキリストであり、みんなのことを思うキリスト者であり、それこそ親鸞さんであり、親鸞さんのお弟子たちでしょう。み~んなのことを思う人たち。その人たちの間に、神の国がきているし、みんなのことを祝福して、「あなたたちは、幸い!」っていうときに、ホントに平和が訪れるんじゃないですか?
ひどい時代になってきたようでいて、しかし、私たちの内には、希望がある。私たちは、もう、それこそ「横綱の品格」のような
パウロのコリントの教会への手紙が読まれました(※10)。
コリントの教会が、分派争いしてたんですね。「俺たちが正しい。お前たちが間違ってる」って、そんな争いをしている。それで、パウロがなだめる、叱る、お手紙を書いたわけです。
「あなたたちは、自分のことを思い起こしなさい。知恵ある者でもない。能力のある者でもない。家柄のよい者でもない。でも、神は、そんな無学な者を選び、無力な者を選んだんだ。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためだ」 (cf.一コリ1:26-29) と。
私たちは無力な者として、無力だからこそ選ばれた者として、「神の知恵」 (一コリ1:30) の前に、深く頭を下げます。
「誇る者は主を誇れ」 (一コリ1:31)
神の国の住民として、ご一緒に、上野教会、やっていきましょう。
子どもたちが本当に笑顔になるために、デュレック神父さまのご恩に報いるために、上野教会を「神の国」にしてまいりましょう。そのために、私たちは、「自分の正義」を鎮めて、「神の正義」を第一にするということを学んでまいります。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)
※1:「今読まれたイエスさまの福音に添って」
この日、2017年1月29日(年間第4主日)の福音朗読から。
該当箇所は、以下のとおり。
マタイによる福音 5章1~12節a
〈小見出し:「『山上の説教』(5~7章)を始める」から抜粋〉
*******
今日の朗読箇所は、有名な、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」から始まる「山上の説教」の最初の部分になっている。
「山上の説教(垂訓)」は、キリスト教文化圏が、マタイによる福音書5章〜7章に対して与えてきた伝統的な呼称で、英語では、「Sermon on the Mount」という。マタイ福音書の著者にとって、「山」は神の啓示の場所として特別な意味を持っており、この「山上の説教(垂訓)」は、山の上で与えられたモーセ律法(出20以下)に取って代わる、新約の中心的な教えと考えられている。
(参考)
・ 「山上の垂訓」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
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※2:「昨日、土曜日って、いつも、池上さんがいろいろ教えるじゃないですか」
テレビ朝日で放送中の番組のこと。
番組タイトル : 「池上彰のニュースそうだったのか!!」
放 送 局 : テレビ朝日
放送日時 : 土曜日 19:54 – 20:54(60分)/㊟ 放送時間に変動あり
解 説 : 池上彰
内 容 : ジャーナリストの池上彰氏が、最近話題のニュース、今さら「知らない」とは言えないニュースを分かりやすく解説する。
*******
説教で挙げられのは、2017年1月28日(土)の放送分。「世界のテロ、今なぜトルコで頻発?」という題で、中東の問題、テロの問題についての解説があった。
(参考)
・ 「池上彰のニュースそうだったのか!!」(テレビ朝日)
・ 「#45 2017年1月28日放送」(上記サイトのバックナンバー)
・ 「池上彰のニュースそうだったのか!!」(ウィキペディア)
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※3:「SEKAI NO OWARI」(既出)
◎SEKAI NO OWARI / 略称:セカオワ
2010年にインディーズデビューし、2011年にメジャーデビューした日本のロックバンド。1985年、1986年生まれの4人組。2011年に、バンド名を「世界の終わり」から「SEKAI NO OWARI」に改めた。2013年からは、海外での活動にも力を入れている。チャリティー活動にも積極的。
2014年にはNHKの紅白歌合戦に初出場して「Dragon Night」を、翌年には「プレゼント」、昨年は「Hey Ho from RPG」を披露した。
公演では多数の動員数を誇り、映画の主題歌も提供。現在、勢いのあるバンドといえる。
「SEKAI NO OWARI ドーム・スタジアムツアー2017 『タルカス』」として、1月22日のさいたまスーパーアリーナを皮切りに、ナゴヤドーム、京セラドーム大阪で総計5回の公演がある。
ちなみに、「タルカス(Tarkus)」の意味は、「エストニア語で『知恵』を意味するので、そこからでは?」等、いろいろ臆測されていたが、結局、造語で、特に意味はない様子。このライブの物語の登場人物の名前のようだ(以下の参考、最後の項目参照)。
(参考)
下の画像は「MTV World Stage Malaysia 2015」に参加した折の「セカオワ」(2015/9/12)。
このステージは さまざまなジャンルのアーティストが競演する東南アジア最大級の音楽イベント。マレーシアのサンウェイ・ラグーンで開催された。
☆5枚の画像がスライドショーになっています。画像にカーソルを合わせると、矢印が表示されますので、ご利用ください。
・ 「SEKAI NO OWARI」(オフィシャルサイト)
・ 「SEKAI NO OWARI」(TOY’S FACTORY/所属アーティスト情報)
・ 「SEKAI NO OWARI」(ウィキペディア)
・ 「【セカオワ】1/22『Tarkus(タルカス)』さいたまスーパーアリーナ☆初日☆セトリ・詳細レポート」(music_jocee)
・ 「【セカオワ】1/23『Tarkus(タルカス)』さいたまスーパーアリーナ☆2日目☆セトリ・詳細レポ」(music_jocee)
・ 「セカオワドームスタジアムツアー2017「タルカス」の意味は主人公の名前・追加公演あり?」(SEKAI NO OWARI&LIFE/個人ブログ)
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※4:「Dragon Night」
SEKAI NO OWARIのメジャー7枚目のシングル。2014年10月15日発売。
(参考)
・ 「SEKAI NO OWARI – Dragon Night」〔動画〕(SEKAI NO OWARI CHANNEL /YouTube)
・ 「Dragon Night 」〔日本語歌詞〕(Uta-Net)
・ 「Dragon Night」(ウィキペディア)
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※5:「だいたい分かりますよ、二千坪って、どれくらいかね」
(参考)
二千坪は、約 6611.57平方メートル
= 縦横が約80メートルくらいの正方形の土地。
(1坪は、約 3.3平方メートル)
☆ 比 較 ☆
・ 平均的なコンビニの売場面積 30坪(100平方メートル)/二千坪⇒約67売り場面積分
・ テニスコート 79坪(260.87平方メートル)/二千坪⇒約25面分
・ オリンピックの競泳用プール (25×50メートル) 378坪(1250平方メートル)/二千坪⇒約5面分
== 二千坪(約 6611.57平方メートル) ==
・ ジュンク堂書店池袋本店(書店で日本最大の売り場面積) 約二千坪(6614平方メートル)/同じくらい
・ サッカーコート(Jリーグ) 2949坪(9750平方メートル)
・ 東京ドームグラウンド 3933坪(13,000平方メートル)
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※6:「弥陀の本願」(既出)
「本願」というのは、仏教において、仏や菩薩が過去において立てた誓願(約束、宿願)。人々を救済しようとの根本の願い。
浄土真宗における「弥陀の本願」とは、阿弥陀如来の「業(ごう)にまみれた、煩悩に苦しむ衆生すべてを救いたい」という願い。
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※7:「親指と人差し指を輪っかにして、残りの3本を立ててるんですよ。・・・阿弥陀様の手の形」
(参考)
牛久大仏
〔正式名称:牛久阿弥陀大佛〕
所在地: 茨木県牛久市
宗 派: 浄土真宗東本願寺派
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※8:「これ、ドナルド・トランプさんが、よくこういう形の手をしてるな」
(参考)
画像は、2016年7月27日、フロリダ州ドラルで会見するドナルド・トランプ氏
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※9:「稀勢の里」
◎稀勢の里(きせのさと)
稀勢の里 寛(きせのさと ゆたか 1986年7月3日-)
今年(2017年)1月25日に横綱昇進が決定した田子ノ浦部屋の力士。
優勝次点12回ののち、悲願の初優勝を飾り、第72代横綱となった。
(参考)
・ 「第72代横綱 稀勢の里 寛」(力士プロフィール/日本相撲協会)
・ 「稀勢の里 寛」(ウィキペディア)ほか
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※10:「パウロのコリントの教会への手紙が読まれました」
この日、2017年1月29日(年間第4主日)の第2朗読のこと。
第2朗読箇所は、以下のとおり。
使徒パウロのコリントの教会への手紙一 1章26~31節
〈小見出し:「神の力、神の知恵であるキリスト」1章18~31節から抜粋〉
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