キリスト者の証言

【カトリック上野教会】

2017年7月30日 年間第17主日
・ 第1朗読: 列王記(列王記上3・5、7-12)
・ 第2朗読: 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・28-30)
・ 福音朗読: マタイによる福音(マタイ13・44-52、または13・44-46)

【晴佐久神父様 説教】

 私も夏休みに入ったということで、映画を観に行ったりしておりますが、昨日が初日の映画を初日に観に行ってきました。『海辺の生と死』(※1)という映画、ひと夏やっていると思いますので、ぜひご覧になったらいいと思います。
 原作が、島尾敏雄の奥さまの島尾ミホさん、作家ですね。で、・・・皆さん、島尾敏雄、ご存じですか。どちらもカトリック作家でもあるんですけれども、実話に基づく夫婦の出会いとその愛は、ご主人も小説に書き、奥さんも小説に書きで、それが微妙に食い違ったりしてるところが面白いんですけどね。
 島尾敏雄の方は『死の(とげ)』とかね、有名な作品がありますが、奥さんの方は、『海辺の生と死』。これ、ぜひ、読むとか、この夏の宿題映画にしてね、観たらいいと思いますよ。

 お話は、舞台が奄美大島、加計呂麻島(かけろまじま)。私が明日から行く所でもありますが、時代は第二次世界大戦の終戦直前ということにもなると思います。
 加計呂麻島には、入り組んだ入り江が多くあって、そこに海軍の秘密部隊が潜んでたんですね。島尾敏雄は、そこの隊長さんとして着任しました。エリートです。百数十人だったかな、秘密部隊が入り江の奥深くに潜んでて、洞窟みたいな所に、ベニヤ板で造ったモーターボートを隠しておいて、敵艦がやって来たら、深夜、その船に爆弾積んで特攻して、自爆攻撃をする。まあ、そういう作戦です。特攻艇っていうものですね。零戦の特攻隊は有名ですけど、船の特攻隊もあったんですよ。その自爆攻撃の指揮を執るということで、映画では、隊長自ら真っ先に特攻して行くって、部下たちに宣言しているようなシーンもありました。
 ところが、このエリート隊長、島の小学校の先生をやっている女性と出会うんですね。たまたま本を借りるなんていうことをきっかけに出会うわけですけれども、二人は恋に落ちます。戦時中でもありますし、男性の方は隊長っていうこともありますし、女性の方は先生っていうこともありますし、禁断の恋みたいなところもあって、二人は深夜、浜でね、デートを重ねるっていう・・・。これ、実話なんですね。
 この隊長は、しかし、心優しい隊長でね、たとえば、島の子どもたちをホントにかわいがるとか、あるいは、仲間の隊員たちが (歌う) 「♪きっさまと お~れ~と~は~♪」ってね、「♪同期のサ~ク~ラ~♪」って軍歌がありますけど、あれを勇ましく歌ってるときに、「こういう歌は、おれはダメなんだ・・・」みたいな感じで抜け出して、恋人のところに行って、「島唄を教えてくれ」なんて言って。そう、恋人は島唄が上手なんですね。奄美の島唄です。その島唄を教わって口ずさんで、「いい唄だね」って惚れ込んだりする。まあ、心優しい隊長なんです。そういうところに、彼女は惚れるわけですけれども、彼にしてみたら、荒んだ戦争の中、男ばっかりの野蛮な軍隊の中で、彼女に出会い、「愛」そのものを見出すわけです。彼女の方も、男どもが争って戦っている中で、「心優しい愛のある人」っていうのを見つけるわけですね。二人は惹かれ合って、そこには純愛が生まれるんだけれど、当然、戦争という、武力という、愚かで野蛮な力が、二人を引き裂くわけですね。
 私、昨日が初日だったですし、あんまり、その映画の情報を知らなかったので、観ながらつくづくと思わされたのは、やっぱり、人の中に、・・・「戦いに向かう力」みたいなね、愚かで野蛮な傾向があるっていう事実です。さっきは便宜上、「男は野蛮で」とか、「女性の優しい愛」みたいな言い方をしましたけれども、それは便宜上言ってるだけで、実は、男の中にも女の中にも、その「戦いに向かう野蛮な力」があるし、しかし同時に、男の中にも女の中にも「優しい愛に向かう力」っていうのがあって、それは、いつも相反するものとして拮抗してるんですよ。・・・いつでも。
 原作にもある、有名な「最後の夜」っていうのがあるんですけど、それは、いよいよ隊長が特攻隊の初陣をきって出撃することが決まった、その夜ですね、彼女はどうしてももう一度彼に会いたいし、せめてその突撃していくところを目の当たりにしたいという気持ちがあって、闇夜の中、いつも会っていた浜へ会いに行くんです。陸路を行くと目立ちますから、磯伝いに海辺を行く。岬を回るところなんか、海の中をずぶぬれになりながら行くんです。
 彼は夜中に突撃してくわけだから、朝までそこで待っているんですね。彼が会いに来るかもしれない、せめてその最後を見届けたいと。その彼が、彼女が来ていると知って、会いに来るんです。そうするとですね、二人にとっては、生きて会える最後の夜になるわけですね。この後、目の前のこの人は死ぬっていう相手と、この後、自分はこの人を残して死んでくんだっていう相手と、お互いにそういう思いで、その浜で向かい合う。彼女は、「行かないで」と言って、しがみつく。彼は、それをなんとか引き離して、特攻艇に乗ろうとする。・・・とまあ、いいところ言っちゃってますけど、(笑) このシーンは観てほしい。これくらいいいところを言わないと、みんな観に行かないからっていうのもあるんだけど。(笑) ・・・「行かないで」っていう思いと、「行かなきゃならない」っていう思い、それはやっぱり、誰の中にでもある、・・・なんていうんでしょう、かなしい葛藤、野蛮さと優しさの、誰もの毎日にある葛藤なんですよ。
 野蛮に、この人を切り捨てて、争い、責め、裁くのか。それとも、優しくあったかい思いで、忍耐して、ゆるして、なおも一緒にいようと、「やっぱり、この人こそが、自分にとって一番大切な人なんだ」って思い直して愛に向かうのか。それはもう、日々の話ですね。
 ああいう戦争末期の、特攻隊の、ずぶぬれの浜辺のっていう状況だから際立って見えるだけで、本当は毎日のことでしょう。まあ、映画っていうのは、際立たせる芸術ですから。でもそれだけに、「これは毎日のことなんだよな」っていうのを、つくづくと思わされたんです。・・・だって、明日死ぬかもしれないでしょ、われわれだって。その、「毎日のことなんだよな」っていうのが、昨日はホントに胸にぐっときてね、最後の夜の浜辺は、名シーンだと思った。
 主演、満島(みつしま)ひかり。相手役が永山絢斗(けんと)。この二人の名演、・・・観ていただきたいと思います。

 昨日は初日っていうんで、舞台あいさつがあって、監督はもちろん、満島ひかりも来てました。・・・まあ、それを見に行ったようなもんなんですけど、あの・・・すてきですね、満島ひかり。(笑) 何ともいえず、不思議な魅力のある人です。で、その彼女が舞台あいさつで、こんなこと言ってたんですよ。彼女、奄美大島の出身なんですね。だから、この奄美の風土とか空気感、そこの人たちの人情、その文化、そういうものに、非常に愛着を持ってるわけです。だからこそ、この原作にほれ込んだわけですし、自分がやるということに対して、今までの作品とは違う、・・・なんでしょう、本気度を持ってやりたいと思っていたし、「自分がスクリーンになって、私を見れば、奄美が見える。この島の素晴らしさが分かる。そういう演技をしたかった」とまでね、言ってました。そこに、また私、感銘を受けたんですけども。
 やっぱり撮影の現場って戦いなんですね。ほとんどが男でしょ。で、盛り上がってね、非常に高揚もするし、時にはバトルにもなるし、まあ、それこそ、戦争みたいなところがあるわけですよ。で、満島ひかりは、その現場の中で、こんな状態だとね、あの奄美の、ホントに静かな、秘められた愛情とか、自然の美しさとか、そういうものが出ないんじゃないかって心配して、もう毎日、監督さんに、「愛を忘れないで」「愛を忘れないで」って言い続けたそうです。実際、監督さんも、「満島さんには毎日そう言われましたよ」って、舞台の上で苦笑いしてましたけど。私は、「ああ、そうだったのか・・・」と、やっぱり、人間に秘められた優しさみたいなものがこの映画を作ってるんだなと、とても感じました。「愛を忘れないで」「愛を忘れないで」って、毎日言い続けたって。やっぱり、ほっとくとね、人間って、すぐに野蛮な戦争状態みたいになっていきますから。だから彼女は、それをなんとか優しさに引き戻そうと、「愛を忘れないで」と言い続けた。それがあの、最後の名シーンにもつながるわけですね。で、言われてみると、「誰だって、毎日そうだよな」と。

 今日の集会祈願(※2)に、「神さまは、いつも私たちに愛を表してくださいます」っていうような一文がありましたね。さっき唱えていて、「ああ、いいなあ」と思ったんですけど。
 いつも、集会祈願は、なんとなく聞いてるだけになりがちですけど、よく聞いていると味わい深いお祈りですよ。
 「愛である神よ、あなたはいつもわたしたちに、神の国のすばらしさを示してくださいます」 (集会祈願 A年用・試用 年間第17主日)
 そうです、「いつも」です。「示してくださって」るんです。でも、われわれは、神さまが「いつも示してくださっている」、その愛を、この戦いの力、争いの文化、そんなもので見失ってるんですよね。どこにでも、すぐ隣の人のうちにも、神さまの愛の素晴らしさが秘められているんだけれども、こういう仲間たちとの出会いにも、このミサの美しさにも、ちゃんと神さまの愛が示されてるんだけれども、ぼくらは、いつもイライラしたり、クヨクヨしたりで、それが見えないでいるんですよ。ここがやっぱり、すごく大事な気づきのポイントです。
 満島ひかり演ずるミホさんも、戦争大っ嫌いなんですよね。大っ嫌いなんだけれども、そんな軍人の中にも、「優しい人」っていうのを見出すわけですよね。やっぱり、それを見る目。・・・ほかの人たちには見えない。でも、彼女には見えてる。それを見出すときの彼女の一瞬の表情とか、ホントに名演ですよ。
 で、彼もまた、彼女の中に、この荒んだ現実の中でね、純粋な優しさとか、いたわりとか、そういうものを見出す。
 でもそれらは、ただなんとなくそこにあるんじゃない。「神が」、ご自分の愛を、そうやって示してるってことなんですね。つながってるんです。愛って、バラバラに転がってるわけじゃない。神さまの優しさは、天を仰げば見えるんじゃなくって、もう、すぐ隣の人を通して見えるもの。出会うもの。気づいていくもの。30年一緒にいても気づかなかったけれども、ようやく見えてくる、そんなような、秘められた何ものか。神の側はそれを、「いつも」示していますし、ぼくらは、それを見つけてかなきゃならない。そういう意味では、この現実の中に、どれほど素晴らしい神さまの愛が秘められているかということを、きちんと(あか)しすることが、私たちキリスト者の使命だと思いますよ。
 晴佐久神父の説教なんかは、聴いていると、いっつも、「昨日はね」とか、「おとといね」とか、「三日前ね」とか、せいぜいそのくらいで、それより前はなかなか出てこない。どんどん、いろんなことが起こっているからってのもあるけど、それは、今の自分の現実を証ししてるってことなんです。「昨日、こんな神の愛を見つけたよ」とか、「おととい、こんなに素晴らしい神さまのみわざを感じたよ」とか、それを証ししているんですね。
 私、説教は証しだと思います。何かを説明するんじゃなくて、「ホントに、ここに神さまの愛が表れてます」と、「ホントに、皆さんが体験しているこの出来事は、神さまのいつくしみによるものですよ」と、「だから、みんな、自分のうちに神が働いていることを信じて、安心してください。あなたたちの明日に、救いが実現していくという希望を持ってください」と。
 これを、「証し」っていうんです。証しの重要さっていうのは、見つけていく重要さとほぼ同じことなんです。ぼ~っとしていると、愛と優しさを見失う。ミホさんでいうなら、隊長を見失っちゃうかもしれない。でも、その一瞬の、彼の優しさとか、その人柄とかっていうものを、やっぱり見つけて、見つけたら、もうそれをホントに大事にして、そして、その素晴らしさを、今度は証しする。作品もひとつの証しですし、私が今また、ここでこんな話をしてるのも、「証し」なんですよね。これはやっぱり神さまからのものだし、これが一番大事だし、それを忘れては、われわれの人生、生活、成り立たないでしょ。
 「やっぱり愛だよね」「神さまから頂いた恵みの世界だよね」「そこから離れたらダメなんだよね」って、野蛮な現実に引き裂かれるようなときに、やっぱりしっかりとそれを見つけて、ちゃんと人々にも証ししていく。キリスト者はそのようにして、神の愛を見出して、それを、みんなにね、伝えていくというお仕事をいたします。

 で、宣伝をしたいわけですけども、それは、上智大学の神学部の先生の原敬子(※3)という一人の修道女が、一冊の本を出しました。ぜひ、これを読んでいただきたい。『キリスト者の証言』(※4)っていうタイトルです。
 私の大切な友人ですし、それもあって、その本の推薦文も書きました(※5)。帯にもね、宣伝文句を書いたんですけど、なんと、その帯には、著者の写真ではなく、私の写真が載っている。(笑) 教文館っていう、キリスト教の出版社から出ているんですけども、編集者が、私の顔写真を載せると、ちょっとはね、売れ行きが増すんじゃないかってことのようなんで、ぜひ、皆さん、買ってあげてください。(笑)
 ただですね、これは神学論文ですので、なかなか、普通に読みこなせる本ではありません。・・・なかなか難しい。ただ、第3章はね、面白い。第3章(※6)は面白く読めると思います。
 その推薦文にも書いたんですけど、私は、これは、ひじょーーに重要な本だと思っています。というのは、『キリスト者の証言』っていうタイトルなんですけど、私たちキリスト者、地上のキリスト者すべてはね、・・・全員ですよ、誰かの証言によって、キリスト者になったんですよ。・・・そういうことなんです。突然、天から言葉が降ってきたわけじゃない。10年黙想して、思い付いたんでもない。誰かの証言によるんです。だったら、その証言、ものすごく重要じゃないですか。誰かの証言を聞くこと、そして、聞いた私が証言すること。すごく重要な現場。そここそが、神の国の秘密がすべて秘められた現場でもあるんだけども、そこのところが、ちゃんとね、みんなの中に、キリスト者の自覚としてね、備わってないんじゃないか。そこのとこがきちんと語られてないんじゃないかっていうことで、シスター原は、このような本を書いたわけですよ。
 ただ、その証言がね、ホントに正統な証言に基づいているのか、また、証言って、自分が経験したことを語るわけですけど、その経験がホントに神さまとつながってる経験なのか、そして、証言を聞いた人のうちにね、どんな創造のみわざが行われているのか、そういうことを、やっぱりちゃんと検証しないとならない。いい加減な証言と、思い込みの経験と、間違った希望じゃあ、キリスト者の証言にならない。そこをきちんとね、学問的に追究する。まあ、そのような本ですけれども、私はこの本に、すごく励まされた。
 私も、日々、こうやって証ししてますけど、やっぱり不安になることもあるわけですよ。自分は正統な、イエスに連なる証言をしてるだろうか。自分の私的な経験、「映画観てきました」なんていう経験が、神さまにつながるものとして語れているだろうか。私が語ったことが、皆さんの中で、ホントに福音として聞かれ、創造のみわざとして実っていくだろうか。そういうところが、とても気になるところなんですね。もちろん、今まで確信を持って語ってきたわけですけど、どこかに何かもやもやしたものがあった。しかし、この本のおかげで、ホントにすっきりした。励まされたし、なんかね、「ますます、信じてしゃべるぞ!」みたいな気持ちになった。自分の中に働いている聖なる霊のじゃまをせずに、堂々とお手伝いするぞというような気持になった。

 イエスさまが、今日、言いました(※7)。たとえ話です。畑の中に宝が隠されている。それを見つけたら、その畑ぜんぶをね、買っちゃう。持ってる物、すべて売り払ってでも。それほど尊い、この「宝」とは何か。それはもう、言うまでもなく、神の愛であり、神に愛されているという気づきであり、そして、その愛をもって誰かを愛そうという思い。
 で、その神の愛は、天から降ってくるものじゃない。隣の人とのかかわりの中に、その愛が見えるはず。そして、そのような神の愛の表れを見つけたら、もう、他のぜんぶを捨てたって、それこそ軍隊捨ててだって、争いに負けたって、「この一人の人を、何にも増して大切にする」みたいな、その思いっていうのは、これはまさに「宝」ですよね。
 イエスさまは、これを、神の国のたとえとして、たとえてるんだけれども、神の国を見つけるっていうのは、ホントにその発見にあるし、その発見を証しした人々の証しによって、ぼくらは今、キリスト者としてここにいるんだっていうことを、私は今日、特に強調したい。私も、さらに、畑に隠された最高の宝を見つけた者、最高の真珠を見つけた者として、語っていきたい。

 そう、昨日、巡礼旅行に何度か一緒に行ったご夫妻があいさつに来られました。
 奥さんは信者でね、すごく優しい、おとなしい奥さまです。ご主人は、立派なお仕事をしてる方ですけど、信者ではありません。ですから、私、巡礼旅行のたびに、まあ、巡礼ってこともあって、ついついご主人に洗礼を勧めちゃうんですね。「洗礼受けましょうよ。奥さまもきっと喜ばれますよ」って。奥さまは、それを、ニコニコして聞いてるわけです。でもまあ、ご主人は、「いや、私はいいですよ」みたいな感じで。だけど、その後も、時々私のところに話を聴きに来たりしていて、いろいろと本を読んだりとかあって、考えるところもあったんですね。このたび、二人であいさつに来られて、ご主人が「洗礼を決心しました!」って。「これから入門講座に通いたいと思います」と。
 私、彼に、「洗礼を決心した一番の理由はなんですか?」ってね、一応、聞いたんです。そうすると、「いや~、まあ、はっきりと、『これ!』っていうのはないんですけど、昔っからず~っと、いろんな出会いがあって、まあ、カトリック信者と結婚して、巡礼旅行にも参加して、神父さんの話も聴いているうちに・・・」とか、いろいろ言ってるんですよ。
 だけど、どう考えたって、やっぱり奥様との関係が一番でしょう。誰だって、キリスト者の証しによって、キリスト者になるんです。しかも、声高ではない、本当に静かな、優しい証しによって。だから私、心の中でね、「ほらっ、ここで言っちゃえ!」って叫んでたんですよ。隣にいる奥さまにね、「お前に会ったおかげで、自分は救われた。お前が忍耐してずっと寄り添ってくれたおかげで、信仰に出会えた。お前と同じ信仰をもって生きていきたい。洗礼を受けることは、俺の愛の証しだ」って。・・・映画の観すぎですかね、私。(笑) まあ、男性って、そういうこと、人前じゃ言えませんから。きっとそう思ってらっしゃるんでしょうけどね。
 私、「分かりました。では、入門講座に通ってください。洗礼をお引き受けしましょう」って言ったら、ご主人はうれしそうにニコニコして、その横で奥さんは、そっと涙を拭きはじめました。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:『海辺の生と死』
 映画化もされた作品、『死の棘』などで知られる作家、島尾敏雄の小説『島の果て』と、妻で作家の島尾ミホの小説『海辺の生と死』の二つの作品を基に映画化。
 第2次世界大戦末期の奄美群島、加計呂間島を舞台に、国民学校の女性教師トエと、島に駐屯することになった海軍特攻艇部隊の隊長、朔(さく)との物語。
 元は、島尾夫妻の実録小説で、島尾敏雄が朔の、島尾ミホがトエのモデルとなっている。
 監督・脚本: 越川道夫
 キャスト:満島ひかり(みつしま ひかり)、永山絢斗(ながやま けんと)
 日本公開:2017年7月29日(テアトル新宿ほか)
 上映時間:2時間35分
 配給:フルモテルモ / スターサンズ
(参考)

・ 上の動画は、映画『海辺の生と死』予告編より〔YouTube〕
・ 映画『海辺の生と死』(公式サイト)= 画面下の方に「劇場情報」あり =
・ 「海辺の愛と死 ~ミホとトシオの物語~」(奄美なひととき)
・ 「『海辺の生と死』あらすじ・キャスト【満島ひかりが映画で4年振りの主演!】」(ciatr)
・ 『海辺の生と死』(シネマトゥデイ)
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※2:「集会祈願」
◎集会祈願 (既出)
 ミサの導入部における「開祭の儀」のまとめのようなもので、この祈願によって、祭儀の性格が表現される。
===(この日の集会祈願全文)===
 愛である神よ、あなたはいつもわたしたちに、神の国のすばらしさを示してくださいます。ここに集うわたしたちが、キリストのことばのうちに喜びと光を見つけることができますように。
 聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 (『聖書と典礼』〈年間第16主日A年 2017.7.30〉、p2、オリエンス宗教研究所/赤字引用者)

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※3:「原 敬子」
◎ 原 敬子
 煉獄援助修道会会員。現在、上智大学神学部神学科助教(実践基礎神学、宣教学、カテキズムなど)。
 エリザベト音楽大学卒、広島大学大学院修了(教育学)、パリ・カトリック大学神学・宗教学学部修了。2015 年上智大学大学院にて博士(神学)取得。
(参考)
・ 「原 敬子」(上智大学教員研究情報データベース)
・ 『キリスト者の証言 -人の語りと啓示に関する実践基礎神学的考察-(教文館「出版書籍」)
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※4:『キリスト者の証言』
キリスト者の証言-S著 者: 原 敬子
発売日: 2017年7月25日
出版社: 教文館
判 型: A5判/256ページ
価 格: 4,104 円 (税込)
概 要: 第二次世界大戦後日本に来日し、30年以上を日本で過ごしている外国人宣教師へのインタビューから、人の語りの中にどのようにキリスト教信仰の本質が具現化するかを探った。また、メッツ、スキレベークス等、現代の神学者が注目した人間経験という領野が、証言の問題に関してどのような神学的理解をもたらしているかをみた。(上智大学教員研究情報データベースより)
※ 購入をご希望の方は、お近くのキリスト教書店や、イーショップ教文館Amazonなどをご利用ください。
(参考)
・ 『キリスト者の証言 -人の語りと啓示に関する実践基礎神学的考察-』(教文館「出版書籍」)
・ 『キリスト者の証言 -人の語りと啓示に関する実践基礎神学的考察-』(イーショップ教文館)
・ 『キリスト者の証言 -人の語りと啓示に関する実践基礎神学的考察-』(Amazon)
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※5:「その本の推薦文も書きました」
===(推薦文)===
これは、「現場の神学」だ。   晴佐久昌英師 (カトリック東京教区司祭)
 教会の誕生から現代まで繰り返されてきた、キリスト者による「証言(martyrium)」。その個々の証言の中に信仰の本質はどのように具現化するのか。それらはイエス・キリストの伝承をどのように担っているのか。カトリックの外国人宣教師たちから聴取した証言の再解釈を試みることで、実践基礎神学的なアプローチから宣教や救いの問題を考究する先進的な研究!
=============
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※6:「第3章」
第3章の目次は、以下のとおり。
 第3章 証言の中で啓示を聞く
  第1節 《信の証言》が生まれるところ
  第2節 戦後日本の外国人宣教師の証言
  第3節 想起を聞く
  第4節 断絶と呼びかけ
  第5節 宣教活動の中で揺れる自己
  第6節 回心の道を物語る
(参考)
・ 『キリスト者の証言 -人の語りと啓示に関する実践基礎神学的考察-』(教文館「出版書籍」)
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※7:「イエスさまが、今日、言いました」
この日、2017年7月30日(年間第17主日)の福音朗読箇所から。
 マタイによる福音書13章44~52節、または13章44~46節
 〈小見出し:「『天の国』のたとえ」13章44~50節、「天の国のことを学んだ学者」51~52節〉
===(聖書参考箇所)===
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 (マタイ13:44/赤字引用者)
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2017年7月30日(日) 録音/2017年8月31日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英