無力万歳!

【カトリック上野教会】

2017年7月9日 年間第14主日
・ 第1朗読: ゼカリヤの預言(ゼカリヤ9・9-10)
・ 第2朗読: 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・9、11-13)
・ 福音朗読: マタイによる福音(マタイ11・25-30)

【晴佐久神父様 説教】

 暑いですねえ。だいじょうぶですか? お体、無理なさらないでくださいね。今日は若干、人が少ないような気がいたしますけれども、やっぱり、この猛暑のせいかもしれないですねえ。無理して出てきてもね、熱中症とかありますし、体調が悪くなったりするといけませんので、ご無理なさらないでいただきたいと思います。
 昨日も、上野教会の信者さんのお宅をお訪ねしてまいりましたけれども、もし、「出ていくのが大変だ」とか、ご病気その他で、「ご聖体を持ってきてほしい」とかいうことがあったら、遠慮なく言ってくださいね。ご自宅での聖体拝領も、なかなか風情があっていいもんですよ。
 そのお宅でもお話ししましたけど、ご聖体を頂けば、もはやそこも聖堂なんですよね。イエスさまによる一致っていうのは、もう、時間も空間も超えた一致ですし、聖堂に来なければイエスさまに会えないとか、そんなことはありません。ちゃ~んとみんな、イエスさまの愛によってつながってますから、その「つながり」っていう恵みを、しっかりと信じていただきたいと思います。

 今日の福音書(※1)を読んでいて、ホントに私、「イエスさま、お優しいなあ」と思うんだけど、「わたしにつながっていなさい」(※2)って言うんですよね。「わたしの(くびき)を負い」(マタイ11:29) っていう言い方ですけど、軛って、そこに説明、ありますか(※3)? 牛か馬か、2頭並べて、それを1本の横棒でつないで、(すき)かなんかを引かせるんですね。1頭じゃ足りないっていうときに、2頭で引かせるんだけど、2頭がバラバラにならならいように棒でつなぐ、その棒のことです。
 ですから、「わたしの軛を負え」(cf.マタイ11:29) っていうことは、まず大前提として、イエスさまが、もうすでに軛を負ってるんですね。で、「あなたの荷が重かったりつらかったりするなら、わたしが背負ってる、この棒につながれば楽だよ」って言ってるんですよ。・・・お優しいでしょう?
 「楽」っていっても、半端な楽じゃない。たとえば2頭の牛だったら、両方が5割5割で引っ張るって感じでしょうけど、イエスさまの場合は、これはもう神さまの御力ですし、われわれはもう無力も同然ですから、見た目はつながって半分ずつやっているように見えても、・・・実際はもうほとんど全部イエスさまに引っ張ってってもらう、みたいな感じになるんじゃないですか?
 「いいから、わたしにつながんなさい」ってね、本当にお優しい。これから頂くご聖体も、そのつながりそのものですし、そのつながりを信じましょう。イエスさまの軛にちゃんと「つながっている」っていう、その信仰があれば、心に「安らぎを得られる」(マタイ11:29) 。そんな安らぎをいただきましょう。
 「こんなに無力な私だけれども、だからこそ、イエスさまが私に手を伸ばしてつながってくださっているんだ」っていう、その喜びを知らなければ、キリスト教をやってても、あんまり意味ないですよ。
 自分はとても弱い者だけれども、イエスにつながっているから大丈夫だっていう確信とか安らぎがなければ、キリスト者なんて意味がない。でも、もしもつながっているなら、もう堂々と、「私はキリストとつながっている者だ」と言えるし、「そんな私につながりなさい」って人にも言える。・・・そういうことになりますよね、「この軛に、あなたもつながろうよ」と。
 自分はもう軛につながって、イエスさまとつながっている安心を生きている者としては、「ここにおいでよ」と、「あなたもここに引っ掛かってれば、すっごく楽だよ」とお招きする。なんたって、イエスさまの軛ですからね、何人つながったって、ぜんぜん平気でしょう。よもやイエスさまが、「ああ、もうこんなに大勢じゃ重くてかなわん」と、「すいません、50名様までです」とか、そんなこと絶対に言うわけがない。もう安心して、何人でもつながってほしい。

 先週で、早稲田の授業の輪講(りんこう)(※4)が終わったんですね。早稲田大学理工学術院で、「世界の宗教」っていう授業を担当しておりまして、私はキリスト教をやってます。普通に考えたら、キリスト教を輪講で簡単に教えるなんて、できっこないって思いますよね。丸一年通して、徹底して、キリスト教の歴史、教会のしくみ、そんなことを話せば、少しはね、キリスト教についての学問的な知識は増えるかもしれないけど。
 でも、私はね、たとえほんの数回の授業であっても、キリスト教をちゃんと伝える方法があるって、そう信じて、この授業をやってるんですね。その方法っていうのは、「私がキリスト教だ」って言って出ていって、みんなの前で、「これがキリスト教です」って見せるっていう方法です。
 みんな、この授業、ビックリしてますよ。「なんかヤバいの来ちゃったなあ・・・」みたいな顔をしてるのもいるしね。まあ、別に構わない。これこそが、本物のキリスト教を伝える唯一の方法だということを、私は知っているから。
 キリスト教「について」説明するんじゃない。キリスト教「を」体験してもらうんです。キリスト教を信じて救われて生きている一人の教師が、みんなの前に立って、「これがキリスト教です」と自らについて証しをし、福音を宣言する。つまりは、「私が皆さんに、真心こめて、あなたはキリストによって救われていると語っている、この現場がキリスト教だ」って言ってるわけですよ。でもね、他の方法ありますか?
 だから私は、自分の弱さ、無力、そんなものを、包み隠さずお話しします。絶望したときのこと、自分の恥ずべきだらしない部分・・・、もう、何でも構わない。でも、そんな私が、イエス・キリストに「つながっている」から、私はホントに救われていることを信じているし、天の父の愛の中で安心しているし、みんなにも、「さあ、つながりましょうね」って、真心から呼び掛けることができる。・・・「これがキリスト教です」と。
 建物の屋根に十字架つけて、なんとか教会っていう看板出したら、それでキリスト教かっていったら、そんなのはキリスト教でも何でもない。しかし、そこに神につながっている家族のような仲間たちがいて、「私たちは救われた。あなたも救われていることに目覚めてほしい。さあ、私たちにつながろう!」って招いていたら、それは、まごうかたなきキリスト教です。

 最後の授業では、苦しみの意味についてお話ししました。
 「すべての苦しみは、生みの苦しみであって、愛の神によって、必ず良いものに変えてもらえる。苦しみは、喜びへの道なんだ。最後はすべてが神の国として完成し、みんな、良いものになる。問題は、そのような苦しみの意味を知らないことだ。すべては生みの苦しみによって成長し、良いものに変えられていくっていう真理を、知ってるか、知らないか。それによって、生きる意味はまったく変わってくる。ですから、皆さん、真理を知って、恐れから解放されてくださいね。これ、特定の宗教を信じろとか、洗礼受けてどこかに所属しろとか、そんな話じゃない。『真理に目覚めよ』って話です。皆さんは今まで苦しんで来たんだし、これからもつらい思いをするかもしれない。だから、これだけは覚えておいてほしい。
 『神はあなたの苦しみを知っているし、その苦しみを必ず良いものに変えてくださいます』
 私は、それをキリストの言葉と生き方から学びましたし、今もキリストと一つになってお伝えしているつもりです。そんな私とのつながりを信じてほしい。苦しいときがあったら、そんな授業があったなあと思い出してくださいね。授業でのこの出会いは必ず救いにつながっているし、そもそも、こうして一人のキリスト者から語り掛けられたという事実においては、皆さん、もうすでに真理につながっているし、救われてるんです。もはや、何があっても、だ~いじょうぶですよ」
 最終授業でそんなお話をして、授業が終わってチョークを片付けようとして下向いてたら、教室からパチパチパチって拍手が起こって。・・・学生たちが一斉に拍手をしてくれたんですよ。思わず顔を上げて教室を見まわしちゃいましたけど、みんな、いい顔してて。大学の講義で最後に拍手してもらえるって、こんな名誉ないですよ。うれしかったなあ。私、あんまりうれしかったんで、「もっと聴きたかったら、今晩、教会に来てくれたら、お話しします。どうぞ、誰でも来てください。食べるものも用意して待ってますから」って言っちゃいました。
 で、そう言った手前、ちょっとしたお惣菜や、サンドイッチを用意して待ってたんですね。「誰か来るかな~。いや、そうはいっても、来るやついないだろうな。うん、来るわけないよね」って思ってたら、・・・なんと、一人、来たんですよ~。うれしかったねぇ・・・。あのときの、「ピンポ~ン♪」は、なんかもう、天国の入り口の音に聞こえたね。
 しかも、その彼はね、建築科の学生なんだけど、いっつも、ぼくの目の前で課題をやってたやつなんですよ。授業のたびに、机の上に課題を広げて、・・・「課題」っていっても、建築科だから、模型を造ったり、図面を引いて色を塗ったりしてるわけ。それ、目の前でやってるんですよ、ず~っと。「腹立つわ~😒」とか思いながらも、(笑) まあ、建築学部は課題が超忙しいの知ってますから、いいんですけど、その彼が来たんですよ。・・・内職しながらも、しっかり聴いてたんだねえ。「もっと聴きたい!」って、やって来てくれた。で、まあ、夢中になってね、二人でいろんな話をしましたけど、「また来週、続きをやろう」っていうことになった。彼、「来週は、友達も連れて来る」って言ってました。・・・こうなったら、もう逃がさないよ。(笑) なんとか、イエスともつながってほしい。
 人は、どれほど弱くても、その弱さ自体には何の問題もない。その弱さは、実はイエスにつながるため、神の愛に目覚めるための一つの「鍵」なんであって、その鍵をちゃんと使えるかどうかが問題なんです。その鍵を持ってるっていうことが、まあ、幸いというか、名誉というか、天国を知るための最短の方法というか。まあ、弱さがない人なんていませんけども、仮に、弱さがない、無力感を味わったことがないっていう人は、一番損してる人なんですよね。その人は、イエスさまの軛につながろうなんて思いませんから。つながろうと思わなければつながらないし、つながったときの、あの安心、あの感動、それも知らないままにいるわけですから、それはやっぱり損だって言っていいと思う。

 先週の入門講座で、何人もの方から、うれしい出来事を聞きました。
 一人の人は、講座は何回目かなんだけども、講座の前に聖堂で祈ってたら、「わが意にあらず。み旨のままに!」っていう言葉が、自分の心の中に聞こえたって言うんですよ。「わが意」っていうのは、自分の考え、「み旨」は、神の考えってことですよね。つまり、「自分の考えで生きるのではなく、神のお考えに信頼して、すべてゆだねよう!」っていう信仰宣言のような思いが、突然、心に響き渡った。そして、とても安らかな気持ちになった、と。
 「ホントに不思議な体験でした。ビックリしました」なんて言ってましたけど、まあ、これはいうなれば、キリスト教の基本中の基本です。ただ、その基本である「み旨のままに」っていうのを、言葉としてはよく聞いてたけど、それまでは単なる頭での理解でしかなかった。それが、それこそみ旨によって、その人の最も深いところで、救いの実感として受け止められたってことじゃないですか。入門講座で福音を繰り返し聴き続けているうちに、ついにそれが自分の言葉となるほどに、自分のものとなったっていう。「自分で歩いてるんじゃない。自分で背負ってるんじゃない。ちゃ~んと神さまにつながって歩いてるんだ。神さまに助けられて背負ってるんだ。だから、すべてゆだねて、任せときゃいいんだ」っていう全面的な安心感。
 もう一人の人は、この人は、もう信者になって25年っていう人ですけど、前回、私が、「良くなるんです。良くなりますよ!」っていう話をしたんですね。世の中はみんなね、「悪くなるんじゃないか、悪くなる一方だ・・・」って恐れてますし、いつも不安で、怯えてますでしょ。違うんです。良くなるんです。世界は良い方向に向かってるんです。神が、そう願っているから。で、その方が言うには、私が気迫を込めて、「良くなります!」って宣言したんですって。
 そう言えば、早稲田の授業でも、天を指すでっかい矢印を黒板に書いた。神に向かってるんです、歴史は。すべての人は、良いものに向かって歩んでるんです。一見悪くなるようでも、それは大きな目で見れば良いものへ向かう「途中」なんであって、それを知らなきゃ損するだけ。それこそ「わが意」には悪く見えても、現実には次々とイヤなことがあっても、すべてが良いものに向かってるという真理を知ることが信仰だ、と。
 前回の入門講座でこの宣言を聴いたとき、「良くなります!」っていう言葉が、真理の言葉として、まあ、その彼女の人生にドカンと響いたんですね。それで、「そうだったのか!」と。「洗礼受けてから25年間、自分は何も分かってなかった。そうだったのか・・・!」と目が覚めたような気持になった。そして、「それ以降、ず~っと心の中に静かな喜び、平和が満ち満ちていて、消えないんです」と、今回の入門講座で報告してくれました。だから私、「その安らぎは、もう消えませんよ。なぜなら、その安らぎの世界が、本来の世界だから。本当はつらい世界を生きているのに、たまたま今自分が安らぎを感じているんじゃなくって、その安らぎこそが本来の、人としてのスタンダードなんです。み言葉によって、神さまにつながっていて、安心して、静かな平和を保っている。つらい気持ちになるのは、そこからずり落ちてるから。でも、一度知ったらもう、そこ以外には自分のあるべきところはないって分かってるから、仮にまた落ちかけても、元に戻せばいいだけです。そこに立ち返るのが信仰です」と。


 先週、私もうれしいことがありました。私の本が賞をもらったんですよ。
 教文館(※5)ってご存じですか? 銀座に大きな本屋さんがあって、そこで授賞式がありました。カウンセリングとか、心の問題に関する本に出す賞があって(※6)、その賞は毎年、その年の本から選んで出すんですけども、同時に、過去の本からも選んで賞を出すということを始めたということで、今年は私の10年以上前に出した『恵みのとき』(※7)っていう本が選ばれました。一瞬、「賞金、いくらかな~?」って思ったんですけど、ゼロでした。(笑)いや、でも、名誉ですよね。うれしいことじゃないですか。
 私、その授賞式スピーチで、なんでこの本を書いたかっていうお話をしました。『恵みのとき』っていうのは、『だいじょうぶだよ』(※8)っていう詩集にも載っている「病気になったら」っていうタイトルの詩に絵を付けて、巻末にエッセイを載せた薄い本なんですけれど、サンマーク出版っていうとこから出ています。
 サンマーク出版、大手ですから、初刷りで1万以上刷って、書店に平積みになるんですね。私、それが出たときに、新宿の紀伊国屋で、平積みになってる自分の本の前で記念写真撮りましたもん。(笑) うれしかったですね。特にその本は、自分の正直な思いを語ってるという意味では、とても自分らしい本なので、それが広まることはうれしくて、この本の出版を、私、喜んでました。今でも少しずつ売れてるようですけど、ぜひ、皆さんにも読んでいただければ。
 この本は、私が病気になったときに書いたものです。足の骨に腫瘍が見つかって、がんかもしれないって言われ、・・・もう20年以上前の話ですけど、私は正直、震え上がったわけです。そのときの医者の顔、今でも覚えてます。レントゲン写真を見せながら、言いにくそうにね、「あの~、これは、ちょっと、・・・厄介ですよ」って言いだして。「がんの可能性がありますし、専門的な検査と治療が必要ですから、紹介状を書きます」と言われ、私は国立がんセンターに入院した。
 そこで、もしがんなら、転移していないかどうか全身を調べ、そして、切ってみないと分からないっていうことで、手術しました。「もしがんだったら、足の切断もあります」って言われてたんで、手術終わって目が覚めて、真っ先に、「足ある?」って聞いたんですよ。もちろん足はあったわけで、良性の腫瘍でした。まあ、いろいろあった入院生活、ひと月近くだったと思うんですけど、それは自分にとって大きな体験でした。
 何が大きかったかっていうと、もう、ホントに無力を味わったんですね。そのとき、まだ神父になって10年目くらい。全国青年大会を企画して、そのために粉骨砕身、・・・なんか、想像つくでしょうけど、私のことだから、もう夢中になって頑張るわけですよ。組織化し、寄付を集め、ポスターを作り、会場の手配とかね。プロデューサーとして、ジャパン・ユース・デーっていう名前で、日本全国の青年たちを集めて、大会を開こうとしていた。そんな矢先の長期入院で、私は実質上、そのプロデューサーを降りました。
 夢にまで見た大会の準備もできなくなり、それどころか、もしがんだったら、もし転移していたら・・・とね、悪いことばかり考えて。父親をがんで亡くしてますし、母親もがんで苦しんでいるさなかでしたし、私としては、「ああ、もしも母親より先に逝ったら、どんなにあの人、苦しむだろう・・・」みたいな最悪のことばっかり考えて、ベッドの上に座っていたわけですね。
 入院した最初の夜、突然、涙がポロポロポロって出てきた。でも、何の涙か、よく分からない。悲しいっていうんでもないし、苦しいっていうのでもない。もちろん、うれし涙じゃないし。「何だろう、この涙・・・」って。でもホントに、ポロポロ、ポロポロこぼれて。そのときは、もうまさに、完全に無力状態で、呆然としていたら、ポロポロっと涙が出てきた。
 で、私、気づいたんです、「これは、赤ちゃんが生まれたときに流す涙だ」と。つまり、赤ちゃんはずっと、お母さんのおなかの中で安心して生きていたのに、突然、この肌寒い世界に丸裸でポンと放り出されて、へその緒を切られて、「・・・どうしたらいいのぉ?・・・」っていう完全無力状態を体験するわけですね。ここにいる全員、味わったはずですよ、人生の出発点で味わう、完全無力状態。
 さてそのとき、赤ちゃんは何をするか。「ほぎゃあ~!」って泣くわけです。
 それはなぜか。泣けば手が伸びてくるからです。
 ・・・本能ですよね。完全に無力であるとき、人は泣きます。そして、その涙は、「はいはい、だいじょうぶよ」っていうね、お母さんの温かい手につながってるんです。そういう原点を、私たちは体験したんじゃないですか。
 私も、そのとき、その原点に立ち返ったんじゃないか。だから、涙をこぼしながらも、なんか清々しいような気持だったし、「もう、こうなったら、このままでいい」という、どこか悟ったような気持になりました。自分の計画とか大会とかね、母親より先にとかね、なんか、そんな思いはぜんぶ、さっきの彼女の言い方で言うなら、「わが意」ですよね。まさに、「わが意にあらず。み旨のままに」だ。そのときやっぱりそう思ったし、その後は、もう清々しく、「み旨に、ぜんぶお任せだ」という気持ちになった。・・・そんな、入院最初の夜。
 退院すると同時に、そのときの思いを詩に書こうと思って、一つの詩を書きました。タイトルは、ちょっと、単純すぎるけれど、分かりやすいのが一番と思って、「病気になったら」っていうタイトルにし、1行目は、これだけは絶対1行目に書こうと決めていた一行を書きました。
 「病気になったら どんどん泣こう」
 それはホントに幸いなことなんだ、と。恵みに気づく。神の愛に目覚める。「良くなるんです」っていう、その信仰、その原点に、立ち返ることができる。ホントに、「恵みのとき」なんです。それで、この本のタイトルは、『恵みのとき』っていうタイトルにいたしました。
 無力万歳です。・・・神とつながる王道、神に目覚める最短の道。
 無力万歳! ですよ。でも、その無力は、主につながったときに、この世界を変えるほどの力を持っている。

 先週、入門講座に来られた一人の女性の話をしましたよね(※9)
 その方は、暗闇の中を生きてきたけれど、絶望の底で、「なんとか救われたい・・・!」って探し求めて、ここの入門講座に来た。で、私は、「もうだいじょうぶですよ」と言い、彼女に、「今、イエスさまが何て言ってますか?」って聞いた。すると彼女はこう答えた、「『よく頑張ったねえ』って言ってます」と。先週、そのお話を最後にしたと思う。
 その彼女、また入門講座に来てくれました。そして、こう言いましたよ、「真っ暗闇だったけど、この入門講座で福音を聴いて、1本の救いの糸が与えられたような気持ちだ」と。
 「だから、もうその糸を離さない」と。
 細~い糸なんでしょうねえ。だけど、その糸こそは、イエスさまの軛です。どんなに細くても、決して切れることはない。それにつながっていれば、もうだいじょうぶ。
 みんなで、安心して、イエスさまの軛につながりましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「今日の福音書」
この日、2017年7月9日(年間第14主日)の福音朗読箇所。
 マタイによる福音書11章25~30
 〈小見出し:「わたしのもとに来なさい」11章25~30節〉
===(聖書参考箇所)===
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 (マタイ11:28~30/赤字引用者)
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※2:「わたしにつながっていなさい」
 「わたしにつながっていなさい」は、ヨハネ15章の一節がよく知られているところなので、以下参考までに。
===(聖書参考箇所)===
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」 (ヨハネ15:4/赤字引用者)
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※3:「軛って、そこに説明、ありますか」
◎ 「軛(くびき)」
yoke-2-S yoke-1-S
 この日に会衆に配られた『聖書と典礼』欄外には、該当の福音箇所中、「軛(くびき)」(マタイ11:28)の解説として、以下のような注釈がある。
===(『聖書と典礼』欄外)===
: 農耕などのために二頭の牛(またはロバ)をつなぐ農具」 (『聖書と典礼』 p.5〈年間第14主日 A年 2017.7.9〉オリエンス宗教研究所)
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※4:「輪講」
 「一つの書物や論文を順番に講義(発表)すること」(『デジタル大辞泉』小学館など)
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※5:「教文館」
 東京、銀座の老舗書店。キリスト教の専門書や、教会用品を中心に、一般書籍、洋書、こどもの本などを販売している。オンラインショップもある。
 場所: 〒104-0061 東京都中央区銀座4丁目5−1(google map
 営業時間: フロアによって異なっているので、こちらをご覧ください。
(参考)
・ 「教文館」(オフィシャルサイト)
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※6:「カウンセリングとか、心の問題に関する本に出す賞があって」
「おふぃす・ふじかけ賞」
 キリスト教のカウンセリング関連書籍の中から、臨床心理士の藤掛明氏(聖学院大学准教授)が「惚れ込んだ」本を、独自に選定する。
 本年(2017年)の「おふぃす・ふじかけ賞」は、2016年1月から同年12月までに発行されたものが対象。今年は、『よい聴き手になるために』(蔡 香、いのちのことば社)、『キリスト教における死と葬儀』(石居基夫、キリスト新聞社)の2冊が選ばれた。
 また、2016年から、「発掘賞」がスタート。賞創設以前の本で、独創本、基本書の「超超お勧め本」に授与することになった。今年は、晴佐久神父の『恵みのとき』(サンマーク出版、2005年)が受賞した。
 さらに、「特別賞」という、本ではなく、企画やイベントに授与する賞もある。
(参考)
・ 「おふぃす・ふじかけ(blog)
 ◆「おふぃす・ふじかけ賞」関係の記事から。
  ・ 「2017年 おふぃす・ふじかけ賞の発表 2017/4/1 22:12
  ・ 「鈴木七沖さんの、受賞にまつわる記事 2017/4/22 18:50
  ・ 「おふぃす・ふじかけ賞・2017年 選評に代えて 2017/6/26 8:59
  ・ 「メモ:おふぃす・ふじかけ賞選考対象 2017/7/9 8:47」 など
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※7:『恵みのとき』
meguminotoki晴佐久昌英 著/森 雅之 画
2005年3月30日初版発行の詩集。
出版社:サンマーク出版
出版社からのコメント:
 「人から人へ、手から手へ。全国の患者やその家族、医療関係者から支持された一篇の詩「病気になったら」が、心にしみこむ絵とともに本になりました。あなたから大切なあの人へ、そっと伝えてください。詩作の背景を綴った「泣いていいよ」も併せて収録しています」
 ※ 購入をご希望の方は、お近くのキリスト教書店や、サンマーク出版Amazonなどをご利用ください。
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※8:『だいじょうぶだよ』
daijyoubudayo晴佐久昌英 著
2001年4月25日初版発行の詩集。
出版社:女子パウロ会
出版社からのコメント:
 『星言葉』で多くの人を励まし、反響を及ぼした著者の、さらなる優しさと苦しみへの共感から生まれ出た詩です。
 ※ 購入をご希望の方は、お近くのキリスト教書店や、Shop Pauline (女子パウロ会)、Amazonなどをご利用ください。
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※9:「先週、入門講座に来られた一人の女性の話をしましたよね」
「よくがんばったね」(「福音の村」2017年7月2日〈年間第13主日〉)
 >> 説教最後の段落( >この辺 )からお読みください。
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2017年7月9日(日) 録音/2017年7月27日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英