2015年8月16日年間第20主日
・第1朗読:箴言(箴言9・1-6)
・第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ5・15-20)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ6・51-58)
【晴佐久神父様 説教】
どうも皆さま、ご無沙汰でございました。
3週間ぶりの主日ミサということで(※1)、2週間連続してミサを空けるというのは初めてじゃないですかねえ。3週間も離れていると、もう、多摩教会が恋しくて恋しくて、(笑) 矢も盾もたまらず帰ってまいりましたが、そう言いつつまた、明日、(笑) 無人島キャンプの方に出かけます。お世話になっている隣の民宿のオヤジに、「それじゃあ、ちょっと東京に行ってくるね」と言ってこちらに三日間だけ来ているという、そういう状況です。
でも、三日間でも来てよかったです。聖コルベのお祝い日と、聖母被昇天と、この主日ミサと、三日連続してミサを捧げて、三日連続して、遠くから来たいろんな人たちに会うことができて。(※2)
中でもこの三日間、連続してミサに出ている、「青春18きっぷ」(※3)の君、・・・はい、そうやって手を挙げるあたりがね、(笑) なんともずうずうしい感じですけど。(笑) 兵庫県から、「青春18きっぷ」でやって来たんですね。この14、15、16の多摩教会のミサに
その彼が、入門講座の質問コーナーで、こんな質問をしてました。
「太宰治の本を読むと、すごい苦悩に満ちている」と。
「人間の存在の本質に関わるような苦悩、恐れ、自己否定・・・、さまざまな苦悩が、そこに満ちていて、それに自分はどう答えていいか分からない。自分の中にも、同じような闇があるし、キリスト教徒として、どのようにこれに答えるべきなのか、そこを聞きたい」
若者らしい質問ですね。人間存在の本質に関わる問いです。
私はもう、即座にお答えしました。
「太宰治を読んだ後に、晴佐久神父の『十字を切る』(※4)を読みなさい。(笑) そこには福音が書いてある。福音はすべての問いへの答えだ」
皆さんは、「苦悩」っていうものを、どう思ってるんだか分かりませんけど、思い出してください。赤ちゃんのときって、何も考えてないでしょう。苦悩なんてしていない。「苦悩」って、その後に脳ミソに入れたものなんです。最初は入っていなかったんです。自分で後から勝手に入れたものなんですよね。
・・・入れたものだったら、出せます。
これ、生まれつき備わってるものだったらね、もう、取り外せませんけれど、生まれたての赤ちゃんは、苦悩もなにも、ないですよ。空っぽ。そこに、いろんなものを入れてきたんです、私たち。
太宰治が知らなかったのは、「福音」です。自分の脳ミソに、苦悩よりも何よりも、まずは福音を入れてあげればよかったんです。太宰が生前、『十字を切る』を読んでいたら、まあ、あの文学は生まれなかったわけですけれども、(笑) しかし、彼は救われたと思う。自分が永遠の命を生きる者だという喜びを持ち、神の愛によって必ず救われるんだという希望を持って、その生涯を終えたことだと思う。
私たちは、
ヨハネ・パウロ二世教皇さまが、何度も、「恐れずに、キリストを受け入れなさい。心をキリストでいっぱいにしなさい」、そうおっしゃっていた。私たちは、キリストを入れることができます。
今日のこの福音書の(※6)、イエスさまが語っている、「わたしを食べなさい」っていうのは、そういうことですね。おなかいっぱいだったら、もう食べる気はしない。妙なもの、つまらないものでいっぱいにしちゃってたら、イエスさまを食べたいって思わないでしょう。しかし、私たちは、イエスさまに出会い、イエスさまを信じました。本当に魂を喜ばせるおいしいもの、本当の命を生きるための糧を求めている私たちは、キリストを食べましょう。
「ご聖体を頂く」っていうことは、そういうことですよ。
神さまが与えてくださる永遠の命の糧を信じて、「これこそが神の愛だ」「これこそが私たちを満たすものだ」と、そういう思いで食べましょう。その「思い」が大事なんですよ。そう信じないで、ただ、頂けばいいってもんじゃない。もし、そんなんだったら、食べられなくても信じている方が、ずっとずっといいです。
今日も、ご聖体を頂く皆さん、一度自分をからっぽにしてね、イエスさまをたっぷりと頂いてくださいね。「わたしの肉、わたしの血」ですから(※7)。
「イエスの犠牲」なんですよ。
「神の愛」、そのものなんですよ。
「わが身を削ってでも、あなたを幸せにしたい」という、その愛を食べてるんですよ。
・・・食べるって、そういうことでしょ? 命を殺して、食うっていうんだから。
中高生キャンプを、
「永遠の命の糧」っていう言葉も、さっき出てきましたけど(※9)、石垣鯛の犠牲の上に、こんなおいしい食事があるっていうこと、これは事実ですね。鯛はその朝まで泳いでたんだから。幸せに。そこへ恐ろしいオヤジが潜ってきて、(笑) ドンと突くわけですね。水中銃ってやつです。突く所もね、おなか突いたら身が壊れちゃって刺身にする時まずいから、えらのとこ、突くんですよね。上手なもんですよ。スコ〜ンとね、潜って突いて、3尾、ぼくらのために捕ってきてくれた。
幸せに泳いでいた石垣鯛。その命は奪われた? ・・・と言えばそうですけど、中学生たちの喜び、感謝、そして、命をいただくという神秘。刺身を何切れかね、スーパーで買ってきて食べるんじゃ感じられないものを、感じますよ、やっぱり。つややかな石垣鯛とね、・・・目が、合うんですよ。(笑) お箸を伸ばすとギョロッとね、こっち見てる。(笑)
「命を頂く」という神秘。それで自分を満たすということ。誰かの犠牲、言葉にできない愛、何か大いなる命の流れの中で、私たちは生きています。それは、究極的には、「永遠なる命」につながってるんです。
石垣鯛は、やがて消化されて消えてしまう。しかし、霊的な命の糧は、永遠です。これを食べましょうよ。ご聖体は、そのしるし。ご聖体はいただけなくても、日々、このような信仰で、この「土の器」をいっぱいにしていれば、私たちは、「ああ、この私は、神の愛を食べるために生まれてきたんだ。これを食べてるときに、私は、ホントの私になれるんだ」と、そんな喜び、希望で、満たされます。
小聖堂を建てたんですよ。加計呂麻島の合宿所に。(※10)
今年、出かけていって、それを初めて見た時の感動、忘れられない。ホントに美しい小聖堂を、隣のオヤジが建ててくれててね。・・・大工でもあるんですよ。上手ですよ〜。軒がちゃんと出ててね。柱がこう、トントントントンと立っていて、テラスがポ〜ンと海側に張り出していて。大潮、満潮のときは、もう、そのテラスぎりぎりまで波が来る。湾の奥深くだから、嵐のときでも波がかぶらないんですね、ここ。絶好の立地に、水上バンガローみたいな、そんな小聖堂を建てて、そのテラスの一番海側に、祭壇を置いて、その、さらに向こう、
・・・美しい聖堂です。ここで、ご聖体を頂く。
中高生も、大きな体験をしました。中高生のミサ、8月2日の主日のミサが、献堂式ミサになったんですね。そのときも、このご聖体の話をいたしました。
「神さまが、すべてを満たしてくださる。しっかり食べようじゃないか」と。
また翌週、2週連続して留守にしましたけど、翌週は今度、心の病で苦しんでいる青少年のための癒やしのキャンプをしておりました。そのときも、ちょうど、このご聖体の箇所でね、「あなたが今、神さまの恵みに満たされてるんだ。それを、今、ここで体験しよう」とお話しいたしました。なぜなら、心の病で苦しんでいる人は、みんな、心の中が、恐れや、自己否定や、さまざまな苦悩で満ち満ちているから、まずそれをこう、追い出して、イエスさまでいっぱいにする。
でも、それを迎え入れるのが怖いんですよね。「迎え入れても、また裏切られるんじゃないか」とか、「ホントに、それを迎え入れてだいじょうぶなんだろうか」とか。・・・怖いんですよ。み〜んな、恐れている。
そんな中で、イエスさまが、「わたしを食べてくれ」と、「信じて、わたしを食べてくれ」と、繰り返し、そうおっしゃる。そのイエスさまを食べたとき、私たちの中に、初めて、「ああ、これが、私が生まれてきた意味だった。苦悩でいっぱいにしていたけれども、今、これを入れることで、これに満たされることで、私は、本当の私になれた」と、そういう思いを持てる。
ひとりの参加者は、去年から無人島キャンプにも参加してましたし、入門講座にも通ってましたけれども、心の悩みで、さまざまな恐れと痛みで苦しんでおりました。しかし、福音を聴き続け、入門講座に出続けて、次第次第に元気になってきて、今回の、この、心の病で苦しんでいる青少年のためのキャンプにも参加してくれました。そうして、素晴らしい聖堂が建っている、そこで毎日ミサをしている、そこで毎回みんなが聖体拝領をしている、そういう姿を見ているうちに、これはもう、聖霊が働いたんですね、「洗礼を受けたい!」って言い出したんですよ。
もともと、「洗礼を受けたい」とは言っておりましたし、来年の復活祭に向けて準備もしていたわけですし、そもそも今年の春に洗礼を授けたかったけれども、その頃は心が闇に満たされていて、イエスさまを入れる余地がなかった。でも今回、キャンプの中で、だんだん、だんだん、空っぽになっていって、「もう、イエスさまを入れたい・・・!」と、そういう思いになった。
私、その場で決心して、キャンプ最終日のミサで、洗礼をお授けしました。
司祭の私が判断して、「さあ、もう十分です。あなたは、イエスさまとひとつになりましょう。キリストで、心をいっぱいにしましょう」と、そういう思いで、洗礼をお授けしました。
その洗礼も、このロケーションを考えたら、どういう洗礼をお授けしたか分かりますよね。・・・海の中で授けたんですよ。
普通、カトリック教会は、「
この浸礼っていうの、いつかやってみたいなって思っていたけれども、まだ経験したことがなかった。こういう、「やってみたいな」という気持ちも相まってですね、(笑) ・・・浸礼、やっちゃいましたよ〜。うれしかったねえ。プロテスタントでは当たり前なんでしょうけど、私、初めて浸礼をね、体験できて、うれしかったです。
「悪霊の拒否」と「信仰宣言」までは、テラスでやっているわけですけども(※12)、「それでは・・・」と言ってですね、もうすぐそこ、数メートル先が海ですから。波のない、湖のように
「・・・どれくらい浸けたらいいんだろう?」とか、(笑) ちょっといろいろ思ったんですけど、「ドボン、パッ」じゃ、なんかあっけなさすぎるし、(笑) かといってあんまり長いってのもなんだから、まあ、「1、・・2、・・3、・・4、・・5」って数えてから、上げました。鼻に水が入って大変だったって、(笑) 後で言ってましたし、みんなも、「長いんじゃない・・・? 」って思ったらしいんですけど、(笑) やっぱり、そこはいったん死ぬわけですから。「死ぬ」という意味は、いったん「空っぽになって」、今までの自分の中に詰まったもの、ぜんぶ洗い流して、空っぽになって、「プハーッ」と出てきたら、そこに、聖霊と聖体を入れてあげるんです。
入信の秘跡は、「洗礼」「堅信」「聖体」、この三つで成立する。
上がってきて、ずぶぬれの彼に、今度は、堅信の秘跡を授けます。聖香油が必要なんで、わざわざ舟に乗って近くの教会まで行って、聖香油をお借りしてきたんですよ。プハーッと生まれ変わった彼の中に、聖霊がいっぱいに入る。そして次に、ご聖体を頂いて、キリストでいっぱいになる。
・・・もう、何を恐れることがあろうか。
洗礼の秘跡ですね。すべてのミサが、再洗礼みたいなものですから、皆さんも今日、もう一度、洗礼を受けた時の気持ちで、しかも浸礼を受けているような気持ちで、空っぽになって、ぜんぶ洗い流してください。聖霊が入ってきますよ。ご聖体で、魂、いっぱいになりますよ。これが何より。
「青春18きっぷ」の彼もね、三日間ミサに出て、三日間、この入門講座に出て、そして、昨日の夜はついに、神父の誘惑に負けて、あさってからの無人島キャンプに参加するって言うんですよ。(笑) 大歓迎です。
あの、うわさの小聖堂で、聖霊を受けてください。おなかいっぱいに、神の愛を受けてください。
あなたはず〜っと、四国を放浪したり、あっちこっち、こう、さまよって、太宰の苦悩と向かい合ってきたようですが、もう、この三日から先は違いますよ。死と復活の儀式、聖なる三日間。・・・聖霊を受けましょう。
今日、聖体拝領をする方は、昨日の洗礼式で初聖体を受けた方のことも思いながら、ご聖体をいただいてほしいと思います。ご本人は重い病気で、しかし、この聖堂で洗礼を受けたいという熱い思いで、昨日、車いすで来られて、洗礼を受け、初聖体を受けた。
予断を許さない状況です。しかし、空っぽになって、今、キリストに満たされた者は、もはや、永遠の命を得ております。
私たちは、死ぬために生まれてきたんじゃない。生まれるために、生まれてきたのです。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:「3週間ぶりの主日ミサ」
晴佐久神父は、2015年7月31日から8月13日までの間、カトリック多摩教会の中高生合宿や、心の病で苦しんでいる青年たちとの「ここヤシキャンプ」で、教会を留守にしていた。
行先は、どちらも、奄美大島の南にある加計呂麻島。晴佐久神父が長年、毎年行っている無人島キャンプのベースキャンプの地で、小聖堂も建てた場所。
(下の地図内、左上の「拡大地図を表示」をクリックすると、別ページにGoogleマップが開き、詳しく表示されます)
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※2:「三日連続して」
カトリック多摩教会では、8月14日は、守護(保護)の聖人である聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者の記念ミサを、15日には、聖母被昇天の祭日の記念ミサを、16日には、主日のミサを行ったが、それぞれの日に、晴佐久神父の夏期特別講座もあり、大変多くの方々が参加された。
(参考)
・ 「【ミサ】8/14(金)聖コルベ、15(土)聖母被昇天、16(日)主日>司式:晴佐久神父」(カトリック多摩教会)
・ 「入門講座の7〜9月スケジュール」(カトリック多摩教会)
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※3:「青春18きっぷ」
JRの普通列車に1日乗り放題の切符。
「青春」となっているが、年齢制限はなし。(こども用もなし)
1枚で、1日有効×5回分で、11,850円。
乗り降り自由
使い方次第で、格安に旅行できる。
(参考・詳細)
・ 「青春18きっぷ」(JR東日本〈きっぷ案内>おトクなきっぷ〉)
・ 「青春18きっぷとは」(個人ブログ「青春18きっぷ さかなのページ」)
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※4:「晴佐久神父の『十字を切る』」(既出)
◎ 『十字を切る』 (出版社:女子パウロ会)
著: 晴佐久昌英
単行本: 218ページ
ISBN: 978-4-7896-0716-2
発売日: 2012年10月25日
価格: 1,404円(税込)
紹介: 「特に今、つらい思いを抱えている方、病床にある方、魂の救いを求めている方にこの本が届き、この世に十字の祈りが一つでも増えるならば、何よりの喜びです」(晴佐久神父:「あとがき」から)
―――――――――
「福音の村」でも、別途目次などを含め、ご紹介しております。>>> こちらです。
(参考・お求め)
・ 『十字を切る』 (Amazon)(ショップパウリーネ) 他
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※5:「パウロが言う、『土の器』」
コリントの信徒への手紙二 4章6〜7節
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」
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※6:「今日のこの福音書」
2015年8月16日〈年間第20主日〉の福音朗読箇所
ヨハネによる福音6章51〜58節
〈小見出し:「イエスは命のパン」(6章22〜59節から抜粋)〉
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※7:「『わたしの肉、わたしの血』ですからね」
ヨハネによる福音書6章54〜56節
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる 」
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※8:「石垣鯛」
◎イシガキダイ(石垣鯛)
スズキ目イシダイ科イシダイ属の海水魚。成長が早く、80cmほどの大きさになる。本州中部以南、南シナ海に分布するが、東北などでも、まれに水揚げされることがある。沿岸の岩礁地帯やサンゴ礁に生息し、磯釣りされる。旬は夏。刺身や煮付けが美味とされている。クチジロ、アヤメノイチ、ナベワリ、フサダイ、コメカミとも呼ばれている。
(作者:Shizhao)
(クリックで拡大)
(参考)
・ 「イシガキダイ(石垣鯛):特徴とおいしい旬の時期」(旬の食材百科)
・ 「イシガキダイ」〔pdfファイル〕(長崎県水産部ホームページ)
・ 「イシガキダイ」〔jpegファイル〕(デジタルお魚図鑑)(出典は上記の長崎水産部ホームページ)
・ 「イシガキダイ」(さかなや魚類図鑑ブログ) ほか
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※9:「『永遠の命の糧』っていう言葉も、さっき出てきましたけど」
(参照箇所)
・ 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)
・ 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:54)
・ 「このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6:58)
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※10:「小聖堂を建てたんですよ。加計呂麻島の合宿所に」
(下の画像はそれぞれクリックで拡大)
近年、心の病に苦しみ、闇の中にとどまる若者が増えるにつれ、晴佐久神父のもとにも、救いを求める青年が数多く集まるようになってきました。そこで始まったのが、「ここヤシキャンプ」(こころの癒やしのための青年キャンプ)。なんとか、真の幸い、よい知らせである「福音」に触れてもらうため、仲間たちと、恵まれた環境で過ごすひとときを提供しようとスタートしました。
すべての中心である「ミサ」のため、小聖堂を造ろうということになり、皆さまからのご協力を仰ぎ、献金を募りつつ、おかげさまで、8月2日、無事に献堂式の日を迎えることができました。ご協力、ありがとうございます。
(参考)
・ 「ここヤシの家に小聖堂を!」
〔『多摩カトリックニューズ』6月号:主任司祭巻頭言=晴佐久神父〕(2015/6/27発行)
・ 「『小聖堂を造りたい』っていう話をして、皆さんに呼び掛けたら、・・・」
〔「誰かのために、何かしたい」(参照 ※5)/「福音の村」〕(2015/7/26説教)
・ 「小聖堂献堂」
〔『多摩カトリックニューズ』8月号:主任司祭巻頭言=晴佐久神父〕(2015/8/15発行)
・ 「『ここヤシの家』ご報告とご協力のお願い」(「福音の村」) など
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※11:「喫水線」
静水面に浮いている船体と水面の接する線のこと。船体が重いと、喫水線は上がり、軽いと下がる。
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※12:「『悪霊の拒否』と『信仰宣言』までは、テラスでやっているわけですけども」
洗礼式は、ふつう、ミサの中で、福音が朗読され、説教の後に行われるが、その流れは、次のとおり。
① 連 願
受洗者のため、諸聖人の取り次ぎを願って祈る。
② (洗礼の)水の祝福
命のためになくてはならない、また、洗い清めるための水。神はこの水のしるしによって、新しい命を与え、罪を取り去る。司祭は、聖霊の働きを祈り求め、洗礼のための水を祝福する。
③ 悪霊の拒否
「悪を捨て、神に従う」という意思表示をする。
④ 信仰宣言
信仰を公に宣言する。
――――――――――――(ここまで、テラスで行った)――――――――――――
⑤ 洗 礼
司祭は、次の言葉を唱えながら、頭に 3度水を注ぐ。水の中に3度浸すことも可能とされる。
「〇〇〇(姓名)、わたしは父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」
3度というのは、父と子と聖霊の命に与る者となることを表す。
⑥ 聖香油の塗油
司祭は、洗礼者の額に塗油をする。これによって聖霊が注がれる。また、「キリストの祭司職(宣教活動)、預言職(典礼活動)、牧職(司牧活動)」に与る使命が授けられる。
⑦ 白衣の授与
受洗者に白い布(またはベール)が授けられる。この白い衣を罪によって汚さないようにという象徴。
⑧ ろうそくの授与
復活のロウソクからの火が灯るロウソクを代父(または代母)から渡される。これは、「キリストの光をもたらす者になりなさい」という意味を持つ。
⑨ 洗礼名の授与
洗礼によって、新しい命に生まれた人に、新しい名前が与えられる。
多くは、聖人の名前をいただくが、これは、神への取り次ぎや保護を願い、また、その聖人に倣うため。
その後、通常のミサに戻って進行する。
(参考)
・ 日本カトリック典礼委員会編(1976)『成人のキリスト教入信式』カトリック中央協議会
・ 「洗礼」[pdfファイル](ブログ「キリストの光を全ての人々に」ボグスワフ・ノヴァク神父様・神言会)
・ 「キリスト教入信の秘跡(洗礼の秘跡、堅信の秘跡、エウカリスチア〔聖体〕の秘跡)」
『カトリック教会のカテキズム』2002年1212項-1419項 カトリック中央協議会など
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2015年8月16日 (日) 録音/2015年8月27日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英