【カトリック浅草教会】
2017年7月23日 年間第16主日
・ 第1朗読:知恵の書(知恵12・13、16-19)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・26-27)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ13・24-43、または13・24-30)
【晴佐久神父様 説教】
いい話ですねえ・・・。「毒麦、そのままにしておきなさい」っていう、お優しい、お優しい神さまのお言葉(※1)。
確かに悪いものはない方がいいに決まっているけれども、この世の中から悪いものを一つひとつ全部取り除いていったら、残る人はもはや誰一人いない。私たちもみんな、相当な毒麦ですから。それを忍耐して、神さまが育ててくださっている。
で、ここが肝心なんですけど、イエスさまは、「そんな毒麦だらけの畑を、天の父は、ちゃんと最後に良い畑に変えてくださる」って言ってるんです。ここに希望を置き、信頼を置いて、毒いっぱいの世の中を、なんとか助け合って生きていきましょう。みんなで信じあって、「どんな毒でも、最後には良いものに変える」という神さまのお働きのお手伝いをね、少しでもやっていきましょう。
私、・・・まあ、自分の中に毒がいっぱいあるのを、よく知ってますよ。それは、もう子どものころからず~っと感じていました。いろんな毒を持っていること、それをいくら努力しても変えられないということ。・・・それこそ、身勝手で、周りに迷惑を掛けちゃうし、すまない気持ちがいっぱいあるのに、それでもちゃんとやるべきことができないとか、すぐに忘れてしまうとか、遅れてしまうとか。
ついさっきも、香部屋(※2)で、ミサの始まる時間に遅れたもんだから、かわいい侍者さん(※3)から、「ああ、もう来ないのかと思った~!」って言われて、(笑)「いや、必ず来るから」って。ねえ、ギリギリでやって来て、心配させちゃって、ホントごめんなさいですよ。もう2時間も前に起きてるんだから、ちゃんと準備して時間前に行けばいいのに、ついつい余計なこと始めて、目についた余計なもの読み始めて、ハッと気づくと、ああ、もうこんな時間!って、そんなの最初っから分かってることなのにね。・・・もう、神父30年目ですよ。でも、どうしてもできない。気づくと、3、4分遅れちゃうんですよね。もっともそれは、ミサに3、4分遅れて来る人のことも考えてるんですよ、私。(笑) と、一応、言っておきますけど。(笑)
以前の教会でね、まだ香部屋に入る前に、入祭の歌が始まったことがあったんですよ。時間ピッタリにオルガンが鳴り始めて。ビックリして、慌てて香部屋に駆け込んで、慌てて着替えて、慌てて出ていったんですね。だから、その日は入祭の歌がすご~く長くなっちゃった。
で、ミサの後で、オルガニストがこう言ったんですよ、「神父さま、いつも遅れてくるから、今日は時間どおりに始めさせていただきました」。(笑) いや~、ちょっとショックでもありました。でも、できないものは、できない。さっきも、遅れた上に、ピンマイクを付け忘れて出てきたんで、侍者が走って取りに行ったり。・・・もう、バタバタ。
子どものころからそうでした。それで、学校ではいつも叱られてきました。だけど、教会では、私、叱られなかったんですね。まあ、ささいなことで、「それは、ダメ」とか、「もっとこうして」とかくらいは言われたんでしょうけど、それにしても、学校で叱られるのと全然違う。教会は、なんかね、・・・まあ、自分で言うのも恥ずかしいですけど、「み~んなぼくのこと好きなんだい」って思って、安心できるところだったわけです、ぼくにとっては。だから、好き勝手、いろんなことを自由にやってました。教会は、最後はすべてゆるされるところだ、そう思ってたんです。そんな教会がどんどん好きになり、そういう教会にしたいなと思うようにもなり、やがて神学校・・・っていうことなんですよね。
そんなころの神父さんの話を上野でもしましたけれど(※4)、・・・子どものころから慕っている、いわば私の恩師です。
その神父はね、なんでも認めて、受け止めてくれるんですよ。絶対に叱らないんです。どんなぼくでも、優しく見守ってくれる。ホントにイタズラだったけれども、でも、教会家族の子どもとしてね、とっても大切にしてくれました。
ふっと思い出すのは、彼がよくその話をするので、忘れられない話になっちゃったエピソードです。
当時は公教要理(※5)っていうやつですから、神父さんが質問をして、子どもたちが覚えた答えを言う。たとえば、「神とは何ですか?」って聞かれると、子どもたちが教わった答えを答える。で、そのとき神父さんが、「晴佐久君、本当の喜びとは何ですか?」って聞いたんですね。で、私は、「カラーテレビ!」って答えた。(笑) 自分でも、よく覚えてます。神父さんも困っちゃって、「カラーテレビはいいものだけれど、ホントの喜びじゃありませんね?」って、優しく諭すわけですね。でも、私としては譲れない。当時、カラーテレビがどんどん売り出されている時代で、新聞に大きな広告が載ってたんです。「シャープ ハイカラー 『歓(よろこび)』」(※6)って。(笑) 買った方、いるんじゃないですか? シャープのハイカラ―「歓」。
私、その広告をこの目で見てますから、「喜びとは何ですか?」って聞かれたら、「カラーテレビ!」って、これはもう、譲れないところ。だから、「カラーテレビはホントの喜びじゃありませんね?」って言われても、「いえ、よろこびはカラーテレビです! シャープのハイカラー、『よろこび』です!」って言ったら、神父さん、面白そうにね、「なるほど。でもね、カラーテレビの中身はね、ホントの喜びじゃない。カラーテレビは、カラのテレビなんだよ」って答えた。(笑)
そのことをね、神父さん、いつも「そんなやり取りがあったねえ・・・」って思い出して話してくれる。まあ、晴佐久君、推して知るべしです。何でも思い付いたことを、好き勝手にワ~ッと言う。その場を乱す。でも、大切な教会家族の子どもとして、大事に大事に育ててくれる。
・・・時間が必要なんですよね。言われたとおりのことを、ぜんぶ「はい」って答えるなんて、軍隊じゃあるまいしって感じですよね。
「教会」っていうところは、毒をはらんでいながら、一緒に育っていくところ。でも、それがやがて、良い麦畑に変えられていく。そのことを信じて、お互いに、「あなたはそれでも大切なんだよ」って受け入れ合う。そのような場、そのような麦畑としてあってほしい。だから、神の国のしるしになる。
第1朗読がね、今日は「知恵の書」(※7)。「知恵の書」(※8)って面白いんで、一度ゆっくり読んでみるといいですよ。すっごく、「まさに、これこそ知恵だ!」っていうようねことが、たくさん書いてありますから。今度、時間があるときに、旧約聖書の「知恵の書」、読んでみてくださいね。笑っちゃうようなこともいっぱい書いてあって。
ただ、ここに言われているのは、神さまのホントの性質ですね。すべてに心を配っている神さま。すべてを
私たち人間はね、なんか、いい加減で、100パーセントっていうことはできませんけれど、神さまは、100パーセントです。私たちは毒をはらんでいるので、だいたいでいいんですけれど、神さまの方は「だいたい」っていうことがない。「必ず」です。「すべて」といったら、99.9じゃない、100なんです。
そういえば、さっきもお話しした通り、香部屋の中もバタバタしてたんで、ぼくが、「だいたいでいいですよ、だいたいで。80点くらいでいいですよ」って言ったら、ニャー助祭が、「80点だと落第です」って言うんですよ。(笑) 「じゃあ、82点くらいで」っていうやり取りがありましたけど、100点なんて、無理でしょう。どうしたって10点くらいは毒なんですよ。誰でもがそう。で、その10点を裁き合ったら、誰も存在し得ない。100でありたいと自分でも願うし、100であってくれと、人にもね、願っちゃいますけれど、82点くらいで、なんとかお互いやっていくっていうのがね、神の国への道じゃないですか。やがては神さま、100にしてくださるから、あと、この5点、10点、18点くらいはなんとかね、「そのまんまにしておけ」ということじゃないですかねえ。
だから、この知恵の書だと、
「あなたは
「あなたは寛容をもって裁き、慈悲をもって治められる」 (cf.知恵12:18) 、
「こうして
ぼくたちは、まだまだホントに毒だらけですけれども、神さまの「寛容」によって、「慈悲」によって、治められている。
集会祈願(※9)にもありました、「神さま、あなたは世界によい種をまき、その成長をいつくしみと忍耐をもって見守っておられます」と。ありがたい、ありがたい。
チョロチョロして、すぐに場を乱す子どもを、「忍耐をもって」、大切に「見守って」くださる、そのまなざしの中で、ようやく生き延びてきた。私たち、お互いにそうですし、そのように、「忍耐をもって大切にし続ける」っていうことの模範のような教会でありましょう。
それを見て、世は神の国を学ぶんです。「100でない者は、終わりだ」と裁くような世の中で、私たちは、神さまの愛のしるしになれるんです。神さまの寛容のしるし。立派な愛のわざをすることで、神さまの愛のしるしになることもできるけど、たぶん、「立派な愛のわざ」って言うより、「寛容に受け入れるわざ」「忍耐し続けるわざ」っていうほうが、より、神さまを表すしるしになるんじゃないですかねえ。そういう教会に、お互い憧れてやっていきたいと思います。
この毒麦のたとえで、
高慢な者をね、神さまはいさめられますけれども、ぼくらは自分で存在してるんじゃない。神さまの忍耐によって存在している。「こんな毒でありながらも」という、そのご恩というかね、その忍耐への感謝というかね、それをやっぱり、決して忘れずに、「だからもう、このあと18点くらいは、この人のここをゆるそう」とか、「受け入れよう」とか、そういう思いをね、お互いに大切にするっていうことです。
それができるっていうことを、第2朗読(※10)では、パウロが言ってますね。
「皆さん、“霊”は、弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」 (cf.ローマ8:26)
これはありがたいですよね。弱い私たちは、もう、どう祈るかも分からない、時にはもう、毒に満ち満ちているような心になったりしているけれども、そんな私たちを、もう、百も千も承知の上で、“霊”は、私たちのうちに宿って、一生懸命、こう、神さまに祈って、執り成してくれている。こっちが気付いていなくても、ですよ。・・・この忍耐、この寛容。ありがたい、ありがたい。そのおかげで今日までやってきたし、そのおかげで、これからもやってけるなって思う。・・・安心ですよね。
昨日来た、一人の20代の男性は、精神病院にずっと入院していて、ようやく出てこられて、なんとか洗礼を受けたいと思って相談に来られたんですね。まだ若いうちから、とってもつらい体験を背負っているわけですから、私としては、「ホントに大変な思いをしているだろうけれども、神さまは必ず愛してくれている。必ず救ってくださる」って、福音をいっぱいお話ししました。したつもりなんですけれども、最後の最後に、彼としても、どうしてもね、そこははっきり言ってほしかったんでしょうね、「最後に、一つ質問していいですか?」って言う。
「神さまが全知全能なら、なぜ、この世に苦しみや悪があるんですか?」
・・・これ、人類の大質問ですよね。まさに、そこを答えなければならない。でも、言うまでもなく、キリスト教の答えははっきりしているわけですね。
「確かに、私たちのうちに、苦しみがあり、悪がある。でもそれは、神さまが、それらをすべて、良いものに変えてくださるためだ。神さまは全知全能なので、それがおできになる。最初から天国をつくらなかったのには、わけがある。天国に向かう、この今、この私、この苦しみのプロセスに意味があるからだ。苦しみがあるから、ぼくたちは出会えるし、そこに愛が生まれる。苦しみ抜きの愛よりも、苦しみ付きの愛の方が、ずっと尊くって偉大だ。信じて、一緒に生きていこう。最後は必ずすべての人が救われる。いや、もう、すべての人のうちに救いの霊は働いているし、あなたはもう、あらゆる罪と悪から解放される、その道を歩み始めている」
そう宣言いたしました。
すると、彼がですね、「そうですか・・・」って、こう、じ~っと考えて、もう一回聞いたんです、
「本当に、私も必ず救われるんですか?」
私は、彼の目を見て、答えました。
「本当です。今、こうして、あなたと私が会ってるのは、神さまが、あなたにそれを伝えるために、こうして会わせてくれてるからです。いうなれば、今、あなたに語っているのは、私ではなく、主キリストです。主キリストが、この世界を、そのように天国に変える、その神の国を始めているし、もう、私たちは、その道を歩んでいます。・・・『すべての』人です」
三度目に、彼はまた聞きました、
「『すべての人』ですか? 『必ず』ですか?」
「はい。すべての人です。必ずです」
このやり取りのあとで、彼はホントにホッとした顔になり、
「今、生まれて初めて、目の前が明るくなりました」と、そう言いました。
・・・彼の洗礼式を待ち望みます。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「いい話ですねえ・・・。『毒麦、そのままにしておきなさい』っていう、お優しい、お優しい神さまのお言葉」
この日、2017年7月23日(年間第16主日)の福音朗読箇所のこと。
マタイによる福音書13章24~43節、または13章24~30節
〈小見出し:「毒麦」のたとえ=13章24~30節、「からし種」と「パン種」のたとえ=13章31~33節、たとえを用いて語る=13章34~35節、「毒麦」のたとえの説明=13章36~43節〉
===(聖書参考箇所)===
(イエスが天の国のたとえとして語った話)/以下は抜粋
「僕(しもべ)たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』」 (マタイ13:27-30前半/赤字引用者)
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※2:「香部屋」
◎香部屋 (こうべや) (既出)
典礼の準備をするための小さな部屋で、司祭や侍者などの奉仕者が、聖堂に入退堂しやすい場所に設置されている。典礼で用いる祭器具や、祭服、典礼書などを保管し、祭服を着用する際にも使われている。
「香部屋」の名前は、元来、ミサの間に、香炉の種火を取り替えるために待者が出入りしたことから付けられた。
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※3:「かわいい侍者さん」
◎侍者 (じしゃ) (既出)
ミサや他の典礼祭儀において、特に祭壇の周囲で司式司祭を補佐する。
通常、アルパ(体全体を包む長い白衣)を着用し、司式司祭や他の奉仕者と共に入退堂する。主な役割としては、典礼書、十字架、ろうそく、パンとぶどう酒、水、香炉などを運ぶこと、福音朗読のときに司祭、あるいは助祭に付き添うこと、祭壇の準備を手伝うことなどがある。
従来、少年が務めることが多いが、年齢に特に規定はない。また、男性が務めることが慣例であったが、近年では女性が務めることもある。
(参考)
・ 「侍者」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「侍者とは何をする人ですか」(カトリック大阪教区 典礼委員会) など
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※4:「そんなころの神父さんの話を上野でにしましたけれど」
この「神父さん」は川村昕司(かわむら きんじ)神父のことで、「家族になろうよ」(2017/5/14説教)で、小学校時代のエピソードを含め、恩師として紹介されている。
(参考)
・ 「家族になろうよ」(「福音の村」2017/5/14説教)、最後の段落>この辺~。
(再掲)
◎川村 昕司(かわむら きんじ)神父 (敬称略)
トマス・アキナス 川村昕司神父 東京教区司祭
1933年9月1日生まれ、1962年3月18日叙階
晴佐久神父は、小学校時代の思い出として、川村神父さまのお名前を挙げ、「ミサがていねいで神秘的」であること、また、「大きな影響を受けた」と言われている。
(参考)
・ 「教区司祭紹介 第16回」(「東京教区ニュース第284号」 2012/7/1)
・ 「教区司祭紹介 第53回」(「東京教区ニュース第323号」 2015/6/15)
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※5:「公教要理」
◎公教要理 (こうきょうようり) (既出)
「カトリック要理」ともいわれる。現在は「カテキズム(英:catechism)」といわれているが、第2バチカン公会議以前は「公教要理」の訳語が用いられていた。
「カテキズム」は、キリスト教の信仰を伝授する教理入門教育のことをいうが、特に、近世以降に広まった書物としての教理提要(公教要理)や教理問答(問答形式で書かれた教義)を指すことが多い。
『カトリック要理』という本には、「信仰するとはどういうことですか」や、「洗礼とはどういう秘跡ですか」など、100以上の質問に、それぞれ模範解答が記されている。
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年
・ 『カトリック要理 改訂版』中央出版社、1972年
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※6:「シャープ ハイカラー『歓(よろこび)』」
◎シャープ ハイカラー「歓」
昭和45年(1970年)に、シャープが発売したカラーテレビ。
カラー、画質、輝度、コントラストなど12調整を自動化し、色鮮やかで、消費者からも高く評価された。(文中へ戻る)
===(もうちょっと詳しく)===
日本のカラーテレビの本放送(昭和35年/1960年9月)を前に、各メーカーは、次々とカラーテレビを発売。ただ、当時の大卒初任給が15,000円前後の時代、価格は50万円と非常に高価なわりに、カラー放送は1日1時間で、なかなか普及しなかった。
しかし、アメリカのカラーテレビブームが日本からの輸出を喚起。生産台数は急増し、コストダウンも進んだ。
昭和39年(1964)の東京オリンピックを契機に、カラー放送は急増。1965年1月には、NHKで、1日に延べ約11時間の放送となり、価格の低下もあって、日本でもカラーテレビのブームが到来した。
昭和40年代の大型テレビは、家具調のどっしりとした豪華なものが主流で、ナショナルが昭和40年(1965)に「嵯峨」(白黒/72,500円)を発売し、その成功をきっかけに、「歓」(カラー/シャープ/1970/149,800円)、「高雄」(カラー/三菱電機/1970/197,000円)、「名門」(カラー/東芝/1969/175,000円)などの家具調テレビが相次いで発売された。(70年代、オイルショックの物価高騰に伴って給料も伸びたが、それでも、当時の大卒初任給は40,000円前後)
また、各メーカーのカラーテレビには、愛称も付けられていた。シャープは「ハイカラ―」、松下電器(ナショナル)は「パナカラー」、三菱は「ネオカラー」、東芝は「ユニカラー」など。
(参考)
・ (PDF)「「第2章 白黒テレビ受像機の成熟期からカラーテレビ受像機の普及機のデザイン変遷」(九州大学)・・・3ページ目(59ページ)に、「シャープ ハイカラ― 歓」の新聞広告画像あり。
・ (PDF)「初のカラーテレビを発売 p.4-08」(「シャープ100年史:第4章」)
・ 「第1回 昭和が生んだ娯楽の王様・テレビ」(新田太郎 戦後ニッポン「ものづくり」流行史)
・ 「昭和44年・秋田テレビ開局のころ 2009/11/29」(「二○世紀ひみつ基地」)
・ 「シャープ・ハイカラ―『歓(よろこび)』 2016/4/24」(個人ブログ「復刻版」)
・ 「豪華家具調テレビの名前[若林電機] 2009/12/8」(個人ブログ「いちばぁ~んセンター彦崎」)
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※7:「第1朗読がね、今日は『知恵の書』」
この日、2017年7月23日(年間第16主日)の第1朗読は以下のとおり。
知恵の書12章13、16~19節
〈小見出し:「神の忍耐は回心を促す」12章9~18節、「神の忍耐は寛容を教える」19~22節から抜粋〉
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※8:「知恵の書」
◎知恵の書 (既出)
「知恵の書」は、紀元前88年から同30年までの間に書かれたと考えられている。
著述の場所は、おそらくエジプトのアレクサンドリアが最もふさわしいとされるが、著者の名前は伝えられていない。一般的に、原語はギリシャ語といわれている。(文中へ戻る)
===(もうちょっと詳しく)===
「知恵の書」は、旧約聖書の「第二正典」と呼ばれる七つの書(トビト記、ユディト記、マカバイ記一、マカバイ記二、知恵の書、シラ書、バルク書)の一つ。 古代キリスト教の教父たちは、使徒時代から一貫して聖書として用いており、カトリック教会はそれを引き継いで、詩編に次いで、典礼でも頻繁に用いている。(プロテスタントでは、これらを「外典」または「アポクリファ」と呼び、聖書とは認めていない)
著述の年代、原語、教義の点からも、新約聖書に最も近く、密接な関係にあり、新約聖書の導入口のような働きをしている。
ギリシャ語の写本では「ソロモンの知恵」と題され、ヴルガタ訳ラテン語訳で「知恵の書」となっている。
(参考)
・ 『聖書-原文校訂による口語訳』(フランシスコ会 聖書研究所、2011年)
・ 「旧約聖書続編」(「聖書とは」<日本聖書協会)
・ 「神に従う人の受ける報い(知恵の書 3章1節-9節)」(ラウレンチオ 小池二郎神父 カトリック甲子園教会)
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※9:「集会祈願」
◎集会祈願 (既出)
ミサの導入部における「開祭の儀」のまとめのようなもので、この祈願によって、祭儀の性格が表現される。
===(この日の集会祈願全文)===
すべてに心を配られる神よ、あなたは世界によい種をまき、その成長をいつくしみと忍耐をもって見守っておられます。ここに集うわたしたちが互いに愛し合い、神の心にかなう者として成長することができますように。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 (『聖書と典礼』〈年間第16主日A年 2017.7.23〉、p2、オリエンス宗教研究所/赤字引用者)
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※10:「第2朗読」
この日、2017年7月23日(年間第16主日)の第1朗読は以下のとおり。
使徒パウロのローマの教会への手紙8章26~27節
〈小見出し:「将来の栄光」8章18~30節から抜粋〉
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