【カトリック上野教会】
2017年7月2日 年間第13主日
・ 第1朗読: 列王記(列王記下4・8-11、14-16a)
・ 第2朗読: 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ6・3-4、8-11)
・ 福音朗読: マタイによる福音(マタイ10・37-42)
【晴佐久神父様 説教】
(ニャー助祭の福音朗読のあと) どうぞお座りください。・・・と言う前に、もう座ってもいいってことにしましょうね。(笑) 助祭さんの朗読後は、座っていいものか悪いものか、みんな、まごまごしてるようですので、ぜひ、どうぞご自由に(※1)。
今日、私の洗礼名のお祝いとして、このミサを捧げてくださっているということで、ありがとうございます。他にも、ペトロ、パウロ、おられましたら、一緒にお祝いしましょう。また、私の叙階30周年のお祝いも兼ねて、と聞いてますので、どうぞ祝ってあげてください(※2)。(笑)
だってねえ、やっぱり、30年ってね、そう簡単なもんじゃないですよ。いろいろと大変な日々ではありましたが、一日、また一日で、なんとかここまでやってきました。そして、気づけば今年は、はや還暦。誕生日を迎えれば、夢にまで見たシルバー料金!(笑) 楽しみでしょうがない。あれって、申告制? それとも証明書か何か見せるの? ・・・ともかく、生き延びて60年。
私、司祭30年、人生60年、まあ頑張って生きてきたって思いますよ。それなりにですけどね。ただ、この晴佐久という一人のキリスト者には、ある取りえがあって、自分でそれに気づき始めたのは、中学生くらいですかね。高校生のころには、もうはっきりと自覚しておりました。それは、ひと言では言いにくいんですけど、こう、常に何かに向かっていく性格とでも言うんでしょうかね、・・・ともかく、向かってく。
もちろん、何か「いいもの」に向かっていくわけですけど、「ここもいいんだけれど、もっといい所があるに違いない」とか、「これもいい集まりだけど、もっといい集まりにできるに違いない」とか、「自分もまあそれなりにいいとこを持ってるとは思うんだけど、もっといい者になっていけるに違いない」っていう感じで、こう、「より良いもの」を目指していく。・・・まあ、欲深いんですよ。「もっと良くしたい」っていう欲があって、そこは、半端な欲じゃあ満足できない。
「もっと世界の美しさをちゃんと見て、神を賛美したい」とか、「もっとみんなが安心できる世界をつくって、神に感謝したい」とか、「もっとあなたと仲良くなって、神を喜ばせたい」とか、なにしろ、そういう、「もっと、もっと」があるんですよ。それがうまくいってるかどうかは別にして、そういう「もっと」は、絶えず、私の中にあります。だから、「これでいいや」と言わずに、「もう少しやってみよう、もう少し試してみよう」って、ついつい工夫しちゃうんですよね。
今日は選挙ですけれど(※3)、選挙運動最終日の昨日の夕方、浅草教会の上にヘリがバンバン飛び回り始めたんで、すぐに分かりました。「あっ、安倍来たな・・・」って。(笑) 案の定、秋葉原に安倍さんが来たんですね。相当な人が集まったみたいですけど、昨日の夜の集いに来た人が、「さっきまで、会社に駆り出されて、安倍さんのために旗振らされてた」って言ってましたよ。なんと、あの街頭演説で日の丸振ってる人って、自民党に縁のある会社に駆り出された人たちなんですね。なんだか、かわいそう。反対に、「安倍やめろ!」って叫ぶ人たちも大勢いて、一時騒然となったという報道もありました。
まあ、賛成でも反対でもいい。われわれは、この聖堂で、今日、ホントにいい人が選ばれるように祈りましょう。「もっとみんなが安心して暮らせる、より良い世界にしたい」、そういう欲を持った指導者が選ばれるように、「もっとみんなが幸せになれる、より良い国をつくろう」と、そういうモチベーションを持った総理大臣が現れるように祈りましょう。みんなで、「より良いものを目指す」っていう、このベクトルね。「より良い世界を目指そう!」っていう、そのモチベーションね。これが、やっぱり、私、大事だと思う。なんか、「自分のために」とか、「権力のために」とか、「お友達のために」とかっていうんじゃなくって、もっとカッコいい、「みんなのために、より良いものを」って言えるようなね。
やがてみんな、神さまのみ前に行くわけでしょ。み前で、人生のすべてをお見せする日が来る。「私は、確かにダメな人間でしたけれども、なんとか頑張って、こんなふうに生きました」って、自分自身のすべてを神さまにお見せする日が来る。だったら、やっぱり、少しはカッコつけて、ステキな人生をお見せしたいじゃないですか。「これじゃあ、ちょっとみっともないな」って、「もう少しステキな人生にしたい」って憧れて、よりよい人生を目指しましょうよ。画家が、「人生をかけて最高の絵を描き上げたい」って夢見るように、キリスト者は、「人生をかけて最高の人生を目指したい」って夢見るんです。
そのためには、モデルが必要です。
その究極のモデルは、イエス・キリストです。あれを目指せ、と。
私も、「そうか、そういう生き方があるのか」「そうか、それこそ愛だ」「あの人に学び、あの生き方に近づきたい」って、やっぱり、若いころ憧れて、この道を歩んできたわけですよ。・・・キリストを目指す。もう、ホントに、はるか遠くて、なかなか近づけないけれども、それでも憧れて、「もう少しだけでも、キリストに似た者になりたい」っていう、その欲を、皆さん、持ちましょうよ。それは別に、この世でどんな評価があるとかないとか、体が強いとか弱いとか、そういうこととは関係なく、それこそ寝たきりでもできること。「よりいっそう、キリストに近づく」っていう道。・・・人間の可能性。
今日は、都議選と同時に、もう一つ、30連勝をかけた戦い(※4)が、ちょうど今、始まったとこじゃないですかねえ。
ご存じのとおり、藤井聡太四段が将棋の世界のスーパーヒーローとして現れて、今日、公式戦の30回目を戦ってるんですけど、驚くべきことに、今日までの勝率が10割という。・・・「これはマンガか?」みたいな話です。
ただ、彼の人気がどこからくるのかは、すごくよく分かる。人間に秘められた、「より良いものをめざす力」の魅力です。
将棋界はね、去年は、ある棋士が対局中にスマホのアプリを使ったんじゃないかって疑われ、実際には、それは
さらには、佐藤名人がね、AI対決で負けたんですよ(※6)。これもやっぱり、将棋界にとってはショックでしたよね。みんなやっぱり心の中で、そうはいっても、名人は機械より上なんだってとこを見たかったし、人間のカッコいいとこを見せてほしいと思ってたのに、もう、歯が立たなかった。
この二つの事件で、最近の将棋界、暗かったんですよ。
そんなところに、突然14歳の少年が現れて、まあ、堂々と、
人はね、まだまだ、「より良いもの」を目指すことができるんです。神さまに与えられた愛と知性によって、「より良い世界」を目指すことができるんです。人類の究極のモデルであるキリストに、近づいていくことができるんです。そんな希望を新たにしたいなあ。
将棋の世界に、スーパーヒーローが現れるんだったら、われらがキリスト者の中にだって、次々とスーパーヒーローが現れるべきですよ。「連戦連勝、もう、どんな悪霊も、歯が立ちません!」みたいな。弱い人間に、それができます。いや、弱いから「こそ」できます。
神がお創りになった、人間なんだから。
藤井四段のニュースで、皆さん、不思議に思わないですか。なぜか必ず、「昼ご飯、何食べたか」って報道するんですよ。(笑) ワイドショーでは、過去29連勝全局の食事表が出てました。(笑) 藤井君が頼んだ出前が将棋会館の前に着くと、報道陣がワッと囲んで、それを撮る。この前の新記録達成の29連勝のとき、彼が何食べたか知ってますか? ・・・豚キムチうどん。(笑)
でも、じゃあ、いったいなぜ、それを報道するのか分かります? 私が思うに、AIは、豚キムチうどんを食べないからです。
人間は、豚キムチうどんを食べる生きものなんですよ。そして、「この天才少年も、何食べようかなって迷って、そうだ、今日は豚キムチにしよう、ピリ辛で、きっとおいしいだろうなって思ったんだ。ぼくらと一緒じゃないか~」っていう、その人間味に、私たちは心打たれるからです。
そうして、私たちは励まされる。「豚キムチうどん食べるなんて、私たちと一緒だわ。一緒なのに、この子はこんなに頑張ってる。こんなに新しい世界を開いている。・・・それに比べて、私、何にもしないで、ただ豚キムチうどん食べてるだけだわ~」(笑)、そう気づかされ、「私も上を目指してチャレンジしよう」って思わされるんです。弱い人間の中にも聖なる霊が与えられているんだし、信じて目指し続ければ、キリストに似た者になっていけるんです。
聖書の中で、イエスさまもね、大食漢で大酒飲みだなんて言われてるっていう箇所 (cf.マタイ11:19、ルカ7:34) (※7)がありますけど、イエスさまも人間ですから、おいしいワインを飲めば、「おいしいなあ・・・」と思ったに違いないんですよ。私も昨日、おいしいワインを飲んで、「おいしいなあ・・・」と思ったんです。いい仲間たちと集まってね。それはそれで別に構わないでしょう。
ただし、そこはやっぱり司祭30年。より良いものを目指して来た者として、おいしいワインを、いい仲間たちと飲んでるだけでは我慢できない。さて、この喜びを、どういうふうに広げていけるかと、やっぱり、そういうチャレンジの火がつくわけですよ。実際、昨日は若い仲間たちと、「こんなに素晴らしい仲間たちと福音を語り合う、こんなに素晴らしい集いを、みんながもっと知ることができるように、もう、何教会とかっていうことを超えたホームページを作ろうじゃないか」っていう話に花が咲きました。それこそ、タイトルはズバリ「福音」とでもするような、普遍主義的なホームページ。
現実に、どれだけみんな、苦しんでるか。そんな中で、こんなに弱い私たちだけれど、よりいっそうキリストに似た者になることができるに違いないと信じます。AIの時代に、人類の誇りをもって、より良い人間を目指します。「豚キムチうどんを食べ、元気を出して人を愛する」、・・・AIには決してできないこと。
福音書に、「わたしよりも自分の父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)ってありますね(※8)。それについて、解説の所には、「非常に厳しい要求だが」みたいなことが書いてありました(※9)。でも私、それ、そんなに「厳しい要求」だと思わないんですよ。すごく「ステキな要求」だなって思うし、やっぱりそれに憧れます。だって、これ、「父や母を愛するな」って言ってるんじゃないんだから。「わたしよりも」って言ってるだけです。父を愛する、当たり前です。母を愛する、当たり前です。でも、それよりも、キリストを愛し、キリストに憧れ、キリストと共に生きる者でありたいと願う。こんなに素晴らしい道はないというか、それはワクワクする生き方です。
私だって、もちろん、今でも父や母を愛してますけれども、別に父が神であるわけじゃない。母が救い主であるわけじゃない。しかし、イエス・キリストは、神であり、救い主であり、私たちと一緒に豚キムチうどんを食べてくれるほどに身近な存在として、私たちを愛して、愛し抜いてくれた。ああ、そんな方を愛したい。そんな方をこそ憧れて愛したいと、心から願う。そうでなければ、イエスに「ふさわしい者」ではないんですよ。
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」 (マタイ10:38)
これはもう、言うまでもなく、その「十字架を担う」ということがすでに、私たちが「新しい命に生きる」っていうことだから、そう言ってるんですよ。ただ苦しめって言ってるんじゃない。苦しみは、すでにみんな背負ってますよ。皆さんもつらい現実を背負っているでしょう。しかし、その十字架はもう、復活に変えられているのであり、私たちは「新しい命」を生き始めているのです。
キリスト者であるならば、その福音を信じて、イエスと共に歩んでいく。パウロの言い方ですよ、さっき読んだ所です(※10)。・・・「新しい命」
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られたんだ。それは、キリストが死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなんだ」 (cf.ローマ6:4)
30年、頑張ってきましたけれど、み心ならば、あと一年でもいい、新しい命にキラキラと輝いて、福音のためにこの身を捧げていきたいって思う。みんなで一緒に、やっていきませんか。イエスさま、必ず、褒めてくださいますよ。
ホームページの話はね、ホントにちゃんとやりたいと思ってるんです。私の話したことや、私が話す機会を検索しようって、いろいろと探している人も多いようですし、なかなか細かい情報がないので、まずはミサや入門講座に来る人も多いんですよね、「もう、直接行って聴くしかない」と。なので、今始まっている福音家族のそれぞれの人が関わって、みんなで作り上げていく、一小教区のホームページを超えた、「福音のホームページ」みたいなやつを話し合ってるところです。なかなか大変なんですけど、まだまだ、頑張らなくっちゃね。・・・今年中には、なんとかカタチをつけていこうと思ってるので、応援してください。
つい数日前、上野の入門講座に来た方で、初めて来た若い女性ですけど、心の病で苦しんでる方がいました。とても暗い感じでしたので、講座では、その方のために福音を語りまくりましたけどね、最後に、「何か質問、ありますか?」って聞いたら、その方が、「救いとか、愛とか、見失っちゃったとき、どうしたらいいんでしょう」って質問したんです。「どうして、そう聞くんですか?」ってお尋ねしたら、こうお話ししてくれました。
「私はずっと心の病気で苦しんできたけれど、晴佐久神父の『十字を切る』っていう本を、ボロボロになるまで読んで、なんとか生きてきました。でも、ついこの前、今までで最大の暗闇が襲ってきて、もはや、超えていくことができずに、自分で自分を傷つけてしまいました。こうなったら、もう、直接神父のところに行って、お話を伺うしかないと思って、こちらにまいりました」
人の心は不思議ですね。自傷行為をしたりする。それは、苦しみから逃れるためであり、「それでも生きていきたい!」っていう思いによるものなんですけどね。こんな自分が生きていていいのか、これからどうやって生きていったらいいのかも分からなくなり、救いとか愛とかも見失ってしまったとき。そんな現実の中で、それこそキリストに救ってもらうしかないという熱~い思いを持って、「もうこうなったら、あそこに直接行くしかない!」と、勇気を振り絞って「突撃」してきたんです。そういう人にとって、知らない所に行って、知らない集まりに入るのは、どれほど怖かったか。でも、頑張って突撃してきましたよ。それはまさに、イエスさまが働いておられるからです。
私も、そのイエスさまと共に歩んできた者として、常日頃から、「あなたは必ず救われる。いや、もう救われている。救い主が、今も、いつも、共におられるんだから」と、そう言い続けてきたから、それを知っているその方も、「あそこなら」と思って来るわけでしょ。
そういう集まりを少しずつでもやっていきましょうよ、この上野教会で。「上野教会に行けば、救われる!」って言われるほどに。晴佐久がどうこうの話じゃない、みんながキリストと一つになって一人ひとりをお迎えして、「あなたはもう救われている」って福音を告げる、そういう集まり。そんな集いを持てたならば、その集いは、あなたの人生の誇りになりますよ。それ、天国に行ったときに、「これが私です」って、誇らしく、神さまの前に見せられる集まりですよ。
その方に、私、申し上げました。「もうだいじょうぶですよ。ここに来たということは、神があなたを愛しているってことですし、イエスさまが共におられるってことのしるしですから。もうだいじょうぶですよ、安心してくださいね」って申し上げました。
そして、ふと、聞いてみたんですね。「イエスさまがここにおられるのを感じますでしょう? イエスさまが、今、ここで、あなたに語り掛けているのが分かりますか? 聞こえるんじゃないですか? 今、イエスさま、あなたになんて語りかけてますか?」って。
彼女、何て答えたと思います? 胸に下げた十字架をぎゅっと握りしめて、言いましたよ。
「『よくがんばったね』って・・・。」
私、「もうだいじょうぶですよ」と、そう申し上げました。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「 (ニャー助祭の福音朗読のあと) どうぞお座りください。・・・ぜひ、どうぞご自由に」
ミサでは、福音書の朗読の後に、司祭の説教が行われる。
現在、上野教会と浅草教会では、助祭が福音書の朗読を担当しており、信徒は起立して聴いている。その後、説教台で、助祭は司祭と入れ替わり、司祭が説教をすることになるが、司祭が信徒に着席を促すタイミングが難しいということ。
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※2:「私の洗礼名のお祝いとして、・・・どうぞ祝ってあげてください」
カトリック教会では、自分の洗礼名の聖人を記念する日を「霊名記念日」として、特にその聖人にとりなしを願ったり祝ったりする習慣がある。教会の司祭の霊名記念日は、その教会の信徒たち皆で祝うことが多い。
晴佐久神父の洗礼名(霊名)は、使徒聖ペトロから取られた「ペトロ」で、記念日(祭日)は、聖パウロと共に、毎年6月29日になっている。上野教会で皆の集まるミサの行われる日では、この日(7月2日)がもっとも近いため、その意向も併せて、ミサが捧げられた。
また、晴佐久神父が司祭に叙階されたのは、1987年3月15日で、今年(2017年)、ちょうど30周年を迎えたこともあり、そのお祝いも兼ねた。
ちなみに、誕生日は1957年10月22日で、今年還暦を迎える。
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※3:「今日は選挙ですけれど、」
この日(2017年7月2日)は、東京都議会議員選挙が行われた。
結果は、小池百合子支持勢力が過半数を確保。都民ファーストが第1党になった。自民党は「歴史的惨敗」といわれ、議席を34減らす結果となった。
定数127のうち、小池支持勢力(都民ファースト〔無所属6人への追加公認含む〕、公明、生活者ネット)が79、反小池勢力(自民党)が23、その他(共産、民進、維新、社民、諸派、無所属)が25。
(参考)
・ 「2017都議選 投開票タイムライン」(毎日新聞)
・ 「2017 都議選」(朝日新聞 DIGITAL)
・ 「2017年東京都議会議員選挙」(ウィキペディア)
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※4:「30連勝をかけた戦い」
昨年10月に史上最年少の14歳2カ月でプロ入りした藤井聡太四段は、6月26日に公式戦29連勝を達成。30年ぶりに、将棋の最多連勝記録を更新した。しかし、この日(2017年7月2日)、30連勝をかけ、佐々木勇気五段との対局に臨んだが、結果は敗北。デビュー30戦目で初黒星となった。これで、公式戦の連勝記録は「29」で止まった。
(参考)
・ 「佐々木五段勝利で藤井四段記録更新ならず 2017/7/2 21:34」(「棋戦トピックス」<日本将棋連盟)
・ 「佐々木勇気五段とは?藤井聡太四段を破ったジュネーブ生まれの若き実力派棋士 2017/7/3 11:10」(HUFFPOST)
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※5:「AI(人工知能)時代ならではの事件」
2016年10月、棋士が対局中に将棋ソフトを不正使用したのではないかという疑惑がかけられた事件。
疑われたのは、三浦弘行九段。対局中の不自然な離席、指し手の不自然さに疑惑が持たれ、2010年10月、日本将棋連盟は、「将棋ソフト不正使用」の疑惑ありとして、三浦九段に説明を求めた。三浦九段は不正を否定したが、翌日には、年内の公式戦出場停止処分と共に、決まっていた竜王戦の挑戦者も変更が決定された。
日本将棋連盟が調査を委嘱した第三者委員会は、同年12月26日、三浦九段の疑惑について、電子機器に不正行為の痕跡は確認できず、長時間の離席の事実もないこと、また、ソフトの指し手との一致率は根拠にならないなどのことから、「不正行為に及んでいたと認めるに足りる証拠はない」と発表した。
27日には、連盟会長が記者会見で謝罪。翌年1月18日には、連盟会長、常務理事が辞任するなど、将棋界を揺るがす大きな問題となった。
(参考)
・ 「将棋ソフト不正使用疑惑」(ウィキペディア)
・ 「三浦弘行九段の将棋ソフト不正使用の真実は?」(excite.ニュース)
・ 「三浦九段の不正疑惑 渡辺竜王が将棋連盟に対応要請 2016/10/21」(朝日新聞 DIGITAL)
・ 「三浦弘行九段、指し手カンニング疑惑を否定 2016/11/7」(日テレNEWS24)
・ 「三浦九段のソフト使用疑惑『不正の証拠ない』 2016/12/26」(毎日新聞)など
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※6:「佐藤名人がね、AI対決で負けたんですよ」
プロ棋士と、AI(人工知能)の将棋ソフトが対局する、第2期電王戦二番勝負(第1局は本年4月1日、第2局は5月20日)が行われた。現役のタイトル保持者として初めて、佐藤天彦(さとう・あまひこ)名人が、AIの「PONANZA(ポナンザ)」と対戦したが、結果は、PONANZAの2連勝。
それまでの電王戦でも、プロ棋士は人工知能に対し、5勝12敗1分けと大きく負け越している。電王戦は、今期をもって終了が決まっているので、棋士とAIとの戦いは、これで一区切りとなった。
(参考)
・ 「将棋電王戦、佐藤名人がソフトに敗北 『読みの精度高く完敗』 2017/4/1」(日本経済新聞)
・ 「佐藤天彦名人、人工知能に敗北決定 将棋・電王戦 2017/5/20」(朝日DIGITAL)
・ 「AI時代の将棋界 日本将棋連盟会長、九段・佐藤康光氏 2017/7/3」(毎日新聞)
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※7:「聖書の中で、イエスさまもね、大食漢で大酒飲みだなんて言われてるっていう箇所 (cf.マタイ11:19、ルカ7:34) 」
===(聖書参考箇所)===
① 「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」 (マタイ11:18-19/赤字引用者)
② 「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」 (ルカ7:33-35/赤字引用者)
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※8:「福音書に、・・・ってありますね」
この日、2017年7月2日(年間第13主日)の福音朗読箇所。
マタイによる福音書10章37~42
〈小見出し:「平和ではなく剣を」10章34~39節から抜粋、「受け入れる人の報い」40~42節〉
===(聖書参考箇所)===
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 (マタイ10:37-39/赤字引用者)
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※9:「解説の所には、・・・書いてありました」
この日に会衆に配られた『聖書と典礼』欄外には、該当の福音朗読箇所中、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)の解説として、以下のような注釈がある。
===(『聖書と典礼』欄外)===
「非常に厳しい要求であるが、このことによってすべての人との新たなつながりが生まれることにもなる(マタイ12:49-50参照)」 (『聖書と典礼』 p.5〈年間第13主日 A年 2017.7.2〉オリエンス宗教研究所/赤字引用者)
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※10:「パウロの言い方ですよ、さっき読んだ所です」
この日、2017年7月2日(年間第13主日)の第2朗読箇所から。
使徒パウロのローマの教会への手紙 6章3~4節、8~11節
〈小見出し:「罪に死に、キリストに生きる」6章1~14節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
① わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 (ローマ6:4/赤字引用者)
② わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 (ローマ6:8/赤字引用者)
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