2015年4月12日復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録4・32-35)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ5・1-6)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・19-31)
「このほかにも、イエスは多くのしるしをなさったけれど、ここには書かれてない」(cf.ヨハネ20:30)とあります(※1)。・・・ちょっと残念な気がいたします。「それも読みたかったなあ」というか、「知りたかったなあ」というか、他にもどんなしるしをイエスは行ったんだろう。
ただ、「それぜんぶ書いてたら、世界中にどれだけ書物があっても足りないよ」(cf.ヨハネ21:25)みたいなことも書いてあります(※2)。つまり、きりがない。きりがないほど、イエスは多くのしるしを弟子たちの前で見せたってことになりますが、後々のためには、その一つ二つを書いておけば、もう十分だって、そういうことですね。
なぜなら、私たちは、そのしるしを、今、実際に見ているからです。
きりがないほど起こったしるしは、その後あるとき、これで打ち止めですってことがなく、二千年間、ず~っとそれは続いていて、それは今も私たちの目の前で起こり続けているからです。昔をしのぶんじゃなくて、それを見ればいい。
たとえば、カトリック多摩教会で、先週、復活祭に洗礼式が行われました。26人の人が、実際に涙を流し、新たに生まれたことに感動して、救いの喜びに
教会は、こういう復活体験を、全世界で二千年間、ず~っと目の当たりにし続けてきたし、もはやそれは、こまごまと書き記す必要もない。だって、いつでも、どこでも、私たちの目の前で起こってることだから。そういうことなんですね~。
先週の洗礼式、私はしかとこの目で見ました。この手で水をかけました。目の前で救われた多くの人たち、それはそのまま、「イエスが今もおられて、神秘的なキリストの体として、ここに存在している」っていう事実の、目に見えるしるしです。洗礼が秘跡だっていうのはそういうことですね。主は復活なさって、確かにおられ、人々を救っておられる。洗礼の秘跡は、その目に見えるしるしですし、教会の存在自体が、目に見える主の復活です。
もう早速、昨日、その受洗者の「同期会」っていうのがあったんですよ。
しかも自主的に。こういうのは、初めてです。受洗者たち、よほどうれしかったのか、仲間たちと一緒にお祝いしたいって、一週間後には、もう同期会。みんなで連絡取り合って、集まって準備して、お花見弁当なんか一緒に食べて。・・・まあ、うるさい入門係もいなくって、(笑) 非常に和気あいあいとした、いい集まりでした。
その集まりを見てて、私は、やっぱり、これはしるしだな~って思いましたよ。・・・救われた仲間たちの集いです。年代もぜんぜん違うんですよね。子どもから、お年寄りまで、それぞれにいろ~んな環境の中、いろんな問題を抱えて生きている。いろ~んな事情で、苦しんできた仲間たち。しかし先週、一緒に「キリストの体」になった。それまでとはまったく違う、霊的なステージに上がっちゃったんですね、この26人。
そして、この一週間、ホントにワクワクしたというか、ウキウキしたというか、新しい自分が始まってるっていう感覚を、確かにみんな感じているし、そのことをお互いに話し合っている姿っていうのは、26人であっても、これ、一人のキリストなんですね。「キリストの神秘体」っていう言葉がありますけど(※3)、復活のキリストっていうのは、そういう秘跡的な集いというかたちで、ここに確かにおられるのです。復活の主と弟子たちがそうであったように、みんなで一緒に食事をして、つながっている感覚。・・・一つの霊的な家族。
私、洗礼志願式のとき、この26人をまとめて、26本の指ってお話ししましたし、さらには「これはもう、
そうして、実は全世界の教会が、ホントにそうなんですけど、つながっている、霊的に結ばれている、一つの家族になってるんですね、・・・無条件で。復活の主において。
この、「私たちが一つの家族になってる」姿、これが復活のキリストのしるしです。
その同期会で、一人の方が、ご自分の病気のことを、「これはお話しようかどうか迷ったんですけれど、でも、恥ずかしいけれどお話します」って言って、お話してくれたので、みんなで励ましたりしたんですけど、私、ちょっとね、いさめるでもないですけど、申し上げたんですよ。
「『恥ずかしい』はないでしょう。家族って、お互いに病気を隠したりしませんよね。むしろ、家族だったら、1.5倍くらいに、『痛いよ~』とか、『もう、大変だ』とか言ってね、みんなから世話してもらって、それで『家族』ですもんね。だから、迷惑なんじゃないかとか、恥ずかしいとか、気にせずに、ホントに家族になって、自分の一番弱い所が出せるような、二十六つ子を目指しましょうね」って。
キリストの教会って、そういうことですね。
イエスさまがトマスに、「あなたの指をここに入れてみなさい」って言いますでしょ。(cf.ヨハネ20:27) これ、おもしろいですね。「私の体に触れ」って言ってるんです。復活の体です。イエスさまは、鍵をかけてても、弟子たちの真ん中にやって来る。もう、この世の体じゃないんですよね。だけど同時に、「指を入れてみなさい」って言う。この世の体でもあるわけですよ。
このとき、トマスは復活の主と一つになった仲間たちとも、一つになれた。
これが、「復活の体」っていうことです。復活の体っていうのは、この世の時間とか空間とかも超えてるんだけど、同時に、その人自身として、そこにある。いや、正確に言うと、「その人たち」自身として、そこにある。つまり、復活の体って、個人を超えた、集いとして存在するんですね。
確かに一人ひとりが存在するんだけれど、みんなが時空を超えて霊的にちゃんとつながってる。
この復活の体っていうものを、イエスさまはちゃんと見せて、触れさせて、「あなたたちもこのような、霊的な体になっていくんだよ。なり始めているんだよ」と教えてくれた。今の個人的な体は、やがて滅んでしまう。でも、この世において、二十六つ子のようにですね、ホントに一つに、キリストにおいて結ばれるという、霊的な体になり始めるし、やがて生けるものも死せるものも、すべて一つの復活の体に結ばれていくんだと。
「みんながいる所に現れた」っていうのが、まさに復活のしるしでしょう。みんなが、復活の主になっちゃったってこと。だから、トマスがそこにいなかったっていうのは、すごく象徴的だと思います。トマスは一人ぼっちでいたから、イエスさまに会えなかった。みんなが一緒にいる所にこそ、イエスさまは現れて、「あなたたちに平和」って言う。
この「平和」っていうのは、「もう何の問題もないよ」っていうこと。イエスの死と共に、弟子たちも死んだも同然でした。心はバラバラになり、生きる意味を見失い、イエスを裏切った苦しみで死にたい気持ちになっている、そんな弟子たちに、「だいじょうぶだ、すべてはゆるされた。あなたたちは神の子だ。神の家族だ。わたしが共にいる。もうここから先は一つだ。霊的な体になるんだ」と言ってくださる復活の主。そのときの「ああ、生き返った」っていう感覚。イエスさまが私たちに与えてくださったのは、そういう復活感覚なんです。これを、私たちは信じます。受け入れます。・・・というか、二十六つ子なんか、もうそれを味わってるんですね。復活の二十六つ子になっちゃってる。
教会っていう所は、「イエスが中心にいて、みんながその周りに集まってる」っていうよりも、「みんなが霊的に結ばれている。・・・それがイエスになってる」、・・・こういう感覚なんです。
第1朗読にあったように(※5)、みんなが霊的に一つになって、お互いに持てる者を出し合ったら、もう貧富の差なんてなくなるわけでしょ。この初代教会の姿っていうのは、キリストの体である教会の模範ですね。
「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(使徒4:32)
土地や家を持ってる人は、売って代金を使徒たちに持ち寄って、それをみんなに分配したので、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(使徒4:34)。
今、貧富の差とか、格差問題が非常に強調されてますけれど、こういう信者の群れのようなモデルが世界規模で起こったら、あっという間に世界は神の国に変わるわけでしょ。考えてみれば、家族の中って、貧富の差はないですよね。・・・ない
それは、ある意味、家族っていうのが、霊的な一致の始まりだからですね。もちろん、完全じゃない。でもキリスト者が家族だっていうのは、その完全を目指すってことです。キリスト者は、この、復活の主における霊的な一致っていうものを、何よりも一番にするから、みんな持ち寄って、貧富の差がない。教会が神の国の目に見えるしるしであるっていうのは、そういうことでしょうね。
そのためには、二十六つ子じゃないですけど、「つながってる」っていう感覚が、どうしても必要なんですよ。・・・つながってる。「この人よく知らないから、どうでもいいや」じゃなくって、「指1本が痛かったら、他の指も痛いでしょ」(※6)っていうような、そういう「つながり感」を、キリストの教会っていうのは、目指してるんですよね。26人の同期会、それは初めの一歩でしょう。
新しい1週間、今まではバラバラだったけれど、もうつながってるんだっていう感覚、誰かが苦しんでいたら、それはもう、「知らないよ」じゃなく、わが息子が苦しんでいるかのように感じられるということを、少しずつ目指していきましょう。
たとえば私、今、脇腹がすごく痛いんですけど、この「痛い」っていう感覚は、私が言わない限り、誰にも通じないですよね、実際には。・・・あの、ホントに痛いんですよ。どれだけ痛いかっていうのは、どんなに説明しても、他人には実際には感じられません。しかしそれを、霊的にならば共有することはできるし、むしろ痛みって、人々を一つに結ぶためにあるんです。
十日前に、修道院の朝のミサに行くときに、寝ぼけて階段踏み外して、思いっきり脇腹を、鉄の手すりにぶつけたんですね。修道院に持っていくバッグはガラガラッと階段を転がり落ちて、私は転がり落ちずに済んだ。手すりにぶつかったから、転がり落ちずにすんだっていう、まあ、そういう状況ですけど、最初の2、3日は、ちょっと痛いくらいだったのが、だんだん痛くなってきて、十日たったら、左手を動かそうとするだけで、ズキズキと。
で、おととい、「もう、こりゃかなわん・・・」と思って、「肋骨が折れてんじゃないのかなあ・・・」と心配して、聖跡桜ヶ丘の京王の1階の整形外科に行ったんです。ホントは永山の病院か、聖跡桜ヶ丘の病院か、どっちにしようかってネットで検索したら、聖跡の方が評判よかったんですよ。(笑)
行ってみたら、評判がいいせいか、すごく大勢の人たちが、外にまで溢れて並んでるんです。どうやら、カリスマ先生なんですね。ずいぶん待たされてたんですけど、お会いしてみると結構なお歳の先生で、ゆっくり、ゆっくり歩いて出て来られました。
で、私を見て、ちょっと話を聞くなり、まだレントゲンも撮ってないのに、「これは、打撲だね」とか言って、「まあ、一応撮りましょう」ってレントゲン撮ると、じ~っと肋骨を一本一本見て、
「だいじょうぶです、骨に異常なし。しかし、これは痛みますよ。痛みは続きますから、覚悟してください。ぶつけたのはいつですか?」
「先週の火曜日です」
「火曜日って言うと、3月31日? え~と・・・じゃあ、4月の二十日の夜まで痛いです。(笑) 21日の朝から、ピタリと治る」(笑)
そう言ったんですよ。・・・神かと思いましたよ。(笑) ホントかよって、私、思わず、「ずいぶん細かいですね」って、ちょっと笑っちゃったんですけど、先生は大真面目な顔してるし、「これ、笑うとこじゃなかったのかな?」って、看護師さんの顔を盗み見しても、みんなまじめな顔してるから、「冗談言ってるんじゃないな・・・」と。
これ、4月21日、楽しみにしてるんですけど。(笑) また報告しますね。
実はみんな、それぞれに、いろんな痛い思いをしてるんだっていうこと、お互いに察し合い、通じ合いましょうよ。痛みは感じないはずなんだけど、実際には神経はつながってないはずなんだけれど、霊的に一致していると、不思議な体になって、分かりあえるし、それはとっても素敵なこと。
「みんな苦しいんだよね」、「みんな不安なんだよね」、「みんな寂しいんだよね」、「みんな傷を背負ってるんだよね」って、お互いに分かり合って、一つになりたい。
私はおっちょこちょいでね、いっつも頭ぶつけたり転んだりって、いわゆる注意欠陥障害みたいなのをね、持ってるもんですから、やたらとケガが多いんです、実は。でも、「実は」って言うなら、みんなそれぞれに、いろいろな欠陥、障害、苦労を背負ってるわけで、お互いに、もっとこう、深い所でつながって、一つになって、・・・一緒に神さまの世界に向かっていきましょうよ。
私たち、キリストの体になってる人たちっていうのは、そんな復活の体を生き始めてるんです。そして、やがて死んだら、ホントに、「復活の体」になる。非常に神秘的な体です。バラバラじゃない。自分の体でありながら、みんな、ちゃんとつながっている。
復活のイエスは、バラバラだった人たちを一つにして、キリストの体をつくり上げました。トマスは離れていたけれども、翌週にはそのトマスにもちゃんと現れて、ご自分の復活の体に組み入れてくださいました。イエスさまのなさっているのは、そういう、非常に神秘的なみ
たぶん、ちょっと私たち、この世の体で「個人」になりすぎてるんじゃないですか。体の一部に過ぎない脳みそで、考え過ぎてるんですよ。頭を鍛えたり、体を鍛えたりしてる人っていうのは、それ自体は悪いことじゃないけど、結果、「個人」になり過ぎちゃうってこともあると思う。トマスも、一人が好きな個人主義だったのかも。考えるより先に関わる人とか、体は弱いけどそれが故に共感力が高い人ほど、霊的な一致っていうのも味わいやすいんじゃないのかな。
みんな健康で長生きしたい、ぼけたくないって、筋トレや脳トレするけれど、そうして「個人」ってのを鍛えると、逆に弱くなるような気がするんですよね。・・・霊的なつながりの分野が。
以前もお話しましたけど(※7)、私、「個人の救い」だなんていう野蛮なこと、もう、全然考えなくなりました。「個人が救われる」なんていうイメージ、ホントに貧しいイメージだと思う。だって、「個人」なんて、実は幻でしょ。体も心も魂も、実は周囲とつながってますから、ぜんぶ。つながってるんですよ、実は。体は環境とも、地球ともつながってるし、心は他者とも、愛ともつながってる。身も心も、いろいろなものにつながって成立している。分けようがない。どこから自分だなんて、言えっこない。
復活の体は、すべてとつながり、神さまにつながっているという霊的な体ですから、それをイメージすると、とても安心します。自分勝手な「個人」っていうものを超えて、みんながつながっていて、みんなで痛みを分かち合って、みんなで富を分け合って、みんなで救われていく、そういう、霊的な一致っていうものを、私たちは具体的にこの世において「楽しむ」っていうか、それこそが「教会」なんでしょうね。
ここにいる皆さんなんかは、選ばれて、一致のしるしであるミサに来てるわけですから、これはすごく幸いなことですよ。この私たちにおいてはもう復活の体が始まっているし、やがて本当に「一つ」になる。私たちは、この体を抱えながらも、天の国での復活の体に憧れていいんです。この世の、痛む脇腹みたいな、こういう体は、脱ぎ捨てていくんだから(※8)。やがて。
みんなで復活を体験し、真の復活を目指しましょうっていう、「神のいつくしみの主日(※9)」。
おととい、イルカが大量に打ち上げられましたけど(※10)、私、ふと思うことがあったんですよ。イルカ、大好きですから。
茨城の海岸に、イルカがドッと打ち上げられましたでしょ。体重200キロもあるんですよ、ゴンドウイルカ。ニュースを見てたら、なんとか3頭だけ救い出して沖に放したって言ってましたけど、私ね、ふと思うに、あれ、よく磁気の乱れのせいだとか、寄生虫で方向感覚が狂ったんだとか、いろんな原因が言われてますけど、私にはなんとなく、イルカたちの霊的な行動のような気がするんですよ。ある種の宗教ですね、イルカの世界の。新興宗教みたいなもの。
イルカはもともと、陸上にいたんです。哺乳類ですから。それが海に適応して海の中で暮らすようになったわけで、陸に憧れがあるんですよ、彼らは。陸が本来のいるべき楽園なんだけど、失楽園しちゃったんですね。だから彼らは、ぴょんぴょんと海から飛び上がってね、はるかなる陸地を眺めたりしてるんです。
ただ、時々、イルカの世界でも新興宗教みたいのが流行って、「楽園に戻ろう!」なんてあおられて、教祖に連れられて、陸にダ~ッと上がってきちゃう。(・・・笑) ぼくのイメージだと、そういうイメージ。だから、「それは違うんだよ」って言いたいんです、ぼくは。イルカたちに。
「そういうことじゃないんだよ」と、「本当の楽園は、もっと霊的なものだ。海の中でも、復活の体においてこそ、真に体験できることだよ」と、これをイルカたちに教えてあげなきゃいけない。(・・・笑) イルカに必要なのはイルカのキリストなんです。彼らのあの混乱した行動っていうのは、救いの間違った形での希求なんですね。人間界でも、よくあるんです、新興宗教に。この世は地獄だ、救いはないとか、この世のこの体を捨ててね、集団自殺して楽園に行っちゃおうみたいな。・・・そうじゃない。この世のこの体が、復活の体に変えられていくんです。この世の痛むこの体でこそ、私たちはつながっていけるし、そこに復活の体がもう始まっているし、いつか本当に一致する霊的な楽園が実現する。その時に体験する復活の体っていうのが、どれほど美しく尊いか。
私たち、真の楽園を目指す者として、この世にあって、キリストと一つに「なり続ける」べきです。キリストから離れてはいけません。
主の復活、それはこの私たちが一つの体になって、一つの救いに与るっていう恵みなんだから、そして、ミサこそはそのしるしなんだから、こうして私たちは一緒にいなきゃいけないんです。ばらばらではいけません。トマスは八日の後、みんなと一緒にいました。そして、「わたしの主、わたしの神よ」って信仰告白した(ヨハネ20:28)。
なんと素晴らしい体験でしょうか。・・・今日の私たちそのものじゃないですか?
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)
※1:「このほかにも、イエスは多くのしるしをなさったけれど、ここには書かれてない」とあります。
本日、2015年4月12日〈復活節第2主日〉の福音朗読箇所は、以下のとおり。
ヨハネによる福音書 20章19~31節
〈小見出し:「イエス、弟子たちに現れる」(20章19~23節)、「イエスとトマス」(24~29節)、「本書の目的」(30~31節)〉
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※2:「それぜんぶ書いてたら、世界中にどれだけ書物があっても足りないよ」みたいなことも書いてあります。
(参考)
ヨハネによる福音書 21章25節
「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。 」
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※3:「『キリストの神秘体』っていう言葉がありますけど」
「教会は、キリストを頭とする一つの体である」という意味で、「キリストの神秘体」という言葉を使う。
教会の誕生間もなく、ユダヤ教の熱血漢、青年サウル(後のパウロ)は、「この道に従う者 (使徒8:2) 」、今でいう「キリスト教徒」を迫害して回っていた。そんなあるとき、ダマスコ近くで、周りを光に照らされ、落馬する。そのとき、「サウル、サウル、なぜ『わたしを』迫害するのか」という復活したイエスの声を聞く。
サウルが迫害していたのは、キリスト教徒で、イエス自身ではないはずである。しかしイエスは、「『わたしを』迫害するのか」と言うことで、イエスと、イエスを信じる一人ひとりは一体であることを示す。
〈少し前、最後の晩餐の折、イエス自身も、ご自身をぶどうの木にたとえ、信じる者は枝であると言われた。(ヨハネ15章)〉
サウルは、キリスト教徒となった後、その教えを、教会がキリストの体であり、イエスはその頭、信徒はその肢体だと展開した。(参照:コロサイ1章、一コリント10章、12章、ローマ12章、エフェソ5章等)
「キリストの神秘体」とは、単なる比喩ではなく、キリストを信じるすべての者に、実際に、現実に、キリストご自身が生きておられ、一人ひとりはキリストのまことの体(十字架につけられたイエスの体、復活したキリストの体、聖体の秘跡において信者たちに分かたれるキリストの体と同一)に与っていることを意味している。
また、「教会がキリストの神秘体」というのは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(一コリント12:26)といわれているように、キリストを信じ、キリストを頭とする信徒一人ひとりも互いに結ばれていることをも意味する。
(参考)
・ 「キリストのからだである教会」(『カトリック教会のカテキズム』#787~796、カトリック中央協議会、2002年)
・ 「教会-2(キリストの神秘体)」(カトリックの教え)
・ パウロの書簡(コロサイ1章、一コリント10章、12章、ローマ12章、エフェソ5章等)
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※4:「あのとき、教皇様の5本の指の話をして」
(参考)
・ 「26本の指」(「福音の村」2015/2/22説教後半、終わりから1~2段落目。>この辺~)
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※5:「第1朗読」
本日、2015年4月12日〈復活節第2主日〉の第1朗読箇所は、以下のとおり。
使徒言行録 4章32~35節。
〈小見出し:「持ち物を共有する」(4章32~36節)から抜粋〉
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※6:「指1本が痛かったら、他の指も痛いでしょ」
(参考)
・ 「(体の中で)一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(一コリント12:26-27)
・ 「パパさまが5本の指を開いて、手のひらを見せて、みんなに説教してるんです。報道によると、こんなような説教です。『私は5人きょうだいでした。母はよく、こうして5本の指を出して、私たちに教えてくれた。『あなたたちは5人とも、お母さんの指なのよ。さあ、お母さんは、どの指がお気に入りかしら。もちろん、全部お気に入り。どの指も、みんなお母さんの指。それぞれ違う指だけど、ちゃんとつながってるの。だから、1本ぶつけたら、ぜんぶが痛い。どの指をぶつけても、お母さんも痛い。5本とも、お母さんの大切な指なのよ』」 (「26本の指」福音の村2015/2/22説教 後半部分より)
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※7:「以前もお話しましたけど、私、『個人の救い』だなんていう野蛮なこと、もう、全然考えなくなりました」
(参考)
・ 「『聖霊による洗礼』。それは、もはや「個人の救い」なんていうケチな話をはるかに超えた、人類の救いとも言うべきダイナミックな神の愛のみ業です」(「すべての人が『聖霊による洗礼』を受けている」 「福音の村」2014/12/7説教2落目より)
・ 「『個人の復活』とか、『個人の救い』とか、もう、そういう傲慢な神学はそろそろ卒業してもらってですね、『私たちの復活』、『私たちの救い』って言いましょうよ。『芋づる式』っていう言葉がありますけど、ぜんぶ、ずるずるずる・・・っとつながってるんですから。」(「復活という霊的ビッグバン」福音の村2015/3/22説教2段落目より) など。
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※8:「こういう体は、脱ぎ捨てていくんだから」
(参考)
・ 「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(コロサイ2:11~12) 他
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※9:「神のいつくしみの主日」
「神のいつくしみの主日」は、2000年に、先々代の第264代教皇、聖ヨハネ・パウロ2世によって復活の主日の次の日曜日(復活節第2主日)として定められた。典礼暦には、2003年から、復活節第2主日の名称に付記されるようになった。
神のあわれみ深い愛がどれほど深く、限りないものであるかが示される、復活節のこの日、神のいつくしみに感謝し、与り、ほめたたえるよう促されている。
(参考)
・ 「教皇ヨハネ・パウロ2世 神のいつくしみの主日のメッセージ」(カトリック中央協議会)
・ 「B年 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)」(教会カレンダー>ラウダーテ) など
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※10:「おととい、イルカが大量に打ち上げられましたけど」
2015年4月10日、茨城県鉾田(ほこた)市の海岸で、150頭近くのイルカが打ち上げられているのが見つかった。生きている一部のイルカを沖に帰したが、11日朝、10頭以上が、再び海岸に打ち上げられおり、地元の人などが、懸命に救出活動を行った。国立科学博物館は11日、状況や原因などを調査し、時点では、「冷水域に遭遇したためにパニックに陥った可能性がある」との見方を示した。
(参考)(以下のニュース記事へのリンクは、一定期間後、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)
・ 「イルカ:150頭、砂浜に…10キロ点在 茨城・鹿島灘」(毎日新聞 2015年4月10日)
・ 「『生きて帰って』住民も救助活動 茨城のイルカ大量漂着」(朝日新聞 DIGITAL 2015年4月10日)
・ 「イルカ大量漂着『冷水域でパニックか』国立科学博物館」(朝日新聞 DIGITAL 2015年4月11日)
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