2015年7月26日年間第17主日
・第1朗読:列王記(列王記4・42-44)
・第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ4・1-6)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ6・1-15)
【晴佐久神父様 説教】
昨日まで教会学校のキャンプをしておりましたが、ちょうど今読んだ聖書の箇所(※1)を、子どもたちにもお話したところでした。
子どもたちにね、この五つのパンと二匹の魚の話(※2)を実際に体験してもらおうという企画をして、子どもたちをテーブルの周りに座らせて、「さあ、みんな、そろそろおなかも空いただろうから、ここに五つのパンと二匹の魚を用意したよ」と言って、籠に入れた五つのパンと二匹の魚を、子どもたちに見せました。
今そこに、その子どもたち、座っていますけど、覚えてますよね? ちゃんと見せましたよ。まあ、もっとも、リーダーたちが用意したパンですから、直径5センチくらいのちっちゃいパンですけどね。これを五つと、それから、魚二匹。魚を用意するのは、なかなか大変なので、小さなたい焼き。(笑) これを二つ。「ミニたい焼き」ってやつですね、これを籠に入れて、子どもたちに見せて、「さあ、これを、みんなに、これから配るからね〜」と言って、「だけど、大勢のみんなに行きわたるかな?」って配り始めました。
で、まず、魚からっていうことでね、二匹の魚を、すぐ隣の子どもに渡しました。当然、もうそれで魚はなくなっちゃう。でも、次の子どもには、また二匹の魚が配られました。・・・実は籠の底に、ちゃんと用意してあったんです。(笑) みんなには分からないように布の下に隠して、初めから仕込んである。だけどね、これを仕込んでいた時は、子どもたち、きっとビックリするだろうなって楽しく思い描いていたのに、実際にはみんな、疑わしそうな目で、「フ〜ン、なに? その仕掛け・・・(¬_¬)」みたいな、(笑) 顔で、あんまりビックリしてくれなかたんで、ちょっとがっかりでしたけど、それでも、みんなにね、魚とパンがちゃ〜んと配られて、おいしくいただきました。
まあ、そこでお話ししたのは、イエスさまと一緒にいて、イエスさまにお任せしていけば、どんなことでもちゃんと、神さまがかなえてくださるってこと。ホントに困ってること、悩んでること、本当に求めてることがあったら、神さまにね、打ち明けて、それを神さまがちゃんとかなえてくださるってことを、まあ、お話ししたわけですけれど。
イエスさまのとこにいないとダメなんですね、これが。やっぱりこれ、イエスさまと関係ないところで、神さまにね、「あれくれ、こうしてくれ」って頼んだら、神さまが、「ああ、いいよ」って話じゃね、イエスさまなんかいらないじゃないですか。そうじゃないんですよ。
この、「イエスさまを通して」ってところが、キリスト教の一番肝心なところなんで、これ、まずは、イエスさまと一緒にいないとならないんです。イエスさまのいるところに、イエスさまと共にいて、そこで、「おなか空いたなあ」と言う。これが大事。
この群衆だって、ホントにいろいろ悩んだり、それこそ空腹だったりしてるわけですけれど、「おなかが空いたから、そろそろ家に帰ろう」って帰っちゃった人はね、この奇跡に出合えなかったんですよ。あるいは、「こんな所にいたら、倒れちゃうなあ。5千人もいる中で、食べる物もないし、自分はそんな無計画な危ないことをせず、今のうちに買い物に行っておこう」って言うとしたら、それは人間の計画にすぎない。もちろん、人はいつでも、いろいろな恐れにとらわれているわけですけど、もし、そうして恐れてその場を離れていたら、このパンの溢れる、天国のような集いに参加できなかったんですよね。
「おなかが空いて、どうなっちゃうか分からない。このままだと倒れてしまうかもしれない。それでも、
こう思った人たちの所に、天国のような、素晴らしい
・・・これは、やっぱり教えられます。「何でもいい。ともかく主と共にいよう」と。
さらにですね、子どもたちに、こうもお話ししました。
そこに集まっていた人たちは、本当にね、悲しくって、つらい思いをしている人たちだった。イエスさまはそれを見て、深〜く憐れまれた。・・・ちょうど先週読んだところですね(※3)。先週読んだ、その続きなんですね、ここは。先週は、マルコの福音書で読みましたけれども、続きのところを、今日はヨハネの福音書で読んでいます。・・・「ホントにおなかが空きました」、「つらいです」、「苦しいです」って、まあ、そういう人たちが、イエスさまのところに集まっているので、イエスさまはそれを見て、深〜く憐れまれた。そして、このパンの奇跡が起こる。
つまり、みんながつらい思いをしているのを見て、かわいそうだなって思ったときに何かが起こるんですね。もちろん、自分だってつらい思いをしているんだけれども、同じようにみんなもつらい思いをしている。イエスさまも、自分のためにパンを増やしているんじゃないですね。みんながつらい思いをしている。そんなみんなのために、「何とかしてあげたい!」っていう、その熱〜い思いが、神さまの奇跡を呼び込むんですよね。これがまた、ポイントです。
だから、子どもたちに言ったのは、「何かお願いするときに、『自分のために』っていうんじゃなくって、ホントに目の前で誰かが困ってるとか、すごく大変な思いをしているっていうときに、『その人のために』お願いすると、神さまが、素晴らしいみ
夜のキャンドルサービスのときも、「この光は、自分を照らすだけじゃないんだよ。懐中電灯みたいにね、暗くて自分が困ってるときに照らして、自分が救われようっていうだけじゃなくて、困っている人のために輝かせるとき、暗闇の中にいる人に渡すときにこそ、その光は本当に素晴らしい光となって、この世を照らすんだよ」と言って、「さあ、じゃあ、自分の作ったろうそくの光を、隣の人にも渡してあげましょう」っていう、光の分かち合いをやりました。
そのときに、何かいい例ないかなと思って、パッと思いついた
(あんまりいいたとえじゃないな〜)って自分で思いながら、(笑) 「むしろ、『もしも当たったら、ぜ〜んぶみんなのために使います!』って、そう神さまに約束して、お祈りして買ったら、当たるかも♪」って、ちょっと冗談交じりに話して、そこにいた子どもたちに、
「当たったらぜんぶ人のために使うのって、できる?」って聞いたら、
ひとりの男の子が、
「う――――ん ( ̄へ ̄|||)」って悩んだ末に、「・・・無理だぁ〜〜 (;-_-)」って。(笑)
・・・正直ですよね。「やっぱり、自分も使いたい!」って、言ったんですよ。まあね、その気持ちは分かります。だけど、そこで私が、その子に言ったのは、
「でも、み〜んなが喜んだら、きみも楽しいんじゃない?」と。
ぜんぶみんなのためって言っても、実は自分のためにもなってるんですね。自分は何ももらえないってわけじゃなくって、むしろ、「みんなに、これを配りたい」とか、「みんなを、これで喜ばせたい!」とかって思ってるとき、実はそこに、最高の喜び、満足が生まれるんです。みんなを喜ばせたときにこそ、自分の意味が生まれ、真の自分がそこに現れて、ホントの意味での救いの喜びを味わえる。
「私が救われた〜!」と、「みんなを救えた〜!」って、これ、どっちがホントにうれしいか。まあ、「私が救われた」もうれしいけれども、「みんなを救えた」っていう方が、さらにうれしいし、それこそが最高に「私が救われた」ってことになるんじゃないですかねえ。
おそらく、この大勢の人が満腹したとき、みんなもおなかいっぱいになって、喜んでたと思いますよ。でも、一番うれしかったのは、一番救いの喜びを感じていたのは、イエスさまじゃないですかねえ。一番得していたのは。「得」っていうのは変な言い方かもしれないですけど、まあ、神さまの喜びに
イエスさまとひとつになって、みんなを喜ばせたいと思って何かをしているとき、神さまがすごく大きな働きをしてくださるっていうのは、これは真実ですから、皆さんも、目の前にいる人を喜ばせてあげようって思って何かをしたら、いろんな不思議をいっぱい実現することできますよ。・・・ここが、コツですね。
この場合はですね、やっぱり、「目の前の人」っていうのがいいんでしょうね。身近な人から始めて、「この人、喜ばせよう」、「この人、助けてあげよう」っていう、その思い。
私の場合、最近特に、身近に心の病で苦しんでいる人が増えてきたので、「この人たち、何とかしてあげたいなあ。自分に何ができるだろう・・・」と、こういう発想で動きますねえ。「正直、ちょっと自分では対応するのは難しいな。専門的な知識もないし、あまり深い経験もないし。でも、このままほっとけないな。目の前のこの人を喜ばせてあげたいな」って。
何かをするときに、そんな思いさえあれば、それこそ、たった「五つのパンと二匹の魚」しかなくても、「みんなおなかいっぱいになった」っていうことを、 神さまがいくらでもしてくれるっていうことは、これはいつも私、証ししてきたことです。
つい最近のことで言うなら、今度、心を病んでいる仲間たちのキャンプをね、加計呂麻島(※4)のキャンプ場で、 またこの夏もやりますけれども、そこで、みんなでゆっくりと、ホントにまごころからミサを捧げられる場所がほしいということで、「小聖堂を造りたい」っていう話をして、皆さんに呼び掛けたら、ホントに、2週間、3週間で、必要な額が全額集まっちゃいました。(※5)
ここにもね、協力してくださった方がおられますから、感謝いたしますけれども、こういうのっていうのは、これ、たとえば私が、「もうちょっといい車に乗りたいので、ぜひご協力ください」って呼び掛けても、(笑) 集まんないでしょうし、集まっても大した意味はないんじゃないかと思うんですよね。それは、「神さまの働きを願うって、そういうことじゃないでしょ?」っていうのが、やっぱり、本質としてあるんですよ。「自分のために」って、がんばったり、集めたりしてるときっていうのは、とっても風通しが悪いというか、暗いですね。でも、「みんなのために」ってやっていると、聖霊の風がふ〜っと吹いてきて、いろんなことがステキに実現する。
このキャンプでは、「まずは、おいしいものを、日頃つらい思いをしているみんなに食べさせたい」っていうことで、シェフを呼んで、去年やったわけですけれども、今年もそのはずだったのが、そのシェフが急きょ来れなくなっちゃったんですよ。それで、スタッフ一同、大慌てでね、「どうしよう・・・」と。そのシェフに、ぜんぶお任せだったから。「じゃあ、メニューから、ぜんぶ考えないとねえ。自分たちでできる、カレーとか何かでやっていきましょう」っていう緊急ミーティングを開きました。
だけど私、全国いろんなとこで講演するとき、この話を持ち出しては、「素晴らしいシェフが来て、素晴らしい料理を作ってくれるんですよ。天国みたいなんです〜♪」な〜んて話をして回っちゃってるもんだから、ちょっと看板に偽りありというか、(これじゃあ、ちょっと示しがつかないなあ。どうしよう・・・)って考えてたら、先日、突然シェフが現れてですね、・・・こう言うんですよ。カトリック信者のシェフですけども。
「私は、これからは、食事でみんなの心を癒す活動をしたい。素朴な食材で、おいしいものを食べさせて、心身を癒す、そんな家をつくって、みんなをお招きしたい。そんな活動を始めるにあたって、ご相談したい」
飛んで火にいる夏の虫・・・っていうのは、(笑) たとえが悪いですけど、まさに飛び込んできてくれたわけで、
「それでしたら、実は、かくかくしかじかで、今ちょうどシェフがひとり来れなくなって、困ってるんです」
って言ったら、
「ぜひ参加させてください! ボランティアで作らせてください。私はイタリアンがとても得意です」
・・・ということで、この夏は、イタリアン三昧になる。(笑)
なんかね、「出入りの業者から安いオリーブオイルを買って、持っていきます」とか、すでに、いろいろやってくれていて。
こういうのってね、やっぱり、「どうしよう・・・、神さま、何とかしてくださいよ」みたいな思いを持っていると、ホントに来るんですよ。これが、「いやいや晴佐久神父さん、神父さんはそうかもしれないけど・・・」って言うとしたら、違う。「みんなのために、何かステキなことをやっていこう!」って思ったら、必ず、神さまが素晴らしい応えを見せてくれる。
コツは、
「自分のことは、まあいいや」と、
「大変な思いをするかもしれないけど、信じてやればきっと実るよ」と、そして、
「みんながホントに、『ああ、よかった!』って幸せな気持ちでいるときに、やっぱり、自分が一番幸せな気持ちになるんだな」と、
ここをね、外さないようにしていれば、恵みがいっぱい頂けるって、私はそう信じます。
身近な人からですよね、こういうのって。やっぱり身近につらい思いをしてる人が増えてきたから、なんとかしてあげたい。皆さんも、そういうの、あるでしょ?
「なんとかしてあげたい」って思うときに、 本当に、この私を通して、その「なんとか」が実現するんだって、信じることですよ。そう信じて関わっていれば、あとはもう、神さまの領域ですよね。
先週は3人の方に病者の塗油(※6)をお授けしましたけれど、ひとりは88歳、ひとりは96歳、ひとりは95歳。まあ、そういう高齢の方たちですけど、今、ふと思い返すと、3人とも、「誰かのために何かしたい」っていう気持ちが、すごく強い方々なんですよ。
88歳の方は、もうだいぶ体調が悪くなったんだけれども、ご主人が、介護の必要な方なので、そのご主人のためにも、「私にできる限りのことをしたい」って、そういう言い方をしておられました。「もう、自分のことはどうでもいい。ただ、夫のために、もう少し神さまがお恵みくださるなら、生きていたい」って、繰り返して言ってました。
「私は十分、神さまから恵みをいただいた。もう、自分の命はいつでも神さまにお返ししたい。けれども、夫のためにもう少し生きていたい。み旨ならばもう少し連れ添いたい」っていう、そういう熱〜い思いを持っておられるんですよ。誰かのために尽くしたいっていう、これはでも、元気のもとですね。
96歳の方は、教会のために、ホントに熱心に祈っておられましたよ。そして、「自分は、誰かのためにお祈りをするために、今、こうして生かされている。特に、晴佐久神父さんのために、毎日お祈りしてる」と。「お慕い申し上げた神父が何人かいたけれども、みんな次々と、天に召された。今は、晴佐久神父さんのためにお祈りしている」。
私、目頭熱くなりました。(ああ、こういう人のお祈りに支えられて、小聖堂も建ったんだ・・・)って。こういう、「誰かのために、何かしたい」っていう思いで生きているときって、それはすごく不思議なかたちでかもしれないけど、必ず実っていくし、その思いは、決して無駄にはならない。
95歳の方は、私にこう言いましたよ。
「私、今、死ぬわけにはいかないんです。あともう1冊本を書くまでは、死ねません」
そう言ったんですよ。
今はもう、ご自分のお部屋から介護棟の方に移っているんですね。高齢者施設の自分のお部屋から、介護棟の方に移っていて、だいぶ弱っているんですけれど、「でも、今、逝くわけにはいかない。どうしても、本を1冊書かなきゃいけない」と。
すでに本を書いている方ですけど、今、次の本の話が進んでいるんですね。ある新聞社の記者が、それを応援しているとか。
「それ、どういう本なんですか?」って聞いたら、
「私が言い
そうおっしゃった。
95歳ですから、戦争を体験しておられます。「自分の言いたいことを言えない世の中」というものを、経験しておられます。それがどれほどつらかったか。そして、戦争で命を落とした人が、どれほど無念だったか、言いたいことも言えずに獄中で死んでいった人たちが、どれほど無念だったか、また、言えなかったときの、あの暗い思い、つらい気持ちが、どれほど人間を苦しめるかということを、実際に体験しておられます。
「あのときは、何も言えなかった。ああいう世の中にだけは、決してしてはいけない」
「みんなのために、まだ何かしたい」と思っているとき、神さまはきっと、素晴らしい業を見せてくださるんじゃないですか?
イエスさまのもとにとどまりましょう。誰かのために何かしたいっていう思い、イエスさまって、その思いそのものなんです。
私たちは、誰のために、何を願うべきか、それを今日、ご聖体の恵みのうちに思い起こします。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:「今読んだ聖書の箇所」
2015年7月26日〈年間第17主日〉の福音朗読箇所
ヨハネによる福音6章1〜15節
〈小見出し:「五千人に食べ物を与える」〉
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※2:「五つのパンと二匹の魚の話」
今日の福音書(ヨハネ6:1〜15)のエピソード。
イエスがガリラヤ湖の向こう岸に渡られたときも、大勢の群衆が追ってきた。ただ、食べものは、その中の少年が持っていた「五つの大麦のパンと魚二匹」のみ。弟子たちは、「それでは役に立たない」と言うが、イエスがパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、人々に分け与えると、そこにいた全員が満腹し、さらに余るほどとなった。
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※3:「ちょうど先週読んだところですね」
2015年7月19日〈年間第16主日〉の福音朗読箇所
マルコによる福音6章30〜34節
〈小見出し:「五千人に食べ物を与える」(6章30〜43節から抜粋)〉
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※4:「加計呂麻島」
奄美大島の南に位置し、晴佐久神父が毎年行っている無人島キャンプのベースキャンプがある。(「無人島」へは、ここからさらに、南に渡る)
2013年、このベースキャンプの隣接地に、合宿所を建て、主に心の病で苦しんでいる青年たちが福音に触れることができるよう、「ここヤシ キャンプ」を始めた。
(参考)
・ 「トンネルの向こうには」(「福音の村」2014年8月31日説教)
・ 「ここヤシ キャンプ」(『多摩カトリックニューズ』2014年8月号:主任司祭巻頭言)
・ 「ここヤシの家に小聖堂を!」(『多摩カトリックニューズ』2015年6月号:主任司祭巻頭言) など
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※5:「『小聖堂を造りたい』っていう話をして、皆さんに呼び掛けたら、ホントに、2週間、3週間で、必要な額が全額集まっちゃいました」
「福音の村」で、6月27日に呼び掛けをスタートいたしましたところ、7月18日には、必要とされていた250万円をお寄せいただくことができました。この場におきましても、改めて、皆さまに、心から感謝申し上げます。
おかげさまで、8月2日に、無事、献堂式を行うことができました。
その後も、予想以上に諸経費がかかり、現段階(8月17日)でも募金をお願いしておりますが、お聞き届けいただき、本当にありがたく思っております。
恐縮ではございますが、どうか引き続き、ご協力くださいますよう宜しくお願い申し上げます。
【参考】
・ 「ここヤシの家」ご報告とご協力のお願い(2015/08/17)
・「小聖堂献堂」〔『多摩カトリックニューズ』8月号:主任司祭巻頭言より-晴佐久神父-〕(2015/08/15)
・ ご献金お振り込み先
・ 元ページ:ここヤシの家に小聖堂を!(2015/06/27)
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※6:「病者の塗油」〈既出〉
七つの秘跡(キリストによって制定され、教会に委ねられた、秘められた神のわざを示す感覚的しるし)の一つ。司祭が病者に油を塗って祈る式、また、その秘跡のこと。
重病あるいは高齢のために困難があるとき、死の危険が迫っているときに、病人の額と手に司祭が祝福された油を塗り、神の癒やしといつくしみ、聖霊のたまものを祈る。
12世紀ごろから次第に臨終の病人のみに限られるようになり、「終油の秘跡」と呼ばれるようになっていったが、第二バチカン公会議を経て、現在では臨終の時に限らず与えられ、「病者の塗油」という名称に改められている。
教皇フランシスコは、2014年2月26日の一般謁見演説の中で、この「病者の塗油の秘跡」について言及し、「人間に対する神のあわれみに、手で触れることを可能にしてくれる」と述べ、改めて「この秘跡が、イエスが病者や高齢者に寄り添ってくださることを確かなものとすること、また、65歳以上の人ならだれでも受けることができること」を伝え、「慰めと、前に進むためのイエスの力を与えて」もらうようにと勧めた。
(参考)
・ 「病者の塗油の秘跡」
『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)
「病者の塗油の秘跡」1500番〜1532番
・ 「病者の塗油」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「病者の塗油」(ウィキペディア)
・ 「病者の塗油の秘跡」(キリスト教マメ知識>ラウダーテ)
・ 「病者の塗油の秘跡(1)(2)(この秘跡を受ける者、授ける者)(この秘跡執行の効果)」
(カテキズムを読もう>ラウダーテ)
・ 「教皇フランシスコの2014年2月26日の一般謁見演説」(カトリック中央協議会)
・ 「ためらわず『病者の塗油』を」(カトリック新聞オンライン 2014年3月6日)
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