【カトリック浅草教会】
2017年8月13日 年間第19主日
・ 第1朗読:列王記(列王記上19・9a、11-13a)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ9・1-5)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ14・22-33)
【晴佐久神父様 説教】
助祭さんが夏休みでお休みなので、久しぶりに主日のミサで福音書を朗読いたしました。
福音書を朗読するのは司祭の大切な務めの一つですけれども、これ、イエスさまご自身の言葉を、ホントにそれを必要としてる人に向かって、イエスさまの声として語り掛ける務めですね。今、ここで、この私の口をとおしてイエスさまが語っておられると思うと、身が引き締まるというか、感動するというか。
聖書の中には、イエスさまご自身が確かに語られた言葉が、ちゃんといくつも載ってます。弟子たちはそれを何度も聞いたでしょうし、聞いて心に留めたでしょうし、心に留めたものを黙っていられずに、みんなにも語ったでしょう。だから、かなり正確に、イエスさまご自身がそれを語られたときのニュアンスがちゃんと残っている、そういう言葉がいくつもあります。
今日も、さっき読んだ箇所(※1)ですが、私は司祭として、今、その言葉を本当に必要としているあなたに向かって、イエスが語った言葉として読みました。いや、「語った」じゃないですね、今ここで「語っている」言葉として、朗読いたしました。
お聞きになったとおりです。
「安心しなさい」
「わたしだ」
「恐れることはない」 (以上マタイ14:27)
皆さんの耳に、その心に、イエスの声は届いたでしょうか。
・・・「わたしだ」と。
聖書の中には、神さまがご自身を表す言い方として、「わたしはある」っていう言い方があるんですけど(※2)、このイエスさまの「わたしだ」も、原文では同じ言い方です。つまり、湖上を歩くイエスに怯える弟子たちに、単に「幽霊じゃないよ、わたしだよ」って説明してるんじゃなくて、
「わたしは確かにここにいる」
「神はあなたと共にある」
「わたしがここにいるのだから、もう何の心配もない。安心しなさい。恐れるな」
そういう宣言をしてるわけですね。・・・「わたしだ」と。
この世には怖いこと、いっぱいありますけども、この宣言の言葉が皆さんの心に響くならば、その恐れとちゃんと向き合えるし、結局、信じれば、恐れは吹き飛びます。この宣言は、だから、暗記しておいたほうがいいですよね、いざというときのために。そんな長いセンテンスじゃないですから覚えられますでしょう。たった三つです。
「安心しなさい」
「わたしだ」
「恐れることはない」
・・・覚えましょうね。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、この神からの言葉がちゃんと心に響きわたる、そのとき、恐れは吹き飛びます。
およそ、「恐れ」っていうものは、あらゆる悩みとか問題の原因なんですね。
恐れがあるから、争う。
恐れがあるから、緊張して失敗する。
恐れがあるから、自分らしく生きることができない。
恐れがあるからこそ、私たちのうちから、真の喜びが失われていく。
その「恐れ」を吹き飛ばすためにイエスはこの世に来られたわけですから、何か問題があるとき、困ったときは、まず、こう考えるべきです。
「私は今、何を恐れてるんだろう・・・」
それから、こう考えるんです。
「イエスさまが、今、ここで、私に語り掛けてくださっている。・・・『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』。だから、自らの恐れと真正面から向き合ってもだいじょうぶだ」
イエスの声を聞くならば、もうその問題は解決したも同然です。こういうのは、慣れてくると、5、6秒で済んじゃう話ですよ。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」 (マタイ14:27)
そんなみ言葉に励まされて、わが内なる恐れと向き合います。
昨日、
心配してくださった方も随分おられたようですね、台風が奄美を直撃したもんですから。ありがとうございます。台風5号でしたっけ、すごかったですよ。中でも私たちの合宿所のある加計呂麻島は、奄美の中でも特に降ったとこなんですね、雨が。これは、相当恐れてもいい状況だったんですけど・・・。でも、実際にはすごく静かな気持ちで、もう安心して、「主にお任せだ!」と、そんな思いで、台風をくぐり抜けてまいりました。あれほどの暴風雨だと、かえって腹が座りますね。人間の小ささを知り、神の大きさを思う日々でした。
避難指示っていうのが出たんで、誰かが隣の民宿のおやじに、「どこに避難するんですか?」って聞いたら、「避難するとこなんかないっ!」って、(笑) 言われたそうで、まあ、信じて、じっとしてろってことでしょうね。
この台風5号、迷走台風だったんですけど、奄美の人たち、すごいですね。まだ小笠原のあたりを迷走して、北に行くんだか南に行くんだかって言ってたときに、「必ずここに来る」って、そう思ってたんですって。分かるそうですよ、「こいつはこっちに来る」っていうのが。長いこといろいろ経験してると、そういう勘が働くんでしょうね。みんな、早くから準備してました。私たちも停電に備えてソーラーランタンを満充電にしたりとか、断水に備えてポリタンクに水をいっぱい入れてとかしてるうちに、4日から雨が降り始めて、5日と6日が本番。この台風、停滞しちゃったもんですから、丸二日間、雨が降り続け、風が吹き続けました。
風もね、ピューピューとか、ビュービューとかじゃない、あれ、一番近い表現は、「ドドド」ですよ。ドドド、ドドドドドドって。なんかこう、気体じゃなくて、液体か固体がぶつかってくる感じ。あれはやっぱり、確かに怖いですよ。合宿所全体が揺れますしね。雨も、奄美本島では500ミリくらい降っていて、加計呂麻島は間違いなくもっと降ってるんですけど、計測器がないんですね、加計呂麻島は。だから、記録には残りませんけど、間違いなくもっと降ってる。あれはやっぱり800ミリとか、もしかすると1000ミリくらい降ったんじゃないでしょうか。ず~っと降り続けてましたから。
今、気象庁が5分おきに発表する、雨雲のレーダー画像がありますでしょ。あれ、スマホで見れるんで、夜中もずっと見てたんですけど、加計呂麻島の西で次々と積乱雲が湧き起こっては、島に雨を降らせて東の海に去っていくっていう、線状降水帯(※4)っていうんですかね。台風って銀河系の渦みたいに、こう、帯状の雲が伸びてますでしょ、その1本が掛かって、停滞してるもんだから、ず~っと降り続けた。「バケツをひっくり返したような雨」っていうような言い方がありますけど、「これ、バケツの中だよね」って言ってる人もいた、そんな感じ。
ところがですね、この奄美大島って、雨に強いんですね、原生林だから。世界遺産を申請してるみたいですけど、多くが原生林なんです。で、原生林っていうのは、長い年月の間にそんな雨に適応してできた森ですから、その保水能力がすごいんですよ。「50年に一度の大雨」とかっていう気象庁の発表で、そう聞くとわれわれは、「50年に一度って、そりゃ大変だ。一生に一度ってことだよな」って思いますけど、島にしてみたら、50万年とかやってるわけですから、もうすでに、1万回経験してるんですね、そんな雨。そんな中で適応して育ってきた木、そんな中で出来上がってきた森なので、全部吸い込んじゃう。
私、雨が少し小やみになったときに、川を見に行きました。よせばいいのに。(笑) ニュースでよく、台風のさなかに田んぼ見に行ったとか、川を見に行って流される人がいて、「なんでそんなことするんだろう」って不思議に思ってましたけど、あれ、やっぱり、見たいんです。(笑) 私、そこの川がどうなってるんだろうと、小降りになったときに行ってみたら、ぜんぜん大したことないんです。まあ、いつもより水が多く流れてましたけど、あふれてるわけじゃない。「あれだけ降ってあふれてないって、これ、いったいどういうこと?」ってびっくりしました。つまり、山全体が水を吸って保水してるんですね。逆にいうと、干ばつのときも、川が干からびない。だいたい、奄美でがけ崩れをする所は、ほとんど人が斜面を切って道にした所です。
それに比べると、先日の、熊本や大分の大雨で山が崩れて大変だったのは、あれ、ぜんぶ人が植えた二次林が崩れて流れたわけでしょ。50万年間、大自然が作り上げた森を壊して、ほんの数百年前から人が自分の都合で植え始めた杉が凶器になって、ぜんぶ流れ落ちた。あれ、人災なんですね。その意味では、私、奄美の天然の大自然に包まれて、「ぜんぶ神にお任せだ」と、「すべては天地創造の摂理だ」と、そんな思いで、とっても静かな気持ちで、あの二日間を過ごしました。
原生林も、台風も、雨も風も、神のみわざ。恐れちゃいけない。
第1朗読(※5)に、面白い記述がありました。
エリヤは、これ、殺されかけてるんですね。逃げてきたんです。で、神の山ホレブに来て、もう、あとは死ぬしかないっていうギリギリのところだったんですけど(※6)、主はエリヤに、要するに、「逃げ隠れするな! 出てきて主の前に立て」って言うんですね (cf.王上19:11) 。
で、そのときに、「非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた」 (王上19:11) 。これ、怖いですよ。で、「風の
主が「出てきて、わたしの前に立て」って言うので、エリヤは主の前に立とうとするんだけれども、そのとき、ものすごく恐ろしい、怖い目に遭う。「大風」「地震」「火」・・・これ、われわれの逃れられない現実ですけど、そのとても怖い現実を前に、「しかし、そこに主はおられなかった」っていうんです。でも、その後で、「静かにささやく声が聞こえた」 (王上19:12)と。・・・心の奥底に響くかすかな声、それが、主なんです。
恐れの中に、主はいない。恐れてるときは、主に会えない。経験、ありますでしょ? もう、ビビっちゃったとき、震え上がったとき、叫んでいるとき、そこに主はおられない。しかし、心に静かにささやく声、その「恐れではなく、静かにささやく声」、これが、信仰によって聞く声です。・・・いかなる状況であっても、「主が語りかけてくださる。ここに、主がおられる。だいじょうぶだ。信じて待っていよう」と。
「安心しなさい。わたしだ。恐れるな」 (cf.マタイ14:27) 、この三つ、覚えましたか?
「安心しなさい」
「わたしだ」
「恐れるな」
そういう、静かにささやく信仰の声。「これをお忘れなく」っていうことです。
福音書には、弟子たちが「恐怖のあまり叫び声をあげた」 (マタイ14:26) ってありますけど、恐れって増幅するんです。この時、漕ぎ悩んで、もしかしたらついに遭難かもっていう状況です。夜明けまで必死に漕いでたっていうんだから、疲れ果ててます。夜の暗闇の中の揺れる小舟って、ホント怖いですよ。「大丈夫だろうか・・・」「もうダメかも・・・」って、そういう不安なときだから、恐れって増幅するんですよね。イエスを見ても、「幽霊だ!」って叫んでしまう。救い主が目の前に来てくださったのに、それが分かんなくなってる状態ですね。・・・恐れは増幅するんです。恐れが恐れを呼ぶんですよ。叫んでるとき、主には会えません。
そんな私たちに、イエスは「安心しなさい。わたしだ」って声を掛けてくれる。イエスは私たちに、いつも声を掛けてくれています。あとはそれを、ホントに主の声として信じて、主を迎え入れ、まことの安心を手にできるかどうかっていう、まあ、そこが勝負どころですね。
ペトロ、面白いでしょ。「あなたでしたら、そっちに行かせてください」って言うんです (cf.マタイ14:28) (※7)。普通だったら、「ああ、主よ、早く来てください」って言うところなのに、ペトロは、「こちらから、そちらに行かせてください」って言うんです。
この突撃感が、やっぱりペトロの取りえでしょう。・・・私の用語に「突撃」っていうのがあって、よく使うんですけど、恐れや問題があるとき、窮地に立たされたときに、逃げずにぶつかっていくんですね、こっちから。・・・「突撃」する。ペトロは水の上を歩きます。信じる者の姿です。私たちも、時にはそのような信仰を生きています。でも、それは長続きしない。どうせまた恐れるわけですから。ペトロも、風が吹いてることに「気がついて」 (マタイ14:30) 、気がつくと、怖くなる。怖くなると、沈み始める。そこでまた、「主よ、助けてください」と言う。今度は、主が手をしっかり握ってくれる。これは、「ああ、なるほど。手をしっかり握ってもらえたのは、ともかくもイエスのところまで突撃したからだ」って、さっき、読んでて気がつかされました。
「信じます!」、そう言って突撃して、主のもとに近づけばいいんです。そうすれば、たとえ沈みかけても、主が手を伸ばして引き上げてくれる。このときのペトロの安心感は忘れられないものだったでしょうし、すぐに風も収まって、みんな、「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスを拝むわけですね (cf.マタイ14:33) 。
今回のキャンプは、心の病を抱えてる青年たちのキャンプだったので、みんな、結構いろんな問題を抱えてるんですね。そんな中で、やっぱり、うまくいかない関係も出てきます。私もありました。一人の参加者からは、いろいろと責められました。誤解を解こうと、ずいぶん話し合ったんですけど、なんだか、心が通じない。私も確かに悪いところもあったとは思いつつも、こっちもプライドがあるし、なんかうまくいかない。だんだん疲れてくるし、いやになってきて、そしてもう時間がくるわけですよね、食事の時間とか。誰かが呼びに来て、これ幸い、これ以上話してもどうせうまくいかない、もうこれでいいやっていう投げやりな気持ちがあったんですよね。だけど、そんなときですね、私の意地というか、どうせうまくいかないっていう「恐れ」に負けたくないというか、つい、口走っちゃったんですよ。「突撃」ってやつです。もういいやって思いながら、口では、「明日、続きをやろう」って言っちゃったんです。(笑) 相手も、「え、いいの?」っていうような顔をしましたけど、実際、その次の日、続きをやって、ちゃんと向き合って、ていねいに話してたら、ちゃんと通じるところが生まれました。ホントに、・・・ホントにいい話ができたと思う。
私たち、あの二日間、台風を乗り越えて、そして語り合った。その語り合った二日間で、確実に、今までより家族になれたと思う。で、そういう信頼関係が生まれると、言葉がつながるんですよね。
その人、合宿の終わるころ、すれ違いざまに、ぼくの脇腹を、チョコンとつついたんですよ。親しみを込めて。絶対にそんなことしないやつだっただけに、うれしかったな。ホンットにうれしかった。言葉を超えた、「ありがとう」っていうか、「よろしくね」っていうか、万感の思いのこもった指でつつかれましたよ。
・・・恐れを越えて、「突撃」してよかったこと。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「さっき読んだ箇所」
この日、2017年8月13日(年間第19主日)の福音朗読箇所。
マタイによる福音書14章22~33節
〈小見出し:「湖の上を歩く」〉
===(聖書参考箇所)===
(向こう岸へ向かう弟子たちを乗せた舟は、)逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 (マタイ14:24後半~27/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る >
※2:「聖書の中には、神さまがご自身を表す言い方として、『わたしはある』っていう言い方があるんですけど」
===(聖書参考箇所)=== (赤字引用者)
◎出エジプト記 3章14節
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
◎ヨハネによる福音書
①8章24節
「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
②8章28節
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」
③8章58節
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
④13章19節
「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」
・・・< 文中へ戻る >
※3:「加計呂麻島」(多数既出)
晴佐久神父が毎年夏に、主に心の病に苦しむ青年たちと共に合宿を行っている島。
右は、「福音的な家族づくりのための合宿所」。
(参考)
・ 「ぼく、残るよ」(「福音の村」2015/8/30説教:【参照】※1)
・ 場所の詳細・広域地図>「Google マップ」・「国土地理院地図」
・・・< 文中へ戻る >
※4:「線状降水帯」
細長く、線状に延びた降水帯(雨や雪が降っている地域)。
積乱雲が次々と発生、列をなして発達し、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞し、集中的な強雨をもたらす。
線状降水帯に重なった地域では、水害や土砂災害の発生が懸念される。
規模は、幅20~50キロメートル、長さ50~300キロメートルほど。気象庁気象研究所によると、台風による直接的な大雨を除き、日本で起きた集中豪雨事例の約3分の2で、線状降水帯が発生していたとされている。
(参考)
・ 「線状降水帯」(weblio辞典)
・ 「線状降水帯」(コトバンク)
・・・< 文中へ戻る >
※5:「第1朗読」
この日、2017年8月13日(年間第19主日)の第1朗読箇所。
列王記上19章9a、11~13a節
〈小見出し:「ホレブに向かったエリヤ」19章1~18節から抜粋〉
・・・< 文中へ戻る >
※6:「エリヤは、これ、殺されかけてるんですね。・・・ギリギリのところだったんですけど」
この日、会衆に渡された『聖書と典礼』には、第1朗読の箇所の補足説明として、以下のような解説がある。
===(『聖書と典礼』から)===
〔カルメル山で異教の神バアルの預言者と戦い、王妃イゼベルに追われる身となった預言者エリヤは、恐れと疲労のため、自分の死さえも願うようになった。しかし、神はエリヤをホレブ(シナイ山)に導き、そこで新たな使命を与えることになる〕 (『聖書と典礼』〈年間第19主日A年 2017.8.13〉、p2-3、オリエンス宗教研究所)
・・・< 文中へ戻る >
※7:「ペトロ、面白いでしょ。『あなたでしたら、そっちに行かせてください』って言うんです (cf.マタイ14:28) 」
この日の福音朗読箇所(マタイ14:22~33)から。
===(聖書参考箇所)===
=上記参照※1の続き=
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 (マタイ14:28後半~31/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る >
Copyright(C)晴佐久昌英