【カトリック浅草教会】
2017年9月17日 年間第24主日
・ 第1朗読:シラ書(シラ27・30-28・7)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ14・7-9)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ18・21-35)
【晴佐久神父様 説教】
今朝見た、ちょっと不思議な夢の話、していいですか?
上野公園口みたいな所の改札口で、私が待っててですね、そこに何人か、参加者が集まってくる。その集まってきた人を、私が公園内のある所に案内するんですね。どうやら私は、案内人として、ボランティアみたいなことをやってるらしい。で、どこに案内するかっていうと、そこには、参加者がこの世で死に別れた人、・・・亡くした子どもとか、愛していたご主人とかが待ってて、また会えるんです。「こちらで~す」みたいな感じで私が案内していくと、林の中みたいなとこでしたけど、亡くなった方々が集まってて、再会できるわけです。・・・そういう奉仕をしているっていう夢でした。
まあ、神父って、天国での再会とかについて語りますし、そんなに不思議な夢でもないのかもしれませんけど、面白いなと思ったのは、それを、夢の中の私は、全然不思議なことだと思ってないんですね。ごく普通の仕事として、淡々とやってる。で、集まってる人も淡々としてて、「さあ、もうすぐ会える!」って感激してるとか、そんなんじゃないんです。「いつものサービスを、また受けに来ました」みたいな感じで、普通にみんな集まって来るし、実際に再会しても、みんな当たり前のように普通の会話をしてる。
目覚めてから、なんか不思議な気持ちになってたんですけど、よくよく考えてみると、実は、全然不思議なことじゃないんですよね。ぼくらは、死んだらもう会えないとか、この世で失ったものを二度と取り戻せないとか、簡単に決めつけて、悲しんだり落ち込んだりしますけれど、果たしてそうかっていうと、実は全然そうじゃない。圧倒的な再会が待っているし、さらに言えば、実はもう霊的にはごく普通に再会してるのかもしれない。そんな超越的な世界を信じましょうよ、皆さん。
神さまは、ぼくらの理解を圧倒的に超えた、素晴らしい交わりの世界をちゃんと用意して、もう始めているんだけれども、ぼくらは、ほとんどそれを知らないんですよね。自分の狭いイメージ、とらわれた考えで、「こうでしかない」と思い込んで、「もう会えない」とか、「もう終わっちゃった」とか言うけど、全然そんなことないんだって気づいてほしい。それも、そんなの当たり前のようにね、もっと普通のこととして、信じて受け止めてほしい。
ともかく、神さまは圧倒的に偉大なお方で、全能なお方で、限りない愛をもってこの私たちを生かしているのだから、もうあまり、人間の側の、自分の恐れとか落胆とかをさし挟まずに、「永遠なるあなたを全面的に信頼して、今日という日を捧げます!」みたいな、そんなナチュラルな信仰がいいんじゃないですか。あまり大げさな話にしないで、神さまを、ごくごく普通に、当たり前に感じている、これが、信仰者の特有のね、安らぎの感覚なんじゃないのかなって、つくづくと思う。
昨日、不思議なことがあった。
私、10年ほど前に、パリで半年ほど暮らしてたことがあるんですけど、そこの日本人会で、日本からの留学生と知り合って友達になりました。フランス文学を勉強してるカトリック信者で、いろいろと相談に乗ったりしてね、励ましたり祈ったりしてましたし、日本に帰ってきてからも何度かお会いしたこともあります。その彼女、ソルボンヌでフランス文学の博士号を取り、今は九州の大学で教えてるんですね。で、久しぶりに東京に来るんで、会いたいって言う。それが昨日だったんですけど、昨日は一日中予定があり、夕方は、「おかえりミサ」(※1)だし、夜は「福音カフェ」(※2)があるんで、ゆっくりお話しできない。そこで、「『福音カフェ』っていう学生の集まりがあるから、そこに来て何かお話をしてくれたら、みんなも喜ぶから、それでよければ」ってお招きしたら、「喜んで」って来られたんです。
ってことで、昨夜、その友人が来てくれたんですけど、その集まりに、一人のシスターが来たんですね。このシスターは、今、上智の神学部で勉強していることもあって、「福音カフェ」を手伝ってくれているんですけど、シスターが研究しているのは、「語り」についてなんです。「語り」っていうのは、最近の神学では重要な概念で、神父が説教するのも「語り」ですし、イエスさまも「語った」わけですけど、やっぱり、文字を読むのと、目の前の誰かに語ることって、やっぱり違うでしょ。で、その「語り」が、キリスト教において非常に重要だっていうことを研究課題として、いろいろ調べたりしているんですけど、いろんな文献を探していて、非常にユニークな興味深い論文に出会ったんですね。偶然、ネットで調べてて。それは、カミュの『ペスト』における「語り」の研究なんですけど、「この作品を語ってるのは誰か」っていうような根源的な問題を扱っている、とても評価された論文で、これに大変感銘を受けた。おかげでもう一度『ペスト』を読み直したそうですけど、それくらい刺激を受けたし、ぜひこれを書いた人に会いたいと思っていたんですって。
で、そう思っていた矢先、昨日、「福音カフェ」に来たら、なんと、私のその友人が、その論文の著者だったんですよ。会いたいと思っていた人が、まさか信者だとも思ってなかったみたいですけど、ともかく目の前に突然現れたんで、シスターびっくりして、「こんなことってあるかしら!」って、目をパチパチさせるような感じでした。すごく喜んでね、論文のことも、あれこれ質問してました。もちろん、友人の方も、いい読者に出会えて、とってもうれしく思ったみたいで、昨夜は二人仲良く、この浅草教会でおしゃべりしてた。
私、それをはたで見ながら、こういうのは、単なる偶然ではなくて、深い意味があるんだよねってつくづくと感じてたんです。何かホントに、説明不能な、われわれがまったく知らないつながりの世界ってあるんですね。「シンクロニシティ」って言う言葉がありますけれども、「共時性」っていうのかな、この世界は、まだ説明できていない不思議な何かが響き合っていて、ちゃんとつながっているんです。
ぼくらはね、普段、あまりにも、合理的な考えとか、科学的な説明とかにとらわれているから、その不思議さをちゃんと受け止められないでいるけれども、実際には、この世界は、もうそんなの不思議じゃないっていうくらい、神さまの力による素晴らしいつながりによって出来上がっているんですね。私はこれをいつも信じてますし、面白いことに、そのように信じている人の周りでは、そのような不思議な偶然が起こりやすくなるんですって。シンクロニシティの研究では、そう言われてるそうですよ。
私は、「亡くなった方とも必ず会える」とか、「今も生きていて、ここに共にいる」とか、「死んだ両親は、今、ここで私を応援している」とか、そういうことを、単なる言葉のあやじゃなく、リアルな力としていつも感じているし、そのような信仰に支えられていると、ホントに安心で、希望があるんですね。そのように、誰とであれ、「この出会いは、神のみわざによるものだ」と信じて人と向かい合えば、ストレスやいら立ちに捕らわれずにすみますし、私は、「この出会いが、本当にかけがえのない素晴らしいものだ」っていうことを、誰に対してでも感じていたいと願ってるんですよ。
こうして敬老のお祝いをしていますけれども、長い年月の間には、いろんな出会いがあったでしょうし、別れがあったでしょう。でも、すべては神さまの
今日の福音書(※3)で、イエスさまが面白いたとえ話をしていますね、「一万タラントンの借金を帳消しにしてくれた」って。『聖書と典礼』に説明がありますけど(※4)、十数万年分だかの賃金だそうですから、まあ、ざっくり一千億とか、そんな話をしてるわけですね。イエスさまの意図は明らかです。「一千億円をゆるしてくれた」って聞いたら、そのたとえを聞いている人が、「ああ、実は自分は、神からそんなにもゆるされてるのか」って気づいてくれるようにと、話しているわけですね。
逆に言えば、みんな、普段は、自分がそんなにゆるされてるって気づいていない。でも、ひとたびそれに気づいたならば、今度は自分も、貸しがある人に、「いいよ、いいよ。それくらい」ってね、言ってあげられるはずだ、と。この人が主君から責められちゃったのは、自分が一千億ゆるされたっていうのに、その直後に外に出たら、10万だか20万だか借金してる友達の首を絞めて、「返せ!」って言ったからであり、そりゃないだろうっていう話ですね。
思うんですけど、この人、一千億ゆるされたときに、「ああ、よかった~!」って、絶対喜んだと思うんですね。で、仮にその喜んだ5秒後に、この友人に会っていれば、「ああ、もう、いいよ、いいよ。10万や20万くらい、なんてことない。なにしろ、一千億ゆるしてもらったんだから!」って言えたと思う。だけど、実際にはこれ、たぶん、5分くらいたってるんですよ。(笑) 主人のところから出て行って、5分過ぎたころに、友達に会った。おそらく、外に出た段階で、リセットしちゃったんだよね。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ってやつですね。あんなにつらい借金、それに苦しんだこと、それをゆるされて心から喜んだこと、それやこれや、5分たったらもう忘れちゃって、目先の欲得がよみがえっちゃって、「金返せ!」って首絞める。
だから、私たち、いつもいつも、「私は、一千億ゆるしてもらってる」っていう感覚、そのリアル、そこから離れないでいることが、人の首を絞めないですむ、一番の方法なんです。もちろん、ず~っといつも、「ああ、ゆるしてもらいました」「ゆるしてもらいました」「ゆるしてもらいました」って意識し続けるわけにはいかないけれど、せめて時々は思い起こすべきだし、まさに、いざっていうとき、つまり人の首絞めたくなるようなときにこそ、思い起さなければなりません。「ああ、自分はその一億倍ゆるされてるんだ」ってね。
以前もお話ししたんですけど(※5)、上野教会を会場にして、ホームレスの方々のための食堂を始めようとしています。食事だけじゃなく、一緒に食事をする人たちを提供するっていう企画です。
で、私、この夏前に教会をよく訪ねてきていた、一人の方を招待しようと思ってたんですね。彼とは、以前から、「友達になろうよ」って言ってたんです。「私は、ただ援助するだけじゃなくて、信頼関係をつくっていきたい」って。「誰だって、会ってすぐには、『あなたを信じる』って簡単には言えないし、あなただって、私のこと、まだ、よく知らないでしょう。でも、少しずつ信頼関係を育てていけば、単に援助するだけじゃなくて、それこそ家族のように、助け合ったり、支え合ったりできるようになるでしょう? なによりも大事なのは、信頼関係ですよ」って、会うたびにそんなお話をしてたし、ささやかな援助をしたりもしてました。
その方を、この、うぐいす食堂に招待したかった。・・・したかったんだけれど、夏が終わり、キャンプから戻ってきてすぐ、警視庁の刑事さんから電話があった。そのホームレスの方が、こう言ってるって言うんです。「拳銃を一丁、晴佐久神父に預けた」って。(大笑) それで、「本当なんですか?」って言うんで、「いや、もちろん、そんなもの預かってません」とお答えしました。「神父が教会の図書室に鍵をかけて隠したと言ってますが」って言うんで、「教会には、図書室なんてありません」って言うと、「ああ、そもそも、図書室がないんですか」と。
私、電話ではらちが明かないし、その方のことも心配だったんで、刑事さんに直接来てもらって、よくお話を聞きました。で、いろんなことが分かって、なんで彼がそんなうそをついたのかっていう事情も分かって、ちょっと安心した面もあるんですけど、でもやっぱり、私、すごくがっかりしたんですね。援助してきたのに、裏切られたって感じ。だって、そんなうそをついて、私を巻き込んでじゃ、信頼関係なんて、つくれないじゃないですか。で、もう、付き合うのはやめようかなって思っちゃったんです。
だけど私、あることを思い出した。長い間忘れてたことなんですけど、子どものころ、まだ小学校3、4年のころの思い出です。このお隣、文京区の本郷です。
公園でいつも遊んでたんですけど、あの辺はお金持ちの家ばかりで、わが家は貧しかった。で、お金持ちの子たちは、拳銃を持って遊んでるんですよ。もちろん、おもちゃの鉄砲ですけどね、銀玉鉄砲(※6)ってやつ。これを、パンパン撃ち合って遊んでる。で、ぼくがそれをぼんやり見てたら、仲良しのはじめくんが、「一緒にやろうよ」って誘うんですね。でも、ぼくは持ってないんで、そう言ったら、「じゃあ、買ってあげる」って言うんですよ。・・・お金持ちはいいですねえ、「買ってあげるよ」って。びっくりして、「えっ!? いいの?」って。で、近くの駄菓子屋さんで買ってもらったんです。今でも忘れない、銀色の拳銃。カッコよくってね。私はその日、人を撃つ喜びを知りました。(笑) 撃ち合いって、ホントに面白いし、もう夢中になって遊んだ。で、家に持って帰ったんですけど、それを見て父親がね、
「どうしたんだ、これ」って。
「はじめ君に買ってもらった」って言うと、父は怒ったんですよ。
「ダメだ、人からものを買ってもらったりするな。すぐ返してこい!」
まあ、そういう教育方針だったんでしょうね。でも、ぼくはとても残念だったし、仕方ないから返しに行ったんだけど、・・・恥ずかしいじゃないですか、「これ、お返しします」なんて。だから、はじめ君の家の前まで行ったけど、どうしても、ピンポンって、できなかったんですよ。でも、家にも帰れないし、薄暗い夕方の道を、拳銃握ってウロウロしたあげく、しばらく公園にしょんぼり座ってた。やがて暗くなってきたので、公園には落ち葉の山がいっぱいあったんで、・・・秋だったのね、その落ち葉の中に鉄砲を隠して、帰ったんですよ。
すると父親が、「遅かったじゃないか。ちゃんと返して来たのか」って。で、答えられず、だま~ってたら、「どうしたんだ? 心配したんだぞ」って追及されて、「・・・公園に置いてきました」って。
そのとき、すっごく叱られると思った。思ったけど、なぜか怒られなかった。両親が、顔を見合わせたのを覚えてます。やがて父が、優しい声で、「よし、一緒に捜しに行こう」って言ってくれて、両親と、確か姉か弟もいたと思うんだけど、家族総出で公園に行って、葉っぱの中をガサガサ、ガサガサ。でも、どこに隠したかなんて、私も心ここにあらずで覚えてないんで、なかなか見つからない。しばら~く捜してたら、誰かが、「あった!」って見つけてくれて、で、はじめ君の家に行って、父が、これこれこういうことでお返ししますって言ってくれて、それで、家に帰った。
私、そんなこと、すっかり忘れてたけど、はたとね、思い出したんです。刑事さんから、「彼が拳銃隠したって言ってる」って聞いて。「おれも拳銃隠したこと、あったなあ・・・」と。(笑)
「そして、ゆるしてもらったなあ・・・」と。
そのホームレスの方とも、もう一度、信頼関係をつくっていこうって思ってますし、刑事さんには、今度会ったら、私が会いたがっていると伝えてくださいと、お願いしました。
私たちね、もう忘れているけれど、さまざまな人たちから、ゆるしてもらった経験が山のようにあるはず。それは、もしかすると、もう一生思い出さないかもしれない。でも、忍耐され、譲られ、ゆるされたこと、もしかすると、自分が気づかないうちに人を傷つけていた、そのことを忍耐してゆるしてくれていたなんていうことも、いっぱいあると思う。・・・無数に。すべて、神のみわざによる、不思議なつながりのうちにあることじゃないですか。
それこそ、天国で、またみんなに再会したときに、そういうことをお互いにね、ちゃんと受け入れ合って、報告し合って、ぜんぶ、神さまが清いものに変えてくれるんでしょうけれど、たっくさんのゆるしを、人から受けてきたこと、忘れちゃいけないんだと思う。
その根本には、神のゆるしがある。天の父は私たちを、いつもゆるし続けているし、今日も、今朝、ここにいることをゆるされて、ここにいる。・・・私だって、今、みんなの前で福音を語ることをゆるされて、語っている。こんな私でも、こうして主のもとに、信仰と希望をもって生きているということをゆるされているし、私たちは、誰もが、今も、いつも、圧倒的なゆるしに包まれて、ここに存在している。
そのことに、5秒以内に気づければ、目の前の人にニコッとして、「いいよ。しょうがないね😉」って言ってあげられると思う。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「おかえりミサ」 (既出)
いやしのためのミサ(「おかえりミサ」)は、東京、信濃町の援助修道会で、2001年から続いている、晴佐久神父司式のミサ。
どなたでも参加可能ですが、特に、事情があって教会に行けない方、体や心の病などで癒やしを必要とする方、キリスト教に興味のある未受洗の方などを主な対象として、癒やしの恵みを祈り求めます。
どうぞ、ご参加ください。基本的に、毎月一回、第3土曜日です。
急なお休みなどもあるかと思いますので、ご参加の折は、事前に以下までご確認ください。
・ 日時 : 毎月第3土曜日 16時~ : ミサ
・ 場所 : 援助修道会 聖堂 [援助修道会 HP]
・ 住所 : 東京都新宿区市谷田町2-24 [Google地図]
(JR「市ヶ谷駅」徒歩10分/地下鉄南北線・有楽町線「市ヶ谷駅」5番出口 徒歩5分)
・ 電話 : 03-3269-2405 (問い合わせは17時まで)
・ メール: auxijapon@live.jp (件名に「おかえりミサ問い合わせ」と入れてください)
(参考)
・ いやしのためのミサ「おかえりミサ」(援助修道会)
・ 「おかえりミサ」のご案内(福音の村)
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※2:「福音カフェ」 (既出)
福音を語り合い、一緒にごはんを食べる学生の集い。キリスト教に関心があり、福音的なつながりを求めている学生であれば、信者か、そうでないかは、問いません。
元気な学生も、元気のない学生も、共に集まっています。
◎ 第1土曜日18時から、カトリック上野教会
住所: 東京都台東区下谷1丁目5-9 [Googleマップ]
◎ 第3土曜日18時から、カトリック浅草教会
住所: 東京都台東区浅草橋5丁目20-5 [Googleマップ]
(参考)
・ カトリック上野教会・浅草教会のHP
・ 「福音カフェ」のご案内(福音の村)
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※3:「今日の福音書」
この日、2017年9月17日(年間第24主日)の福音朗読箇所。
マタイによる福音書18章21~35節
〈小見出し:「仲間を赦さない家来」のたとえ〉
===(あらすじ)===
王が、ある家来の莫大な借金(一万タラントン:普通の労働者の十数万年分の賃金)をゆるしてやったのに、その家来は仲間の借金 (百デナリオン:普通の労働者の数カ月分の賃金) をゆるさなかった。王は怒って、その家来を、借金をすっかり返済するまでと、牢役人に引き渡したという話。
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※4:「『聖書と典礼』に説明がありますけど」
この日、会衆に渡された『聖書と典礼』には、該当箇所の補足説明として、以下のような解説がある。
===(『聖書と典礼』から)===
◎「一万タラントン」
普通の労働者の十数万年分の賃金に相当する。この天文学的な数値によって神のあわれみ深さを強調している。 (『聖書と典礼』〈年間第24主日A年 2017.9.17〉、p5、オリエンス宗教研究所/赤字引用者)
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※5:「以前もお話ししたんですけど」
(参考)
・ 「とっても澄んだ、静かな気持ち」(「福音の村」2017/9/3説教:最後から2段落目>この辺~)
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※6:銀玉鉄砲
ゴムを飛ばすゴム鉄砲、割りばし鉄砲、豆を飛ばす豆鉄砲、篠竹で作り、ヤツデや杉の実を飛ばす竹鉄砲などを作って遊んでいた昭和の時代、銀玉鉄砲は、1960年(昭和35年)に発売され、男の子の遊びが大きく変わった。
「ララミー牧場」や「ローン・レンジャー」など、アメリカの西部劇がテレビで人気だったこともあり、駄菓子屋やおもちゃ屋、祭りの屋台などでも売られ、大ヒット。
鉄砲はプラスチック製。銀色の玉は、当初はプラスチック製で非常に高価だったが、次第に、当時は安価だった珪藻土にアルミの粉でコーティングされたものに変わった。
小学校低学年から、中学年向けのものなので、威力は、至近距離でも新聞一枚射抜けない程度。
(画像は、セキデン銀玉鉄砲セキデンオートマチック SAP.50の復刻版)
(参考)
・ 「西部劇人気で大ヒット 銀玉鉄砲はエコを先取り!」(駄菓子のトリビア)
・ 「銀玉鉄砲FAQ」(株式会社セキデン)
・ 「昭和玩具史・懐かしい昭和のおもちゃの歴史(1950年代半ばから80年代前半)」(ミドルエッジ)
・ 「銀玉ピストル」(個人ブログ「ぼくの昭和ノスタルジー物語」2014/4/11)
・ 「銀玉鉄砲」(ウィキペディア)
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