だから私たちも復活する

2015年11月1日 諸聖人
・第1朗読:ヨハネの黙示(黙示録7・2-4、9-14)
・第2朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・1-3)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ5・1-12a)

【晴佐久神父様 説教】

 イエスさまから、素晴らしいひと言を言っていただきました。(※1)
 こういうひと言を信じて、励まされて、何があろうとも天のみ国を仰いで生きてまいりましょうと、そう申し上げたい。
 そのひと言、今日の福音書の最後の一行を、私、たった今、確かに読みました。(※2)
 「天には大きな報いがある」(マタイ5:12)
 いったい、どれほど素晴らしい「報い」なんでしょう。私たちの想像を絶する、天の報い。ぼくらが、どんなイメージをもってしても、本物をかすり(・ ・ ・)もしないであろう、天のその「大きな報い」に憧れて、私たちは、この「地」という準備期間を、一日一日大切に過ごします。
 何よりも、すでにその大きな報いを得ている人たちに、励まされる。・・・これは大事なことです。とりわけ、私たちの親しかったあの方この方、今は天上で聖なる者とされている、そのような死者たち、・・・いや、「死者」なんていう言葉はもう、当たらないですね。私たちよりも本当のいのちを生きている、天にある方々に励まされる。その方々が、「こんな素晴らしい報いが待ってるんだぞ〜!」と、「この報いに比べたら、地上のどんな試練も取るに足りないよ」と、そう教えてくれている。
 今日、諸聖人の祭日に、そのことを私たちは思い起こします。天上に向かうこの日々が、報いがあるからこそどれほど尊いかということを、忘れないようにいたします。報いがなかったら、ただの苦しみ損じゃないですか。そんな(わけ)があるはずがない。「訳があるはずない」どころか、もうすでに天上に召されたあの方この方が、「ホントだよ、ホントだよ」と教えてくれている。
 ご主人をひと月半前に亡くされた方が、今、目の前で、うんうんと、うなずいておられます。来週は納骨式ですね。あなたのご主人は今、天上で、「ホントだよ、ホントだよ」と、「この報いがあるんだから、妻よ、忍耐するんだよ」と、そう今日も、私たちを励ましておられると思いますよ。
 イエスさまは、この「大きな報いがある」っていう宣言を、これ、何となく言ってるんじゃない。それを必要としている人たちに言ってるんです。貧しい人、悲しむ人、罪に苦しんでいる人、排除された人に、さまざまな困難がこの世界にはあるけれども、しかし、「報いが待ってるよ」「必ず待ってるよ」と、イエスの周りに集まった人たちを励ましてるんですよ。まさに、私たちのためですね。私たちも苦しんでおりますから、イエスさまのこういうひと言に励まされて、私たちは今日、とりわけ天上の聖人たちに励まされて、このミサを捧げます。

 「諸聖人の祭日」(※3)というこの日は、毎年11月1日に祝われますけれども、かつては、・・・古くは、殉教者をみんな総まとめで思い起こしていた日。もうだいぶ昔、・・・「だいぶ」って、千年くらい昔から、この11月1日と定められて、天上のあらゆる殉教者、そしてあらゆる聖人に、そしてもっと言えばですね、教会が正式に認めた聖人ではないけれども、今は天に召されて聖なる者とされているすべての人たちと深い交わりを持った日。・・・それは誰かって言われても、この世の人には分からない。神さまだけがご存じですけれども、あえて言えば、カトリック教会には、「死者はみんな聖人」という言い方もあります。
 神さまが望んで生み、神さまが愛して育て、神さまがいつくしみをもってみもとにお召しになって、神さまご自身が清めてくださり、神さまがご自分のものとされる「すべての人たち」。亡くなられたあの方この方、今日、皆さんの申し込まれた死者のお名前を、奉献文の中で読み上げますけれども(※4)、そのお名前の方々は、「もう、みんな聖人だ」と、そう思ってくださっていいですよ。
・・・聖なる人たち。・・・恩寵によって「キリストに似た者」(cf.一ヨハ3:2)とされた人たち。

 第2朗読(※5)の使徒ヨハネの手紙の中で、こう言われています。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子(みこ)が現れるとき、御子に似た者になるということを知っています」(一ヨハ3:2a)
 いい言葉ですね。今すでに、私たちは神の子だけれども、その後、神さまのもとに召されて、自分がどのようになるかは、まだ示されていない。でも、さらなる神の子、いわば「御子に似た者」になるんだ、と。
 ・・・イエスさまに似た者、聖なる者。神さまがそうしてくださる。今は相当、私たち、汚れてますけれども、清めてもらえる。そして、全能の神さまの無限の恵みによって、主イエスに似た者にしてもらえる。
 もう亡くなったご主人とか、息子さんとか、そういう方々は、みんな聖なる者とされて、そして今、大きな報いを受けて、「本当だ! 本当だ!!」と感動しながら、なおも地上を生きている人たちに、必要な恵みを、励ましを、与えてくれている。導いてくれている。この諸聖人の祭日に、そのことを思い起こします。
 それも、単に「亡くなった人のことを思い出して祈る」っていうんではなく、あちらの方がホントの世界、「本国」(フィリ3:20)(※6)ですから、まだ旅の身にある「仮住まい」(ヘブ11:13他)(※7)の私たちを、先に本国に帰還した先輩たち、家族、仲間たちが、「だいじょうぶだ。頑張れよ!」と、そう励ましてくれている。祈ってくれている。そのことを、この諸聖人の祭日に、特別に思って、安心する。
 バチカンの認めた聖人は、この11月1日に祝うわけですけども、明日、11月2日は「死者の日」(※8)ですよね。これ、天においては一緒でしょう。1日、2日は、一緒のこと。2日の死者の日には、バチカン公認以外の、その他大勢、皆さんにとっての聖人、・・・たとえば私にとっては、父と母が、「マイ(・ ・)聖人」ですけれども、天国で、そういう聖人たちが、特別に私たちのために祈ってくれている。働いてくれている。これは、ありがたいことですし、そこに希望があり、安心がある。

 カトリックの(こよみ)では、11月1日は、10月31日の日没から始まるんですね。時計では0時からでしょうけれども、われわれカトリック教会の伝統では、日没と同時に、翌日になる。だから、もう、昨日の夜、日没と同時に11月1日の「諸聖人の祭日」が始まってるんです。それが、ハロウィーンですね。ご存じでした? 諸聖人の祭日の始まったときとして、ハロウィーンをやってるんです。「前夜祭」っていうんじゃなくて、「もう始まったぞ!」と。
 この日、天と地は特別な意味でつながって、天上の人たちが、特別な意味で、地上の人たちに関わって、地上の人たちは特別な意味で、天上の人たちを思い起こして、深い交わりを持つんだという、そういう特別な一日が始まったっていうのが、まあ、ハロウィーンのホントの意味ですね。
 だから、ほら、お化けの格好したりしますでしょ。あれっていうのは、まさに天上の人たちを身にまとっているんですよ。・・・ありがたいことに、昨日のハロウィーンの夜、渋谷の交差点のあたりでは、大勢の若者たちが、このような教会の伝統を応援して、(笑) みんな聖なる天上の人々を身にまとって、集まってくれてたんです。血のりでベトベトの扮装(ふんそう)っていうのは、ちょっと幼稚だけど、分からないじゃない。亡くなった人のことを表してるんですね。でもそれは、亡くなった人は、何だか暗くて悲しい所、草葉の陰かどっかに行っちゃったと思ってるから、そういう扮装になるんであって、ぜひ、彼らに教えたい。「天上の輝きをこそ身にまとえ!」と。「それこそが、真のハロウィーンだぞ!」と。まあ、それじゃあ、あんまり面白くないのかもしれませんけど。
 この日、私たちは、地上を生きていながら、もうすでに天上に生まれていった人たちと深い交わりをもって、「この地上だけじゃないんだ!」という励ましを受けます。・・・この世を生きる上で、非常に重要な交わりです。

 昨日ちょうど、そのハロウィーンが始まる直前に、この聖堂で、「“いのちと死”ともに祈る会」(※9)っていう集会がありました。
 親しい人を亡くして、苦しんでいる人たちの集まりなんですね。特に、自死で亡くなった方の家族のためでもあります。他にもいろいろな思いで集まって来た方がおられましたけど、百人近い方が集まって、この、「“いのちと死”ともに祈る会」に参加してくださいました。
 「親しい人を亡くした」、これは本当につらいこと。・・・よく分かります。よく分かるけれども、どんな事情で亡くなったにせよ、その方たちは今はもう天に生まれていって、私たちとの再会を待っているんです。
 それが真実であるならば、親しい人との別れは、「ほんのいっときの別れ」ってことになる。つまり、みんな「行ってきま〜す」って言って天に出かけていき、そして、私たちもいつか「ただいま〜」って言って天に帰ってきて、そこでみんなに会う。まあ、そんなことだとさえ言える。
 「行ってきま〜す!」って天に向かい、「ただいま〜」って天に帰る。そこで、「ああ、また会えたね」っていう、そんな再開のときを、私たちは必ず体験することになるんですよ。
 そう思うと、葬儀ミサとかっていうのも、悲しいは悲しいけれども、現実に感情としてはそうだけれども、「さあ、私も、この天に向かって出発するぞ」というような、「愛するこの人は、先に神さまに召された。さあ、私も続くぞ!」と、そういうことじゃないですかねえ。まあ、もちろん、「続くぞ」といっても、自分で決めることはできない。それがいつかは、神さまがお定めになることではあるけれども、やがて続くのは、これは全員、100パーセントそうなんだから。

 だから、私、昨日のこの集いで、復活の続唱(※10)が歌われて、すごく感動したんですよ。
 昨日、あれを歌うって、誰が決めたんですか? 偉いねえ、その人。この「復活の続唱」は復活祭に歌われる歌ですけれども、よく、ご葬儀でも歌われるんですよ。多摩教会では、あんまりご葬儀では、ちょっと難しい歌だからかもしれないですけど、歌われないんだけど、これ、葬儀ミサでぜひ歌いましょうよ。・・・「復活の続唱」、ホントに美しい歌ですから。
 いや、なんでそれが歌われて感動したかっていうと、この歌の歌詞こそが、まさに福音だからです。葬儀の時は、目の前に、親しい人を亡くしてつらい思いをしてる遺族が大勢いるじゃないですか。そういう人たちに言うべき言葉、与えるべき信仰は、もう、唯一なんです。
 「キリストは復活した
  それによって私たちも復活する
  亡くなった方々も、みんな復活している」
 これがやっぱり、信仰の基本だし、最大の喜びだし、私たちを支える希望でしょ? 「復活の続唱」は、それをよく表してるんですよ。だから、ご葬儀のことなども思い起こして、胸がぐっときちゃいました。昨日あの歌をね、久しぶりにちゃんと聴いたっていうこともあって。
 目の前にご(ひつぎ)があって、ご遺族が泣いてますよね、ご葬儀のとき。それはもう、司式者もぐっとくるわけですよ。ご遺族がどんな思いか、司祭はよく分かっています。多くはその方が亡くなる直前に、病室で祈って、言葉を交わしますし、福音を語る私の手を握って、「信じます!」と言ってくれた、その方が、今はもう棺の中。・・・非常に切ないといえば切ない状況なんだけれども、どう言っていいか分からないその思いのときに、告別式になると、「復活の続唱」が歌われるんですね。・・・私はホッとする。「聴いてるみんなも、これを信じようよ!」と、そう言いたくなる。
 読みましょうか? お手元、典礼聖歌集351番「復活の続唱」です。

キリストを信じるすべてのものよ 主の過ぎ越しをたたえよう
子羊は羊をあがない 罪のないキリストは罪の世に 神の赦しをもたらされた
死といのちとの戦いで 死を身に受けたいのちの主は 今や生きて治められる
マリアよ 私たちに告げよ あなたが道で見たことを
開かれたキリストの墓 よみがえられた主の栄光
証しする神の使いと 残された主の衣服を
わたしの希望キリストは復活し ガリレアにゆき、待っておられる
共にたたえ告げ知らせよう 主キリストは復活された
勝利の王キリストよ いつくしみを私たちに
アーメン アレルヤ  [典礼司教委員会編(1980)『典礼聖歌』 351番 あかし書房]

 歌詞は古〜い祈りの歌ですけど、この典礼聖歌は高田三郎が作曲した名曲です。良い歌なんですよ。なんなら、今日の拝領の歌かなんかで歌ってくださいよ。・・・無理ですか? 聴きたいな、また(※11)。メロディーもいいんですけど、ともかく、歌詞がいい。・・・「キリストを信じるすべての者よ」って。
 ぼくらはホントに信じます。主の過ぎ越し、死からいのちへ、苦しみから喜びへ、この罪の世から聖なる神の世界へという、この「過ぎ越し」の神秘を、私たちは信じますし、たたえます。
 「子羊は羊をあがない」って、これ、「子羊」はイエスさまですね。「羊」っていうのは、私たちですよ。イエスさまは私たちを救ってくださった。「罪のないキリスト」が、この「罪の世」に、神の赦しをもたらしてくださった。私たちをみ〜んな赦して、このキリストが、み〜んな神さまの世界に連れてってくれるんです。
 「死といのちとの戦いで、死を身に受けたいのちの主」は、今や生きておられる。死んだんじゃない、もはや死はない、まことのいのちを生きていて、すべてを治めてくださっている。
 「マグダラのマリアよ、あなたが見たことを、私たちに告げてくれ。道でイエスさまに会ったことを」
 「私の希望、キリストは復活した」
 「共にたたえ告げ知らせよう。主キリストは復活された」
 「勝利の王キリストよ、いつくしみを私たちに」
 ・・・この歌詞が言っているのは、ただキリストが復活したってことじゃない。そんなの、信仰じゃない。「主キリストは復活された。だから私たちも復活するんだ」という、「だからみんなもう復活してるんだ」という、信仰です。この信仰があればね、私たちにとっては、もう、死も恐れることはない。だって、死なんて、ないんだから。
 そんな信仰を、この諸聖人の祭日に大切にいたしましょう。もう一度、思い起こしましょう。

 「“いのちと死”ともに祈る会」に、今年の春、つらいご事情で若い息子さんを亡くされたご夫妻(※12)がいらしてましたので、まあ、おおよそ、今話したような、説教を、その会でもいたしました。そのご夫妻は、息子さんを失くして絶望していた時に、勧められて多摩教会を訪ねて来られた方です。今年の春、会ったその日に、私は、この信仰を伝えたんです。「息子さんは、生きていますよ」と、「あなたたちも天に生まれて行って、息子さんとまた会うんですよ」と、「息子さんは、生きて働いていて、あなたたち二人を、福音のもとに連れてきたんですよ」と、会ったそのときに申し上げました。
 以来お二人は、入門講座とミサに通い続けておられるんですけれども、昨日、「いのちと死を問うキリスト者の集い」の後で、このご夫妻が、私に、はっきりと言ってくださいました。
 「これだけははっきり言えますが、あの日、この教会に来なかったら、私たち二人は死んでいたと思います。しかし、私たちは今、信仰に導かれました。これだけは、手放したくありません。もう何も考えずに、ただ、信じます。今度の復活祭に洗礼を授けてください」
 そう言ってくださいました。
 私は、「ほら、息子さん、復活して、今働いている・・・!」と、そう思った。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「イエスさまから、素晴らしいひと言を言っていただきました」
本日(2015年11月1日〈「諸聖人」の祭日〉の福音朗読箇所)
 マタイによる福音書5章1〜12a節。
  〈小見出し:「山上の説教(5〜7章)を始める」〉
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※2:「今日の福音書の最後の一行を、私、たった今、確かに読みました」
 本日の福音朗読箇所の締めくくりは、以下のようになっている。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5:11〜12a)
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※3:「諸聖人の祭日」
◎「諸聖人の祭日」(「諸聖人の祝日」とも)〔英語〕All Saints’ Day
 すべての聖人を記念する日。「万聖節」「諸聖徒日」とも呼ばれ、西方教会では11月1日に祝われる。
 東方教会では4世紀からすべての殉教者を記念する習慣があった。カトリック教会では、ボニファティウス4世が殉教者の聖遺物をカタコンベからローマのパンテオンに移し、609(610)年5月13日にパンテオンをキリスト教の教会堂として聖別。以後、この日が諸聖人の祝日となっていた。
 その後、グレゴリウス4世が835年に、サン・ピエトロ大聖堂内にすべての聖人をたたえる聖堂を造り、諸聖人の祝日を11月1日とした。
 この日付は、アイルランドの伝統に基づくとされる。東方教会では聖霊降臨の主日の次の日曜日に祝う。
(参考)
・ 「諸聖人の祝日」(2008年『岩波キリスト教辞典』岩波書店)
・ 「諸聖人」(Laudate>教会カレンダー)
・ 「諸聖人の日」(ウィキペディア)など
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※4:「皆さんの申し込まれた死者のお名前を、奉献文(①)の中で読み上げますけれども(②)
「奉献文」[英]eucharistic prayer
 「感謝の祈り」を意味するラテン語prex eucharisticaに由来する。ミサでパンとぶどう酒を聖別し、神に感謝と賛美をささげる際に司式者が唱える祈りであり、ミサ全体の頂点かつ中心となる祈り。
(参考)
・ 「奉献文」(『キリスト教辞典』岩波書店、2008年 )

② 「死者のお名前を読み上げる」
 この日は「諸聖人」の祭日だったが、翌11月2日は典礼暦では「死者の日」(帰天したすべての人を記念する日)に当たっていたため、カトリック多摩教会では、10月31日(土)と11月1日の主日のミサを、「死者の記念ミサ」として捧げた。
 司式する晴佐久神父は、ミサの奉献文中、すべての教役者と全教会のための祈りの後、会衆から事前に申し込みのあった、亡くなった方々の名前を一人ひとり呼名した。
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※5:「第2朗読」
本日(2015年11月1日〈「諸聖人」の祭日〉の第2朗読箇所)
 ヨハネの手紙一3章1〜3節
  〈小見出し:「神の子たち」(2章28節〜3章10節)の一部〉
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※6:「本国」(フィリ3:20)
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリ3:20)
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※7:「仮住まい」(ヘブ11:13他)
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブライ11:13)

「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」 (一ペト1:1)

「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」(一ペトロ1:17)

「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(一ペト2:11)
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※8:「死者の日」
 教会の典礼暦では11月2日。帰天した、すべての人を記念する。
 キリスト者の間では、2世紀ごろから死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、間もなく、これにミサが伴うようになった。このミサでは、死者の霊魂があらゆる罪の汚れから清められ、神のもとで永遠の幸福に与れるよう祈願して捧げられる。
(参照)
・ 上記、もう少し詳しい説明は、既出(2014/11/2説教)の【参照】※1をお読みください。
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※9:「“いのちと死”ともに祈る会」
 「いのちと死を問うキリスト者の集い」主催。本年(2015年)3月発足。
 特に、家族をはじめ、大切な人を亡くした方、病などで「死」を間近に思う方々など、「いのちと死」と向き合い苦しむ方々と、共にあり、集い、話し、祈るために開かれている。主催名は「キリスト者の集い」となっているが、キリスト教信徒であるなしにかかわらず、参加を呼び掛けている。
 近隣の日本キリスト教団永山教会から、会場提供のお話をいただき、その第3回目が、10月31日(土)、カトリック多摩教会で開かれた。
 ちなみに、この集いは、同、永山教会が、特定非営利活動法人全国自死遺族総合支援センター(グリーフサポートリンク)と共催で開催している「ともにあゆむ会 自死遺族の集い」と関係しているという。
(参考)
・ 「『いのちと死を問うキリスト者の集い』の集会案内」(日本キリスト教団永山教会 facebook
・ 「特定非営利活動法人全国自死遺族総合支援センター(グリーフサポートリンク)
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※10:「復活の続唱」
◎続唱(〔ラテン語〕sequentia〈セクエンツィア〉)
 カトリック教会のミサにおいて歌われる固有式文聖歌のひとつ。もとは、アレルヤ唱に続いて歌われていたので、その名が付いた。
 現在は、アレルヤ唱の、「福音朗読で語られる、主キリストを歓迎する」という意味を重んじ、引き続いて福音が朗読されるため、アレルヤ唱の前に、「アレルヤ唱に続く聖歌」として歌われるようになった。
 日本語では、『典礼聖歌』に、351番「復活の続唱」と、352番「聖霊の続唱」があり、それぞれ、「復活の主日」と、「聖霊降臨の主日」に歌われる。
(参考)
・ 「セクエンツィア」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)ほか
・ 「復活の続唱」

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※11:「聴きたいな、また」
 この晴佐久神父の説教中の無茶振りに応えて、オルガ二ストと先唱者、司会者が機転を利かせて連係し、実際に「拝領の歌」として「復活の続唱」が歌われ、すすり泣く人も出るほどの大きな感動に包まれた。
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※12:「今年の春、つらいご事情で若い息子さんを亡くされたご夫妻」
 今までにも何度か説教中でご紹介してきた信者ではないご夫妻。今年、4月18日の土曜日、夕方のミサに初めていらしていた。
 その日の数週前に23歳の愛する息子さんを悲しい亡くされ方で失って、どうしてよいか分からず、右往左往、救いを求めてあちこち回っておられた。多摩教会にも、どなたかから紹介されていらしたとのことで、その後、ご夫妻は、欠かすことなくミサに与っておられる。(皆さま、共にお祈りください)
(参考)
・「天上での宴の始まり」(2015/4/19説教)最後の段落。
・「30年ぶりの聖体拝領」(2015/5/24説教)最後から2番目の段落。
・「安心の涙」(2015/6/28説教)3番目の段落
 その他、FEBCの特別番組「あなたと出会い、主イエスと出会う−晴佐久昌英神父・吉崎恵子特別対談−」(聴取期限11/13)でも紹介されてます。
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2015年11月1日 (日) 録音/2015年11月7日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英