恵みの上に、さらに恵みを

【カトリック上野教会】

2016年12月25日主の降誕(日中のミサ)
・ 第1朗読:イザヤの預言:(イザヤ52・7-10)
・ 第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ1・1-6)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ1・1-8、または1・1-5、9-14)

【晴佐久神父様 説教】

 主のご降誕、おめでとうございます。
 先ほど、このミサが「人生初ミサだ」という方が来ておられて、ごあいさついただきました。「教会に初めて来ました。ミサも初めてです」っていう方です。他にもここに、ミサが初めてという方が、私が知っている限りでも二人おられます。まだ他にもおられるんじゃないでしょうか。その方々には特に、申し上げたい。「クリスマスおめでとう」「初ミサ、おめでとうございます」と。
 「人生初ミサ」という方がいると、私は、・・・燃えます。(笑) だって、本人にしてみれば、生涯最初の体験ですし、それがどれほど素晴らしいことかということを、私は知っているけれど、本人は、まだよく分かっていない。だから、なんとかその素晴らしさを分かっていただきたいと心から思うわけです。
 本人にしてみれば、だれかから誘われて来たとか、素朴な好奇心でね、「教会のミサって、どんなんだろう」とか、「クリスマス本家の儀式って、どんなんだろう・・・」と(のぞ)きに来た。それはそれで、どんな理由であろうと、ぜんぜん構わない。なんにせよ、この「ミサ」という恵みの中で神のみ言葉に触れるということが、どれほど尊いことか、そして、こうして直接神の愛の福音を耳にすることが、その人の人生においてどれほど決定的なことか、それを知っている者としては、初めてという人がいると、やっぱり燃えるわけですよ。・・・今日の説教、長いですよ~。(笑) いや、ほどほどにしときましょうね。

 でも、その初めてという方に、心から言いたいことは、山のようにありますよ。たとえば今日の、この今読んだ福音書(※1)、「初めに(ことば)があった」(ヨハネ1:1) という有名なみ言葉ですけども、「人生初ミサ」っていう方が、この箇所を、人生で最初に聞くなんていうのは、これホントに、・・・なんていうんでしょう、恵まれているというか、ふさわしいというか。これはキリスト教の基本中の基本ですから。
 「神さまは愛の(ことば)であって、愛するわが子に語り掛けている」という真理ですね。
 ちなみに、この皆さんの正面の祭壇は、大きな石の祭壇で、ご覧のとおり前面一面にびっしりと文字が彫ってありますけども、実は、今、私が読んだその箇所が彫ってあるんです。ヨハネ福音書の1章1節からです。
 ・・・石に彫ってある。つまり、決して消えないみ言葉として、日々ここで捧げられるミサで決して忘れてはいけないキリスト教の基本中の基本として、ここに彫ってあるわけですよ。・・・今読んだ箇所です。これが、どれほどありがたく、大切な言葉かということを、この聖堂を造った時に、造った人たちが考えて、ここに彫り込んだわけですね。
 「初めに(ことば)があった」(ヨハネ1:1)
 その、神さまのみ言葉は、私たちに語り掛けられました。愛のみ言葉として。その言葉によって、私たちは生まれた。その言葉のうちに、私たちは生きている。その言葉に守られて、私たちは永遠の命に招かれている。・・・喜びのみ言葉です。
 ですから、「初めに言があった」っていう、これはうれしいことですね。いうなれば、「この天地創造の初めに愛があった」っていうことなんですね。「『愛』と『ことば』って違うじゃないか」って思うかもしれないけれど、いくら愛があったって、それを言葉で相手に伝えなければ伝わりませんでしょ。言葉っていうのは、そもそも、誰かに何かを伝えるためにあるわけじゃないですか。
 宇宙のはじめに、神さまがおられました、そして、天地万物をおつくりになりました。それはいいんだけれども、じゃあ、なんでつくったのか。それは、神が愛だからです。
 自分の愛を表したいから。自分の愛を受け止めてほしいから。自分の愛に目覚めて、みんなに喜んでもらいたいから。・・・およそ親っていうのは、そういう思いで子を持つわけですよね。「わが子を産んで、わが子を喜ばせたい」。初めに、そういう思いがあったっていうことです。わが子に、「お前を愛しているよ」と語り掛けたいから、わが子を産む。・・・これが、わが子を産んだはいいけど、語り掛けなかったら愛は伝わらないし、産んでおいて愛を語り掛けないなんていうのは、虐待でしょう。
 神は、まず、天地創造の初めに、「語り掛けたい」と思ったんです。
 ことばは、愛です。
 相手に、自分の存在を知らせたい。
 相手に、自分の愛を伝えたい。
 相手に、「お前は素晴らしい存在だ」「お前は愛されるために生まれてきたんだ」「お前はその愛に目覚めるために生きてるんだ」、そう語り掛けたいと思った。
 初めにあった、神さまのみ言葉です。神さまの内なるその「ことば」によって、すべては成立している。そうして、天地万物、山川草木、みんな神さまから「愛してるよ」と語り掛けられてますけれども、中でもわれわれ人間は、特別に、その神さまの愛のみ言葉を聴く者として、その神の愛のみ言葉に目覚めていく者として、神さまから祝福を受けて「神の子」とされたわけですから、われわれは特別な恵みを頂いた、特別な存在として、この言葉を受け入れなければなりません。このような親の言葉なしに、われわれは生きていくことができませんし、私たちは、「愛されている」と知ることなしに生きていくことができないようにつくられているのです。

 「クリぼっち」っていう言葉、ご存じですか? 聞いたことあります?
 最近知ったんですけど、「クリぼっち」の「クリ」はクリスマスの「クリ」で、「ぼっち」は一人ぼっちの「ぼっち」。つまり、クリスマスの夜、恋人もいなくて、一人ぼっちで過ごすことを「クリぼっち」っていうんですって。・・・失礼しちゃいますよね。(笑)
 あるアンケートでは、20~30代の男女で、付き合っている人がいないから、クリスマスの夜に一人ぼっちで過ごす人は、男性約70パーセント、女性約60パーセントだそうです。だから、だいたいみんな一人で過ごしてるわけで、わざわざ言うのもおかしな話なんですけどね。
 じゃあ、なんで「クリぼっち」なんて言われるようになったかというと、「クリスマスの夜に恋人もいないなんて、寂しいじゃないか」と、あるいは、「友達とも過ごせないなんて、寂しいじゃないか」と、つまり、クリスマスの夜は特別な人と一緒に過ごす時なのに、相手がいないなんて寂しいじゃないか。そういう実感がみんなの中にあるってことでしょう。
 確かに、クリスマスの夜は、とても賑やかで、他の人たちはみんな楽しく過ごしているように見えるから、余計に寂しいっていうのはあるかもしれない。
 しかしですね、私、この言葉には非常に矛盾を感じるんですね。だって、クリスマスっていうのは、そんなふうに、「私は一人ぼっちだ」と思っているような神の子たちに、「お前は一人ぼっちじゃないよ」「私はお前を愛しているんだよ。共にいるんだよ」「私は、お前のことをわが子として、望んで生み、愛して育てて生かして、今もお前を抱きしめているんだよ」という真実を、神が表した日だからです。だから、「クリぼっち」なんて、あり得ない。語義矛盾というしかない。むしろ、日ごろ寂しい思いをしていた人が、クリスマスの夜くらいは、「私は一人ぼっちじゃないんだ」ということを深く味わう時なんです。
 じゃあ、神さまは、どのようにして、「おまえは一人ぼっちじゃないよ」ということを表したか。
 神の子、イエス・キリストを、私たちに送ってくださることによって。
 私たちに見える神となって、私たちと共に生きる神となって、私たちに直接語りかける神となって、私たちの間に生まれてくださった。そうしてイエスは、生涯、ず~っと神の「ことば」そのものとして、私たちに語り続けたわけですよね。「あなたたちは、一人じゃない」と。
 「神はあなたたちと共にいる(インマヌエル)」っていうのがイエスの別名ですけど(cf.マタイ1:23)、まさしく、神さまが、「お前たちと共にいるよ」ということを表す最高のしるしとして、イエス・キリストは、私たちの内にもたらされた。
 「な~んだ、私は一人ぼっちじゃないんだ。愛されて生まれてきたんだし、やがて、その永遠なる真の親の元に生まれていって、本当に『共にある』という究極の喜びを味わうんだ。私たちはみんなバラバラに見えるけど、キリストにおいて、神の子として、永遠に結ばれてるんだ」
 そんな希望を与えられたのが、このクリスマス。・・・「クリぼっち」なんてあり得ないっていうことです。
 ・・・神さまのみ(わざ)です。

 「初めに(ことば)があった。言は神であった」(cf.ヨハネ1:1)、その「ことば」が、この世に生まれてきたっていうのは、そういうことです。イエスの口から、「お前を愛しているよ」という神のみ言葉が、あふれて、あふれて、あふれて、私たちを満たす。本当を言えば、最初っから、私たちは神の愛に満たされてるんですけれども、それに気づいていないから、イエス・キリストが徹底して、私たちに語り掛けて、触れてくださった。そして、しまいには命すら捨てて、私たちへの愛を示し、「神はあなたたちを愛している」という真理を、私たちに語ってくださった。そのことを、私たちはクリスマスに特別に感謝いたします。

 第1朗読(※2)、第2朗読(※3)とも、そのようなことが書いてあったんですよ。
 第1朗読では、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(イザヤ52:7)とありますが、旧約時代、もうすでに預言者は語っております。・・・「良い知らせ」、すなわち、「お前を愛しているよ」という福音、「お前は必ず救われるよ。いや、もう救われているんだよ」という神さまからの真実なる福音、それを伝える者は、「いかに美しいことか」。・・・その極み、究極の福音を伝える者は、イエス・キリストです。
 イエス・キリストの足は、なんと美しいことか。すべての人に、それを伝えるために歩き回ったわけですからね。その口はなんと尊いことか。そして今、イエスの弟子たちであるキリスト者たちは、その足となり、その口となって、すべての人に福音を伝えるために出掛けていくのです。
 この祭壇に、このみ言葉を彫り込んだ人たちも、み~んな宣教師であり、イエスの弟子たちですもんね。
 ・・・「いかに美しいことか、神の愛を伝える者の足は」

 第2朗読は、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで語られたが、今、主キリストによって、私たちに語り掛けられました」(cf.ヘブ1:1-2)と、そう語っております。「今までもそうだったが、さらに」ってことです。「恵みの上に、更に恵み」(ヨハネ1:16)なんですよ。
 そういえば、ミサの始めの集会祈願(※4)に、そういう言葉がありましたね、確か。・・・そうそう、これです、お手元の『聖書と典礼』(※5)をご覧ください。一番最初のお祈りですね。
 「永遠の父よ、あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました」
 これが、キリスト教の非常に面白いとこというか、本質ですね。「今まではダメだったけど、これからはよくなる」とかっていう二元論じゃないんです。
 「今までも、ホントはすごく良かったんだ。最初っから良かったんだ。ちゃんといいようになってるんだ。でも、人間はそれを知らないで恐れているし、それを逆に悪いものにしちゃったりしているだけなんだ。でも、その真の良さが今、キリストにおいて決定的に表れた」と。
 ・・・まあ、人間は本来的に愚かさ、弱さを抱えていますけど、それはもう織り込み済みであって、本来的には、恵みに満たされているわけです。過ちは犯すけれど、まあ、神の目から見れば赤ちゃんみたいなものだから、しょうがないっちゃしょうがないんです。
 さっきから、説教中に、最前列でちっちゃな子どもがね、何度も目の前の物を、ポン、ポンって床に落とすもんだから、お父さんが拾い、お母さんが拾いしていて、しまいに、もう落とさないようにお母さんが手で押さえ・・・って。(笑) まあ、繰り返しやってますけど、でも、誰もわが子を責めませんでしょ。
 「なにやってんの。落としちゃダメでしょ!」って、その手をたたくとしたら、それは、大人の方が悪い。幼児って、そんなもんです。でも、親はそれを分かって育ててるわけでしょ。織り込み済みってやつです。人間の過ちだって、確かにひどい過ちがいっぱいあるけれども、神さまから見たら、赤ちゃん同然みたいなもんなんです。「あらあら、しょうがないわね」と言って、忍耐強く育ててる途中なんですよ。最初っから神は、もう、恵みを与えております。ただ、人間が、まだそれに気づいていない。今、育てられてる「途中」なんですよ。そうして気づいていくことで、少しずつ成長する。
 それが、「人間が優れたものとして造られて、更に優れたものにしてくださった」という。

 実をいうと、この祭壇のヨハネの福音書の箇所、私たちが先ほど読んだ所の続きの一節まで書いてあるんです。今日の朗読箇所は14節までですけど、さっき見ていて、この祭壇にはその先まで彫ってあるのに気づきました。・・・何と彫ってあるか。14節では、「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と書いてありますね。イエス・キリストのことですね。イエス・キリストは、「恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)と。で、その後には、こう書いてある。
 「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊さの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(ヨハネ1:16)
 これは、ヨハネ福音書の、極みの一節ですね。
 「わたしたちは皆」っていうんだから、すべての人ですよ。「わたしたちはみ~んな」、人類であるならば、すべての人類が、このイエスの「満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」のだと。
 すべての被造物は、もう恵みを受けています。でも、それはまだ「完成」ではない。私たちは、さらに「イエス・キリスト」という恵みを受けて、完成へと向かうのです。そのイエスがこの世に生まれたのですから、もはや私たちは、永遠の救いの中に入っている。・・・これは知るべきですよ。
 イエス・キリストの誕生以降、人類は決定的な段階に入りました。ご覧ください。私みたいな罪びとでも、その救いを信じて、こうして福音を語っております。決定的な時代です。先ほどのヘブライ書でいうならば、「この終わりの時代には、御子(みこ)によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1:2)と。「終わりの時代」っていうのは、もう「完成間近」っていうことなんです。そんな恵みの日々、素晴らしい時を、私たち、生きてるんですよ。・・・もう完成間近。
 神さまは、すべての人を救います。もう救い始めています。それを知らないで、何を恐れているのか。何に苦しんでいるのか。・・・「ああ、もったいない!」っていうことです。
 神のみ(わざ)は完全です。

 そういえば、「神ってる」(※6)」なんて言葉があるけど、私、ゆるせない。(笑) あんな言葉、使わせちゃいけません。・・・「神ってる」なんて。
 確かに、広島は強かった。だけど、大したもんじゃないですよ、広島ファンには申し訳ないけど。どれだけ奇跡的な勝ち方をしたとしても、所詮(しょせん)この世の想定内でしょう。もしも、年間百四十何試合ですか? 一度も負けずに、ぜんぶ勝ったっていうんなら、・・・いや、ぜんぶ勝ったってダメだね。しかも、1点も取らせなかったっていうんなら、いや、それも、1年間、ヒットを1本もゆるさなかったっていうんなら、もしそれなら、かろうじて「神ってる」って言ってもいい。(笑) ・・・「完全」っていうことですから。
 「神」っていうのが、どれほど、欠けたところがないお方か。この世のどんな悪も罪も弱さも争いも、神さまは必ず救って、完全なるものに変えてくださる。今は、でもまだ、その「途中」なんです。途中だけれども、イエス・キリストが送られてきて、本当にそうだということを表し、語って、教えてくれた。これは、すべての人が知るべきです。

 初めてミサに来られた方、初めてこの福音を聞いている方、おめでとうございます。よくぞ、ここに来た。よくぞこの話を聞いた。これが、クリスマス。
 ・・・「あなたが生まれてきたのは、この福音を聞くためだったんだ」って言ってるんです。
 そして、この福音を聞いた以上、もはや、私たちの中に、完全な闇はあり得ない。
 イエス・キリストは、あなたのうちに宿りました。あなたはもとより神の子ですし、今や、キリストが宿ったことで、そのことに目覚めた、特別な神の子になりました。永遠の命があなたのうちに始まっているし、あなたを脅かす力は、もはやこの世に何一つない。
 ・・・この、神の愛のみ(わざ)を信じましょう。

 2016年も、もう終わりです。「これが今年最後のミサだ」っていう方も多いでしょう? 来年、また大変な事件もあるでしょう。恐ろしい思いもするかもしれない。「一人ぼっちだ」って思っちゃうときもあるかもしれない。しかし、2017年、必ずいい年にできます。私たちが、このみ言葉を信じて、そのみ言葉によって生かされて、神のみ言葉を語る者になるならば。
 着々とね、この上野教会でも、神さまの恵みの出来事が始まっていますよ。
 2017年、お楽しみに。ここに通わないと損ですよ、皆さん。(笑) 初めての方も、また来てくださいね。「恵みの上に、更に恵みを受け」(ヨハネ1:16)るために。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「たとえば今日の、この今読んだ福音書」
この日、2016年12月25日(「主の降誕」日中のミサ)の福音朗読箇所のこと。
 朗読箇所は、以下のとおり。
  ヨハネによる福音1章1~18節、または1章1~5節、9~14節)
   〈小見出し:「言(ことば)が肉となった」1章1~18節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 (ヨハネ1:1-5/赤字引用者)
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※2:「第1朗読」
この日、2016年12月25日(「主の降誕」日中のミサ)の第1朗読箇所は、以下のとおり。
 イザヤの預言52章7~10節
  〈小見出し:「主は王となられる」52章1~12節から抜粋〉
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※3:「第2朗読」
この日、2016年12月25日(「主の降誕」日中のミサ)の第2朗読箇所は、以下のとおり。
 ヘブライ人への手紙1章1~6節
  〈小見出し:「神は御子によって語られた」1章1~4節、「御子は天使にまさる」5節~14節から抜粋〉
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※4:「集会祈願」
 ミサの導入部における「開祭の儀」のまとめのようなもので、この祈願によって、祭儀の性格が表現される。
===(この日の集会祈願全文)===
永遠の父よ、あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました。神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。(赤字引用者)
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※5:『聖書と典礼』(既出)
 『聖書と典礼』(発行:オリエンス宗教研究所)は日本のカトリック教会共通の小冊子で、主日のミサ、また、一部の祝日のミサのときに用いられる。
 B6版のものと、少し大きめのB5版のものがあり、通常は8ページ程度から成る。
 ミサは典礼書に従って進められるが、聖書の朗読箇所や、答唱詩編、アレルヤ唱、共同祈願などは、ミサのたびに異なるので、この小冊子が会衆(参加者)に配布され、それに添って進んでいく。また、欄外には、該当聖書箇の説明や、短い説明などが記されている。
 表紙には、その日の典礼に合わせた、美しい絵画やイコンなどが載っている。
(参考)
・ 「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所
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※6:「神ってる」
 2016年の「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン「新語・流行語大賞」の年間大賞に選ばれた。
 これは、広島東洋カープの緒方監督が、2試合連続でサヨナラホームランを打った鈴木誠也選手の活躍を形容したもの。
 「神ってる」は、ふつう、「神がかっている」ことを表現する、若者言葉の省略表現。
 「技能や能力が一般より極めて優れていること」「迫力や完成度が非常に優れているさま」「科学的に理解できないさま」などを表している。
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2016年12月25日(日) 録音/2017年1月5日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英